2018年02月28日

コツコツとやって進歩する

ヨーガを再開して1年と2ヶ月が経過しようとしている。

ヨーガのポーズも、アクロバティックな離れ業のようなものは遠慮して、ごくごく基本のものだけを、寝る前に30分ほど行っている。

しかし、なかなか体は柔らかくなりませんもので困ったものです。

けれども、少しずつではありますが、体に変化はありまして、中でも、苦手な正座してそのまま後ろに倒れるというポーズがあるのですが、当初は、両足首と頭の天辺を基盤にテント設営の際のポールを差し込んだように太鼓橋でブリッジしている状態でした。

10秒もその姿勢を持ちこたえられず、体がぴーんと張り詰めているので、両足首と頭頂部の3点で姿勢を保持し、体は張り詰めて、身動きがとれず、真横に倒れて浮いた片足首を自由にさせないとどうすることもできず、いつもフォークリフトが倒れるようにして、この苦しみから逃れて、目には涙を浮かべていたものでした。

けれども、現在は、両足首はなだらかに床と平行に着地し、頭の頭頂部ではなく、後頭部が床についており、なんとか格好のつく姿にはなっているのであります。

座って両足の裏と裏を合わせて鼠径部の方に引いてから、骨盤から前に倒れるというのも、苦手なポーズでありまして、微動だにしない骨盤は、前に倒れるのではなく、後ろに倒れるのではないかというくらいに硬直化しておりましたが、最近では、前に動くようになってきた。その際の痛みというものに精神を集中させて、味合うのがヨガの醍醐味ですが、最近は、ややこの痛みが気持ちよくなっくるほどになってきております。

まあ、55年間、私のように体を甘やかせれば、こういう状態に誰しもがなるのであります。

けれども、少しずつ、毎日、正しく行っておれば、必ずや、酸っぱくなってぱさぱさになってしまった自分の肉体も、すこしずつ16歳のころに遡りを始めることも可能であるのですね。

肉体の酸っぱさが、ヨガのポーズをすることによって体液に流され甘くなり、パサパサだった筋肉の隙間に、油が差されて、鳥のもも肉のような弾力性と油につやつやとしたものに変わっていくのは必定であると考えます。

若い頃のように、即効性はないけれども、地道にコツコツと努力する中、ある日突然、できなかったポーズが出来るようになったと思える日がやってくるのは、経験上明らかなのです。

肉体の進歩は、見たり感じたりすることが出来るので、なんとも励みになります。

ところで、インド哲学は、勉強すればするほどわけがわからなくなり、また、最近では、仏教の授業も受けたりして、あれやこれや、思想が入り乱れて、混乱しております。

こちらのほうも、目に見えるように進歩してくれるといいんですがね。

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2018年01月22日

ヴェーダンタも仏教も

私の生まれた家では、浄土真宗のお寺に先祖の墓があり、その檀家である・・・というには、檀家らしいことはほとんどしておらず、家族で、南無阿弥陀仏と唱えたことももちろんない。

父が死んで、お通夜、告別式、仏壇の処理のための魂抜きとか、四十九日法要、納骨式等々、お寺と交渉する機会を持つにつけ、これを機会にと浄土真宗について少し学んでみたら、これが、すごくモダンな宗派であることがわかり、自分の中では、随分と評価が上がったのだった。

詳しくは、ネットで調べてもらいたいけれど、位牌を作らないというのも特色があるところだ。

というわけで、位牌もお寺に納めていただいた。このシンプルさが素敵だ。

浄土真宗といえば、慈円の『歎異抄』は気になっていて、大学生の頃一度読んで、何がいいのかさっぱりわからず、その後何度か読んだものの、しっくりと感じいるまでには至らなかったのを、数年前に、詩人の伊藤比呂美が『たどたどしく読む親鸞』という本をだして、フアンの私は飛びついて読んだのだった。それで、初めて、なるほど!と思い直して、いろいろな人の訳した歎異抄を読んでいる。

やはり、こういう宗教書というのは、死の世界に親しみだした年齢にならないとしっくり来ないのかもしれない。

歎異抄を読むにつけ、阿彌陀佛の請願力を信じるというが、これを信じるということの難しさ、困難さがひしひしと感じられ、南無阿弥陀仏と唱えれば成仏できるとは到底考えられず、いかに、大乗といえども、彼岸に立つのは難しいのではないかという思いが強まっていく。疑念を退け、信じることに徹するためには如何にしたら良いのか?

インドで言えば、バクティ・ヨーガという信心によって悟りに達する方法があるけれど、これもなかなかに難しい。

ではどうすればいいのさ?

毎日毎日少しずつ努力するしかないのだろうけれど、ちゃぶ台返しにならんように、焦る心を抑えつつ、一歩一歩進もう。

といわけで、五木寛之とか、梅原猛とか、吉本隆明とか、真継伸彦とか、著名人が惹かれている親鸞に親近感を覚えだして、今、勉強したいのは、仏教の中でも浄土真宗ではないかしらん、と、まだまだ、インド哲学を勉強して1年足らず、履修もぜんぜん終わらないのだけれど、ここに来て、仏教も勉強したくなってしたのでした、それも、激しく。

そんなわけで、今年は、仏教にも手を伸ばして、あちらこちらの大学の授業にも顔を出して、しっかりと勉強していくつもりなのである。

で、早速、「大般涅槃経」という「一切衆生悉有仏性」を説いた長い長いお経は、これは、私の力で独習では決してできないと悟りまして、早速大学のセンセイの教えを請いにこれから1年間の授業に参加して来たのでした。

それから、『歎異抄」の勉強会も来月から出席することにして、なにやら、学生のような1年になりそうだ。

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2018年01月14日

ALTRAシューズで飯能三名山

多峯主山と龍崖山と柏木山を飯能三名山と呼ぶのだそうだ。

本当かな?

というわけで、いつもの美杉台の住宅地を美杉台交差点からクリーンセンターまで走ってから、飯能三名山の頂上を踏んできた。

実際は、茜台広場から柏木山ピストン、赤根が峠から龍崖山、吾妻峡から多峯主山というコース。

マフェトン心拍数130でも、トレイルを走ることが出来るようになったので、これを維持しつつ、急斜面は歩いて心拍数を調整したりしながら、楽しく3時間弱走った。

僕の新しい心拍計では、運動終了後に疲労回復時間がでてくるのだが、だいたい24時間以内に収まっている。

マフェトン理論は素晴らしいね。

飯能三名山とはいうだけあって、どの山も、たしかに頂上の眺望はよろしい。

風を遮るものがない住宅地は寒いのだが、山の中へ入れば、風は止む。しかし、谷の日の当たらないところは、深々と冷え込む。

茜台自然公園の谷地を走る小川は完全凍結していて寒い。早朝の気温はマイナス何度くらいになるのだろうか?

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アルトラというゼロドロップ(踵とつま先の高さが同じ作り)の靴を、さかいやスポーツの50%オフバーゲンで買ったのだが、ちょっとソールが柔らかいのが難点だが、のんびりと山を走るには、いいのではないかと思う。

ぎりぎり約束時間までには家に戻って、お昼には、今年の田圃作戦会議。

うまくいきますように!

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2018年01月12日

サンスクリット語を学ぼう

インドの千年も何百年も前の本を読むにつけて、やはり原書で読んでみたいわいという野心をもって、4,5冊のサンスクリット語の語学書を買ってきて自習するも、最初の数ページであえなく轟沈。目的地は、はるかかなたに、霞んで見えない。

やはり、独学じゃだめだ〜。

加齢による頭の馬鹿さ加減も加わって、なかなか若い時のようにはいかない。いや、若いときでも、思うようには行かなかったのは、私に語学の才がないからである。が、才がなくても、やらなければならないということもある。

ということで、あれやこれや、サンスクリット語を学ぶのにいい講座はないかしら?と探していたら、お、ここなら、アカデミックな東京大学だし、ここに決めた!お月謝も安いし、他の仏教系の講座も無料で参加もできるらしい。

こんな風に、東京という場所は、やる気さえあれば、どんなことでも学ぶことが出来るところが素晴らしい。

というわけで、今年こそは、サンスクリット語を読み書きできるようにしようと固い決心をしたわけなのでした。

 

 

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写真は、原市場の食事処。こんな大根のオブジェが目印。最近、原市場のあたりでは食事処があちこちで開店している模様。

正月7日だったか、トレイル・ランして汚れた体のまま、さわらびの湯へ飯能市広報の半額券を千切って、妻と二人で温泉三昧。帰りに、ここに寄って、牡蠣のグラタンをふうふうして食べたのでした。

いやはや、新年の飯能市広報は値千金。以後、ずっと半額切符の継続をお願いしたい。

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2018年01月08日

久須美陶房・天目指窯の猫三匹

新年は、友人の佐々木浩章さん宅で食事をしたのでした。

もう30年以上のお付き合いで、飯能に私が住むようになった理由が佐々木さんとの付き合いがあったからだと思います。

というわけで、以前、BINTAのメンバーにご馳走したひよこ豆と鶏肉のカレーが評判だったので、レシピを思い出しながら・・・というか適当に4人前を作って、あと、いちじくとくるみの入ったロデブパンも焼いて、佐々木さん夫婦と久須美陶房・天目指窯兼自宅にお邪魔して昼食(夜まで)一緒に楽しんだのでした。

今年の田圃の作戦会議もそこそこに、ワイン日本酒であれやこれやの話で宴も酣のころ、妻がこっそりと、佐々木さん宅の1階のギャラリースペースで、気に入った陶器をあれやこれや物色したいたのですが、いい片口の椀を見つけていたのね。

佐々木さんの描く三匹の猫が秀逸です。

写真が下手なので、色がよくわからないでしょうが、色は濃紺なんですね。片口の造形もガッチリとしていて、この日から我が家では、毎日使って楽しんでおります。

 

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posted by ロビオ at 05:25| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月05日

昨年末のばたばた

12月に父が急死し、その二日後に義母が亡くった。

あれやこれやで忙しかった。

人はいつかは必ず死ぬもの。老齢の父となれば、その日は近いと薄々考えていた。

それなのに、亡くなる本人も身内の私もいつまでも両親は生きていくのではないかという思いが心の底にはあって、その時は今ではないだろうなんていう心構えで過ごしているものである。

まさか、急死するとは思っていなかった。

まして、自分の死とになれば、死ぬのは常に私以外の誰かで、まさか、自分が死ぬとは、なかなか意識できない。

しかし、人は、100%の致命率で死ぬのだが、このことが、頭ではわかっていても、なかなかよくわからない。

人には、寿命というものがあり、それは予め決まっているという風に私は信じている。

生き急ぎ、死に遅れ、いろいろとあるだろうが、寿命が尽きるまで人は生きることになるのだと。

私自身に寿命がどんな風に尽きるのかは知らない。

しかし、それまでは、ようやく見つけたと思っている人生の目的に向けて、努力していこうと思うのだ。

posted by ロビオ at 04:57| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月29日

ラ・ラ・ランド

『ラ・ラ・ランド』を劇場で2回見た。

↓ こんな映画です。

http://gaga.ne.jp/lalaland/

初回は、ふ〜ん。

2回目は、へえ、なるほどね〜。

どんな映画も、2度見ると理解が進む。

東京都内の二本立ての名画座しかいかないので、やや新しい映画となると、上映プログラムが重なってしまって、2本のうち1本は見ているというような、また、中には、日本とも既に見てしまったというようなことが、年末にはよくある・・・というか、足繁く映画を見に行くようになって、まだ、1年しか経っていないのだが。

『ラ・ラ・ランド』は、映画の中に、現実の部分をドラマ仕立てで、夢の部分をミュージカル風に構成して、現実と夢を行き来するようにできている今までになかったような映画であったことに、2回めを見たときに感心したのでした。

ジョナサン・デミ監督の『シェルブールの雨傘』のラストシーンのほろ苦さってありますが、これを、あり得たかもしれない夢物語の回想という形で、最後仕上げていく手腕は、さすなに、アカデミー賞受賞作ではあると思いました。

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2017年11月27日

久しぶりにトレイルラン

ガーミンのGPS心拍計630Jが激安価格で出ていたので、購入したのは、数ヶ月前。

買ってよかったなと思うのが、GPS捕捉時間が10秒位で終わること。連日走ると、数秒で終わってしまう。

あと、10年位前のとは、びっくりするほど軽量で、普通の腕時計みたいなのも好感が持てる。ブルートゥースで、情報をスマホに送信できるのもいいかもしれない。あまり、過去のデータは見ないけれど。

以前のものは、3日も使わないと、ときによっては、30分も衛星を補足しないことがあったので、これは、偉大な進歩だ。

心拍計もかなり正確で、右左の足の着地時間とか、走るときの体の上下の差を図ったり、歩幅とか、まあ、要らないことも計ってくれるのだが、その心拍計も含めて2万数千円だった。

というわけで、こういうものを買ったら走らないとねえ、というわけだが、足を故障して治らないので、調子を見ながら、土日と近所のトレイルを走っみた。

僕の中の優先順位は、ヨガ、呼吸法、瞑想>トレイルランニングという風に最近は変わっているので、まあ、付け足しのトレーニングということになるのだが、走れば、それは、めくるめく楽しい世界がそこにあり、一挙に欲望が花開いてしまうのが、ヨガ実践者としては、困ったなあ、ということにはなる。

トレイルランニングをカルマ・ヨーガ化して、欲望を放擲する修行に使えないかとも考えるのだが、なかなか難しい。よくよく考えてみよう。この世の中のありとあらゆる自分と自分以外のものとの関わりを修業の場として捉え、知らぬ間に、ある行為をしている内に、前人未到の高い頂に到達しているということもありうるではないか。

マフェトン理論信者である私の場合(というか、緩いのが好き!)、心拍数は、130を超えないようにして、心拍計にアラームセットをしている。130を超えるとアラームが鳴り、そこで、歩きながら、ガヤトリー・マントラを唱えて、心拍数が120くらいに落ちるまで歩くことにしている。

里山とは言え、この心拍数で山道を走る(時には歩く)のは、結構テクニックが必要で、走りに集中すれば、心拍数が知らない間に上昇し、心拍数を上げないように気をつけていると、走りに集中ができない。

集中と気配りの二律背反のテーゼをこなしながらのマフェトン理論の実行は、矛盾を克服するための偉大なるアウフヘーベンなのであるな。

ヨーガにとっては、欲望は敵なのであるのに、トレイルランをしていると、もっと速く楽に遠くまで走りたいという欲望が沸々と湧いてきてしまう。

それで、確かスコット・ジュレクのトレーニング方法が、EAT&RUNという本の中に書かれていたよなあ、と思い出し、電子本を検索してみたら、ありました。

手っ取り早く速く走る為のトレーニング方法は、5対1のインターバルトレーニングだと。

5分全力で走って1分流す。

10分で2分

15分で3分

そのうち、45分を全力で走りきれるようになるだろう・・・

なんて、一流の選手が言っているので、まあ、こういうのも間違ったトレーニング方法ではないはずだ。

ただ、僕は、5流の運動愛好家なので、頻度を落とせばよろしい。

この本を買った当時、3度ほどこのインターバルをやったことがあった。つらかった。3度しか続かなかった。

そして、走りながら、こんな計画を立ててみた。

5分と1分で、これを5回。〆て30分のトレーニング。

これを、週の半ばの水曜日に1回だけ実践する。

こうすると、体の中の生理が乱れて、健康からは程遠い状態になるので、他のすべての日は、マフェトン理論で、体を走りながら整えていったらどうかしらん?

マフェトン理論で走っても、僕の体験上は、奥武蔵をぐるりと55キロくらい走る平均的な力はつくけれど、まあ、速くはならないので、こういた要素を取り入れて、訓練したら、もうちょっと走りが楽しくなるかも。スポーツというのは、スピードとパワーに醍醐味があるからね。

というわけで、そんな欲望に身を焦がしながら、太陽光線をオデコに浴びながらのんびりと里山を走ったのでした。

足の調子も、却って運動をしないよりも、したほうが血液が痛み成分を散らすのかよくて、マフェトン理論で、着地に気をつけながら慎重に走れば、そのうち治るんじゃないかと思えるほどになってきた。

ところで、走っている途中、トレイルランナーに後ろについて来られて、バーっと抜いてくれればいいのに、なかなか抜かさないので、高麗峠からの下りで、スピードを上げて走ったら、見事、心拍数は、160を超えてしまったのね。

まだまだ、修行が足りない!

こういうときにこそ、自分を抑えて、心拍数を130で維持しなければ!

が、これがなかなか難しいのよね。

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2017年11月15日

『祇園の姉妹』と『裏窓』のリアリズム

山田五十鈴生誕百年特集を新文芸坐でやっていたので、溝口健二監督の『浪華悲歌(なにわエレジー)』『祇園の姉妹(きょうだい)』と、こちらは、無声映画の伊丹万作監督の『国士無双』の3本を観てきた。

『浪華悲歌』と『祇園の姉妹』は、ほぼ同じキャストで内容も似通った映画。

世間に反抗する妹と義理と人情の世界を住処とする姉妹が、世間の冷たい仕打ちを受けるという話であって、そこには、何も救いがなく、現実を目の前に、ほら、と提供して、解決策もなく唐突に終わってしまう。

なるほど、好いた惚れたの世界を描いた映画界に、こうしたリアリズムを透徹した映画が出れば、それは、センセーショナルな話題をさらったであろうなというのは、想像に難くない。

そして、そういう身も蓋もない話なのに、面白いのである。

映画というもの本質に、リアリズムというものがある。

世界最初の映画をリュミエール兄弟が撮った際の映画は、確か、動く機関車だったと記憶している。ただ動く機関車が映像で再現されるだけで、観客は喜ぶのである。これが、リアリズムの魅力である。現実そのものを映像で再現をこれは、映画の本質をついている。

となれば、こうした世間との軋轢によって生じた悲劇というものを淡々と映像に撮って提供するという方法も、人は、リアリズムに興味を示すという本能があるので、興味を示すのは至極当然である。

いかに、リアリズムを、肉眼でみているように生々しく描くかということは、監督の裁量である。

ところで、この前日、早稲田松竹で、ヒッチコック監督の『裏窓』を30年位ぶりに映画館で見た。

これも、不思議な映画で、すべて、ジェームズ・スチュアート扮する足を折って動けない写真家が、退屈しのぎに裏庭を挟んで対面するアパートの一室を盗み見する映画である。グレース・ケリーの類まれな美しさと華やかさがなければ、盗撮の変態映画になりそうな趣である。

ヒッチコックの映画は、綺麗な女優とショックとサスペンスの厚塗りで地肌が見えないよう隠蔽するが、その本質は、変態映画である。

この映画の筋道は、主人公のアパートの裏窓から覗いて得た状況証拠を積み立てながら、想像力を逞しくして、妻を殺害したのはその夫であるとの確信を得ていく。

困ったことに、そこには、何の確定した物証はない。血の付いたナイフも、死体も、殺す場面も、殺人者の告白も何もない。

最後まで、その犯人と目される夫が、実際に妻を殺したのかどうか、逮捕に向かった刑事のセリフも巧みに忌避される。

観客も、宙ぶらりんな状況に放おって置かれ、勝手に映画は唐突に終わってしまう。

なんだかわからないけれど、犯人が捕まってよかったね、と椅子から立ち上がる人は、ヒッチコックの本当の罠にハマっていない人だ。

なんだか、悪夢を見ているよう。

我々の知っている以上のことが、実際には起こっていたのかもしれないし、理不尽な対応をさせられて頭きたその犯人と目される男がジェームズ・スチュアートを懲らしめに来たのかもしれない。

『祇園の姉妹』も、『裏窓』も、観客に見ることのできる情報を提供しただけで、なんの感情移入もできないままに、映画が終わってしまうというところに、共通点がある。

『裏窓』がリアリズム映画なんて言う人はいない。しかしながら、極力、映画に解釈を入れずに、そのままを観客に映像を提供したというその効果は、その映画について、自分はどう思うかという反省の気持ちを起こさせる。

『裏窓』の場合、宙ぶらりんな状況に観客を置いておくことによって、映画にあったサスペンスが、見終わった後でも、長いこと継続するのだ。この映画の本当に隠されたヒッチコックのメッセージは、このようにして、観客に届く。

こうして、ああだこうだと考えているのも、このリアリズムの効果であるのは間違いない。

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2017年11月10日

カルマ・ヨーガは難しい

仕事というものを道具にして、自己の成長を促したいと思い、報酬の多寡を問わず、昔なら、断っていたであろう困難な仕事を二つ返事で請け負う勇気は得たのだが、やってみれば、やはり困難なことも多く遭遇し、夜に眠れず、私の心は、押しつぶされそうになってしまうことが多いのだ。

困難であればあるほど、自己を磨く道具としては最適なものであるには違いない。私の心が、そうした困難に心を動かさられなければ、まるで、他人事のように仕事ができるであろう。私は、そのとき、高度な存在に操られた人形のようになる。

人のために、社会のために、他の誰かのために仕事を行うわけではなく、インド哲学によれば、この仕事自体を、祭祀として行えという。神に捧げるのだと。

信仰心のない私にとっては、なかなか難しいやり方だろうけれど、心を虚しゅうして、仕事のすべてを天に捧げ、また、その仕事の結果のなにもかもを天に委ねるというような心意気だろうか。

目的と手段が同一になり、仕事の渦中に巻き込まれても、台風の目のように静かに心は抑制されている。

仕事がうまく行こうが、いかなくても、人に感謝されようが、憎まれようが、無関心で、自己は抑制され、心は、平安な状況にある。

私の心は、吟醸米のように磨かれ、迷いが拭われ、汚れてしまって見えなくなっていた本性が徐々に表れてくる。

こんな境地を得たいと思い、努力するものの、すぐに、仕事の目的と手段は分離してしまい、欲望が生じて、執着が生まれて、不満が出て、怒りが生じたり、心が千々に乱れてしまう。

剣道で正眼の構えというのでしょうか、こういう時には、まずは、最初の態度に戻って、深呼吸する必要がある。

 

スワーミー・ヴィヴェーカーナンダの『カルマ・ヨーガ』という本の中には、こんなことが書かれている。

理想的な人は、最も深い沈黙と孤独のさなかに最も強烈な活動を見出し、最も強烈な活動のさなかに砂漠の沈黙と孤独を見出す人です。その人は、抑制の秘訣を学んだのです。彼は、彼自身を支配したのです。彼は、往来頻繁な大都会の街中を歩きながら、しかもその心はまるで、物音一つ届かぬ洞窟の中にいるかのように静かです。そして彼は、常時最も活動的に働いています。それが、カルマ・ヨーガの理想です。

こうした態度で、仕事ができるように、一ミリでもこの境地に近づけるように、努力してみるつもりだ。

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