2017年06月19日

スモーク 、イン ザ スープ 、マギーズプラン、 はじまりへの旅

『スモーク』という映画は、大昔にヴィデオで見て、とてもいい印象を持っていた。

ハーヴェイ・カイテル、ウイリアム・ハートは、その頃飛ぶ鳥を落とす勢いだったし、なんといっても、製作、脚本がポール・オースター。見ない手はない。

というわけで、早稲田松竹で鑑賞。

1度目に見たときのほうがよかったのは、何故かしらん。

ウィリアム・ハートは、銀行強盗に妊娠中の妻を亡くしてしまう。

ハーヴェイ・カイテルは、かつての女に子供がいたことを知る。

ウィリアム・ハートは、車に轢かれるところを危うく助けてもらった黒人の男の子と共同生活を始めるが、その男の子は、蒸発した父親を探している。

三者の親子関係が縦の軸で、この三者が横の線。この関係性が物語を動かす。

少年は、ウィリアム・ハートの命を助け、ウィリアム・ハートは、少年を友人であるハーヴェイ・カイテルのところで働くように斡旋し、少年の失敗により、ハーヴェイ・カイテルが禁制品の葉巻の儲けを台無しにされたのを、少年が犯罪から得た金で償い、その金で、かつての女と娘を助け、ハーヴェイとウイリアム・ハートは、少年と父親との関係回復を手助けし、ハーヴェイは、書けなかった作家であるウイリアム・ハートにとっておきのクリスマスの話のネタをプレゼントする。

この三者がそれぞれに、プレゼントを与えっこをして、話が終わるという文学的な作品である。

ま、こんな心温まる話が、ニューヨークにあるはずはない。しかし、ありそうだと思わせるのが、上手な嘘。

最後の、ハーヴェイ・カイテルの「作り話」は、ポール・オースターの小説の作法に通じるのかもしれない。

併映は、スティーブ・ブシェミ主演の『イン・ザ・スープ』。

印度哲学の勉強会の合間に見たのと、朝、10キロトレイルを走ったので、最初の20分位完全に寝てしまった・・・

ジェニファー・ビールスいいですね。笑うと犬歯あたりの歯茎も見えて、笑ったチワワみたいに思えました。

とても、綺麗なのですが。

翌日は、ギンレイホールで、『マギーズ・プラン 幸せのあとしまつ』と『はじまりへの旅』の日本。

早朝、田で雑草取りをやった跡で映画を見たので、『マギーズプラン』の方は、ちょっと集中力が続かない感じで、見ておりました。

イーサン・ホークの出る映画で、面白かったのは・・・『ガタカ』くらい、あと、『今を生きる』はいい映画だった、あのシェークスピア劇やる少年が嫌だったけれど、それに出ていた?ということで、調べてみたら、ああ、あの、「オーキャプテン」とリンカーンのことを詠んだホイットマンの詩を口ずさみながら最初に勉強机の上に土足で立ち上がる少年だったのか。。。。

この間見た、『ブルーに生まれついて』も、イマイチな気がしたので。

『ジュリアン・ムーア』も嫌いな女優ではないけれど、年を取ったか腰が落ちちゃって、歩く姿がおばあさんっぽかったかな。

というわけで、特別な感慨なし。

子供が欲しいだけで、結婚生活はいらない、という女の人は多いのだろうか?

複雑そうな三角関係ではあるのだが、主人公は、

 

 

『はじまりへの旅』は、文明を否定し、山の中で野生動物の猟をしながら暮らしている元ヒッピーの家族の話。

最初は、これは、やりすぎだよ・・・と、この家族に距離を置き始めて、いわゆる物質的なものを楽しみ、隣の人がやるようなことを自分もすることを推奨されるような社会に埋没していく生活の倫理というものがいいのではないかと思わせるあたりが、監督のうまい所で、そこからのどんでん返しが、胸のつかえを一気に吹き飛ばしてくれるいい映画ではありました。

一家の家長として、父権的な独裁者を演じていた父が、自分の非を認め、息子たちの人格を認めたときに、取り巻く世界が変わっていく。子どもたちも父親をリーダーとしてではなく、傷つく同じ家族の一員であると認めながら。

父は、髭をそり、息子は長髪を切る。

子は、父親を超え、父親は、子にすべてを信頼して彼らの未来を託す。

ラスト、この親子は、ヒッピー生活を行っているものの、山の中の狩猟生活ではなく、どうやら、農業のような生活を始めている模様。角々しい生活が丸くなって、穏やかに子どもたちも父親もなっているのが良かったですね。

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2017年06月15日

カルマ・ヨーガ

国民の代表が、国民の不利益になることばかりを決めている。

国会が政府の悪事を隠す手助けをしている。

また、その政府を国民が支持していると言う。国民が支持している限り、この地獄は続く。

いつかかならずこのツケを、国民は、払うことになるのだろう。

いい気味だといいたいところだが、私もその国民であるので、そのツケを払わないといけない。困ったことである。

立憲主義も民主主義も根付かないこの極東の地、日本。

最初から、この国に民主主義などなかったのかもしれない。

ところで、ヴィヴェカーナンダによれば、この世の善と悪はコインの裏表のように分離不可能なものになっている。

悪がはびこれば、善もまたどこかには存在している。

同様に、悪を滅ぼすことはできない。善も滅ぼすことはできない。

そんな絶妙なバランスのうちに善と悪の量は均衡しているのである。

嫌なことがあれば、いいことだって必ず起こるだろう。

何が善で何が悪か、なんて、神様しかわからない。ただ、その目に見えぬ秤でもって世界は維持されている。

そんなふうに考えて、どこかで良いこともきっと起こりうるだとうと思いつつ、少なくても「自分さえ善ければ」とまず、自分が正しいと善いと思うことをやっていこう。

インド哲学を勉強していると、この世にカルマを残さない生き方、カルマヨーガというのがある。

インドの伝統的な修行者は、出家をして、行方不明になる必要がある。それを出家と言う。

しかし、そうでない人には、修行はできないかというとそうではなく、只ひたすらに、自分の仕事をその結果や報酬や影響を考えず、没頭するというもので、これをカルマ・ヨーガと言う。仕事と隙間なく一体化して、我を滅却して打ち込むのだ。そうすることによって、業というカルマを来世に残さない。

大変難しいことではあるのだけれど、これは、素晴らしいアイデアで、『バガヴァット・ギーター』を読んで、一番感銘したことでもある。

仕事で、つい、この仕事が自分に与える影響なんかを考える。失敗したら自分のプライドが傷つくなとか、報酬を目当てにいやいや仕事をしたり、仕事をして喜ばれたら嬉しく思ったり、喜ばれなかったら気分を害したり、普通の事をやっているのに、なんでここまで言われなければならないんだろうと思ったり。

そうしたことにがんじがらめになって、仕事が手につかないということも経験する。

そうではなくて、この仕事をこなすこと、行為の結果を考えずに仕事に没頭することが修行につながる道、幸せになるためのトレーニングなのだと考えれば、辛いインターバルトレーニングをするように、仕事に違った視点で勤しむことが可能になるのではないか?

たしかに、こうして仕事をすれば、報酬などのインセンティブを考えずに仕事をするので、妙なプレッシャーも考えずに集中力は増すし、仕事をしていて知らぬ間に誰もが到達できないような地点に知らぬ間に到達していたということも、きっとあるだろう。

そのうち、自分の仕事の上に、あぐらをかいて、悠々と過ごしている自分を想像してみる。仕事に巻き込まれていた自分が、仕事を自分に巻き込んでいるという風に、考えられなくもないではないか。

仕事を、自分の成長のための教材として使うこと。そこに、未練や後悔や傲慢や満足や達成感など、一切の積極的な感情や消極的な感情も何も残さないこと。

同じように、トレイルランニングでも、梅雨のぬかるんだ土に足跡を残さないような走り方が理想なのではないか。猫のように音を立てず、地面のゾウムシを足音で驚かさず、水の上をさえ走れるような、そんな走り方を目指している。

走って、大汗をかいて、シャワーを浴びて、自家製のパンと自家製の味噌から作ったスープ、豆乳ヨーグルトを食べれば、少しは気分も良くなった。

この世界は、自分の修業の場であると。この世界のすべての出来事は、この訓練のために提出された課題である。そんなふうに考えて、修行していこう。

実生活も、トレイルも、幸せになるためのトレーニングなのである。

posted by ロビオ at 11:45| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月13日

ネオン・デーモン 他1本 早稲田松竹

毎週のように早稲田松竹へ行っている。

今週は、「ネオン・デーモン」と「五日物語 ―3つの王国と3人の女―」という映画を見てきた。

昨年の12月に、僕に何が起こったか忘れたが、とにかく、今まで、週末は近所の野山で走り回った犬のような生活をしていたのだけれど、それを改め、土日は都会に出て、映画、美術館、博物館に行くことに決めたのだった。

それに、溜まった仕事をこなす為にも都心にでる必要もあり、朝と夜にインド哲学の勉強会に出席しているので、野山を走り続ける訳にはいかないのだ。

というわけで、野山を走るトレイルランは、早朝1時間から1時間30分くらい近所の里山を周回している。

久しぶりに1時間30分を、心拍数を上げながら走ったら、立ちくらみがしたので、長い間眠っていた心拍計を胸に巻いて、マフェトン心拍域(最大130)で運動量を制限しながら走ることにした。

ヨーガをやり始めて、手のひらに棒を垂直に置いたように、骨盤に背骨が垂直に乗っかっているような安定感を感じるし、ハムストリングスの異常な固さも、ずいぶんと柔らかくなり、全体的にゆらゆらと体が全体で衝撃を吸収しているような耐震構造の体になったかのように思える。

バンダを加えたナーディ・ショーダナという呼吸法も、肺を広げてくれているみたいで、呼吸するのが楽になっているのかもしれない。

ヨーガとトレイルランは仲良しさんなのである。

食べ物も、ビーガン風に戻した。

寝る前にヨーガは1時間欠かさず。

何事にも限度を見極めず、やり過ぎてしまう欠点があるので、やや抑制しながら、心身の健康面を考慮して、一人で毎日旅立っているわけだ。

さて、映画の話だが、先日、ヨーガ教室の初心者用クラスで学んだことは、我々の悟りに至る道を塞ぐ「6つの敵(シャダー リプ)」についてだった。我々は、これらの感情に支配されないように注意深く自分の内面を考察しないといけない。不幸になるから。

その1 カーマ(欲情)

その2 クローダ(怒り)

その3 ローバ(貪欲)

その4 モーハ(執着)

その5 マダ(傲慢)

その6 マッチャリア(嫉妬)

である。

この日見た映画、たとえば、「ネオン・デーモン」は、まさに、これらの要素で分析すると、こじんまりとしたなんでもない話になってしまう。

というか、ほとんどすべての映画をこの6つの視点からみると、とても話の内容が整理されてしまうのがわかるだろうと思う。

ことほどさように、この6つの感情は、誰でもが共有している、いわば人間性の証明とも言うべきもので、これらの要素が交わって、ドラマが生じ、これらを克服したところに到着点を置く映画や小説は掃いて捨てるほどあるだろう。

これら6つの「敵」が生まれるその根本は、無知にあるのだけれど、その無知から生じた欲望から生じている。

また、これらの6つの感情は、私たちの行動を起こすエンジンのガソリンにもなるので、一概に悪いとは言えないのだろうが、こうした感情はない方がずっといい、という地点に私はあこがれる。

「ネオン・デーモン」という映画では、その5のマダとその6のマッチャリアつまり、傲慢と嫉妬が物語の通奏低音として響いている。モデルとして、とんとん拍子に出世する主人公が他の者に有する優越感。そこから生じる傲慢。

主人公のモデルとしての容姿、才能に対する劣等感。そこから生じる嫉妬。

劣等感や優越感が生じるのは、人と自分が異なる存在であると認識しているからこそ生じる感情で、

 

この二つの感情が物語を動かしているのが、よくわかる。

誰にも共感できる人物が生じないようにわざと作られている映画ではあるが、こちらに馴染みのあるこの二つの感情が物語を安定させ、理解させる道具として使われている。

という風に、インド哲学を学ぶと、映画を理解する着眼点ができるし、嫉妬や傲慢に対する深い理解ができているから、話を掘り下げることもできるのが、とても面白い。

週に2本から4本、映画館で映画を見れば、つまらない映画にも出くわすのだけれど、インド哲学で学んだものを、現実の社会にあてはめ、理解するための勉強として考えると、つまらない映画もいい素材になってくる。

posted by ロビオ at 10:24| 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月10日

トレラン 本格的に再開!?

1959年2月3日。飛行機事故で、バディ・ホリーとリッチー・ヴァレンスが死んだ。

その日のことに触れたドン・マクリーンの『アメリカンパイ』という曲で、その日を「音楽が死んだ日」と歌っている。僕はまだ生まれていなかったけれど、iPod shuffleでこの歌を聞きながら山を走れば、偉大なるロックンローラーが死んでしまったその日のことを追体験できるような気がする。

音楽が死んだ日。

可哀想なウェイロン・ジェニングス。同じクリケットの一員としてバディ・ホリーと道中をともにしていたのだが、この日、バスで移動することになった。バディ・ホリーに、「バスでのろのろついてこい」とからかわれて、冗談で返した言葉「飛行機で墜落しちゃえ」。この会話にその後苦しめられることになってしまった。

ヨガスートラでは、「正直」の行を行うと、言ったことが実現すると言う。きっと、ウェイロン・ジェニングスは、正直者だったのだろう。

ジョージ・ルーカスの『アメリカン・グラフィティ』でも、「バディ・ホリーが死んでロックンロールは終わった」なんていうセリフがあったけ。

どっちが先かと言えば、アメリカンパイが1971年、アメリカン・グラフィティが1973年だから、ジョージ・ルーカスが引用したことになるのか。

まあ、とにかく、早朝のトレイルランが出来るお陰で、こうした機会でないと(ジョギングということだが)古い懐メロロックは聞かないから、貴重な音楽鑑賞時間となります。

先日、10キロばかり、スイスイと力を込めて走ったのはいいものの、脱水症なのか、頭が酷く痛くなり、1日を苦痛で過ごしたから、今日から、ちゃんと心拍計をつけて、マフェトン心拍域(130)以上上がったら歩くように、アラームをセットして慎重に走ったのでした。ボトルも片手に手放せません。

走る前日の夜は、iPod shuffleにどんな曲を入れようかしらんと、アイチューンを弄って、曲を入れるのに、30分は費やしているのだが、これがやめられない。

もう耳にタコが出来るほど聞いたと思えるロッド・スチュワートの「マギーメイ」なんて、普通は入れないのだけれど、今朝これ聞いたら、感動した。ロン・ウッドでしょうか、ベースは。ザ・バンドの「ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク」みたいに、わざとしょぼいスタジオで録音している風が素敵でした。

サムアンドデイブの「ソウル・マン」は、ブッカーTとMGsの演奏に痺れ、足をXに交差させて踊りながら走るしあわせよ。早朝だから人がいないから走り、かつ踊れる。楽しい。

ときに、この間見たゴダールの映画『離ればなれに』の中のマジソンダンスを取り入れたりして。

とにかく、懐メロロックを聞きながら走るのは楽しい。それも、マフェトン心拍域で歌が歌えるくらいの低出力で走るのがとても、心地よいのでありました。

posted by ロビオ at 17:09| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月09日

村上春樹訳の『フラニーとズーイ』

サリンジャーの村上春樹訳の『フラニーとズーイ』を読んでみた(野崎孝訳は『フラニーとゾーイ』)

そしたら、シャンカラ、ラーマクリシュナやら、バガヴァッド・ギーターとか印度哲学のスター選手、聖典の名が現れてきて、こういう小説だったんだと、思いを新たにした次第でありました。

高校時代に、『ライ麦畑でつかまえて』に感動して、次に読んだのがこの本だったはず。少なくとも、印度哲学の基礎がわからないと、内容を把捉することが難しいような気がするので、10代でこれを読んだときには、この内容について何もわからなかっただろうと、今になって思う。退屈して、全部読み終えなかったような気もする。

この本は、フラニーとズーイという二つの中編が合わさった長編小説ではあるのだが、この中で、ズーイの部分がやや難解で、それは、このグラス家の思想の拠り所が、通常人とはかなり違っており、この違った地平から放たれる言葉であるからだと推察する。

とはいうものの、魅力的なグラース家の兄弟の登場がなにやら嬉しくなってしまう。

『ナイン・ストーリーズ』というサリンジャーの短編集の中で、『バナナフィッシュにうってつけの日』でこみかみを撃ち抜いて自殺した長兄シーモアは、ここでも、大きな役割を果たしている。『コネティカットのひょこひょこおじさん』には双子の兄弟。『バディ』っていうのがあったっけ、それは、次兄バディの幼少期の話。グラース家の面々がこの短編でも活躍中。その他、『シーモア序章』とか『ハプワース16,1924』という作品でも、グラース家の記録が永遠保管されている。

なんだか、さっぱり的を得ない感じで、『ライ麦』以外を読み飛ばしたが、イン哲を学んだ後だと、また違った趣が出て、今月は、サリンジャー全部読んでしまおうと思う。

この『フラニーとゾーイ』の中で、印度哲学の学習者にとっては、あっ、これは、バガヴァット・ギーターの「カルマ・ヨーガ」のことだよね!、これって、平等のヨーガだよね、とか、インド哲学を齧っている人には、一見謎めいたゾーイの言葉の深い意味がわかったりするので楽しい。

サリンジャーは、東洋思想に傾倒していったらしいけれど、その中で、印度哲学のアイデアを、グラース家の面々に当てはめて、小説というファンタジーの世界を作り上げたと言っていいのではないか。僕も時々、印度哲学のことを夢想すると、あんなこともこんなことも、みんなつながっているんだよね、と、不思議に心が高揚することがある。

印度哲学が説く真実というものは、我々が真実だと思っていることの正反対であって、こうしたことを話しても、その意味内容は普通は通じないわけで、周りを見れば、人生の真実に気づいていない俗物ばっかと、グレてしまうフラニーの気持ちは少しは分かる。

例によって線を引きながら本を読んでいたら、至る所に線が引かれているので、この本は、現在の自分にとって、かなり重要な小説なのだなと思う。

最後の大団円に向かって、ゾーイとフラニーが突き進む最後の数ページは手に汗握る感じがある。

自殺したシーモアの残した「太ったオバサンのために靴を磨く事」って、深く考えると、バクティ・ヨーガっていう感じがしないでもない。結局、太ったオバサンというのはキリストだったり、クリシュナだったりする。一見無意味なことかもしれないが、こうした小さな自意識を超えたサクリファイスが、究極のところ彼岸に至る道なのかも。

こんな難しい会話をしているのに、最後は、パシッと話を決めてしまうところが、うまいなあ、読ませてしまうなあと感嘆したのでありました。

何十年前か読んだときは縁がなかったが、時を経て、僕にとっては大切な小説になった。
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2017年06月04日

ベジタリアンのインドカレー屋とゴダール

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ベジタリアンのインド料理店が御徒町の宝石街にあると聞いたので、行ってきた。

妻は、南インドのカレーセット、私は、北インドのカレーセットを注文した。

それぞれ、3種類のカレーがついているので、二人で6種類のカレーを楽しむことができた。

南インドのカレーは、ココナッツミルクとタイ料理風の酸味が強いカレーが多い。

北インドのカレーは王道のカレーだ。

どちらが好みといえば、やはり、オーソドックスな北インドのカレーに1票を投じたい。

僕が、こういう店に行くときは、自分のカレー作りのベンキョウのためにいくのである。

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こんなインド料理の食材やさんが蔵前にある。アンビカショップと言ったか?

豆を大量に買ってきたが、今日のお店でたべたドーナツのような食べ物は、ひよこ豆の粉末で作ったものだった。

確か、このお店にもあったと思う。

食材さえ手に入れば、家庭でも簡単にプロの味が作れるカレー料理はオススメである。

食事をした後、早稲田松竹でゴダールの映画を二本見た。

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2017年06月03日

田植え

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遠くから、スマホの望遠で写真を撮るとこんな風に写る田んぼ。

早朝、久しぶりに森の中のトレイルを一所懸命走り抜け、某所でバガヴァッド・ギーターの勉強会に参加して、すっ飛んで飯能に戻って、田植えをした。

ことしから、機械植えで、何人もの人が必要ではなくなった。ちょっとした石油の力を借りて、人手は少なくてもよくなった。

僕が到着した時、Sさん一人で、田植えはほとんど終了していた。

機械で植えられないところとか、うまく植えられていないところを手で植える作業を3時間ばかり。

究極のソーラーシステムで米ができる。庭の野菜も順調に育っている。玄米と野菜と豆で妻と私と仲間の命を繋いでいこう。

2週間後からはコナギという極悪の雑草と格闘せねばなるまい。エイハブ船長とモビーディックのように。

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2017年06月02日

俺は生粋のベジタリアンなのだな

ベジタリアンに復帰して体調が良くなった。

思い起こせば、小学校低学年まで、肉が苦手で、特に脂身は食べられなかった。給食では、牛乳で肉の塊を飲み込んだ。残すと先生に注意されたから。残すことが悪いと洗脳されたのだなと今になって思う。食事を残すのになにか後ろめたさが残るのは、このときの洗脳が残っているからなのだと、今にして、気づいたのだった。

とにかく、白菜のお新香と海苔と冷たいご飯があれば幸せな小学生だった。

とういうわけで、ふとした頃から、ベジタリアンというかヴィーガン生活をするようになったのは、僕にとっては自然の流れだったのかもしれないが、妻がガリガリに痩せてしまった。

そして、肉食に戻したら、妻の体重は普通に増え、僕の体調が悪くなった。関節が痛み出し、足の裏の痛みがなかなか引かない。

なかなか難しい。

体に合った食事というものがある。僕の場合は、玄米菜食が合っている。ただ、それだけのことだ。

各人、自分に合った食事を注意深く体に尋ねながら見つければよい。

マクロビオティックに専念している人の中には、「かさかさ系」と僕が呼んでいるような髪の毛や皮膚がポサパサに乾いた潤いのない人もいるようだ。食事制限してかえって体を壊したら元も子もない。

そういう人は、肉を食べたら、体調が良くなっていくかもしれない。

肉を食べたら堕落する、肉を食べたら今までの努力が無駄になってしまうと思い込んで体調をどんどん悪くするようになるのだったら、肉を食べるのが自然だろう。

それは、善し悪しではなく、体の適否の問題なのだから。

肉食だろうが菜食だろうがどちらだっていい。

肉食の動物は、常に息をハアハアさせて、檻の中をせわしなく動き回っている。

草食の動物は、耳をそばだてながらも草を食みながら、息は穏やかだ。

どちらの生活が性に合ったいるかと考えるのも面白いかもしれない。

僕は、象や、犀や、河馬なんかにあこがれる。普段は穏やかで争うことなく自分の仕草に集中しているが、いざとなったら敵を蹴散らすくらいの体力があるような生き物だ。

「24時間戦えますか?」的な人との争いに魅力を感じる人は、肉を食べるのかしらん。

食事の好みに関してはそういうタイプもあるのかもしれない。

というわけで、またベジタリアンに復帰したので、タンパク質の供給源として豆が気になってくる。

ヨーガでは乳製品は推奨されているみたいだし、アヒンサーという不殺生の戒律にも乳製品は当てはまらないだろうから、少々とることにするが、豆は気になる。

蔵前にアンビカショップというインド食材屋があることを知った。

先日、そこへ行ってみた。

たしかに、豆の種類は豊富だった。

4つほど違う種類の豆を500グラムずつ購入した。全部で2000円程度だった。

スパイスも減りつつあったのだが、こちらも、大袋で販売しているので、ここで買うのを控えた。ウコン(ターメリック)を500グラムも買ったら、土曜日にインド料理を1度だけ作る私のペースでは、3年以上は消費できないだろう。

蔵前から御徒町まで歩いて、アメ横の大津屋で、ターメリック、ガラムマサラ、クミンという3つのカレーの基礎となるスパイスを購入した。

僕の場合は、ヴィーガンの食生活で、運動量の激しいトレイルランニングをこなして、疲れを知らなかった。筋肉もしっかりとついたから、僕には、この食生活が一番適しているのだと思う。

ヨーガをやり、体の柔軟性も、少しずつ回復してきたのだから、体の調子が戻ったら、スポーツの世界にも少しカムバックしようかなとも思っている。

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2017年05月29日

ホリスティックに治していこう

腰の痛みがなくなって、Yoga体操が思う存分出来る様になった。

毎週金曜日にヨガ教室に通って、習っているけれど、先生は、毎回ちょっと変わったあまりポピュラーではない体位を一つ教えてくれるのが為になる。

家に帰って、ヨーガの教科書を見ながら、もう一度おさらいできるのがいい。そして、超基本のポーズの他に、そのポーズを次回の教室まで、練習するのである。

とにかく、40年分のツケが体の固さに表れていて、なかなかこれを打破して10代の体の柔らかさ(その頃でも、僕の体は固かった)を取り戻そうと努力しているのである。

特に、酷いのは、例えば、正座をしてそのまま後ろに倒れ込むポーズがあるのだが、足首、腰回り、太ももが固くて、とても後ろ向きに寝る形を取ることはできなかった。足首と頭頂部と手の3点支持で太鼓橋のようになって苦しむ姿を笑わば笑え。フォークリフトが倒れ込んだような自分の姿を見て、これは、前途多難だわいと思ったものである。

が、最近、そうでもなくなってきたのである。

まだ、足首から体が浮き上がってしまってはいるけれども、以前のようなエビ反り体制ではなく、低姿勢でブリッジしているような姿にはなってきたのである。深呼吸を20回その体位を維持するようにしているのだが、以前は、足首の痛みとプルプルふるえる太ももの筋肉と腰の収縮する痛みで拷問に近かったのだが、この2,3日、やや気持ちのよい痛みに変わってきたのだった。

そういえば、腕を上げてから体の側面の脇を伸ばす三角の体位も、腕と耳が限りなく遠かったのだが、最近では、無理すれば触れるようになってきた。

体の不調を治すには、全体から直さなければならないというのが東洋医学にあると思うのだけれど、どこかが緩みだすとまったく思ってもいないところの柔軟性が生じてくるものなのかもしれない。

そういうわけで、足の裏の痛みも、玄米菜食とYogaで体を整えれば、やがて、軽減していくかもしれないと、自らの体を実験台にしているわけです。

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2017年05月24日

薔薇の季節に菜食再開

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季節は一巡して庭に薔薇の花が咲き一年で一番良い季節となった・・・というか少々暑いですが。

昨年から始めた田の作業で得られた藁を冬の間に土の上に被せておいたのが功を奏したと妻が言っておりますが、例年花の蕾はできるが全開しなかった芍薬の大きな花も見事に咲き、つっかえていたものが取り除かれたようなすっきりとした気分を味わっております。

わが家の肥料は、この藁と糠と松からつくった酵母だけですが、健やかに成長してくれてます。妻がすべてやっておるのですが。我が家の草花は究極のベジタリアンです。

そんなことを考えていたら、私の体の調子が多少悪くなったのは、肉を食べ始めてからなのではないかと、ふと、気がつきまして、今週からほぼ菜食の世界に戻って参りました。

とにかく、足の裏の痛みが引かない、治らない。

モートン病というのに一番近い症状ですが(走り出せば普通に山道を走れるくらい症状は軽い)、足の第2指と第3指とその付け根の部分が痛い。左右同様に同じ箇所が痛むのです。

こんな風に治療法を考えました。

運動やヨーガで体を若返らせて、10年前の体に戻してしまえば治るのではないかと。

また、ヨーガの修行でも、アヒンサー(不殺生)というのがありまして、生き物を殺すことは、修行の妨げとなるとヨーガスートラに書いてあります。たしかに、人は、生き物を殺さなければ自分の生命を維持することのできない悲しい存在ではあります。宮沢賢治にもそんな小説がありましたね。菜食とて、植物を殺すに違いないが、なるべく意識の眠っている植物などを少量いただいて、体の調子を見ていきたいと思っております。

私の敬愛するあのウッドストック・フェスティバルで演説したスワミ・サッチダーナンダ師も本の中で「捕まえようとして逃げるものを食べるのはよしなさい」、と書いております。

夫婦で、家族で、玄米菜食をするのは、他の家族員の理解と協力がないとなかなかできませんが、菜食はいいですよ。

最近では、知り合いの農家さんの方々から、新鮮で安心な野菜を宅配していただいており、かてて加えて、今年から本格的に田で稲作を行いますので、ほぼ自給自足的な生活ができるわけですよ。

物々交換的に余ったものを融通し合いながら生活の基とすることができれば、楽しいでしょう。

これは、3.11以降、私が目指した方向で、知らぬ間に夫婦で努力していたら、こんな風になっていきました。

この世界を変えようなんて気はすっかり無くなりました。世界を変えることはできません。それは、二次的なものに過ぎません。

自分が変われば、世界は簡単に変わっていきます。

そういうことを学びました。

エネルギーの自給は、まだまだ先のことかもしれませんが、努力を怠らず、情報を集めていけば、きっと、それも可能になっていくのではないかと思っております。

私が一番運動量が多く、故障もなかったのは、やはり、玄米菜食をしていた頃かなあと思います。

そうそう、それで、菜食が多いインド料理に凝りはじめ、ヨーガに気づき、インド哲学を学んでいるという自然な流れがあったのかもしれません。

posted by ロビオ at 09:53| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする