2017年07月04日

雑草が猛威

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無農薬で長年稲作りをしている田んぼには、びっしりとコナギの葉が水面出でてきている。先週は、水面下だったのに!

4時30分頃は、もう既に暗くなっている。ちょっと前にはまだ明るかったのにね。これから、どんどん朝日の出が遅くなる。

お隣の農薬を使っている田んぼは、ほとんど雑草が生えていない。

雑草が生えないのなら、こんなに楽な仕事もないだろう。

しかし、自分の食べるもの、農薬なしでやりたい。

自然との直接的に繋がる生活は、体を心を元気にさせてくれる。

農業や教育や政治を効率性の面から考えてはいけない。

それは、時間をかけて、無駄な知識だと思えるものを吸収し、そうして得た知識を様々なものと結びつけて、人生を豊かにするものでなければならないのだ。

手間ひまをかけた無農薬の野菜と、大量の農薬を使った野菜とで、味に違いはないかもしれない。

しかし、ガンディーの言うように、「善いものはカタツムリのような速さでやってくる。」

その手間隙をかけた時間の中で得られた経験、知識は、必ず、自分のものになって有益なものとしてゆっくりと還元されるはずである。

結果の問題ではないのだ。その過程に、人生のアイデアが沢山詰まっているのである。

結果だけを求めて短絡すれば、多くの過程をないがしろにする。そこに、大きな智恵があるものなのに。

しかし、雑草取りは重労働だ(が、楽しい)。

前世で撒いた種を現世で刈り取るという比喩があるけれど、まさしく、前年に撒き散らかされたコナギの種が猛威を振るって発芽している。

しかしながら、人類の文明のもっとも進んだ携帯としての稲・・・人間が過去数万年か、それ以上、品種改良を加え続けて、現在の奇形の稲ができあがったわけであるが、その稲も元気に育っておる。

人間の文明と自然がここで激しく生存競争をしているわけで、諸君!、我々は、人類を代表して、その文明の灯を絶やさないように、自然と闘っているのである!

 

(これは、名著。)

土日にまとめて長時間すれば、いずれ嫌になってしまって、無農薬の米をお金を出して買うようになった方がいいんじゃないの?なんて気もおきかねない。

そこで、早朝日の出と共に、田んぼで、小一時間を雑草取りにあてている。

これなら、嫌になるほどの労働ではないのでな。

今朝は、二日に1度焼いているパンを焼く日に当たっていたので、30分だけザクザクと鎌で雑草を刈ってきた。

裸足で、泥の中に入れば、足を土で包囲された感覚が楽しい。

30分でできる仕事量は、10平方メートルくらいだろうか?

二人で、20平方メートル。

一反が330平方メートルで、全体が600平方メートルくらい?あるから、やってもやっても終わらない感じ。

カルマヨーガ的に言えば、行為のために行為をすることが大切で、自己のカルマを刈り取るように、雑草の種を刈り取るのだ。

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2017年06月29日

雑草取り

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今朝も、日の出と同時に田んぼの雑草取り。

この雑草は何でしょうか?

昨年、芝生のように水面を覆っていたコナギではなさそう。

調べてみたら、コナギの五葉期の姿であるようです。

鎌で根っこから切り落とすのは簡単なのだが、一度鎌を引くと水が濁って、手元の視界がまったくわからなくなるので、的確には除去できない状況だ。

水面から少しでも出ている土のところは、根っこを張った雑草がビッシリと。

なかなか大変である。

雑草を取って、ふと目を上げると、まだまだ雑草取りをしなければならない広大な田んぼが遠くの方まで見えてくる。

藻が生えているところは、たしかに、雑草は少ない。

美しいとは言えないけれど(ヘドロみたいで)、稲の生育にとってはどうなのか?

稲とアオミドロがうまく共生できれば言うことないのだが・・・

ブヨに体液を舐め舐めされてあゝ痒し。

小一時間で今日は終了。毎日少しずつコツコツと。

しかし、全然終りが見えないし、このペースだと雑草の成長に負けてしまいそう。

農作業の後の朝飯がうまい!

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2017年06月28日

『満潮の時刻』 遠藤周作著

遠藤周作の『満潮の時刻』を読んだ。

先週見た映画『沈黙』の原作を見る前に2度読んだ。

実に優れた小説だと思った。遠藤周作以外に作ることのできない小説だと思った。

遠藤周作の描く基督は、汎神的で、人格的なものではなく、偏在する優しいまなざしのような存在であるかのようだ。

まさに、当初この小説につけようと思っていた題「日向の匂い」というべき、そういう存在。

『沈黙』という小説は、神の沈黙を描いたもので、どうして神は信者が危機に陥っているのに奇跡を起こさないのだという疑問がテーマだと思われている。しかし、実際は、神は、微細な世界からすべての者に語りかけており、奇跡は、苦境に晒された司祭の心のなかで起こったのであり、森羅万象が語りかけるその声を聴くことのできるものに起こりうるものなのだ。

これが、この小説のテーマでしょう。

この『満潮の時刻』という小説は、『沈黙』と同時期に並行されて執筆されたもので、同じテーマを違うアングルから書かれており、両者を読むとよりこれらの小説の理解がより深まるようだ。

遠藤周作は、文壇にデビューし、さあこれからというときに、結核が再発し、3度の命を削るような手術を経て、生還した。

この小説は、3度の結核のための肺の摘出手術のため、入院から退院までの2年を描いたもので、主人公の明石は、遠藤周作自身だと考えて良く、半私小説的なものになっている。

病室という世界から隔離された場所での生活で、人生というものを考える。

その病室という場で、ある人は死に、ある人は快癒して退院していく。

古来、傑作は、病室で生まれた。

梶井基次郎、志賀直哉の『城の崎にて」とか。

戦争からも生まれるだろう。

『野火』とか『ビルマの竪琴』とか『笹まくら』とか『桜島』とか

生活という喧騒に囲まれていると、人生について考えることはとても難しい。

しかしながら、永遠や無限なものを考えるということは人間の性であって、条件でもある。でなけれが、知性や理性が人に与えられたはずがない。

そう考えると、生活の喧騒を離れた時、あるいは、否応もなく自分が生きるか死ぬかの状況に追い込まれたときに、人は、その特質を十二分に発揮して、人生を深く考え始めるのである。

人生について考える時、その素材は今まで自分が経験してきたものを基礎とするしかない。生活にかまけて、人生の実相を貫く眼差しがかけて入るものの、経験はすべて人に何か大切なものを語りかけているのだ。

快癒するのかしないのか、そうした不安の中で、妻が買ってきてくれた九官鳥の哀しそうに見開かれた目を病室で見ていたら、少年時代に遭遇した自殺した主人の周りで前足に顎をじっと乗せたまま主人を見上げている犬の目を思い出した。そして、この目の哀しさはどこかで見たことがあると記憶を辿っていくと、かつて長崎で見た銅板でできた哀しい目をした基督の踏絵を思い出したのだった。

この小説は、この3つの目の哀しさに共通するものとは何か?、それを探し求めて、それの意味を獲得するまでの過程が描かれているのである。

俺は一寸だけこの生活の騒音のする外界に出た。するとどうだ。もう樹は単に一本の木にしか見えず、果物屋はたんに一軒の果物屋にしか見えなくなった。自分の目はこんなに弱い。それは、生活の騒音によってすぐ曇り、その汚れですぐ覆われてしまうのだ。俺の目は今、あの九官鳥の目から遥かに遠くにある。林の縁でじっとうずくまっていた犬の目ではなくなってしまった。

逆に言うと、病室という隔離された場所に閉じ込められたからこそ、こうした貴重なものを手に入れる為の手がかりを掴んだとも言える。経験は、饒舌に人生について語りかけているのだと。

人生に無駄なものは何一つない。その経験した一つ一つが高みに登るための足がかりとなるのだと。

印度哲学風に言うと、自分の本体であるプルシャに、自分の本性がそれであるということを理解させるために、自然であるプラクリティが様々にプルシャに働きかけるという風に。

退院して、検査のため、元の自分が2年間を暮らした病室に行ってみると、部屋の大きさや天井の高さが思っていたよりも随分と違う違和感を明石は覚えた。そして、屋上に登り外界を眺める。

明石はそれらを俯瞰している自分の目にあの九官鳥の眼差しを重ね合わした。九官鳥の眼差しにあの踏絵の基督の目を重ね合わした。そして今、彼の病院生活という経験の円環がやっと閉じようとするのを感じた・・・。

この現実的な世界とは別に、霊的な世界というものがあって、そこは微細な世界でなかなか人の目で見ることはできないし感じることはできない。しかし、現実的な世界の裂け目からそういう世界が溢れ出しているということに気づく人もいるだろう。それが、九官鳥の目や踏絵の基督の眼差しから垣間見ることができて、しかも、それが、自分の心の中にも存在するのだということを実感として感じ取ったということなのだろうか。

ところで、この小説には、退院して自宅まで帰る道すがら、渋谷の駅で上映中の『沈黙』という映画についての記載がある。もちろん、イングマル・ベルイマン監督の名作で、これも神の沈黙を描いた作品。幼少の頃見て、衝撃的な理知的な女性のオナニーシーンだったことだけは覚えているのだが。

遠藤周作の『沈黙』という小説は、この映画に触発されて書かれたことは間違いなさそうである。映画で描かれた「神の沈黙」に対して、いや、神は森羅万象を通じてあなたに語りかけているのだというアンチテーマとして。

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2017年06月26日

沈黙−サイレンス−

マーチン・スコセッシ監督の『沈黙ーサイレンスー』を飯田橋ギンレイホールで観てきた。

冒頭、真っ暗の画面に、川の流れや蝉の声が鳴り響いて、突然に音がなくなります。そして、Silenceという映画の題名が・・・。

日本人なら、芭蕉の名句

閑さや岩にしみ入る蝉の声 芭蕉

というのを思い起こさせる仕掛けであると思った。

ちなみに、この芭蕉の名句の英語訳を調べてみると、

Deep silence, the shrill of cicadas, seeps into rocks

となっている。

ほう、そうくるか!と冒頭から感心しましたが。

遠藤周作原作の『沈黙』というタイトルは、「神の沈黙」ではなく、「神は沈黙しているのではない、語っている」という「沈黙の声」の意味を込めたの「沈黙」だったとエッセイで語っているそうである(『沈黙』の同年に連載された『満潮の時刻』の文庫本の解説より)。

キリシタンの村人たちを救うために司祭が踏絵に足をおいた時、神は語りかける。

踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番良く知っている、踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつために十字架を背負ったのだ。

その時、司祭に何が起こったのかと言えば、

その時彼は踏絵に血と埃とで汚れた足をおろした。五本の足指は愛するものの顔の真上を覆った。この激しい悦びと感情とをキチジローに説明することはできなかった。

と、原作には書いてある。

逆説的にだが、踏絵を踏むという教会から見たら棄教とみなされる行為を行うことによって、神の本質を掴んだことになるのだろうか。

聖職者として教会から破門されている主人公は、キチジローに告解の秘蹟をおこなう。

聖職者たちはこの冒涜の行為を激しく責めるだろうが、自分は彼らを裏切ってもあの人を裏切ってはいない。今までとはもっと違った形であの人を愛している。

と確信犯的でさえある。

映画では、キチジローの裏切りにより、官に捕まる前に、川面に映る自分の顔がキリストに見えたり、上記の「踏むがいい・・」のナレーションが入る。

決して神は「沈黙」しているわけではない。

となると、ますます、この棄教した司祭は、神を愛しているはずなのに、何度でも、踏絵を踏み、自分がキリスト教徒ではないことを証明し、かつ、幕府のためにキリスト教関連の禁制品をチェックするための仕事に従事していたりする。

このあたり、神を愛していさえすれば、形式的なものなの無視してかまわないという信念に基づいているのだろうと思うのだけれど、神が常に自分とともにあるという確信があるからこそなのであろう。

「閑さや岩にしみ入る蝉の声」

芭蕉は、やかましく鳴く蝉しぐれのその彼方に、永遠に繋がる静かさを聞いたのだと思う。

沈黙の音は、誰でも聞くことの出来る音ではなく、耳を澄ますもののみに聞こえてくるものなのだ。それは、私達の心の奥底に潜んでいる。

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2017年06月23日

今期2度目の雑草取り

ヨーガ、インド哲学、トレイルラン、サンスクリット語、インド料理・・・くらいが今、力を入れてやっていること。

それぞれ、同時並行的に、少しずつ前に進んでいる気がしますが、さらに、もう一つ、田んぼの雑草取り!が加わって、大忙しではあるのです。

昨年は、雑草取りをあまりせずに放置したところ、収穫量ががた落ち。残念な結果と相成ったのでありました。

今年は、まずは、しっかりと雑草取り。

無農薬の田んぼには、藻が張り、オタマジャクシが泳ぎ回り、タニシがあちこちで藻を食べている。

素晴らしいのですが、雑草も、ものすごい勢いで伸びている。

そういうわけで、早朝、出勤前の1時間を、農作業にあてることにした。

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だあれも、助けちゃくれないので、ひたすら雑草取り。

ヨガのおかげで、体が柔らかくなったか、変な腰のこわばりや筋肉痛も減ってきたような。

それにしても、まだまだ、水面下に双葉状態のヒエとかがたくさん蔓延っておる。

妻と二人で、小一時間。

全体の数パーセント程度が終了。

ほとんどが手つかずで、これから先が思いやられる。

ところで、藻(調べたところ アミミドロというやつらしい)がずいぶんと田んぼに生育していて、その拡大の範囲はぐんぐん増えている。

見た目汚いし、日光を遮って、水温を上げないのが、稲の分蘖を阻害するなどの理由で、農薬で駆除する対象にもなっているという。

しかしながら、いろいろな微生物を成育させる環境を提供してくれているような気がするし、タニシは喜ぶだろうし、水に酸素を溶け込ませて、いろいろな酵素を分解してくれるかもしれない。

また、藻に覆われれば、今年の田んぼの敵となるであろうコナギもその葉を水の外に出すことはできないかもしれない。

稲の生育にとって、この藻は、吉とでるか凶と出るか?

しばらく、様子を見守りたいと思う。

人手だけでは、とうてい追いつきそうもない雑草取りですが、自然の力を借りながら、秋の収穫を楽しみにするとしましょう。

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2017年06月19日

スモーク 、イン ザ スープ 、マギーズプラン、 はじまりへの旅

『スモーク』という映画は、大昔にヴィデオで見て、とてもいい印象を持っていた。

ハーヴェイ・カイテル、ウイリアム・ハートは、その頃飛ぶ鳥を落とす勢いだったし、なんといっても、製作、脚本がポール・オースター。見ない手はない。

というわけで、早稲田松竹で鑑賞。

1度目に見たときのほうがよかったのは、何故かしらん。

ウィリアム・ハートは、銀行強盗に妊娠中の妻を亡くしてしまう。

ハーヴェイ・カイテルは、かつての女に子供がいたことを知る。

ウィリアム・ハートは、車に轢かれるところを危うく助けてもらった黒人の男の子と共同生活を始めるが、その男の子は、蒸発した父親を探している。

三者の親子関係が縦の軸で、この三者が横の線。この関係性が物語を動かす。

少年は、ウィリアム・ハートの命を助け、ウィリアム・ハートは、少年を友人であるハーヴェイ・カイテルのところで働くように斡旋し、少年の失敗により、ハーヴェイ・カイテルが禁制品の葉巻の儲けを台無しにされたのを、少年が犯罪から得た金で償い、その金で、かつての女と娘を助け、ハーヴェイとウイリアム・ハートは、少年と父親との関係回復を手助けし、ハーヴェイは、書けなかった作家であるウイリアム・ハートにとっておきのクリスマスの話のネタをプレゼントする。

この三者がそれぞれに、プレゼントを与えっこをして、話が終わるという文学的な作品である。

ま、こんな心温まる話が、ニューヨークにあるはずはない。しかし、ありそうだと思わせるのが、上手な嘘。

最後の、ハーヴェイ・カイテルの「作り話」は、ポール・オースターの小説の作法に通じるのかもしれない。

併映は、スティーブ・ブシェミ主演の『イン・ザ・スープ』。

印度哲学の勉強会の合間に見たのと、朝、10キロトレイルを走ったので、最初の20分位完全に寝てしまった・・・

ジェニファー・ビールスいいですね。笑うと犬歯あたりの歯茎も見えて、笑ったチワワみたいに思えました。

とても、綺麗なのですが。

翌日は、ギンレイホールで、『マギーズ・プラン 幸せのあとしまつ』と『はじまりへの旅』の日本。

早朝、田で雑草取りをやった跡で映画を見たので、『マギーズプラン』の方は、ちょっと集中力が続かない感じで、見ておりました。

イーサン・ホークの出る映画で、面白かったのは・・・『ガタカ』くらい、あと、『今を生きる』はいい映画だった、あのシェークスピア劇やる少年が嫌だったけれど、それに出ていた?ということで、調べてみたら、ああ、あの、「オーキャプテン」とリンカーンのことを詠んだホイットマンの詩を口ずさみながら最初に勉強机の上に土足で立ち上がる少年だったのか。。。。

この間見た、『ブルーに生まれついて』も、イマイチな気がしたので。

『ジュリアン・ムーア』も嫌いな女優ではないけれど、年を取ったか腰が落ちちゃって、歩く姿がおばあさんっぽかったかな。

というわけで、特別な感慨なし。

子供が欲しいだけで、結婚生活はいらない、という女の人は多いのだろうか?

複雑そうな三角関係ではあるのだが、主人公は、

 

 

『はじまりへの旅』は、文明を否定し、山の中で野生動物の猟をしながら暮らしている元ヒッピーの家族の話。

最初は、これは、やりすぎだよ・・・と、この家族に距離を置き始めて、いわゆる物質的なものを楽しみ、隣の人がやるようなことを自分もすることを推奨されるような社会に埋没していく生活の倫理というものがいいのではないかと思わせるあたりが、監督のうまい所で、そこからのどんでん返しが、胸のつかえを一気に吹き飛ばしてくれるいい映画ではありました。

一家の家長として、父権的な独裁者を演じていた父が、自分の非を認め、息子たちの人格を認めたときに、取り巻く世界が変わっていく。子どもたちも父親をリーダーとしてではなく、傷つく同じ家族の一員であると認めながら。

父は、髭をそり、息子は長髪を切る。

子は、父親を超え、父親は、子にすべてを信頼して彼らの未来を託す。

ラスト、この親子は、ヒッピー生活を行っているものの、山の中の狩猟生活ではなく、どうやら、農業のような生活を始めている模様。角々しい生活が丸くなって、穏やかに子どもたちも父親もなっているのが良かったですね。

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2017年06月15日

カルマ・ヨーガ

国民の代表が、国民の不利益になることばかりを決めている。

国会が政府の悪事を隠す手助けをしている。

また、その政府を国民が支持していると言う。国民が支持している限り、この地獄は続く。

いつかかならずこのツケを、国民は、払うことになるのだろう。

いい気味だといいたいところだが、私もその国民であるので、そのツケを払わないといけない。困ったことである。

立憲主義も民主主義も根付かないこの極東の地、日本。

最初から、この国に民主主義などなかったのかもしれない。

ところで、ヴィヴェカーナンダによれば、この世の善と悪はコインの裏表のように分離不可能なものになっている。

悪がはびこれば、善もまたどこかには存在している。

同様に、悪を滅ぼすことはできない。善も滅ぼすことはできない。

そんな絶妙なバランスのうちに善と悪の量は均衡しているのである。

嫌なことがあれば、いいことだって必ず起こるだろう。

何が善で何が悪か、なんて、神様しかわからない。ただ、その目に見えぬ秤でもって世界は維持されている。

そんなふうに考えて、どこかで良いこともきっと起こりうるだとうと思いつつ、少なくても「自分さえ善ければ」とまず、自分が正しいと善いと思うことをやっていこう。

インド哲学を勉強していると、この世にカルマを残さない生き方、カルマヨーガというのがある。

インドの伝統的な修行者は、出家をして、行方不明になる必要がある。それを出家と言う。

しかし、そうでない人には、修行はできないかというとそうではなく、只ひたすらに、自分の仕事をその結果や報酬や影響を考えず、没頭するというもので、これをカルマ・ヨーガと言う。仕事と隙間なく一体化して、我を滅却して打ち込むのだ。そうすることによって、業というカルマを来世に残さない。

大変難しいことではあるのだけれど、これは、素晴らしいアイデアで、『バガヴァット・ギーター』を読んで、一番感銘したことでもある。

仕事で、つい、この仕事が自分に与える影響なんかを考える。失敗したら自分のプライドが傷つくなとか、報酬を目当てにいやいや仕事をしたり、仕事をして喜ばれたら嬉しく思ったり、喜ばれなかったら気分を害したり、普通の事をやっているのに、なんでここまで言われなければならないんだろうと思ったり。

そうしたことにがんじがらめになって、仕事が手につかないということも経験する。

そうではなくて、この仕事をこなすこと、行為の結果を考えずに仕事に没頭することが修行につながる道、幸せになるためのトレーニングなのだと考えれば、辛いインターバルトレーニングをするように、仕事に違った視点で勤しむことが可能になるのではないか?

たしかに、こうして仕事をすれば、報酬などのインセンティブを考えずに仕事をするので、妙なプレッシャーも考えずに集中力は増すし、仕事をしていて知らぬ間に誰もが到達できないような地点に知らぬ間に到達していたということも、きっとあるだろう。

そのうち、自分の仕事の上に、あぐらをかいて、悠々と過ごしている自分を想像してみる。仕事に巻き込まれていた自分が、仕事を自分に巻き込んでいるという風に、考えられなくもないではないか。

仕事を、自分の成長のための教材として使うこと。そこに、未練や後悔や傲慢や満足や達成感など、一切の積極的な感情や消極的な感情も何も残さないこと。

同じように、トレイルランニングでも、梅雨のぬかるんだ土に足跡を残さないような走り方が理想なのではないか。猫のように音を立てず、地面のゾウムシを足音で驚かさず、水の上をさえ走れるような、そんな走り方を目指している。

走って、大汗をかいて、シャワーを浴びて、自家製のパンと自家製の味噌から作ったスープ、豆乳ヨーグルトを食べれば、少しは気分も良くなった。

この世界は、自分の修業の場であると。この世界のすべての出来事は、この訓練のために提出された課題である。そんなふうに考えて、修行していこう。

実生活も、トレイルも、幸せになるためのトレーニングなのである。

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2017年06月13日

ネオン・デーモン 他1本 早稲田松竹

毎週のように早稲田松竹へ行っている。

今週は、「ネオン・デーモン」と「五日物語 ―3つの王国と3人の女―」という映画を見てきた。

昨年の12月に、僕に何が起こったか忘れたが、とにかく、今まで、週末は近所の野山で走り回った犬のような生活をしていたのだけれど、それを改め、土日は都会に出て、映画、美術館、博物館に行くことに決めたのだった。

それに、溜まった仕事をこなす為にも都心にでる必要もあり、朝と夜にインド哲学の勉強会に出席しているので、野山を走り続ける訳にはいかないのだ。

というわけで、野山を走るトレイルランは、早朝1時間から1時間30分くらい近所の里山を周回している。

久しぶりに1時間30分を、心拍数を上げながら走ったら、立ちくらみがしたので、長い間眠っていた心拍計を胸に巻いて、マフェトン心拍域(最大130)で運動量を制限しながら走ることにした。

ヨーガをやり始めて、手のひらに棒を垂直に置いたように、骨盤に背骨が垂直に乗っかっているような安定感を感じるし、ハムストリングスの異常な固さも、ずいぶんと柔らかくなり、全体的にゆらゆらと体が全体で衝撃を吸収しているような耐震構造の体になったかのように思える。

バンダを加えたナーディ・ショーダナという呼吸法も、肺を広げてくれているみたいで、呼吸するのが楽になっているのかもしれない。

ヨーガとトレイルランは仲良しさんなのである。

食べ物も、ビーガン風に戻した。

寝る前にヨーガは1時間欠かさず。

何事にも限度を見極めず、やり過ぎてしまう欠点があるので、やや抑制しながら、心身の健康面を考慮して、一人で毎日旅立っているわけだ。

さて、映画の話だが、先日、ヨーガ教室の初心者用クラスで学んだことは、我々の悟りに至る道を塞ぐ「6つの敵(シャダー リプ)」についてだった。我々は、これらの感情に支配されないように注意深く自分の内面を考察しないといけない。不幸になるから。

その1 カーマ(欲情)

その2 クローダ(怒り)

その3 ローバ(貪欲)

その4 モーハ(執着)

その5 マダ(傲慢)

その6 マッチャリア(嫉妬)

である。

この日見た映画、たとえば、「ネオン・デーモン」は、まさに、これらの要素で分析すると、こじんまりとしたなんでもない話になってしまう。

というか、ほとんどすべての映画をこの6つの視点からみると、とても話の内容が整理されてしまうのがわかるだろうと思う。

ことほどさように、この6つの感情は、誰でもが共有している、いわば人間性の証明とも言うべきもので、これらの要素が交わって、ドラマが生じ、これらを克服したところに到着点を置く映画や小説は掃いて捨てるほどあるだろう。

これら6つの「敵」が生まれるその根本は、無知にあるのだけれど、その無知から生じた欲望から生じている。

また、これらの6つの感情は、私たちの行動を起こすエンジンのガソリンにもなるので、一概に悪いとは言えないのだろうが、こうした感情はない方がずっといい、という地点に私はあこがれる。

「ネオン・デーモン」という映画では、その5のマダとその6のマッチャリアつまり、傲慢と嫉妬が物語の通奏低音として響いている。モデルとして、とんとん拍子に出世する主人公が他の者に有する優越感。そこから生じる傲慢。

主人公のモデルとしての容姿、才能に対する劣等感。そこから生じる嫉妬。

劣等感や優越感が生じるのは、人と自分が異なる存在であると認識しているからこそ生じる感情で、

 

この二つの感情が物語を動かしているのが、よくわかる。

誰にも共感できる人物が生じないようにわざと作られている映画ではあるが、こちらに馴染みのあるこの二つの感情が物語を安定させ、理解させる道具として使われている。

という風に、インド哲学を学ぶと、映画を理解する着眼点ができるし、嫉妬や傲慢に対する深い理解ができているから、話を掘り下げることもできるのが、とても面白い。

週に2本から4本、映画館で映画を見れば、つまらない映画にも出くわすのだけれど、インド哲学で学んだものを、現実の社会にあてはめ、理解するための勉強として考えると、つまらない映画もいい素材になってくる。

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2017年06月10日

トレラン 本格的に再開!?

1959年2月3日。飛行機事故で、バディ・ホリーとリッチー・ヴァレンスが死んだ。

その日のことに触れたドン・マクリーンの『アメリカンパイ』という曲で、その日を「音楽が死んだ日」と歌っている。僕はまだ生まれていなかったけれど、iPod shuffleでこの歌を聞きながら山を走れば、偉大なるロックンローラーが死んでしまったその日のことを追体験できるような気がする。

音楽が死んだ日。

可哀想なウェイロン・ジェニングス。同じクリケットの一員としてバディ・ホリーと道中をともにしていたのだが、この日、バスで移動することになった。バディ・ホリーに、「バスでのろのろついてこい」とからかわれて、冗談で返した言葉「飛行機で墜落しちゃえ」。この会話にその後苦しめられることになってしまった。

ヨガスートラでは、「正直」の行を行うと、言ったことが実現すると言う。きっと、ウェイロン・ジェニングスは、正直者だったのだろう。

ジョージ・ルーカスの『アメリカン・グラフィティ』でも、「バディ・ホリーが死んでロックンロールは終わった」なんていうセリフがあったけ。

どっちが先かと言えば、アメリカンパイが1971年、アメリカン・グラフィティが1973年だから、ジョージ・ルーカスが引用したことになるのか。

まあ、とにかく、早朝のトレイルランが出来るお陰で、こうした機会でないと(ジョギングということだが)古い懐メロロックは聞かないから、貴重な音楽鑑賞時間となります。

先日、10キロばかり、スイスイと力を込めて走ったのはいいものの、脱水症なのか、頭が酷く痛くなり、1日を苦痛で過ごしたから、今日から、ちゃんと心拍計をつけて、マフェトン心拍域(130)以上上がったら歩くように、アラームをセットして慎重に走ったのでした。ボトルも片手に手放せません。

走る前日の夜は、iPod shuffleにどんな曲を入れようかしらんと、アイチューンを弄って、曲を入れるのに、30分は費やしているのだが、これがやめられない。

もう耳にタコが出来るほど聞いたと思えるロッド・スチュワートの「マギーメイ」なんて、普通は入れないのだけれど、今朝これ聞いたら、感動した。ロン・ウッドでしょうか、ベースは。ザ・バンドの「ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク」みたいに、わざとしょぼいスタジオで録音している風が素敵でした。

サムアンドデイブの「ソウル・マン」は、ブッカーTとMGsの演奏に痺れ、足をXに交差させて踊りながら走るしあわせよ。早朝だから人がいないから走り、かつ踊れる。楽しい。

ときに、この間見たゴダールの映画『離ればなれに』の中のマジソンダンスを取り入れたりして。

とにかく、懐メロロックを聞きながら走るのは楽しい。それも、マフェトン心拍域で歌が歌えるくらいの低出力で走るのがとても、心地よいのでありました。

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2017年06月09日

村上春樹訳の『フラニーとズーイ』

サリンジャーの村上春樹訳の『フラニーとズーイ』を読んでみた(野崎孝訳は『フラニーとゾーイ』)

そしたら、シャンカラ、ラーマクリシュナやら、バガヴァッド・ギーターとか印度哲学のスター選手、聖典の名が現れてきて、こういう小説だったんだと、思いを新たにした次第でありました。

高校時代に、『ライ麦畑でつかまえて』に感動して、次に読んだのがこの本だったはず。少なくとも、印度哲学の基礎がわからないと、内容を把捉することが難しいような気がするので、10代でこれを読んだときには、この内容について何もわからなかっただろうと、今になって思う。退屈して、全部読み終えなかったような気もする。

この本は、フラニーとズーイという二つの中編が合わさった長編小説ではあるのだが、この中で、ズーイの部分がやや難解で、それは、このグラス家の思想の拠り所が、通常人とはかなり違っており、この違った地平から放たれる言葉であるからだと推察する。

とはいうものの、魅力的なグラース家の兄弟の登場がなにやら嬉しくなってしまう。

『ナイン・ストーリーズ』というサリンジャーの短編集の中で、『バナナフィッシュにうってつけの日』でこみかみを撃ち抜いて自殺した長兄シーモアは、ここでも、大きな役割を果たしている。『コネティカットのひょこひょこおじさん』には双子の兄弟。『バディ』っていうのがあったっけ、それは、次兄バディの幼少期の話。グラース家の面々がこの短編でも活躍中。その他、『シーモア序章』とか『ハプワース16,1924』という作品でも、グラース家の記録が永遠保管されている。

なんだか、さっぱり的を得ない感じで、『ライ麦』以外を読み飛ばしたが、イン哲を学んだ後だと、また違った趣が出て、今月は、サリンジャー全部読んでしまおうと思う。

この『フラニーとゾーイ』の中で、印度哲学の学習者にとっては、あっ、これは、バガヴァット・ギーターの「カルマ・ヨーガ」のことだよね!、これって、平等のヨーガだよね、とか、インド哲学を齧っている人には、一見謎めいたゾーイの言葉の深い意味がわかったりするので楽しい。

サリンジャーは、東洋思想に傾倒していったらしいけれど、その中で、印度哲学のアイデアを、グラース家の面々に当てはめて、小説というファンタジーの世界を作り上げたと言っていいのではないか。僕も時々、印度哲学のことを夢想すると、あんなこともこんなことも、みんなつながっているんだよね、と、不思議に心が高揚することがある。

印度哲学が説く真実というものは、我々が真実だと思っていることの正反対であって、こうしたことを話しても、その意味内容は普通は通じないわけで、周りを見れば、人生の真実に気づいていない俗物ばっかと、グレてしまうフラニーの気持ちは少しは分かる。

例によって線を引きながら本を読んでいたら、至る所に線が引かれているので、この本は、現在の自分にとって、かなり重要な小説なのだなと思う。

最後の大団円に向かって、ゾーイとフラニーが突き進む最後の数ページは手に汗握る感じがある。

自殺したシーモアの残した「太ったオバサンのために靴を磨く事」って、深く考えると、バクティ・ヨーガっていう感じがしないでもない。結局、太ったオバサンというのはキリストだったり、クリシュナだったりする。一見無意味なことかもしれないが、こうした小さな自意識を超えたサクリファイスが、究極のところ彼岸に至る道なのかも。

こんな難しい会話をしているのに、最後は、パシッと話を決めてしまうところが、うまいなあ、読ませてしまうなあと感嘆したのでありました。

何十年前か読んだときは縁がなかったが、時を経て、僕にとっては大切な小説になった。
posted by ロビオ at 14:26| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする