2017年06月02日

俺は生粋のベジタリアンなのだな

ベジタリアンに復帰して体調が良くなった。

思い起こせば、小学校低学年まで、肉が苦手で、特に脂身は食べられなかった。給食では、牛乳で肉の塊を飲み込んだ。残すと先生に注意されたから。残すことが悪いと洗脳されたのだなと今になって思う。食事を残すのになにか後ろめたさが残るのは、このときの洗脳が残っているからなのだと、今にして、気づいたのだった。

とにかく、白菜のお新香と海苔と冷たいご飯があれば幸せな小学生だった。

とういうわけで、ふとした頃から、ベジタリアンというかヴィーガン生活をするようになったのは、僕にとっては自然の流れだったのかもしれないが、妻がガリガリに痩せてしまった。

そして、肉食に戻したら、妻の体重は普通に増え、僕の体調が悪くなった。関節が痛み出し、足の裏の痛みがなかなか引かない。

なかなか難しい。

体に合った食事というものがある。僕の場合は、玄米菜食が合っている。ただ、それだけのことだ。

各人、自分に合った食事を注意深く体に尋ねながら見つければよい。

マクロビオティックに専念している人の中には、「かさかさ系」と僕が呼んでいるような髪の毛や皮膚がポサパサに乾いた潤いのない人もいるようだ。食事制限してかえって体を壊したら元も子もない。

そういう人は、肉を食べたら、体調が良くなっていくかもしれない。

肉を食べたら堕落する、肉を食べたら今までの努力が無駄になってしまうと思い込んで体調をどんどん悪くするようになるのだったら、肉を食べるのが自然だろう。

それは、善し悪しではなく、体の適否の問題なのだから。

肉食だろうが菜食だろうがどちらだっていい。

肉食の動物は、常に息をハアハアさせて、檻の中をせわしなく動き回っている。

草食の動物は、耳をそばだてながらも草を食みながら、息は穏やかだ。

どちらの生活が性に合ったいるかと考えるのも面白いかもしれない。

僕は、象や、犀や、河馬なんかにあこがれる。普段は穏やかで争うことなく自分の仕草に集中しているが、いざとなったら敵を蹴散らすくらいの体力があるような生き物だ。

「24時間戦えますか?」的な人との争いに魅力を感じる人は、肉を食べるのかしらん。

食事の好みに関してはそういうタイプもあるのかもしれない。

というわけで、またベジタリアンに復帰したので、タンパク質の供給源として豆が気になってくる。

ヨーガでは乳製品は推奨されているみたいだし、アヒンサーという不殺生の戒律にも乳製品は当てはまらないだろうから、少々とることにするが、豆は気になる。

蔵前にアンビカショップというインド食材屋があることを知った。

先日、そこへ行ってみた。

たしかに、豆の種類は豊富だった。

4つほど違う種類の豆を500グラムずつ購入した。全部で2000円程度だった。

スパイスも減りつつあったのだが、こちらも、大袋で販売しているので、ここで買うのを控えた。ウコン(ターメリック)を500グラムも買ったら、土曜日にインド料理を1度だけ作る私のペースでは、3年以上は消費できないだろう。

蔵前から御徒町まで歩いて、アメ横の大津屋で、ターメリック、ガラムマサラ、クミンという3つのカレーの基礎となるスパイスを購入した。

僕の場合は、ヴィーガンの食生活で、運動量の激しいトレイルランニングをこなして、疲れを知らなかった。筋肉もしっかりとついたから、僕には、この食生活が一番適しているのだと思う。

ヨーガをやり、体の柔軟性も、少しずつ回復してきたのだから、体の調子が戻ったら、スポーツの世界にも少しカムバックしようかなとも思っている。

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2017年05月29日

ホリスティックに治していこう

腰の痛みがなくなって、Yoga体操が思う存分出来る様になった。

毎週金曜日にヨガ教室に通って、習っているけれど、先生は、毎回ちょっと変わったあまりポピュラーではない体位を一つ教えてくれるのが為になる。

家に帰って、ヨーガの教科書を見ながら、もう一度おさらいできるのがいい。そして、超基本のポーズの他に、そのポーズを次回の教室まで、練習するのである。

とにかく、40年分のツケが体の固さに表れていて、なかなかこれを打破して10代の体の柔らかさ(その頃でも、僕の体は固かった)を取り戻そうと努力しているのである。

特に、酷いのは、例えば、正座をしてそのまま後ろに倒れ込むポーズがあるのだが、足首、腰回り、太ももが固くて、とても後ろ向きに寝る形を取ることはできなかった。足首と頭頂部と手の3点支持で太鼓橋のようになって苦しむ姿を笑わば笑え。フォークリフトが倒れ込んだような自分の姿を見て、これは、前途多難だわいと思ったものである。

が、最近、そうでもなくなってきたのである。

まだ、足首から体が浮き上がってしまってはいるけれども、以前のようなエビ反り体制ではなく、低姿勢でブリッジしているような姿にはなってきたのである。深呼吸を20回その体位を維持するようにしているのだが、以前は、足首の痛みとプルプルふるえる太ももの筋肉と腰の収縮する痛みで拷問に近かったのだが、この2,3日、やや気持ちのよい痛みに変わってきたのだった。

そういえば、腕を上げてから体の側面の脇を伸ばす三角の体位も、腕と耳が限りなく遠かったのだが、最近では、無理すれば触れるようになってきた。

体の不調を治すには、全体から直さなければならないというのが東洋医学にあると思うのだけれど、どこかが緩みだすとまったく思ってもいないところの柔軟性が生じてくるものなのかもしれない。

そういうわけで、足の裏の痛みも、玄米菜食とYogaで体を整えれば、やがて、軽減していくかもしれないと、自らの体を実験台にしているわけです。

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2017年05月24日

薔薇の季節に菜食再開

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季節は一巡して庭に薔薇の花が咲き一年で一番良い季節となった・・・というか少々暑いですが。

昨年から始めた田の作業で得られた藁を冬の間に土の上に被せておいたのが功を奏したと妻が言っておりますが、例年花の蕾はできるが全開しなかった芍薬の大きな花も見事に咲き、つっかえていたものが取り除かれたようなすっきりとした気分を味わっております。

わが家の肥料は、この藁と糠と松からつくった酵母だけですが、健やかに成長してくれてます。妻がすべてやっておるのですが。我が家の草花は究極のベジタリアンです。

そんなことを考えていたら、私の体の調子が多少悪くなったのは、肉を食べ始めてからなのではないかと、ふと、気がつきまして、今週からほぼ菜食の世界に戻って参りました。

とにかく、足の裏の痛みが引かない、治らない。

モートン病というのに一番近い症状ですが(走り出せば普通に山道を走れるくらい症状は軽い)、足の第2指と第3指とその付け根の部分が痛い。左右同様に同じ箇所が痛むのです。

こんな風に治療法を考えました。

運動やヨーガで体を若返らせて、10年前の体に戻してしまえば治るのではないかと。

また、ヨーガの修行でも、アヒンサー(不殺生)というのがありまして、生き物を殺すことは、修行の妨げとなるとヨーガスートラに書いてあります。たしかに、人は、生き物を殺さなければ自分の生命を維持することのできない悲しい存在ではあります。宮沢賢治にもそんな小説がありましたね。菜食とて、植物を殺すに違いないが、なるべく意識の眠っている植物などを少量いただいて、体の調子を見ていきたいと思っております。

私の敬愛するあのウッドストック・フェスティバルで演説したスワミ・サッチダーナンダ師も本の中で「捕まえようとして逃げるものを食べるのはよしなさい」、と書いております。

夫婦で、家族で、玄米菜食をするのは、他の家族員の理解と協力がないとなかなかできませんが、菜食はいいですよ。

最近では、知り合いの農家さんの方々から、新鮮で安心な野菜を宅配していただいており、かてて加えて、今年から本格的に田で稲作を行いますので、ほぼ自給自足的な生活ができるわけですよ。

物々交換的に余ったものを融通し合いながら生活の基とすることができれば、楽しいでしょう。

これは、3.11以降、私が目指した方向で、知らぬ間に夫婦で努力していたら、こんな風になっていきました。

この世界を変えようなんて気はすっかり無くなりました。世界を変えることはできません。それは、二次的なものに過ぎません。

自分が変われば、世界は簡単に変わっていきます。

そういうことを学びました。

エネルギーの自給は、まだまだ先のことかもしれませんが、努力を怠らず、情報を集めていけば、きっと、それも可能になっていくのではないかと思っております。

私が一番運動量が多く、故障もなかったのは、やはり、玄米菜食をしていた頃かなあと思います。

そうそう、それで、菜食が多いインド料理に凝りはじめ、ヨーガに気づき、インド哲学を学んでいるという自然な流れがあったのかもしれません。

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2017年05月23日

酔生夢死の人生だけは避けたい

2日に1度、パン種が冷蔵庫の中でちょうど良い具合に発酵するので、パンを焼くのが朝の日課となって幾星霜。

暖かくなったので、冷蔵庫の温度も上昇しているのかしらん?やや過発酵気味ではあるのだが、さらに、二次発酵させたら、どんなパンが焼けるかね、と思ったので、山に走りに行く間、冷蔵庫からテーブルの上に置いて久しぶりにトレイルを走ってきた。

感覚で味合う楽しさというものは永続するものではなく、こういうものに捕らえられると、人生の真実に気づく前に、命の炎が消えてしまう、とある日突然気がついて、インド哲学を勉強し始めた。

「酔生夢死」。何も価値のある事をせず、ただ生きていたというだけの一生を終えること、と辞書にはある。

まさに、自転車に乗り、トレイルを走って感覚的な快楽に身を浸して、気づいてみたら10年があっという間に過ぎ去ってしまった。このままでは、酔生夢死してしまうじゃないの。

まさに、夢を見ているかのようなこの10年。

価値ある人生とは、オリンピックで金メダルを取ることでもなく、総理大臣になることでもなく、億万長者になって他人を見下すことでもなく、ローンを返済する為に会社で働くことでもなく、社長になることでも、幸せな家庭を築くことでも、子供を育て上げることでもなく、有名人になることでもない。

そうしたことのすべてが、本当の自分を知ること、本当の世界を知ることに繋がるような生き方である。これにつきる。

こう言うと簡単なことであるけれど、ウパニシャッドの表現によれば、カミソリの刃を歩くほどの険しさと難しさがあるのだと。

自分の心は、自分を完成させる事業を行えと常日頃自分自身に語りかけていたのだろうが、その聞く耳を持たず、一日一日が充実していればそれで幸せだとうそぶいて、恥ずかしくもそうやって何十年も生きてきたのだった。

何も悟らず、人生の真実というものがあれば、それを探求しようともせず、感覚的な快楽に身を置いて、これが充実した人生だと勘違いしていたことに、ある日ふと、『酔生夢死』という言葉をどこかで読んで、気がつき、このままでは、私の人生が取り返しがつかないことになると激しい後悔の念とともに悟ったのでした。

その方法はどこにあるんだろう?と思ったところ、25年くらい前に足繁く通ったヨーガ教室を思いだし、その頃読んでいた佐保田鶴治先生の『ヨーガ入門』という素晴らしい入門書を本棚から探り出して、読んでみると、まさに僕が感じたことが、そのまま先生の言葉として書かれてあった。

なんと、ここに来るまでに、その時から25年もかかってしまった。

そうは言うものの、やはりトレイルを走ることはとてもの楽しい。この自分の体は、本当の自分ではないとヨーガは教えるけれど、肉体は、「でない」ことを教える大切な物質であることは確かで、それを大切に鍛えることは無駄ではなかろう。

というわけで、日曜日の裸足マラソン大会で、こっそりと裸足ランニング倶楽部?の代表吉野さんの走り方教室を横で聞きながら、その走り方を思い出して、練習したのでした。

家に帰って、パンの二次発酵は、だれ気味で、発酵させすぎたかしらん?とも思ったが、焼いてみたら、気泡もまあまあ満足するような具合で入っていたので、合格点でしょう。

どこかのだれかに妻が持って行くそうで、これまた売り切れ。

posted by ロビオ at 10:37| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月22日

ベンキョウに躓く

アイアンガーといえば、ハタヨガを全世界に広げた功労者でありまして、私の師匠と勝手に言わせてもらっている佐保田鶴治先生も、アイアンガーの『ハタヨガの神髄』という本を頼りに、今は亡き番場先生とヨーガアーサナを研究したとかいうことをどこかで読んだ。

そんなアイアンガーの『心のヨガ』という本に、

学ぶのに大きな苦労を感じるようになってきたときは、それまで学んできたことに専念するようにしなさい。学ぶことは非常に難しい。だが、学んだことをしっかりと自分のものにすることはその倍も難しいのである。

という記述があるとのことを、ツイッターで知った。

まさに、現在、私のインド哲学の学習状況がこんな感じで、本を大量に買い込んで、バガヴァッド・ギーターとウパニシャッドとヨーガスートラをあちこち読み散らかした結果、知識の断片が空に浮き、何がわからないのかがわからなくなってきてしまった。

基礎があやふやなのに、その上に高層ビルを立ててしまった!

かてて加えて、仏教の唯識、浄土教などにも手を広げてしまって、頭の中がうまく整理できていないのだね。

憲法の表現の自由というものが保証されている理由の一つに自己実現の価値があげられているのだけれど、こうした知識をどこかのゼミみたいなところで表現できるような場所があれば、自分の知識の間違いに気づいたり、知識を定着させたりすることが出来るのだが、まだそういう仲間に出会う機会がないので、今しばらく、一人で頑張ってみよう。

初心に戻って、まずは、もう一度、佐保田鶴治先生の『解説 ヨーガ・スートラ』をノートを取りながら、何度も読み返して、知識を定着させ、反芻しようと思う。

僕が参加している2つの勉強会では、一つが、ギーターとウパニシャッド。もう一つが、ギーターとウパニシャッドとヨーガスートラと基礎編の4つのことがテーマになっている。これだけでも、知識の整理が必要だ。

どれもが、微細で繊細な知識を取り扱うので、ガサツな知識や心では、到底取り扱えないものだと知るようになった。

眼光紙背に徹する如く、初心に戻って、もう一度、繰り返そう。

posted by ロビオ at 08:56| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月20日

仕事と勉強の日

事務所で仕事→ウパニシャッドの勉強会→事務所で仕事→ウパニシャッドの勉強会

                                                                      ↑ いまここ

というめまぐるしくも楽しい1日。

仕事をし、学び、仕事をし、学ぶ。

素晴らしいじゃありませんか!

家に帰るのは、たぶん11時過ぎ。

明日は、早朝パンを焼き、その後、6時30分から知り合いのイベントのお手伝い。

何時に起きればいいんだろう?

 

本日午前中のウパニシャッドの勉強会は、ようやくカタ・ウパニシャッドの冒頭部分に入りましたです。

本日は、カルマの基礎知識を少し学んだ。

カルマとは、働きとその結果のこと。

すべての働き(行ったこと、見たり聞いたり感じたり思ったことのすべて)とその結果の事であります。

これらが、結果を現世で生じさせればいいのですが、結果が生じないことは、どんどん溜まっていきます。

 

そんなカルマの3つの種類

1 Sanchita

2 Pranabdha

3 Kriyamana

の3つのカルマがございまして、1のサンチッタ・カルマは、前世からずっと溜まり続けたカルマのことで、その中のカルマが現世に現れたのが2のプラナブダ・カルマで、現世で作り上げているカルマが3のクニヤマーナ・カルマであります。

2のプラナブダ・カルマは、いい意味では使わず、過去の因果の悪い結果が生じているような意味合いで使うという。

それでは、そのカルマをなくすにはどうしたらいいか。

行為をしているのだけれど、本当の自分は行為をしていないという風に、自分の肉体と魂が全然別のものと悟れば、行為は生じていないというアイデアがあります。

そうすると、カルマは生じず、溜まって行ってしまうこともない。

バガヴァッドギーターのカルマヨーガもこのことを言っているんでしょうね。

これ、基礎の基礎なので覚えておきましょう。

というわけで、これから、場所を変えて、今日2回目のインド哲学勉強会に行ってくるのであります。

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2017年05月19日

ヨーガ教室に参加

腸が煮えくりかえるような思いを3.11以降何度か経験したが、今日もそんな幾日かの一日。

日本は確実に滅びつつある。そんなに時間はかからないと思われる。

さて、どうするかと考えるのだけれど、環境がどうであれ、それに動じない自分を鍛え上げようと考えて、それにもっとも良い方策はヨーガであるとの結論はずいぶん前に出しているので、久しぶりにヨーガ教室に参加したのだった。

二ヶ月くらいお休みしていたのは、ヨーガのアーサナをやって右のお尻の腰骨の中の筋肉だか筋が痛くて痛くてとてもじゃないがヨガは続けられなくなってしまったのだった。鍼もやってもらったけれど、効き目なし。足の裏の痛みと同じ、治らないんじゃないのかと思ったけれど、自己治癒力というのはまだあったようで、徐々に痛みが鎮まった。

ヨーガ体操が気に入っているのは、一人でできること。

ただ、自分のやり方が間違っている場合もあるだろうし、先生に色々とヨーガについて聞くこともできるだろうと思って、当初は週に三回通おうと意気込んでいたが、現在、週に一回通うことにして、これで十分だと思っている。

ヨーガ教室も、パン教室も、インド哲学の勉強会も、大半は、女性で、私は、マイノリティー。

私が好む習い事は、同性の輩は興味がないようで。

ヨーガと言えば、アクロバティックな曲芸のような体操だと思っている人が多いが、それは、悟りのための準備であって、どっぷりと実は、宗教的な行為なのである。

そこが素晴らしい。

僕の通っているヨーガ教室は、宗教的なことはあまり全面に出していないのは、それはそれでいいんだけれど、ヨーガの体操だけで、インド哲学を学ばないのは、とても勿体ないと思うので、ヨーガ体操を習っている人は、是非ともインド哲学を学ぶといいですよ。

荒唐無稽に思えたことが、理にかなっているじゃないの、と学んでいく内に腑に落ちるはずですので。

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2017年05月18日

田んぼの雑草取り機

最新農具導入です。

昨秋の田の収穫は、ズブの素人の私が考えますに、田の手強い雑草コナギにやられたと思っております。

今年は、ちょくちょく雑草取りをしなければ、全滅ということにもなりかねないので、ヤフオクで田の雑草取りをポチッとして、購入しました。

この雑草取りは、まだ、それほど、田に雑草が根付かない未成長期に、これで水田の中を押し運び、回転する部分で土を撹拌させて雑草を田の水に浮かせるといったものであるようです。

今年は、農作業に精を出し、米を他で買わなくてもいいくらい、もっといえば、他のご家庭にお裾分けできてまだまだ残っているというほどの収穫量を上げたいものです。

 

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2017年05月17日

交通違反

この世の中に生まれたのは、学ぶためであるというふうに考えている。

学んで完成を目指すこと。これが、人生の目的である。

理不尽な扱いを受け、悲しみに落ち込み、自分のしたことが恥ずかしくてしょうがないとき、ふと、感情に流されてしまいがちなのだが、そのときは、これも学びだと、このことから教訓を得ようというふうに考えると心が落ち着くことが多いようだ。

先日、交通違反で捕まった。

1点減点、6000円の罰金。

昔の自分なら、自分の違反のことは棚に上げ、交通巡査はまっとうな仕事をしているだけなのに、見当違いの怒りで心を千々に乱され、自分の不運を一方的に呪ったことであろう。

あわよくば、自分の違反を見逃し給えという欲望を、摘み取られ阻止された結果の怒りである。

しかし、交通法規を守らなければ、交通事故を引き起こしたらそれは只ではすまされないし、こちらの命も危ない。

交通法規も、各条文に理にかなった理由がある。

こちらには、理にかなった正当な理由がない。

たしかに、私の行った行為は、他人にも自分にも危険を惹起させる行為だ。

これは、誰の為にもならない行為である。

そういうことに気づかせてくれたという点で、自分の為になっているのだというふうに考えたら、否定的な気持ちがすっかり消えてしまった。

こうした行為を行わないことで、未来の自分が交通事故を起こすという可能性を狭めてくれたかもしれない。ひょっとすると、この罰金6000円で、自分の命が助かるのかもしれない。

交通法規の罰金は、授業料。以後、同じような間違いはしないと気をつけるだろう。

こんな風に考えて、巡査と別れる際に、「どうもありがとうございました。」という言葉が口から自然に出たのには自分で驚いた。巡査もきょとんとした顔をしていたけれど、まあいいだろう。

私以外のすべての環境を変えることはできない。しかし、自分が変わることで、世界の有り様は変わっていく。

思い通りに世の中はならない。しかし、自分が変わることで、世の中はどうにでもなるのではないか。

こんな風に、学んだ訳であります。

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2017年05月13日

『永い言い訳』『湯を沸かす程の熱い愛』@ギンレイホール

『永い言い訳』と『湯を沸かすほどの熱い愛』の二本立てを、飯田橋ギンレイホールで観てきた。

どちらも、水準以上の映画で楽しめた。

でも、それで?という感がしないわけでもない。

ネタバレあるので、注意してくださいな。

『永い言い訳』は、本木雅弘の演技が良かった。中盤まで、エゴイスティックで嫌な奴を演じるようにという監督の注文に見事に答えているのがよくわかった。後半から、嫌味がなくなって、なんでこんな下手な俳優使っているのかね、という感情が徐々に消えてしまったのは見事。前半、嫌な奴、演技が素人っぽいギクシャクしたもの→後半、普通の人、自然な演技という流れがよくわかりました。

妻役の深津絵里は、冒頭の大切なシーンのあと、すぐに死んでしまうので、出番はないのだが、主人公の本木雅弘との二人の関係をセリフだけで説明して、こちらが映像を見て二人の関係をそれ以上に想像させることを拒否させるという監督の指図どおりうまく演技していた。

家族という居場所のないDINKSの二人が、一人はバス事故で死に、一人は、家族ごっこを経験して、自分の居場所を確認するといった内容の映画だった。

もう少し言うと、アイデンティティの問題であるのでしょう。

衣笠祥雄という広島東洋カープの有名選手と同じ本名と作家としてのペンネームを持つ主人公。

この2つの名前を行き来して、本当の自分を本木雅弘は見つけ出せたのか?

この2つの名前がどのように使われているかを注意深く映画を見ると、なるほどね、ということになるはず。

監督が原作者でもあるので、安心して話の内容を確認はできるが、映像的な表現があまりなかったかね?

というわけで、映画自体の陰影を深く感じることはできなかった。でも、話自体は興味深いので、もう一度観たいと思わせる映画でした。

『湯を沸かすほどの熱い愛』は、脚本主体の映画だったと思われる。

複数の伏線が、あれま!とつながる快感はあるものの、木を見て森を見ずの感が無きにしもあらず。

余命2ヶ月と宣告された母が、娘と蒸発した夫になすべきことをなして死んでいくというストーリーである。

伏線は、

なぜか、娘に、彼氏のために勝負下着をプレゼントする。

なぜか、娘の誕生日に、タカアシガニが送られてきて、娘にお礼を書かせている。

なぜか、その娘は、手話ができる。

なぜか、夫に、エジプトへ行ってみたかったと話す。

なぜか、娘に、自分は赤が好きと話す。

まだまだ、あったかもしれないが、こうした伏線がすべて繋がり、涙腺を刺激するのではある。

ところで、この話の舞台は、銭湯を経営している一家の物語なのではあるが、その必然性は、衝撃的なラストを描きたいから設定されたような気がする。

脚本があり、その伏線の落ち着く先を見せたいから、銭湯を描いているのだね。

まあ、よくできた脚本(アイデア)だと思います。

うん、そうそう、脚本というか、素晴らしいアイデアなんだね、この映画の素晴らしいところは。

すべてオリジナリティがある。

が、このオリジナリティあふれるアイデアを羅列しただけでは、優れた脚本にはならないので、様々な趣向で伏線をうまく隠すことも成功しているんだね。それでも、やはり、話の筋に無理がある。

その無理が、宮沢りえ、オダギリジョー、その娘達の卓越した演技でリアリティを与えているので、ほとんど目立たなくなっているのが、この映画の成功の基礎となっておる。

男優賞、女優賞総なめになるんじゃないかなとは思いますがね。特に、娘さんの演技が秀逸。

違和感を持ったのは以下の通り。

自分の生みの母親に突然会わされた娘が、すぐに過去のわだかまりを克服して、なかよく余命2ヶ月で死にゆく育ての母親と共に仲良く暮らしていけるものでしょうかね?

また、オダギリジョー扮する夫も異常な男ですね。これだけ、何も感じない男もいないでしょう。

娘のいじめは、なくなったんでしょうか?勝負下着だけで、解決したんでしょうか?何も、映画では音沙汰が無い。

宮沢りえ扮するお母ちゃんの歴史というのも、生き別れた母親がいるというだけで、説明がない。そして、この母親を探し出して、会いに行ったところ、そんな娘はいないと会うことを拒否されてしまう。つまり、この映画でたったひとりだけ、血の繋がった親兄弟がいないのが宮沢りえなのですね。

そうであるのに、夫の連れ子である娘達を一生懸命育てて、しかも、前妻と娘を仲良くさせて、その仲睦まじい姿を見て、いったいどう思うのか?まったく、説明されていない。

つまり、そのあたりの微妙な登場人物の立ち位置というものが、まったく描かれていないわけで、この点がとても不満で、残念なところでした。

ラストは、とてもグロテスク。こんなラストでいいのかよ、趣味悪いなあと思ったんだけれど、皆さん、涙してました。

監督には、もっと人生勉強を積みなさいといいたいところ。才能はあるので、また次に期待しましょう。テキパキとつくるだけが映画じゃないものね。

そんな映画でした。

あと、宮沢りえ痩せすぎ。体重増やすべし。この映画では余命2ヶ月ということで良かったけれど。

posted by ロビオ at 04:41| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする