2017年07月13日

入谷鬼子母神の朝顔市

入谷鬼子母神の朝顔市

印度哲学の勉強会。その途中で、入谷鬼子母神の朝顔市に出くわす。

IMG_20170708_182615_thumb

人がいっぱい。

入谷鬼子母神の境内に入るのは初めてだが、「恐れ入谷の鬼子母神」っていうほど人口に膾炙している場所にしては、ひどく狭いのですね。ちょこっと、お参りしました。

既に、朝顔は売り切れており、どの出店も棚だけ残っている状態。

にもかかわらず、他の屋台は明かりを煌々と照らして商売し、人手が途切れることがない。

ベンキョウ終えて、2時間後。夜の九時を過ぎてもすごい人出で、鶯谷駅まで歩くのが大いに時間がかかった。

祭りとか縁日とか人手が多いところは大の苦手。

今後は、こういうところを避けてあるきましょ。

それか、人の少ない早朝に、売り物の朝顔なんかを覗き込みながら歩くというのは乙なものかもしれませんが。

posted by ロビオ at 11:02| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月12日

映画『未来を花束にして』『わたしは、ダニエルブレイク』

「未来を花束にして」主演 キャリー・マリガン 監督:サラ・ガヴロン
「わたしは、ダニエル・ブレイク」主演 デイヴ・ジョーンズ 監督:ケン・ローチ

飯田橋ギンレイホールで上記の映画を観てきた。

『未来を花束にして』は、イギリスにおける女性の参政権獲得のための戦いについて、『わたしは、ダニエルブレイク』はイギリスにおける社会保障制度の欺瞞について描いた映画でした。

参政権は基本的人権です。が、この参政権が女性に与えられたのは、ごくごく最近のことです。

参政権が与えられない理由は、やはり差別以外の何物でもなく、当時の権力者が男社会であるため、男が社会の実権を握っているという既得権益を手放さなかったのがその理由でしょう。

人に人権を認めないということは、人間として認めないということです。

人間でないから、酷いことをしても心が痛みません。

それは、社会的通念となって、人を人として観ないということが平然と行われてしまいます。

主人公たちが、命をかけて婦人参政権を獲得しようとする運動を推進しているときに、大方の「婦人」たちは、彼女らの運動に無関心か、冷淡か、敵対している態度をとります。

社会の中に埋没してしまうと、目が曇ります。何が真実なのか見えてこないのです。

日本に女性の参政権が認められたのは、1945年。

新憲法でようやく認められました。

女性に、人権が認められてたかだか70年。

歴史は、前に進むだけではありません。後退することもあります。

主役は、『華麗なるギャツビー』で、ハイソでバカな女の代表のディジーを演ったキャリー・マリガン。あれじゃ、ギャッツビーが可愛そうだと思えるのほど適役だったので、この社会活動に身を捧げる役はどうかと思いましたが、実に決めの細かい演技で満足しました。

『わたしは、ダニエルブレイク』は、ケン・ローチ監督の社会告発の映画でした。

心臓発作のために、仕事をすることを医者に禁じられている主人公が、国家に社会保障制度による救済を求めたときに、国家が彼に仕向けた非道な手続きの告発です。

医者に仕事をすることを止められているのにかかわらず、役人が要求することは、3日以内に履歴書を書き、就職活動をした証拠を提出するというものでした。

人間の尊厳を国家権力が最も弱っている仕事のない律儀で真面目な大工の老人をいたぶり、窮地に追い込みます。

観ていてとても切ない映画でしたが、これが現実ならば、何のために国家を作ったのかわからなくなります。

かつて「ゆりかごから墓場まで」と標榜していた福祉国家イギリスの現在の姿がこうであるようです。

弱者は、好き好んで弱者になったのではなく、そうならざるを得ない事情が各人各様にあるはずです。

日本でも、わずか数%の社会保証制度の不正受給者のことを槍玉に挙げて、あたかもすべての社会保障の受給者が不正に受給していると誤認しているような風潮があるようです。

これは、弱者に対するルサンチマンなんでしょうか?

おれよりうまくやっているやつがいるぜ、という。

人が生活できないときに、そうした人に気前よく援助を与え、社会で生活できるように支援するような社会が望ましいのは言うまでもないのに、人は、想像力がなくなると硬直化して、自分もいつかそういう境遇に陥るということを忘れて、お山の天辺から、そういう制度を罵倒します。

社会保障を受けられず、二人の子供を育てなければならない母親は、生活をするために万引きします。そのガードマンに、娼婦の仕事を紹介されます。また、ボランティアで食料を与える場所に出向いたときに、この母親は、子どもたちに食事を与えることが精一杯で、あまりの空腹に耐えられず、その場で缶詰を空けて、素手で貪り食べてしまいます。恥ずかしさに耐えられなく泣き崩れるこの母親に、大丈夫、安心して、あなたは何も悪いわけではないんだと、主人公が慰めます。

困窮者になるのに誰もが悪くないのに、これを自己責任と呼ぶのは、なんと傲慢な意見なんだろうと思います。

この母親が、こういう状況になってしまったのは、ロンドンでの借家に雨漏りがしているのを大家に言ったところ、家から出されてしまったからです。たったこれだけの、本人に過失のない行為で、あっという間に、生活困窮者になってしまうのです。

主人公の大工は、心臓発作にかかったことです。

こうした人達を救済していくのは、国の大きな役目です。

国民の一人ひとりの生活を守らない国は、滅んでいきます。

なぜならば、国を維持していくのは、こうした国民の一人ひとりなのですから。

posted by ロビオ at 13:03| 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月11日

草むしりの後はトレイルラン

田圃での作業を終えて、家に帰って、親指の爪の間に詰まった田圃の泥をシャワーでほじくり取ったら、トレイルランに出掛けました。

足の裏の痛みが取れなくて、走っても安静にしていても、なかなか良くならないので、随分とペースを落とし気味に時々走っておるのですが、やはりね、トレイルランは楽しい。

なんで楽しいというのかというと、心拍数130以上には上げないので、ゆるゆるペースで走ること自体がまず楽しい。それに、大好きな懐メロロックや懐メロジャズや懐メロ歌謡曲なんかを聞きながら走るのが楽しい。トレイルで聞く懐メロは、目の前に広がる視覚を更に生々しく引き立てる優れたBGMにもなる。また、家では、ジャズやクラシックばかり聞いて、あまり懐メロロックを聞かないので、耳の訓練の一つとして。

7月の30度を超える日が続くようになったら、タンクトップじゃないとだめですね。

肩が風に当たるだけで、随分と体が冷えるみたい。本当は、上半身ハダカで走りたいのだけれど。

ところで、10年位前に買ったモンベルのタンクトップが一番マトモで、こればかり着てしまう。肩の部分が細くて、肩が外気に触れる部分が大きいのがいいのだけれど、最近のものは、Tシャツから袖の部分だけを切り取ったようなのが多くて、不格好だよね。肩が冷えるから涼しいんで、あれじゃタンクトップって感じじゃない。

パタゴニアのも、肩の部分が広くて駄目・・・と思ったら、今年の製品から、ほぼ理想的な形のタンクトップが発売されましたね。だけれど、高価ですね。これは、セール品にならないと買う気がおきません。

というわけで、いまあるモンベルのタンクトップを愛用し続けます。

800ccのボトルを片手にもって、iPod shuffleで音楽を聞きながら、心拍計で心拍数をモニターしながら走るというのがいつものスタイルですが、ローリング・ストーンズやらビーチボーイズやらドアーズやらポリスやらホール・アンド・オーツやらの懐メロロックを聞きながらときに、足のステップを音楽に合わせて右左を繰り出すのが楽しい。

そしたら、突然、iPod shuffleの音がプシュという音とともに切れてしまった。

壊れました。汗が入ったのかも?

洗濯機で2度ほど洗ったのに壊れなかったiPod shuffleも終わりました。

ああ哀し。

古いZENというかつてあったメーカーのを取り出して、これが壊れるまで使ってみましょう。

汗だくで、トレイルを10キロほど、1時間15分位でのんびり走って、家に帰って、シャワーを浴びても汗がやまず、ここで、心臓発作を起こすかと思えるほど冷えたビールを飲んだら、これで1日が終わってしまうので、着替えて、電車に乗り、映画を見に行ったのでした。

次に続く。


ここから、7月11日の分

というわけで、iPod shuffle故障したため、新たなMP3プレイヤーが必要になったわけですが、そんなんだったら、スマホで第要すればいいじゃないという意見もありましょうが、あれは、重くて、トレランで持ち運ぶのに、バッグを持っていかないといけないですから、やはり、軽量小型のものがほしいわけであります。

昨晩、スマホでアマゾン見ていたら、プライムセールが開始していて、今度買おうと思っていたMP3プレイヤーが、2999円のところ、1600円で売りに出ていた!

AGPTEK A125 8GB ミラー式 MP3プレーヤー

https://www.amazon.co.jp/gp/product/B06XNNX847/ref=oh_aui_detailpage_o00_s00?ie=UTF8&psc=1

というやつて、小さくて、8ギガあって、A→Bっている語学勉強するには必須の何度もマークした間をリピートする機能も入っているじゃないの。これで、1600円とは!というわけで、中国製ではありますものの、ありがたくポチッとしてしまったのでありました。

8ギガって、どんだけCD入るんでしょうか?楽しみですわい。

posted by ロビオ at 01:52| トレイルラン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月08日

草むしり

IMG_20170708_082136暑い日が続きます。今朝も田圃で草むしり。

IMG_20170708_082119泥だらけの私の足に田螺を乗せてみました。

というわけで、草むしり。毎日30度を越す太陽光線を浴びて、順調に稲穂は育っておるのですが、雑草も獰猛に育っておるので、草むしりをしないといけません。

ここに来る水田を除いてみれば、雑草もなく、稲だけが水面から浮いておりますが、これは、すべて除草剤のお陰でございましょう。

私がお手伝いをしている田圃は、何年も除草剤を使用していないので、ちょいと雑草取りをサボりますと、水田一面すべて翠の絨毯になってしまうのです。

写真は、足跡がついているのが、僕らが入って雑草取りをした跡。

これで、雑草取りは2巡目になります。

盛夏になるとともに、雑草の生育も爆発的に進むので、きっと雑草取りが追いつかなくなるのは必至ですが、まあ、やれることだけをやってよしとしましょうか。

ホント、雑草取りを、ギンギン太陽の下、2時間もやると、嫌になってしまいます。

長く続く作業でもあるので、根気が潰えた時、田圃作業は苦痛となってしまいます。

というわけで、毎朝、妻と、パン作りの日は、30分。そうでない日は、1時間だけにしております。

早朝は、爽やかな風に吹かれて、汗もそれほどかきませんし、尻尾のまだ生えているカエルのユーモラスな姿をを観察しながら短時間で済ませてしまえば、この作業も楽しくないとはいえないのですよ。

ギザギザの刃の付いた鎌を私は愛用していますが、小刻みにザクザクと引くようにして根から雑草を断つその感触は快感と言ってもいいくらいです。

ああ、今年は、大量の米ができたらいいなあと思うと同時に、収穫した後の田圃に麦を植えることは出来るかしらん?と調べてみるつもり。

自家製の小麦でパンが焼けたらこれまた最高ですもんね。

とにかく、こんな生活がいつまでも続けばいいなと思います。マジで。

posted by ロビオ at 02:44| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月07日

タオ・サーフィン

刈っても刈っても生えてくる田圃の雑草。

とくに、コナギという雑草なんだけれど、これだけ同じ種類の雑草が生えるというのは、環境が単一化されてるからなんでしょうね。

田圃とか畑というのは、自然というより人工的なもので、そこでは、自然のバランスが崩れている。そうであるから、かくも激しく単一の雑草だけが優勢になっているといえそうである。

ところで、除草剤の撒かれている田圃は、死んでいるかのように雑草が、生き物が、沈黙している。

これは、恐ろしい。

雑草の蔓延る田圃のも、一部その除草剤の撒かれている田圃の水が流れているところがあるが、そこには、雑草は生えない。

これは、自然云々という以前の問題で、これでは地球が滅びるのではないかと思えるのだ。

都心の事務所の近くに昼時になると、弁当屋さんが日除けパラソルを差して露店で商売している。肉をふんだんに使ったハンバーグ弁当やら唐揚げ弁当が均一価格360円で売りに出されている。

都心の梅雨時の正午は30度を超える暑さだ。

この湿気と暑さで、あっという間に、自然のものであるならば、腐らないといけない。

しかし、腐らない。大量の弁当がうず高く積まれて直射日光が当たっているものもあるのに。

食中毒を出さないためには、こうするより他に仕方がないのだろうけれど、これも、自然の営みに対抗するようなものである。

莊子に「機械あれば必ず機事あり、機事あれば必ず機心あり」というのがある。

機械を使うと機会を使った仕事が増え、そういう機会が増えると機械に頼る心が生じて自然からどんどん外れた生活になってしまうというほどの意味である。

効率性や生産性を考えた人のこのだけを考えた賢しらの技術が、世界を壊そうとしている。 政治でも経済でも教育でも農業でもそれは同じだろう。

私たちは、自然から離れて、どこまで遠くへ来てしまったのだろう?

防腐剤やら除草剤を使えば使うほど、社会はそうしたものなしで生活することは不可能になり(コンビニで24時間弁当なんて買えないだろうし、、米の値段も破格に高くなってしまうだろうし)、言い得て妙だと思うのである。

自然という流れに乗ることが一番労少なく力強く間違いがないものであるということを「老子」で知るのだけれど、いつぞや、そんな自然という波にサーフィンする姿を思い浮かべて、これが理想の生活だ!なんて夢想していたのは随分前のこと。

それには、技術もあるだろうし、自然を確知する智恵も必要だろう。しかし、その道(タオ)に従った生き方をすれば、人の賢しらな技術を超えた、本当のあらゆるものに応用できる技術が獲得できるだろう。

タオはそこらじゅうに遍満しているという。まるで、印度哲学のブラフマンのようにだ。そのタオを探し求めて、音もなく押し寄せてくる波にサーフボードで同一化し、この世の中を滑っていきたい。

そのタオの流れに棹ささず、そのまま流れていくに任せるそんなやり方もあるだろうし、これが一番合理的な方法であるはずである。

そうした農法を考えながら、今朝も、せっせと夫婦で雑草取り。

毎朝、コツコツと小一時間。

パンを焼き、老子やインド哲学を学び、Yogaをして、後先を考えないで仕事をし、瞑想する。

二項対立の相対的な世界から飛び抜けて、絶対的な世界に降り立って、そこから生じる知恵が何かを教えてくれるかもしれない。

そのための、ベンキョウも怠り無く、自然の波にのって、どこまでもサーフィンして行きたいのである。

posted by ロビオ at 10:38| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月05日

MARUZEN

IMG_20170703_114645

池袋のジュンク堂の並びに今度は、丸善が開店するらしい。

なぜか、西武線と京浜急行の先頭車両が展示してある。交通博物館?

西武池袋には、三省堂が入っているし、これで3大書店が、額を寄せ合って、軒を並べるという図になる。

丸善と言えば、僕が愛用していた八穴の奈良コンピュータのシステムダイアリーのレフィルを唯一売っていた書店で、御茶ノ水か、日本橋の丸善までよく行ったものだった。

ここ池袋の丸善は、外見から想像するに、本屋というよりも、百貨店的なものになるのかしらん?

近所の100円ショップも閉店し、文具やさんは、ジュンク堂の2Fか、イケセイの無印かロフトまで行かなければならないので、ここにあったら非常に便利になるのだけれど。

丸善と言えば、梶井基次郎の『檸檬』ですね。これは、京都の丸善が舞台だけれど。

posted by ロビオ at 10:40| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月04日

雑草が猛威

IMG_20170704_052221

無農薬で長年稲作りをしている田んぼには、びっしりとコナギの葉が水面出でてきている。先週は、水面下だったのに!

4時30分頃は、もう既に暗くなっている。ちょっと前にはまだ明るかったのにね。これから、どんどん朝日の出が遅くなる。

お隣の農薬を使っている田んぼは、ほとんど雑草が生えていない。

雑草が生えないのなら、こんなに楽な仕事もないだろう。

しかし、自分の食べるもの、農薬なしでやりたい。

自然との直接的に繋がる生活は、体を心を元気にさせてくれる。

農業や教育や政治を効率性の面から考えてはいけない。

それは、時間をかけて、無駄な知識だと思えるものを吸収し、そうして得た知識を様々なものと結びつけて、人生を豊かにするものでなければならないのだ。

手間ひまをかけた無農薬の野菜と、大量の農薬を使った野菜とで、味に違いはないかもしれない。

しかし、ガンディーの言うように、「善いものはカタツムリのような速さでやってくる。」

その手間隙をかけた時間の中で得られた経験、知識は、必ず、自分のものになって有益なものとしてゆっくりと還元されるはずである。

結果の問題ではないのだ。その過程に、人生のアイデアが沢山詰まっているのである。

結果だけを求めて短絡すれば、多くの過程をないがしろにする。そこに、大きな智恵があるものなのに。

しかし、雑草取りは重労働だ(が、楽しい)。

前世で撒いた種を現世で刈り取るという比喩があるけれど、まさしく、前年に撒き散らかされたコナギの種が猛威を振るって発芽している。

しかしながら、人類の文明のもっとも進んだ携帯としての稲・・・人間が過去数万年か、それ以上、品種改良を加え続けて、現在の奇形の稲ができあがったわけであるが、その稲も元気に育っておる。

人間の文明と自然がここで激しく生存競争をしているわけで、諸君!、我々は、人類を代表して、その文明の灯を絶やさないように、自然と闘っているのである!

 

(これは、名著。)

土日にまとめて長時間すれば、いずれ嫌になってしまって、無農薬の米をお金を出して買うようになった方がいいんじゃないの?なんて気もおきかねない。

そこで、早朝日の出と共に、田んぼで、小一時間を雑草取りにあてている。

これなら、嫌になるほどの労働ではないのでな。

今朝は、二日に1度焼いているパンを焼く日に当たっていたので、30分だけザクザクと鎌で雑草を刈ってきた。

裸足で、泥の中に入れば、足を土で包囲された感覚が楽しい。

30分でできる仕事量は、10平方メートルくらいだろうか?

二人で、20平方メートル。

一反が330平方メートルで、全体が600平方メートルくらい?あるから、やってもやっても終わらない感じ。

カルマヨーガ的に言えば、行為のために行為をすることが大切で、自己のカルマを刈り取るように、雑草の種を刈り取るのだ。

posted by ロビオ at 10:04| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月29日

雑草取り

IMG_20170629_045239

今朝も、日の出と同時に田んぼの雑草取り。

この雑草は何でしょうか?

昨年、芝生のように水面を覆っていたコナギではなさそう。

調べてみたら、コナギの五葉期の姿であるようです。

鎌で根っこから切り落とすのは簡単なのだが、一度鎌を引くと水が濁って、手元の視界がまったくわからなくなるので、的確には除去できない状況だ。

水面から少しでも出ている土のところは、根っこを張った雑草がビッシリと。

なかなか大変である。

雑草を取って、ふと目を上げると、まだまだ雑草取りをしなければならない広大な田んぼが遠くの方まで見えてくる。

藻が生えているところは、たしかに、雑草は少ない。

美しいとは言えないけれど(ヘドロみたいで)、稲の生育にとってはどうなのか?

稲とアオミドロがうまく共生できれば言うことないのだが・・・

ブヨに体液を舐め舐めされてあゝ痒し。

小一時間で今日は終了。毎日少しずつコツコツと。

しかし、全然終りが見えないし、このペースだと雑草の成長に負けてしまいそう。

農作業の後の朝飯がうまい!

posted by ロビオ at 00:49| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月28日

『満潮の時刻』 遠藤周作著

遠藤周作の『満潮の時刻』を読んだ。

先週見た映画『沈黙』の原作を見る前に2度読んだ。

実に優れた小説だと思った。遠藤周作以外に作ることのできない小説だと思った。

遠藤周作の描く基督は、汎神的で、人格的なものではなく、偏在する優しいまなざしのような存在であるかのようだ。

まさに、当初この小説につけようと思っていた題「日向の匂い」というべき、そういう存在。

『沈黙』という小説は、神の沈黙を描いたもので、どうして神は信者が危機に陥っているのに奇跡を起こさないのだという疑問がテーマだと思われている。しかし、実際は、神は、微細な世界からすべての者に語りかけており、奇跡は、苦境に晒された司祭の心のなかで起こったのであり、森羅万象が語りかけるその声を聴くことのできるものに起こりうるものなのだ。

これが、この小説のテーマでしょう。

この『満潮の時刻』という小説は、『沈黙』と同時期に並行されて執筆されたもので、同じテーマを違うアングルから書かれており、両者を読むとよりこれらの小説の理解がより深まるようだ。

遠藤周作は、文壇にデビューし、さあこれからというときに、結核が再発し、3度の命を削るような手術を経て、生還した。

この小説は、3度の結核のための肺の摘出手術のため、入院から退院までの2年を描いたもので、主人公の明石は、遠藤周作自身だと考えて良く、半私小説的なものになっている。

病室という世界から隔離された場所での生活で、人生というものを考える。

その病室という場で、ある人は死に、ある人は快癒して退院していく。

古来、傑作は、病室で生まれた。

梶井基次郎、志賀直哉の『城の崎にて」とか。

戦争からも生まれるだろう。

『野火』とか『ビルマの竪琴』とか『笹まくら』とか『桜島』とか

生活という喧騒に囲まれていると、人生について考えることはとても難しい。

しかしながら、永遠や無限なものを考えるということは人間の性であって、条件でもある。でなけれが、知性や理性が人に与えられたはずがない。

そう考えると、生活の喧騒を離れた時、あるいは、否応もなく自分が生きるか死ぬかの状況に追い込まれたときに、人は、その特質を十二分に発揮して、人生を深く考え始めるのである。

人生について考える時、その素材は今まで自分が経験してきたものを基礎とするしかない。生活にかまけて、人生の実相を貫く眼差しがかけて入るものの、経験はすべて人に何か大切なものを語りかけているのだ。

快癒するのかしないのか、そうした不安の中で、妻が買ってきてくれた九官鳥の哀しそうに見開かれた目を病室で見ていたら、少年時代に遭遇した自殺した主人の周りで前足に顎をじっと乗せたまま主人を見上げている犬の目を思い出した。そして、この目の哀しさはどこかで見たことがあると記憶を辿っていくと、かつて長崎で見た銅板でできた哀しい目をした基督の踏絵を思い出したのだった。

この小説は、この3つの目の哀しさに共通するものとは何か?、それを探し求めて、それの意味を獲得するまでの過程が描かれているのである。

俺は一寸だけこの生活の騒音のする外界に出た。するとどうだ。もう樹は単に一本の木にしか見えず、果物屋はたんに一軒の果物屋にしか見えなくなった。自分の目はこんなに弱い。それは、生活の騒音によってすぐ曇り、その汚れですぐ覆われてしまうのだ。俺の目は今、あの九官鳥の目から遥かに遠くにある。林の縁でじっとうずくまっていた犬の目ではなくなってしまった。

逆に言うと、病室という隔離された場所に閉じ込められたからこそ、こうした貴重なものを手に入れる為の手がかりを掴んだとも言える。経験は、饒舌に人生について語りかけているのだと。

人生に無駄なものは何一つない。その経験した一つ一つが高みに登るための足がかりとなるのだと。

印度哲学風に言うと、自分の本体であるプルシャに、自分の本性がそれであるということを理解させるために、自然であるプラクリティが様々にプルシャに働きかけるという風に。

退院して、検査のため、元の自分が2年間を暮らした病室に行ってみると、部屋の大きさや天井の高さが思っていたよりも随分と違う違和感を明石は覚えた。そして、屋上に登り外界を眺める。

明石はそれらを俯瞰している自分の目にあの九官鳥の眼差しを重ね合わした。九官鳥の眼差しにあの踏絵の基督の目を重ね合わした。そして今、彼の病院生活という経験の円環がやっと閉じようとするのを感じた・・・。

この現実的な世界とは別に、霊的な世界というものがあって、そこは微細な世界でなかなか人の目で見ることはできないし感じることはできない。しかし、現実的な世界の裂け目からそういう世界が溢れ出しているということに気づく人もいるだろう。それが、九官鳥の目や踏絵の基督の眼差しから垣間見ることができて、しかも、それが、自分の心の中にも存在するのだということを実感として感じ取ったということなのだろうか。

ところで、この小説には、退院して自宅まで帰る道すがら、渋谷の駅で上映中の『沈黙』という映画についての記載がある。もちろん、イングマル・ベルイマン監督の名作で、これも神の沈黙を描いた作品。幼少の頃見て、衝撃的な理知的な女性のオナニーシーンだったことだけは覚えているのだが。

遠藤周作の『沈黙』という小説は、この映画に触発されて書かれたことは間違いなさそうである。映画で描かれた「神の沈黙」に対して、いや、神は森羅万象を通じてあなたに語りかけているのだというアンチテーマとして。

posted by ロビオ at 10:37| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月26日

沈黙−サイレンス−

マーチン・スコセッシ監督の『沈黙ーサイレンスー』を飯田橋ギンレイホールで観てきた。

冒頭、真っ暗の画面に、川の流れや蝉の声が鳴り響いて、突然に音がなくなります。そして、Silenceという映画の題名が・・・。

日本人なら、芭蕉の名句

閑さや岩にしみ入る蝉の声 芭蕉

というのを思い起こさせる仕掛けであると思った。

ちなみに、この芭蕉の名句の英語訳を調べてみると、

Deep silence, the shrill of cicadas, seeps into rocks

となっている。

ほう、そうくるか!と冒頭から感心しましたが。

遠藤周作原作の『沈黙』というタイトルは、「神の沈黙」ではなく、「神は沈黙しているのではない、語っている」という「沈黙の声」の意味を込めたの「沈黙」だったとエッセイで語っているそうである(『沈黙』の同年に連載された『満潮の時刻』の文庫本の解説より)。

キリシタンの村人たちを救うために司祭が踏絵に足をおいた時、神は語りかける。

踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番良く知っている、踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつために十字架を背負ったのだ。

その時、司祭に何が起こったのかと言えば、

その時彼は踏絵に血と埃とで汚れた足をおろした。五本の足指は愛するものの顔の真上を覆った。この激しい悦びと感情とをキチジローに説明することはできなかった。

と、原作には書いてある。

逆説的にだが、踏絵を踏むという教会から見たら棄教とみなされる行為を行うことによって、神の本質を掴んだことになるのだろうか。

聖職者として教会から破門されている主人公は、キチジローに告解の秘蹟をおこなう。

聖職者たちはこの冒涜の行為を激しく責めるだろうが、自分は彼らを裏切ってもあの人を裏切ってはいない。今までとはもっと違った形であの人を愛している。

と確信犯的でさえある。

映画では、キチジローの裏切りにより、官に捕まる前に、川面に映る自分の顔がキリストに見えたり、上記の「踏むがいい・・」のナレーションが入る。

決して神は「沈黙」しているわけではない。

となると、ますます、この棄教した司祭は、神を愛しているはずなのに、何度でも、踏絵を踏み、自分がキリスト教徒ではないことを証明し、かつ、幕府のためにキリスト教関連の禁制品をチェックするための仕事に従事していたりする。

このあたり、神を愛していさえすれば、形式的なものなの無視してかまわないという信念に基づいているのだろうと思うのだけれど、神が常に自分とともにあるという確信があるからこそなのであろう。

「閑さや岩にしみ入る蝉の声」

芭蕉は、やかましく鳴く蝉しぐれのその彼方に、永遠に繋がる静かさを聞いたのだと思う。

沈黙の音は、誰でも聞くことの出来る音ではなく、耳を澄ますもののみに聞こえてくるものなのだ。それは、私達の心の奥底に潜んでいる。

posted by ロビオ at 12:12| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする