2016年03月25日

自転車でも骨盤は前傾で

なかなか自転車に乗る機会に恵まれないのは、朝の寒さと仕事と雑事が入り組んでいるから。

それでも、タイヤは、パナレーサーのグラベル700✕25というのを調達し、ロードのペダルもSPDにしてしまえば、靴1足で済んでしまうので、ロード用なのにSPDが使えて、ちょいと格好のいいシマノPD A600というのに替えるてしまおうかなどと考えている。

なんだかロードの世界では、理屈にならない理屈がまかり通っていて、例えば、DE ROSAというバイクがあるけれど、このコンポーネントはカンパーニョロじゃなきゃ駄目だとか、コルナゴならシマノでいいよとか、プロチームの真似なんでしょうか、意味がわからない事が多く、既存の概念を打ち破るようなものに対して激しく拒否反応を示す者が多いようだ。

カーブを曲がるときに、外側の足ピーンと張って曲がるというけれど、MTBで曲がるときそんなことやったら、ズルリと滑るし、状況を見て、抜重したりしているのに、なぜか、ロードでは、これが推奨されている。なんで?と常々思っていたわけですよ。

堂城賢(たかぎまさると読む)という人の『自転車の教科書』というのを読むのは2度めだが、その内容を一見ユニークだが、理にかなっている自転車の乗り方全般に関して目から鱗が落ちる思いをして体得できる本なのだ。

この人の話がよく分かるのは、マウンテンバイクを楽しんでいる人ならよりわかるだろうし、ランニングの愛好家なら、それよりずっとよくわかるはず。

著者の堂城賢氏は、マウンテンバイクの選手であったそうだから、自転車に関する視点がロードバイクの常識を常識で終わらせないところが頼もしいところ。

この本を読んで、この著者の勧める乗り方は、信頼できるとおもうのは、そういうところにもある。

この本の中で言いたいことを端的に言えば、イチローが守備隊形をしている際の姿勢、あれが自転車の乗っている時にでもできれば、それが理想なのだ、という簡単だが、なかなか難しいことを言っている。

体重は両足の拇指球にかかり、骨盤を股関節前傾させて背中は丸めないで真っ直ぐな状態に保つ。あの格好のまんま自転車にまたがり、漕げば良い。以上。。。。。

たったこれだけ。これが出来る姿勢が、理想的なポジションニングになるであろうし、省エネ的にペダリングが出来る姿勢でもある。

自転車もランニングも同じで、骨盤を後傾させながらのランニングは背中が曲がったへっぴり腰で、やってはいけないこととされている。重心は、前に前に送り出すことによって、楽に走れるという常識がある。

それなのに、自転車では、骨盤を前傾させるのではなく立てて、背中を丸めるやり方が励行された時代が長いことあった。

これは、やはり間違いでしょう。

スポーツの姿勢は、背筋をのばすこと。すべてが、ここに尽きるのではないか?

剣道、柔道、合気道はもとより、ランニング、スキー、ボクシング、卓球、テニス、背中を丸めてやるスポーツってないよね。

姿勢が悪ければ、腰を痛めるだろうし、見た目も悪い。なのに、自転車では、背中を丸めて骨盤を立てろというのは、筋の違う話ではないだろうかね?

というわけで、だらんと背中を丸めて、骨盤が立てばまだいいけれど、骨盤が後傾したりして、ダメダメな姿勢で自転車に乗っていたのね、私。反省。これじゃ、自転車が前に進まないわけさ。

それだから、今回は、この『自転車の教科書』をよく理解して、勉強したいと思っている。ランニングと自転車を同じように捉えて、相互の理解に役立つようにしたいと思っている。

その為には、この硬い体を本当になんとかしなくっちゃ。

自転車に乗るより前に、これが先決。知らぬ知らぬ間に楽な姿勢を人は取るので、そのあたりで筋肉や腱が固まっちゃうんだろうな。

posted by ロビオ at 09:57| Comment(0) | 自転車(ロード) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月23日

PanasonicのFRC

クロモリのバイクで初めて100キロ走ってみれば、のんびり走るには最高のものであることに気がついた。

トレックのマドンは、バイクに踏み込むことを命令されているみたいで、友達とだべりながら低速で走るなんてとてもだるくて出来そうにもなかった。勤勉さを要求され、セコセコとペダルを踏ませるバイクであった。のんびりと走るもんなら、体の接合部分のすべての関節が痛くなりそうで、踏み込みつづけることで、体とバイクとの友好関係が成り立つような、そんなバイクだった。


猛スピードで踏み込んだりすると、バイクがとても喜んでいるのがわかるし、長いツーリングに出て、足が終わってしまったら、とりつくしまもなく、フレームの不機嫌さが感じられてしまう、そんなアルバイトを要求されるレースバイクだった。

というわけで、僕のバイクの使い方には、あまり合わなかったんだろうね。抜きつ抜かれつのレースの遊びみたいなときは、ビューンと発射されたように前に進んだけれど。この快感は高性能のスポーツカーの快感とでもいうべきものでしょうか?
パナソニックの鉄のフレームは、スピードに乗るまではもたつくけれど、一度スピードに乗ってしまえば、スイスイ。リズムに乗れば気持ちよく走れるから、ツーリングにはピッタンコ。

スポーツの道具としても十分使えるが、人を楽しく目的地まで運ぶ為にはどんなものが要求されるのかといったところにも配慮のある、車で言えばルノーのような哲学を持った長い歴史を持つバイクなのでしょう。
アタックごっこみたいに、ズバッと瞬発力を活かして進むなんというのは、不得手であることは確かである。一拍遅れ続けて前に進む感じだから。だけれど、ブレーキ、アンド、ゴーみたいな走り方って普通はしないわけで、どちらを優先するかといえば、同じスピードで巡回する能力というのが普通は喜ばれるものでしょう。

一拍遅れて・・・というのは、ブラックミュージックのビートって、バックビートといって、ワン・ツウとツウのところに強調があるのね。
ブルーグラスとか演歌とかは、ワンに強調がある。
クロモリのフレームは、バックビートなのね。一拍遅れて不思議な所で自転車が前に進む。
クロモリレースバイクは、もういきなりワンで前に進む。
そんな感じでしょうか。

ところで、このクロモリの細めのフォークはブレーキかけると撓ってますね。ブレーキをかけると手元に曲がります。で、コワイかといえば、全然怖くなくて、フレーム全体と柔らかなハンドルでグニャグニャと全体で吸収しあってお釣りなしの処理をしている感じ。先端が寝ている形状なので、バネ状に跳ね上がってもいるのかしら?こりゃ、楽しいわ。

これで、13万円くらいなんで、割りと安めのフレームで、これだけ満足できるんだから、やはりクロモリはおすすめですよ。


ところで、5年前のタイヤは溶けていて、プラスチック消しゴムのように柔らかく、あっという間に摩耗していく。これじゃ、剣呑である。

というわけで、のんびり派、時々、スピードを上げてダウンヒルを楽しむ為には、最近流行っている700✕25Cの太めのタイヤを所望したい。

パナレーサーのグラベルとかいうのが良さそうなんだけれど、評判はどうなのかしら?

新たなLogicoolの無線キーボードの練習で長めの文章でした。あんまりタッチが良くないな。配線はすっきりするけれど。

posted by ロビオ at 14:27| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月11日

黒のニットタイ

青と黒の細いタッターソールのボタンダウンシャツに、臙脂のヴイネックのセーター、そして、ヘリンボーンのハリス・ツイードを着こんだのはいつもの仕事スタイルだけれど、クリケットの黒いニットタイを締めたのは、今日が3月11日だからだ。

あれから5年。

僕の中で何かが失われてしまったあの日の後の原発事故。

巧妙にそして清潔に焼却されてしまったか、瞬間冷凍されてしまったかして、その失われてしまったものが一体何なのか、その正体すら見つからないのだけれど。

今日は、その弔いの日にふさわしい。

テレビは見ないので、ラジオを聞いている。経済評論家が日々様々なコメントを出している。

経済対策も大切だろうが、それはあまりにも白々しいのは、ジェイムズ・クラムリーの『ファイナルカントリー』という優れた小説の中の引用、

政治は富める者が貧しい者たちを相手に演ずる残酷な詐術に似ている

というように、一体全体誰のための経済政策なんだろう?

あの原発事故の日、炙りだされてきた日本を牛耳るエスタブリッシュメントの面々、マスコミを含む甘い汁を吸うために群がる人たちが明らかになった。

誰もが民主主義という全員参加のゲームの中で、ボールは彼らのサークルの中だけで回されて、自分らには永遠にボールは回ってこないという確信を得たのではないか。

そういうことを忘れたかのように、株価の上下に翻弄されて、将来の不安を感じさせられながら、世界は動いている。

人は一人では生きていけないのは事実だろう。

しかし、電力会社に生殺与奪権を明け渡して、いつ輪番停電のような脅迫に満ちた暴力に晒されないとも限らないだろう。

自給自足的生活。

脅しに屈せず生きていくためには砦としての自分の家、食料の確保としての畑、エネルギー源としての自然材があれば安心である。

そして、そうした半ば自足できている人たちが、小さな共同体の中で融通し合い、地産地消的に消費していけば支えになるだろうし、そうした小さなコミュニティから生み出されたものは、どこにだって受け入れられる可能性があるのではないか。

いわゆるグローバリズムというのも、もともとはローカリズムに過ぎなかったのだから。

改めて、ヘンリー・デイヴィッド・ソローの『森の生活』に書かれているように、小さな共同体で豊かな生活を送れるように、身近な環境にどれだけ素晴らしい鉱脈が走っているのか、自然と直接的な関係を取り戻すことの重要性を再確認したいと思う。

posted by ロビオ at 09:27| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月10日

やらないというペダリングの方法

自転車の前輪にレンガくらいの大きさの障害物を置いて、ペダリングしてその障害物を乗り越えようとする場合、ペダリングを時計に例えると0時から3時までの間は、僅かな力をかけるだけでペダルは回り、当然、前輪はその障害物を楽々と乗り越える。

これが、3時になると、ちょっと引っかかる感じがあり、5時になるとペダルを動かそうとすれば、多大な力が必要で、真下の6時になるとどんなに力を入れても、自転車は前に進まない。当たり前だけれど。

これは、ヤマメの学校の貴重なユーチューブの映像だったかな?2冊出ている本だったかな?それで知ったことだが、経験的にそれが本当だということはわかっていたはずだ。

が、それを、薄々気づいていたものの、それを活かせていなかったのは、言語化していなかったからで、追求が足りなかったと反省するが、多分、月に1000キロも乗っていると学ぶより慣れろというわけで、どうでも良くなってしまったかしていたのである。

このペダリングの方法を具体的に知って、これこそがペダリングのポイントだなと、感じ入るものがあったのだった。

そして、ペダリングというのは、この技術のことであって、引き足だの足を持ち上げるだのというのは、足に力が入っていなければ、ペダリングの勢い、惰性で回ってしまうから、必要ないのである。目から鱗が落ちるよね。

この高城先生の本は、本当に有益だ。自転車乗りでもランナーでも。

僕のように下手くそなペダリングだと、引き足とか意識すると多分要らない力が入ってしまって、ペダリングの邪魔になるだけだなと思うからだ。それに、ケイデンス90から100でね、ココでペダルを押し込んで、ココで脱力して、そして、ここで、引き足を使って・・・なんて器用なマネができるものか?

というわけで、効率的にペダリングをして自転車を前に進ませるには、この0時から3時に力を入力して、その他は脱力して放出された力が惰性で6時まで流れればそれが一番効率がいいというわけである。

自転車には、3.11があった年の8月以降載っていないので、ブランクの時期はおよそ4年半。そんな中でも、ヤマメの学校の本を図書館で何度も借りて読みなおしていたんだから、ロードバイクの興味は続いていたんだろう。

一番体力があった頃、月間ラン300キロ、自転車1000キロ以上を走っていたんだから、どうかしていたと思うが、その頃は、悲しかったし、疲れていたし、病んでいたし、こんなことでもしないと正常を保てなかったのだが、今は、それも昔の話。こういう時も必要なのだ。

そして、そのころよりも4つ年をとってしまった今となってみれば、体力よりも技術でカバーするしか無い。

ペダリングの技術と食事と休養だな、これに、クロストレーニングを加えた効率のよい鍛え方をしなければ。

ところで、、ママチャリでお買い物に出かける時とか、20キロ位の遠出するときとか、この0時から3時までのペダリングというのは意識して練習していた。

結果、ペダリング一回転の360度の4分の1だけ力を投入して残りの4分の3は休息に当てられるのだから、理論上、これより楽で効率的なペダリングは無いと思われるのだよね。

パイオニアという会社が開発した無駄なペダリングの力がどれだけ加わっているかとうのを測定する機械があって、これまたユーチューブで拝見したのだけれど、日本人でツール・ド・フランスに出場している選手でも、その効率は7割だそうで、これは、特筆すべき効率の良さで、相当乗り込んでいる人でも50%程度だそうである。

ヘボな自分はじゃあどうするか?

もう、引き足とか足を上げるとか、そういう面倒なことはやらない。やらないことに精力を傾けて、ただ、0時から3時のこの一点だけに力が加わるようにすることより他にいい方法があるだろうか?

トレイルランニングで、足が地面に着く前に足を上げる・・・なんて禅問答のようなことを、裸足王子から学んだのだけれど、この間、走っていて、なんとなくわかったのは、上げる意識が最初にあって、そして、その瞬間に足が着いて、その意識が足に到達して足が上がっていく・・・というような感覚が掴めたからである。時々、その感覚を掴み損ねてしまうのだけれど、特に、激坂の上りで顕著に意識できていたような気がする。

さすれば、0時にペダリングを開始するなら、時計で言うと11時か12時くらいに踏み込む意識をして、1時か2時位に脱力する。脳と体の意識の伝達する時間というのはそのくらい多分時間がかかるのだろうね。

うん、この練習、自転車に乗れるような陽気になったら練習するつもり。

今から、楽しみだ。

posted by ロビオ at 06:18| Comment(0) | 自転車(ロード) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月09日

英語長文問題精講は読み物としてもとても有益だ。例えば、

The bright child is curious about life and reality, eager to get in touch with it, ebmbrace it, unite himself with it.

利発な子供は人生と現実に対する好奇心に富み、熱心にそれと接触し、それを抱きしめ、それと一つになろうとする。

これは、John Holt という人のHow children failという本の中の一文である。

これまた、原仙作の『英文標準問題精講』に匹敵するような素晴らしい英文の宝庫である問題集『英語長文問題精講』中原道喜著のなか課題文からの引用である。

この一文はなにかとても重要な人生におけるヒントが隠されているような気がしている。

自分の現実や人生しか生きられないはずなのに、そいつから逃れる態度は、もはや、自分の人生や現実をつかみとっているとは言えないはずだ。

アップルの創設者が愛読したオリゲン・ヘリゲルの『日本の弓術』の中では次のような文章がある。

「私は的が次第にぼやけてくるほど目を閉じる。すると的は私の方へ近づいてくるように思われる。そして、それは私と一体になる。・・・

的が私と一体になるならば、それは私が仏陀と一体になることを意味する。

そして、私ば仏陀と一体になれば、矢は有と非有の不動の中心に従ってまた的の中心にあることになる。矢が中心にある・・・矢は中心から出て中心から出て中心に入るのである。

それゆえ、あなたは、的を狙わずに自分自身を狙いなさい。」

人生や現実というもの自分と対極にあるものと考えているうちは、それは人生や現実と呼べるものではなく、それは存在しないもので、それと一体化することにより、自己は自己として自己回復できる。なぜならば、人生や現実を包摂していない自己というのは、本当の自己とは呼べないから。

こうした態度で過ごしている人は、多分、傍から見ると、困難な状況にあっても、その困難を困難な状況とは思わず克服してしまう人なんだろう。

僕の中のタオのイメージもこんな感じである。

タオに一体化することによって、主観も客観も超えたリアリティを獲得して、自然の流れの中に紛れ込んでいる自分を発見するというような。

まだまだ、語り尽くせないけれども、こんなことを考えるきっかけになる名文が満載のこの大学受験用の問題集は優れている。

posted by ロビオ at 13:49| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月04日

アドラー心理学『嫌われる勇気』の続編『幸せになる勇気』も素晴らしい本でした。

昨晩は、夜遅くまで某所で会社法について喧々諤々議論をして会議終了。

久しぶりに勉強の世界の中で、半ば忘れていた会社法の定義とかを、脳味噌の奥の奥から取り出した。

不思議な事に、こういう場になると、定義がちゃんと出てくるんだねえ。自分でも驚いたわ。

これも、基本ができているから、新たに生じた問題をあれこれ知識を総動員して、解決策を講じることが出来るんだね。

東大首席卒業生の勉強法の本を読んで、ああ、なるほど、勉強はし続けないと・・・というか、目的意識をもって、身につく勉強しないとなあ、と感じいったので、今日からココロを入れ替えてまた勉強してみよう。

ベストセラーになった『嫌われる勇気』という本は素晴らしかった。

メモを取りながら、1年ほど前ふむふむと2度ほど読んだ。ニーチェが本当の姿の世界を痛烈な言葉で露呈させるのと似て、めくるめく新たな世界が眼前に現れてワクワクした。

けれども、どんなことが書かれていたかと思い起こせば、まったく心もとない。

というのは、その続編『幸せになる勇気』という本を手に取り、躊躇なく新刊を久しぶりに買って、その中で、前作で触れた箇所が何回か出てきたのだが、その記憶は曖昧なのであった。

アドラー心理学、素晴らしいです。

心理学というより哲学に近い。

ソクラテスが、問答形式で、我々が知っていると思っていることが、実は、全くわかっていないことを明らかにするように、はっとすることがかかれてある。

ところで、僕が唯一楽しく読める哲学書がプラトンとニーチェ。

プラトンは文学書みたいだし、ニーチェは、自分が3歳から幼稚園くらいに大人に感じていたことを思い起こせば、そのとおりと納得できる。

どちらも、わかりやすい日本語で書かれている。時に読み返し読んでいるけれども、その場その場で、なるほどと、頭の中でソクラテスやニーチェの言葉を理解しているのだが、読み終えてどういうことを本当は言っていたのか、ということを反芻すれば、ほとんど頭に残っていないんだな。

まずは、きちんとその理論を、理由を理解しよう。そして、反芻しよう。

読書というのは、その作者の考えを自分の頭で再現させる作業で、決して自分で考えることではない。作者の考えを自由に自分の頭の中から取り出すことが可能になって初めて、その考えが自分にとって役立つことになる。そうなってこそ、有益な読書になるのであって、振り返ってみると、そういう本というのは、何冊あるだろうかと数えると心もとない。

この歳になると、広く浅く読むよりも、狭く浅く徹底的に精読することが大切になってくる。

一事が万事。こういう態度で、知識を吸収し、それを基礎に自分の意見が言えるくらいに勉強しないとね。

というわけで、何度も読みますよ、自分の言葉でアドラー心理学というものをうまく説明できるぐらいに。

こういう態度が今年の課題。基本は繰り返し繰り返し練習するということだね。

posted by ロビオ at 09:24| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月03日

東大首席弁護士が教える超速「7回読み」勉強法

東大首席弁護士が教える超速「7回読み」勉強法

という本を読んだ。

作者は、猛勉の挙句、国立の高校に受かって、東大に現役合格し、在学中に司法試験に合格し、主席で東大を卒業し、子供の頃からの夢であった大蔵省の官僚になるものの、2年で退職し、会社法務の弁護士事務所で弁護士登録し、今に至るという経歴である。

勉強法については、これが王道でしょう。とやかくいうことはない。

とにかく、参考書等を7回は読めということ。

僕が書いても、全く説得力がない。

こういう輝かしい経歴があるからこそ、この本はよく売れた?に違いない。書かれていることは、本当に勉強法の王道であるにすぎないのだから。

ぼくも、資格試験を受けた時は、7回と言わず20回以上、分厚い過去問を馬鹿のように解き続けたし、条文も受験科目は暗記するほど読み込んでいた。

だから、この勉強方法が最適であるということは自信をもって言える。

勉強は繰り返しである。読むごとに、読解力を掘り下げていく。そうこうするうちに、その本は、自分の血となり肉となり、その本に書かれていたことからの応用も効くようになっていき、その本に関する議論も人と出来るようになる。

この本は「勉強法」としての本の役割は200%果たしていると思う。皆、勉強を始めたいと思っている人は、一度読んでみるべきであると思う。

感銘をうけたのは、この作者の人生である。

なにゆえ、夢だった大蔵官僚を2年で辞めたのか・・・というところが少し気になるが、一点の曇もないわかりやすいエリートである。

また、高校試験、大学試験、司法試験、国家公務員試験と、勉強して合格すれば手に入る地位にそのまま着いているというのが味噌。

これほどまでに、わかりやすい経歴はありますまいて。

すなわちそれ故、人生は勉強次第でどうにでもなりそうであるという感覚がこの本の通奏低音に響いている。

ふ〜ん、こういう人がいるんだ・・・。ある意味とってもわかりやすい漫画のキャラクターのようなもので、それが実際に、現実にいるということに本を読んで驚いたのだった。

官僚やら、大手の(多分)法律事務所でのサラリーマン弁護士とか、東大首席で卒業するとか、ほとんど、その立場にいることさえ、ぼくは御免被りたいけれど、こうして、前へ前へと進む原動力はいったいどこにあるのだろうと、ふと考えてみたのだった。

人生は、試験に合格すれば道が開かれる・・・ということもあるだろうが、そうでもないこともきっと多いだろう。実際、大学に受かってから、資格試験に合格してからの人生のほうが、長いだろう。

個々で思い出したのが、森鴎外の『青年』からの一節。

一体日本人は生きるということを知っているだろうか。小学校の門を潜ってからというものは、一しょう懸命にこの学校時代を駈け抜けようとする。その先きには生活があると思うのである。学校というものを離れて職業にあり附くと、その職業を為し遂げてしまおうとする。その先きには生活があると思うのである。そしてその先には生活はないのである。

この本を読んで、寒々しいと感じたのは、こういう、生活の在というものを感じたからにほかならない。

試験に合格することによって切り開かれたと思う人生、試験に合格すれば手に入ると思わるる人生、そういう人生が試験に合格することによって予定されていると考える人生、そんな風に著者は考えているのだろうか?

生活が不在しているから、合格して手に入れた地位というのは、不毛としか言いようのないものだ。

不毛な人生は、また、新たな目標を見つけることを要求するから、試験というものが、人生そのものだと考えていくしかない。

試験に受かるということは、それまでチャレンジしていた立場がなくなって、人生が平板になるということだ。

自分に一体化した人生というものがない人は、何らかの形で人生を作り出さなければならない。

通常、人は、人生と一体化し、それを酸いも甘いも味わい楽しんで、付け加えるものは必要ないはずだ。

人生とは試験に合格することだというふうに考えてしまう人生は、その過程よりも結果だけを求めるから、自分自身の存在理由が欲しければ、また、何かのチャレンジをして、人生に彩りを加える必要がある。

新たに何かをチャレンジする。そして、いつしか、手段が目的となってしまう。

大蔵官僚時代に、上司からの質問とか、上司が要求するものに応える技量というものも、試験と捉えて、シノギを削っていく姿は痛ましい感じがしたのだね。

勉強は楽しくないと彼女は言う。

試験に合格するためには我慢しなければならないもの、それが、勉強だという(多分)。

その試験に合格するという結果だけを求めるというのは、これつまり、サラリーマン社会の競争みたいで興ざめしたんだけれど、僕の受験時代でも、早めに受かった人というのは、こんなふうに効率よく、理解できなくても、点数が取れればいいじゃないのと勉強を進められる人が多かったような気が。

僕は、初めて、試験勉強を本格的に一生のうち一度だけやったんだけれど、効率的に勉強するにはしたけれど、法律という勉強も楽しかったから、あまり他の受験生が読まない学者の本をウンウン唸りながら読んでいた。

そうこうするうちに、法律というものの面白さがわかってきたのは事実であって、未だに、法律の体系書を読むのは好きである。ああ、法律を嫌いにならなくてよかった。

調べたところによると、この方は、テレビの出演も多く、有名人にもおなりになったようだけれど、この方のこれからの人生、先が危ういなあ、と感じたりしたのでした。

というわけで、この本は、あらゆる受験生を対象にした本で、作者自身の人生論ではないので、こういう驚き呆れたという負の印象を書くのはどうかと思うのに加えて、私、この本、1度しか読んでおらず、表題のごとく7回読んでおりませんので、私がこの本で感銘を受けた店に関しては、大いに勘違い等がありますゆえ、その点、ご勘弁を。

 

posted by ロビオ at 16:35| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月24日

クロッカスが咲きました

昨晩、寝床で俵万智の『サラダ記念日』を読んでいて

「クロッカスが咲きました」という書きだしでふいに手紙を書きたくなりぬ

というのに感心していたから、畑と道路の境界に植えられた一列のクロッカスが芽吹いるのに目が惹きつけられたのに違いない。

朝のジョギングコースの家庭菜園に近いような小さな畑にそれは芽吹いていた。

ちょうど首と肩を両手で持ち上げながら穴からようやく出てきたかのように芽を地上にもたげた姿が春到来の目印のようだった。

こういう短歌を知らないでいるときは、クロッカスの芽吹きはクロッカスの芽吹きであるにすぎないのだけれど、知っていると、この歌に共感したココロがクロッカスを包み込んで、なんらかの意味をクロッカスに投影している自分に気がついてしまう。

僕がクロッカスを見つけたのではなく、クロッカスに僕が見つけられたのだという感覚がある。

クロッカスが咲いているのを見て、言葉にして「クロッカスが咲きました」と心のなかで唱えた時に出来上がった、花が咲いたという春の高揚した気分が「クロッカスが咲きました」という言葉に取り付いた言霊となってしまった以上、それは、どこかへ送り届けなければならない。

ところで、この歌の作者は誰に手紙を書きたくなったんでせうね?

「ふいに」っていうから、恋人とかいう熱い関係の人ではないでしょうね。

遠くに引っ越して最近音信が途絶えがちの親友とか、少しだけ好意を持っていることにふと今手紙を書きたいなと初めて気がついた異性なのかしらん。

クロッカスが咲くというのは春の始めの淡い季節であるから、ジャンパーのチャックを少し開いて散歩するような開かれた感じがとても良く出ているよね。

また、電話でもメールでもなくて手紙というところもいいね。改まった距離感があって。

まだまだ風は冷たいのだけれど、走りながら取り入れる空気の中に鼻孔を微かになめらかに濡らす湿気が感じられる。僕が体感する春の感覚とはこういうものだ。

けれども、体は、冬にまだまだ武装解除しておらず、走り始めてすぐに、全腓骨筋が固まり、次いで、脹脛が張ってしまって、体が重いのなんの。久しぶりのダメダメの走り。

体の動きは精密で、ちょっとした狂いで、修復ができないほど動きが乱れてしまう。

昨日は軽快に走れたのが、翌日にはこのありまさだ。

今の日本の状況のようにちぐはぐな体を持て余して、走っては歩き、歩いては走って、小一時間の運動にもならないジョギングをしてきたのでありました。

まあ、こういう日もあるだろう。

明日はきっと軽快に走れるさ。

posted by ロビオ at 10:48| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月22日

蔵で麹菌採集とはこれ如何に?

午前中は、ロードを30キロ走って、午後は借りてきたDVDで映画鑑賞しようと思っていたら、所沢の知り合いのファームで行われる味噌作りのワークショップのスタッフの数に入れられていたことが判明して、急遽、車を飛ばして出かけていく。

妻だけがスタッフに勘定されていたと思ったら、夫婦で入っていたというわけ。

味噌作り・・・簡単である、ちょっとした事前準備の手間はかかるけれど。

けれども、一人では味噌作りに不安を覚える人も多いらしく、30名ほどの参加者である。

味噌の素材である大豆、それに、麹を付着させる玄米も、この農園で無農薬無化学肥料で作られたもので、さらに、その玄米に麹菌を吹き付けて、米麹も自前のもので、味噌作りをするので、なんとも贅沢な味噌なのである。

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大豆は、煮るのより蒸すほうが味がいいね。しかし、大豆と麹を混ぜ込んだ時に調整する大豆の煮汁が蒸かした時にはでないから、悩むところではある。

というわけで、今日の味噌のワークショップでは、大豆を蒸かしたのと煮たのとを半々にして混ぜて作ったのでありました。

日本の麹食文化は素晴らしい。

日本酒、酢、味醂、醤油、味噌。日本食の中枢部分を占める調味料の殆どは麹から出来上がる。

麹とはカビの一種であるのだけれど、じゃあ、どこに存在するのかといえば、そこら中に存在するのだから、これまた素晴らしい。

僕も、先日、市販の麹菌の粉を蒸かしたうるち米に混ぜ込み、ヨーグルトメーカーで麹米を作ることに成功し、今、そいつは、黒酢になるべく酢酸菌を吸収しながら玄関の隅で順調に育っている。

市販の麹のたね菌を振りかけて麹米を作るのは、手間ひまかければ、誰でもできることなのだが、世の中には変わった人がいて、そこら中の空気中にさまよっている菌を採取培養して、麹をつくる輩もいて、これは、実に素晴らしいことなのではないかと感心したので、僕も作ってみようと思ってしまった。

椎木に椎茸の胞子が入っている栓を打ち込んで椎茸をつくるのではなく、椎木を椎茸の菌が舞ってそうな場所に置いて自然に椎茸を育てようというような・・・といったらわかりやすいだろうか。

ものの本によると、蒸かしたご飯を竹のザルにいれて、そこら辺においておくのだそうで、うまく行けば、麹菌の白カビが生えるのだそうだ。

そして、その麹菌が生息し繁茂しやすい場所は、木や土で出来た昔ながらの古民家などがいいらしい。

あの湿ったカビ臭いような醤油や味噌の臭いの染み込んでいるようなウエットな日本家屋の香りですよ。

わが家も木と漆喰だけで出来ている家だから、たぶんたくさん麹菌が飛び交っているような気がするが、古民家と書いてあるのを見てピンときたね。

妻の実家の蔵ですよ。湿った香りのするやや重ったるいとろみの付いた空気感がなんとも、麹菌が潜んでいる感じがするじゃないの。

というわけで、近日、麹を培養する作業をする予定。

う〜ん、ディープな趣味だこと。

好きなことやっていると知らぬ間に自分一人が高みに立っていた・・・そんな気がする。

そんな、本当の天然の麹でパンを作ったら、これまた、オリジナルなパンが出来ることでしょうよ。

高みを目指して頑張るのだね。頂上は、すぐそこまで見えている、今が一番傾斜のきつい辛いところ・・・てなもんで。

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2016年02月20日

雨の降らぬ間に

雨の降らぬ間に毎週恒例のトレイルを走ってきた。
春めいてきたのか、ジョウビタキ、ホオジロ、キクイタダキ、シジュウカラ、メジロなどのお馴染みさんとご挨拶。
シングルトレイルでは、今日も、イタチが横切った。
先週は、目の前にいたヤマバトに何かが乗しかかったと思ったら、小型の猛禽類で、引きずりながら見えないところまで引きずっていった。
かなりワイルドな世界にいるのだな。
久しぶりに裸足系のMERRELLのシューズを履く。軽さは命。この裸足系シューズの軽さというのは、他に替えられないものがある。
走り方には、二通りあって、着地の瞬間に膝が曲がって、ショックを吸収して、地面を押した反動で体を前に進めるのと、着地の瞬間に体を伸ばすようにして膝を曲げずに骨盤で乗り越えるような走り方がある。
そんな走り方を本で読んだりすると試さずにはいられない。
今日は、後者で練習する。
毎週末のこのトレイルランでは、平地では、キロ5キロ以上のスピードで、心拍数は160を下回らないように調整して走っている。
リディア−ドの「鍛えよ、しかし、無理はするな」ということの実践だ。
だから、結構辛い。辛いから、楽な走り方はないのか色々試すのだ。
ランナーは皆、速く楽に走れる走り方を探し求めているのだが、速く走れる走り方というのは、速く走れる間だけ有効だということは真実であるということ結論としてを書いておこう。
走り終えて、雨にも降られず、うん、楽しい2時間だった。
2時間というのが、集中できる運動時間の最長ではないだろうか?
そのうち、8時間以上の運動も加えていくつもりだけれど、今は、こんなところで、十分満足している。
家について、シャワーを浴びたら、猛烈な空腹感が。
何を食べようか?
小島農園さんからいただいた自家製の納豆があるじゃないの。これに決めた。久しぶりの白米にこれは合うはずだね。
デザートには、自家製の豆乳ヨーグルトに、妻が昨日作った八朔だの夏みかんだのネーブルだのレモンだのの皮で作ったMarmaladeを載せて食べよう。
最高の贅沢だなあ。トレイルランとその後の昼食。
炊飯器は今湯気を吹き出して白米をタイている所。早くご飯できないかなあ。
写真は、そのMarmalade。
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posted by ロビオ at 11:26| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする