2017年05月19日

ヨーガ教室に参加

腸が煮えくりかえるような思いを3.11以降何度か経験したが、今日もそんな幾日かの一日。

日本は確実に滅びつつある。そんなに時間はかからないと思われる。

さて、どうするかと考えるのだけれど、環境がどうであれ、それに動じない自分を鍛え上げようと考えて、それにもっとも良い方策はヨーガであるとの結論はずいぶん前に出しているので、久しぶりにヨーガ教室に参加したのだった。

二ヶ月くらいお休みしていたのは、ヨーガのアーサナをやって右のお尻の腰骨の中の筋肉だか筋が痛くて痛くてとてもじゃないがヨガは続けられなくなってしまったのだった。鍼もやってもらったけれど、効き目なし。足の裏の痛みと同じ、治らないんじゃないのかと思ったけれど、自己治癒力というのはまだあったようで、徐々に痛みが鎮まった。

ヨーガ体操が気に入っているのは、一人でできること。

ただ、自分のやり方が間違っている場合もあるだろうし、先生に色々とヨーガについて聞くこともできるだろうと思って、当初は週に三回通おうと意気込んでいたが、現在、週に一回通うことにして、これで十分だと思っている。

ヨーガ教室も、パン教室も、インド哲学の勉強会も、大半は、女性で、私は、マイノリティー。

私が好む習い事は、同性の輩は興味がないようで。

ヨーガと言えば、アクロバティックな曲芸のような体操だと思っている人が多いが、それは、悟りのための準備であって、どっぷりと実は、宗教的な行為なのである。

そこが素晴らしい。

僕の通っているヨーガ教室は、宗教的なことはあまり全面に出していないのは、それはそれでいいんだけれど、ヨーガの体操だけで、インド哲学を学ばないのは、とても勿体ないと思うので、ヨーガ体操を習っている人は、是非ともインド哲学を学ぶといいですよ。

荒唐無稽に思えたことが、理にかなっているじゃないの、と学んでいく内に腑に落ちるはずですので。

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2017年05月18日

田んぼの雑草取り機

最新農具導入です。

昨秋の田の収穫は、ズブの素人の私が考えますに、田の手強い雑草コナギにやられたと思っております。

今年は、ちょくちょく雑草取りをしなければ、全滅ということにもなりかねないので、ヤフオクで田の雑草取りをポチッとして、購入しました。

この雑草取りは、まだ、それほど、田に雑草が根付かない未成長期に、これで水田の中を押し運び、回転する部分で土を撹拌させて雑草を田の水に浮かせるといったものであるようです。

今年は、農作業に精を出し、米を他で買わなくてもいいくらい、もっといえば、他のご家庭にお裾分けできてまだまだ残っているというほどの収穫量を上げたいものです。

 

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2017年05月17日

交通違反

この世の中に生まれたのは、学ぶためであるというふうに考えている。

学んで完成を目指すこと。これが、人生の目的である。

理不尽な扱いを受け、悲しみに落ち込み、自分のしたことが恥ずかしくてしょうがないとき、ふと、感情に流されてしまいがちなのだが、そのときは、これも学びだと、このことから教訓を得ようというふうに考えると心が落ち着くことが多いようだ。

先日、交通違反で捕まった。

1点減点、6000円の罰金。

昔の自分なら、自分の違反のことは棚に上げ、交通巡査はまっとうな仕事をしているだけなのに、見当違いの怒りで心を千々に乱され、自分の不運を一方的に呪ったことであろう。

あわよくば、自分の違反を見逃し給えという欲望を、摘み取られ阻止された結果の怒りである。

しかし、交通法規を守らなければ、交通事故を引き起こしたらそれは只ではすまされないし、こちらの命も危ない。

交通法規も、各条文に理にかなった理由がある。

こちらには、理にかなった正当な理由がない。

たしかに、私の行った行為は、他人にも自分にも危険を惹起させる行為だ。

これは、誰の為にもならない行為である。

そういうことに気づかせてくれたという点で、自分の為になっているのだというふうに考えたら、否定的な気持ちがすっかり消えてしまった。

こうした行為を行わないことで、未来の自分が交通事故を起こすという可能性を狭めてくれたかもしれない。ひょっとすると、この罰金6000円で、自分の命が助かるのかもしれない。

交通法規の罰金は、授業料。以後、同じような間違いはしないと気をつけるだろう。

こんな風に考えて、巡査と別れる際に、「どうもありがとうございました。」という言葉が口から自然に出たのには自分で驚いた。巡査もきょとんとした顔をしていたけれど、まあいいだろう。

私以外のすべての環境を変えることはできない。しかし、自分が変わることで、世界の有り様は変わっていく。

思い通りに世の中はならない。しかし、自分が変わることで、世の中はどうにでもなるのではないか。

こんな風に、学んだ訳であります。

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2017年05月13日

『永い言い訳』『湯を沸かす程の熱い愛』@ギンレイホール

『永い言い訳』と『湯を沸かすほどの熱い愛』の二本立てを、飯田橋ギンレイホールで観てきた。

どちらも、水準以上の映画で楽しめた。

でも、それで?という感がしないわけでもない。

ネタバレあるので、注意してくださいな。

『永い言い訳』は、本木雅弘の演技が良かった。中盤まで、エゴイスティックで嫌な奴を演じるようにという監督の注文に見事に答えているのがよくわかった。後半から、嫌味がなくなって、なんでこんな下手な俳優使っているのかね、という感情が徐々に消えてしまったのは見事。前半、嫌な奴、演技が素人っぽいギクシャクしたもの→後半、普通の人、自然な演技という流れがよくわかりました。

妻役の深津絵里は、冒頭の大切なシーンのあと、すぐに死んでしまうので、出番はないのだが、主人公の本木雅弘との二人の関係をセリフだけで説明して、こちらが映像を見て二人の関係をそれ以上に想像させることを拒否させるという監督の指図どおりうまく演技していた。

家族という居場所のないDINKSの二人が、一人はバス事故で死に、一人は、家族ごっこを経験して、自分の居場所を確認するといった内容の映画だった。

もう少し言うと、アイデンティティの問題であるのでしょう。

衣笠祥雄という広島東洋カープの有名選手と同じ本名と作家としてのペンネームを持つ主人公。

この2つの名前を行き来して、本当の自分を本木雅弘は見つけ出せたのか?

この2つの名前がどのように使われているかを注意深く映画を見ると、なるほどね、ということになるはず。

監督が原作者でもあるので、安心して話の内容を確認はできるが、映像的な表現があまりなかったかね?

というわけで、映画自体の陰影を深く感じることはできなかった。でも、話自体は興味深いので、もう一度観たいと思わせる映画でした。

『湯を沸かすほどの熱い愛』は、脚本主体の映画だったと思われる。

複数の伏線が、あれま!とつながる快感はあるものの、木を見て森を見ずの感が無きにしもあらず。

余命2ヶ月と宣告された母が、娘と蒸発した夫になすべきことをなして死んでいくというストーリーである。

伏線は、

なぜか、娘に、彼氏のために勝負下着をプレゼントする。

なぜか、娘の誕生日に、タカアシガニが送られてきて、娘にお礼を書かせている。

なぜか、その娘は、手話ができる。

なぜか、夫に、エジプトへ行ってみたかったと話す。

なぜか、娘に、自分は赤が好きと話す。

まだまだ、あったかもしれないが、こうした伏線がすべて繋がり、涙腺を刺激するのではある。

ところで、この話の舞台は、銭湯を経営している一家の物語なのではあるが、その必然性は、衝撃的なラストを描きたいから設定されたような気がする。

脚本があり、その伏線の落ち着く先を見せたいから、銭湯を描いているのだね。

まあ、よくできた脚本(アイデア)だと思います。

うん、そうそう、脚本というか、素晴らしいアイデアなんだね、この映画の素晴らしいところは。

すべてオリジナリティがある。

が、このオリジナリティあふれるアイデアを羅列しただけでは、優れた脚本にはならないので、様々な趣向で伏線をうまく隠すことも成功しているんだね。それでも、やはり、話の筋に無理がある。

その無理が、宮沢りえ、オダギリジョー、その娘達の卓越した演技でリアリティを与えているので、ほとんど目立たなくなっているのが、この映画の成功の基礎となっておる。

男優賞、女優賞総なめになるんじゃないかなとは思いますがね。特に、娘さんの演技が秀逸。

違和感を持ったのは以下の通り。

自分の生みの母親に突然会わされた娘が、すぐに過去のわだかまりを克服して、なかよく余命2ヶ月で死にゆく育ての母親と共に仲良く暮らしていけるものでしょうかね?

また、オダギリジョー扮する夫も異常な男ですね。これだけ、何も感じない男もいないでしょう。

娘のいじめは、なくなったんでしょうか?勝負下着だけで、解決したんでしょうか?何も、映画では音沙汰が無い。

宮沢りえ扮するお母ちゃんの歴史というのも、生き別れた母親がいるというだけで、説明がない。そして、この母親を探し出して、会いに行ったところ、そんな娘はいないと会うことを拒否されてしまう。つまり、この映画でたったひとりだけ、血の繋がった親兄弟がいないのが宮沢りえなのですね。

そうであるのに、夫の連れ子である娘達を一生懸命育てて、しかも、前妻と娘を仲良くさせて、その仲睦まじい姿を見て、いったいどう思うのか?まったく、説明されていない。

つまり、そのあたりの微妙な登場人物の立ち位置というものが、まったく描かれていないわけで、この点がとても不満で、残念なところでした。

ラストは、とてもグロテスク。こんなラストでいいのかよ、趣味悪いなあと思ったんだけれど、皆さん、涙してました。

監督には、もっと人生勉強を積みなさいといいたいところ。才能はあるので、また次に期待しましょう。テキパキとつくるだけが映画じゃないものね。

そんな映画でした。

あと、宮沢りえ痩せすぎ。体重増やすべし。この映画では余命2ヶ月ということで良かったけれど。

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2017年05月09日

ワイルド・バンチ

サム・ペキンパーの『ワイルド・バンチ』を劇場で見ていて感じたのは、このワイルド・バンチのチームのメンバー全員が、運命のごとく最後の不毛な戦いの場に赴くように仕向けているものは何だったんだろうということだった。

仲間の一人が、メキシコの国軍に捉えられてリンチをされている。仲間を助けるために、120人もの兵隊とたった4人で戦って彼を連れ戻そうなんて考える連中ではないことは、最初の銀行強盗でまだ若い男(仲間の孫だとあとで分かる)を、見殺しにしてなんとも思わないし、子供も一般人も自分たちのいく手を遮る連中には鉛の玉を打ち込むのに躊躇しない。

また、目を負傷して足手まといになったものには、殺してその場に置き去りにしてしまうような連中だ。

メキシコ人の付き合いも浅い仲間を自分の命を賭してまで助けようと思うことすらないような気がするのだ。、

これは、善とか悪とかの問題ではない。

善とか悪とかを超えている。

印度哲学を勉強している身からすると、前世で溜め込んだカルマを今世で摘み取ることを運命的な力で彼ら自身どうしようもないほどの暴力的な力でそうすることを余儀なくされているという風に解釈すると合点がいったのだった。

人は、しなければならないことをしなければならないという責任を負っている、前世のカルマの命じるままに。

人は、その責任を果たすために、自分自身を捨てて、その行為の結果を考えることなく、やり抜かなければならないのだ。

彼らにとって、そのしなければならない行為というのが、兵隊を殺して自分も死ぬということだったに違いない。

人質を助けることによって、自分が良いことをしたとか、人質が生きながらえてよかったとか思うことは、どうでもいいことなのだ。

人質が助かろうが死のうが問題ではない。

また、自分たちが生きようが死のうがそれが問題なのではない。

やむにやまれぬ原因に動かされ、そしてその結果を待つ。

お金はたっぷりとある。このまま、この場を去れば、ウイリアム・ホールデン扮するリーダーも現役を引退して農場で暮らすという夢を実現できるかもしれない。

しかし、それは許さない。彼は、120人のメキシコ人を殺し、自分も死ななければならなかったのだ。

売春宿でメキシコのセニョリータと寝たボーグナイン他の3名。

事を終えても、心は安らかではない。やり残したことがある。

売春宿の外で、ナイフで棒切れを削ぎ落としてオブジェみたいのを作りながら彼らが出てくるのを待っているボーグナイン。

明らかにホモセクシュアルだ。

リーダーのウイリアム・ホールデンがこの映画で3度目に言う台詞、「Let’ go」。

ウォーレン・ウォーツが答える「Why not」

それは、やり残したこと、それは、死に行くということなのだ。

若い人質を取り返そうと、ライフル銃を肩に背負いながら、メキシコの将軍に会いに行く。

彼を返せと要求すると、将軍は、半殺しにされている人質を立たせ、その喉を掻き切って殺してしまう。崩れ落ちる人質。その瞬間、ウイリアム・ホールデンは3発その将軍に弾丸を打ち込む。

ライフルの銃声が高く響き渡った後の沈黙。王様である将軍が殺されたことがショックで、軍隊も唖然として行動することができない。永遠と思えるような沈黙が続く。

「地獄の黙示録」で、ウィラード中尉がカーツ大佐を殺戮した後の原住民の沈黙は、このシーンからとられたのかもしれない。

新しい王の誕生だ。王権の交代という神話的な場面に太古の記憶が呼び起こされた沈黙だ。しかし、その王権は長続きはしない。

「さあ、これで、やっとここで死ねる」と思い、アーネスト・ボーグナインがにやりと笑う。ここで、もう引き下がることができない線を超えてしまったのだ。

ここから、「死のダンス」と呼ばれるほどのカット割りとスローモーションで、メキシコ軍と4人のワイルド・バンチの死闘が続くのだが、これが、迫力満点で、これを超える戦闘シーンは、スピルバーグの「プライベート・ライアン」くらいのものか?

機関銃を振り回して暴れるウイリアム・ホールデンに致命傷の被弾。「死ぬな!」と叫んでホールデンに触れようとするボーグナインも致命傷を浴びて絶命。きっと、来世で男女に産み分けられる二人の男。

死に絶えたウイリアム・ホールデンのガンベルトのコルトのリヴォルバーは、西部劇時代の象徴であり、そのガンがクローズアップされて、象徴的に、時代に取り残された男の死を演出する。

俺より先に死に行くなという意味だろう。「俺が死ぬまで待ってろ」という意味だろう。

結果の後先を考えずに、ただ、やることをやる男たちの神々しさ。

久しぶりに見た傑作『ワイルド・バンチ』でした。これは、劇場で見ないと迫力が随分と違う。新文芸坐さんがやってくれました。併映は、ハードホークス監督の『リオ・ブラボー』。これについても、あれやこれや、書きたいけれど、気分が乗ったときに書いてみましょう。

posted by ロビオ at 16:43| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月06日

印度哲学勉強会

インド大使館でバガヴァッド・ギーターの勉強会に参加。
今日は、平等のヨーガについて。
ギータの勉強については、今、図書館で借りてきた鎧淳訳の文語調のバガヴァッド・ギーターの写本をしているのだけれど、その返却時期との競争になって、義務的に書き写しているという傾向が強い。
眼光紙背に徹するまで考えて写せばよいのだが、なかなかこちらに読む力がないので、そこまでには至らない。
ということを、今日の講義で思い知らされたのでありました。
千数百年前に書かれた古典に無駄な文書なのあるわけでなく、その羅列された名詞の順序にも意味があるとのこと、そこまで読みきらないといけないのですな。
という風に、人に教わるということは、貴重な体験で、とても役立っている。
バガヴァッド・ギーターに感銘をうけたのが、今年の初め。もうすでに、4ヶ月が過ぎて、あれやこれやの本を買い漁って、読みかじっているものの、読み始めた頃には、わかった気になりとてもその知識の取得が楽しかったのだが、ここにきて、なんにもわかっていないことがよくわかるようになり、少々スランプ気味ではあるのだな。
まあ、何事もそうで、プラトーという伸び悩みの時期はつきもの。
学者の言うこと、聖者の言うこと、微妙に異なり、ヴェーダンタ学派、ヨーガ学派、サンキャア哲学等それぞれの違いが混乱しておって、ちょっと整理しないとなと思い始めておるところでございます。
ここは、腰を落ち着けて、今まで読んできた本の内容をノートにもとみてみよう。
それに、やはり原書でインド哲学の本を読みたいので、サンスクリット語を勉強しないといけませんな。
やることたくさん。しかし、インド哲学は実践が命。
腰もだいぶ良くなったので、昨晩からヨーガのアーサナを開始。
トレイルランも毎日やっているけれど、足の裏の痛みがひどくなって、今朝はおやすみ。
ヨーガ体操ができるだけ、少しはましになってきたかな。


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2017年05月05日

「街角 桃色の店」「極楽特急」

5月5日は、「街角 桃色の店」「極楽特急」をシネマヴェーラ渋谷で鑑賞。朝1番で観たので、なんとか座れたが、立ち見が出るほどの盛況。なくなっては困る名画座なので、喜ばしきこと限りなし。私は、会員になっているので、今回、9回目の入場は、無料となったのでありました。お隣に座っていた夫婦は、前回と同じ人だった。
と、周りを見ると皆常連さんらしき人ばかり。
最近、ギンレイホール、早稲田松竹、新文芸坐とここに土日に入り浸っているので、こういうことに気がつくようになった。
「街角 桃色の店」は、前にヴィデオで観たことがあり、そのときは、洒落た映画で感銘をうけたのだったが、今回はそれほどでもなかったのは、どうしてだろう?主演女優にイマイチ感情移入ができなかったのは確か。トム・ハンクス主演の「ユーガットメール」は、この映画のリメイク。
「極楽特急」とは、邦題が的外れ、特急は出てこないので。原題は「Trouble in Paradise」。
時計の針の動きをただ見せて、男女二人の会話を聞かせるだけで、どういう風にこの二人が関係を築いていくかをわからせる手法や、3つある部屋のどこから出演者が現れるかによって、その関係の深さをわからせる手法とか、まあ、見事なものである。
映画でしか表現できない手法の極致まで進んだのがこの当たりの時代で、それは、皆さん、サイレント映画でしっかりと映画の基礎を学んでいるからなんでしょうね。
ルビッチ監督の映画は、話の筋がどうのこうのというよりも、その映画の演出が凡人には思いもつかないやり方でなされるところにあってそこを楽しむのが大人の鑑賞法というもの。
『ニノチカ』『生きるべきか死ぬべきか』『天国は待ってくれる』といった代表作には、及ばないものの、十分に楽しめた。
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2017年05月04日

ルビッチ三回目

シネマヴェーラ渋谷のエンルスト・ルビッチ監督特集の3回目は、『小間使』と『生きるべきか死ぬべきか』の二本立て。先週『生きるべきか死ぬべきか』は見たので、どうしようかと思ったが、『小間使』の主演が、シャルル・ボワイエとジェニファー・ジョーンズと聞いたら見なければじゃないの、ということで、早朝パンを焼き、トレイルを1時間ほど走ってから行ってきました。
『小間使』は、イマイチって感じたけれど、いい大人がピンポンダッシュして、大人を困らせるっていうのも大人げないフランス生まれのシャルル・ボワイエの完璧な英語ってどこで身につけたんでしょうかねえ。とか、ジェニファー・ジョーンズの歯並びの良さは、これ、入れ歯でしょうかと変なところに気が行ってしまったけれど、ジェントルマン階級の荘園に住み込んだ主人公たちの上流社会、とくに、執事たちの世界は、あの名作『日の名残り』より本物ぽくて、感心しました。が、多分、こういう世界をおちょくった内容のギャグがイマイチわからず、チェコ生まれで亡命したボワイエに関するギャグもあっただろうに、それもわからず、要するん、そういう文化を背景にしたギャグがわからないのが、イマイチこの物語に乗れなかった理由だと思われる。
もういちど、みれば、わかるかもしれないと思ったのは、先週見た『生きるべきか死ぬべきか』を再度見て、話の内容が完璧にわかってわからなかった筋がつながって、溜飲を下げたからでありました。
感心するのは、映画の画面の平衡感覚というか、画面のバランスを3次元で完ぺきにこなしているその技ですね。こういうところを、小津安二郎も見習ったのかしらん。
まだまだ、目の離せないルビッチ監督特集。まだまだ、通いつめます。



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2017年05月01日

6つの敵

土曜日は、印度哲学の勉強会に参加。

毎回毎回、私が眠る時間に授業が終わるので、終わってJRの駅まで歩くとフラフラしている自分に気が付きまして、池袋からの電車の中では、眠いやら、頭の芯が冴えてしまって、眠ることもできない状態です。

この日は、早朝、パンを焼き捏ねて、それからトレイルランニング(ううっ、現在筋肉痛!)それから、渋谷にルビッチ監督特集見に行って、事務所で仕事、それから、勉強会に参加したのでした。

それはさておき、この日は、勉強を始めて間もない人のための講義。

この勉強会に3月から参加させていただきまして、その内容は、「バガヴァット・ギーター」「ヨーガ・スートラ」「ウパニシャッド」それに、この「基礎講座」を週替りで学んでいっております。授業内容は濃密で、ギーターの一文だけで、2時間の授業が費やされます。いやはや〜。

まさに、時間の感覚が個性的に流れる印度哲学の王道をいくような授業内容でございます。

ほんとにありがたいことです。授業料もないのだし。

休憩には、500円でカレーをいただくこともでき、そして、このカレーがとても優しい味で、どうやったら、こういうカレーが出来るのかしらん?と、土曜日日曜日に、カレーのスパイスを色々と弄りながら、この味を再現させようと努力しているのであります。

皆さん、勉強をしにやってきているので、休み時間も寡黙に、カレーを食べます。ステンレスの皿に盛られたご飯とカレーをスプーンですくう音しか聞こえません。

ううん、皆さん、真面目だ。カレーを食べるしか、どうすることもできません。

そんなことはともかく、今日の題目は、アリシャッドヴァルガについての勉強だ。

アリシャッドヴァルガとは

カーマ(欲情)・クローダ(怒り)・ローバ(貪欲)・モーハ(執着)・マーダ(自慢)・マーツァリャ(嫉妬)という、我々が、真の自己を見出す際の6つの敵についての勉強でございました。

この6つに我々凡人は、目が眩み、本当の自分が一体何者かわからなくさせてしまっているそういう存在であります。

今、手元に、授業のノートが無いので、記憶があやふやなので、詳細は書きませぬ。しかし、我々凡人から見ると、これら6つの要素がその人をその人らしくさせている人間らしい特性のような気もします。また、こういうものがない人生とは、いかなるものかと考えることもあるのです。

恋をし、欲情し、ココロ狂わすなんていうカーマに振り回せれた恋人たちを描いた映画や小説は、それこそ星の数ほどありまして、夏目漱石の「こころ」なんかは、これらすべてがテーマとなっているのではありますまいか?

つまり、それらは、磁力的な魅力で人を惹き付けるものなのでありますね、当人にとっても、それを見聞きする他人様にとっても。

でも、やはり、50を過ぎれば、こういうものに、囚われて生きるのは、しんどいので、6つの敵と決別して、早く本当の自分自身と出会いたいと、心から祈念するものであります。

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2017年04月30日

ルビッチ・タッチ

シネマヴェーラ渋谷で開催中のエルンスト・ルビッチ特集、本日は、『ウインダミア夫人の扇』と『生きるべきか死ぬべきか』の二本を堪能。
前者は、1920年代のサイレント映画、後者は、ルビッチ監督の代表作として知られている作品、クラーク・ゲーブルの最愛の妻で、飛行機事故で亡くなった主役のキャロル・ロンバードの遺作。
サイレント映画を見る機会は少ないけれども、いいんだね、これが。
広い部屋の中をロングショットで撮って、二人が部屋の中でそれぞれの考え事をしながら動き回るシーンがあるのだけれど、画面の重量のバランスが常に釣り合っており、まるで、シーソーの上で、水平が保たれるように人を動かしてみせる。
言葉がない方が、画面に集中できるし、顔の表情やら、モンタージュ手法で、何を意味するかがはっきりと分かるから、疲れずに映画を眺めていられる。そういう技術が積み重なって完成の域に達したときにトーキー時代に突入してしまったんだね。
そして、この『ウインダミア夫人の扇』というのも、勘違いから巻き起こるややこしい筋ではあるのだけれど、これをほぼ、セリフ無しで成立させてしまうすごい技を堪能する作品でした。
『生きるべきか死ぬべきか』は、劇団員の監督の役者さんが、小津安二郎作品の常連の中村伸郎にそっくりでビックリ。そういえば、小津安二郎もルビッチ監督の影響を受けたわけで、ポーランドのヒットラー政権下のナチス・ドイツという場面で、これだけ洗練された、人間性の美醜を極力描かずに、エンターテインメント映画にしつらえてしまうその技が、まさん、ルビッチ・タッチといわれる所以なんでしょうね。
とにかく、劇場がクスクス笑いと爆笑で盛り上がっておりましたよ。
う〜ん、やっぱり、名監督の映画は素晴らしい!というわけで、この映画館に足繁く通うことになりそうです。


posted by ロビオ at 18:36| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする