2017年06月13日

ネオン・デーモン 他1本 早稲田松竹

毎週のように早稲田松竹へ行っている。

今週は、「ネオン・デーモン」と「五日物語 ―3つの王国と3人の女―」という映画を見てきた。

昨年の12月に、僕に何が起こったか忘れたが、とにかく、今まで、週末は近所の野山で走り回った犬のような生活をしていたのだけれど、それを改め、土日は都会に出て、映画、美術館、博物館に行くことに決めたのだった。

それに、溜まった仕事をこなす為にも都心にでる必要もあり、朝と夜にインド哲学の勉強会に出席しているので、野山を走り続ける訳にはいかないのだ。

というわけで、野山を走るトレイルランは、早朝1時間から1時間30分くらい近所の里山を周回している。

久しぶりに1時間30分を、心拍数を上げながら走ったら、立ちくらみがしたので、長い間眠っていた心拍計を胸に巻いて、マフェトン心拍域(最大130)で運動量を制限しながら走ることにした。

ヨーガをやり始めて、手のひらに棒を垂直に置いたように、骨盤に背骨が垂直に乗っかっているような安定感を感じるし、ハムストリングスの異常な固さも、ずいぶんと柔らかくなり、全体的にゆらゆらと体が全体で衝撃を吸収しているような耐震構造の体になったかのように思える。

バンダを加えたナーディ・ショーダナという呼吸法も、肺を広げてくれているみたいで、呼吸するのが楽になっているのかもしれない。

ヨーガとトレイルランは仲良しさんなのである。

食べ物も、ビーガン風に戻した。

寝る前にヨーガは1時間欠かさず。

何事にも限度を見極めず、やり過ぎてしまう欠点があるので、やや抑制しながら、心身の健康面を考慮して、一人で毎日旅立っているわけだ。

さて、映画の話だが、先日、ヨーガ教室の初心者用クラスで学んだことは、我々の悟りに至る道を塞ぐ「6つの敵(シャダー リプ)」についてだった。我々は、これらの感情に支配されないように注意深く自分の内面を考察しないといけない。不幸になるから。

その1 カーマ(欲情)

その2 クローダ(怒り)

その3 ローバ(貪欲)

その4 モーハ(執着)

その5 マダ(傲慢)

その6 マッチャリア(嫉妬)

である。

この日見た映画、たとえば、「ネオン・デーモン」は、まさに、これらの要素で分析すると、こじんまりとしたなんでもない話になってしまう。

というか、ほとんどすべての映画をこの6つの視点からみると、とても話の内容が整理されてしまうのがわかるだろうと思う。

ことほどさように、この6つの感情は、誰でもが共有している、いわば人間性の証明とも言うべきもので、これらの要素が交わって、ドラマが生じ、これらを克服したところに到着点を置く映画や小説は掃いて捨てるほどあるだろう。

これら6つの「敵」が生まれるその根本は、無知にあるのだけれど、その無知から生じた欲望から生じている。

また、これらの6つの感情は、私たちの行動を起こすエンジンのガソリンにもなるので、一概に悪いとは言えないのだろうが、こうした感情はない方がずっといい、という地点に私はあこがれる。

「ネオン・デーモン」という映画では、その5のマダとその6のマッチャリアつまり、傲慢と嫉妬が物語の通奏低音として響いている。モデルとして、とんとん拍子に出世する主人公が他の者に有する優越感。そこから生じる傲慢。

主人公のモデルとしての容姿、才能に対する劣等感。そこから生じる嫉妬。

劣等感や優越感が生じるのは、人と自分が異なる存在であると認識しているからこそ生じる感情で、

 

この二つの感情が物語を動かしているのが、よくわかる。

誰にも共感できる人物が生じないようにわざと作られている映画ではあるが、こちらに馴染みのあるこの二つの感情が物語を安定させ、理解させる道具として使われている。

という風に、インド哲学を学ぶと、映画を理解する着眼点ができるし、嫉妬や傲慢に対する深い理解ができているから、話を掘り下げることもできるのが、とても面白い。

週に2本から4本、映画館で映画を見れば、つまらない映画にも出くわすのだけれど、インド哲学で学んだものを、現実の社会にあてはめ、理解するための勉強として考えると、つまらない映画もいい素材になってくる。

posted by ロビオ at 10:24| 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月31日

七人の侍

新・文芸坐の友の会に入っている。

とてもお得で、年会費2000円払って、そのときに、2本立て1300円の無料映画券を1枚くれるので、その差額800円になっている。

そして、友の会の会員は通常1300円のところを、1050円で見ることが出来、さらに、8回映画館に通ってポイントを貯めると次回は無料になる。

というわけで、今回は、その8回目のポイントが貯まったので、無料で、黒澤明監督の『七人の侍』を見ることにする。

映画は、世界で一番有名な映画の一つで、誰もが知っている映画ではあるけれど、意外と映画館で見る機会がないのではないか。

私も、映画館で見た記憶が無い。ビデオ、DVDで、何回も見たけれども。

長い映画で、3時間20分。

2本立てを基本とする新文芸坐では、例外の1本立て。

お客で満員。

以前、ヴィスコンティの『山猫』をここで見たが、その時も、こんなふうに混んでいた。たいてい、初回は空いているのだけれど。

野武士の野盗は、画面の右から左へ走って行くのは、映画文法の定石通り。

クローズアップ、超クローズアップの使い方が凄いと思ったのは、最近、映画の技術に関する本を読んでいるからかもしれない。

一つの退屈のする場面がなく、次から次へとつながり編集されて、物語を前に前に強力にプッシュする力は一体何なんだろう。

野盗の群れが、坂道を馬に乗って下ってくる迫力が、スタンダードサイズでも表現できることに驚嘆。

挟み撃ちをして最終決戦をするさいのカット数は、物凄い数になるはず。

7人の性格を、手際よく説明する手腕に脱帽。

主に3箇所のロケで映画が撮られたそうだが、編集が完璧なので、全くそういうふうには感じない。

最後、死亡した4つのサムライの墓の前で、残った3人の侍が映されたシーンの広大さは、どうやって撮ったんだろう?

今回見て圧倒的だったのが、三船敏郎の演技と運動神経。

もう、画面からはみ出してこちら側に出てきてしまうほどなのだ。

志村喬の放つ矢が飛沫を上げながら放たれるしシーンは、何度見てもいいシーンだ。

野武士に人身御供として弄ばされている村の人妻(島崎雪子)が、火を放たれて、最初慌てるが、その場で死んでもいいと思い返して笑みを浮かべるシーンの演技は凄い。もう、この女優さん、一生分の演技をここで費やしてしまったのではないか?

こんな素晴らしい映画が、日本で生まれたことを誇りに思うとともに、いまだ、これを抜く娯楽映画はないんじゃないかとも思う。

オールタイム・ベストの映画であることを再認識した。

posted by ロビオ at 05:41| Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月28日

何事も勉強が不可欠だということで

この手の映画の技法に関する教科書を読むと、今までの自分の映画の見方がいかに脆弱だったかについて思い知らせられる。

映画作家が映像にして発したメッセージを的確に受け取ることが出来るかどうかは、こうした知識が不可欠だ。

こうした知識があると、色々なことを映像を見ながら考えるので、映像が頭に鮮明に残るのですよ。

『マルホランド・ドライブ』だって、こうした知識を総動員すれば、あれま、すっきり、訳がわかったような気になる。

ただの感想、あるいは、印象しか残らなかった映画が、なぜそう感じたのか、心を打ったのか、あるいは、つまらなかったのか、論理的に例証を挙げて、考えることが出来る。

理論は、じつに素晴らしい理解のための道具であることでしょう。

同じように、文学作品や絵画やバレエや演劇や音楽にも同様の理論があるので、この大きな本(Uもある)を読み終えて、メモして、記憶したら、そっちの方面を勉強しましょう。

映像論に関しては、カメラで写真を撮るときにも、ミゼンセヌ(舞台の配置)とか、色々と流用できるような気がする。

絵画をみても、今までとは、ちょっと違った角度から鑑賞できるかもしれない。

事程左様に、理論というのは、見方という角度を色々と教えてくれるものです。

何事も勉強して損はない。それが、他のものにも流用できれば、二乗倍に人生を楽しめるかもしれないね。

posted by ロビオ at 11:56| Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月16日

Formaを観た(ネタバレあり)

映画館のスクリーンに、登場人物が右から出てくるか、左から出てくるか?、という演出があって、例えば、ヒッチコックの「見知らぬ乗客」という映画の冒頭シーン、普通の靴を履いている主人公は、左側から、生存を脅かす存在になる敵役で、白とクロのコンビの靴を履いた人物は、右側から登場する。

そして、同じ電車に乗って、コンパートメントの対面に座り、交換殺人の話が出て・・・というサスペンスが始まる。

つまり、欧米人にとって、左から右に文章を読む癖がついているので、左から登場する人物は、異常事態ではなく、左からあるものが登場するという事態、慣れない視線を共用されるがゆえに、ザラザラした、居心地の悪い感覚を、観客に与える効果があるのだそうだ。

というわけで、先日見た映画『Forma』http://forma-movie.com/jp

登場人物が、ほとんどすべて右から左に現れる。映画は、淡々とよくありうる話が続くのだけれど、観客は、何か得体のしれない物語が既に始まっていることを予想するのである。

この映画の特徴は、シーンのすべてがカメラを固定したロングショットの長回し。カメラが移動することもなく、ズームもしない。一点で固定して動かない。そして、音楽がない。照明がない。

ビデオで、定点観測をしているか、あるいは、ATMの犯罪記録カメラのようで、長回しのショットをつないだ映画とも言える。

観客が、音楽、照明の当て方、プロットの流れ、カット割りの速さ、カメラの位置で、話の方向性、意味を汲み取る芸術が映画というものだろうに、そうした技術を敢えて放棄して演出しているところが凄い。

定点に置かれたカメラで、人物を撮るわけだから、カメラが主人公の視線となって相手の顔を映し出すことによって、二人が相対して、相互に相手を映し出すことによって、その場に生じている感情を、言葉の意味を汲み取っているという演出は皆無である。

ある部屋の、場所の一箇所に、隠しカメラのように置かれているわけで、カメラの存在に気がつかない登場人物は、覗かれていることも知らずに、日常生活を営んでいることになる。

だから、登場人物が、この隠しカメラの存在に気がつくまで、一切、カメラに目を向けることがないことになり、つまり、登場人物の顔を真正面から捕らえたショットは、一回しか登場しない(かったはず)。

映画に溢れる色(音の氾濫も同じ)が、時の流れを変えるという演出方法があり、画面に色が氾濫すると、観客は様々な色を追いかけることになり、情報が氾濫するのに忙しく、その分、時間の経過が速くなると感じることができる。

この点、この映画は、色は、蛍光灯のオフィスを普通の感度のカメラで写したやや青白っぽいビデオ撮影の色に支配されて、この点でも謙抑的だ。

音に関しても、音楽は一切ないかわりに、台所の石油ストーブの上に乗せた薬缶の湯の沸き立っている音とか、そういう音を、登場人物が話す声と同じくらいの音量で流したりするという演出や、

喫茶店で登場人物が話す言葉を、手前のテーブルで話しをしている二人連れの声と同じくらいの大きさの音で拾って、話している内容をわかりづらくする演出や、

突然、コップが床に落ちて、割れる音を、大きな音で流したり、

その他にも、色々あっただろうが、計算され尽くした演出が心憎いのである。

脚本に関して言うと、ある状況を設定して内容を役者に理解させて、自分のもっている「日常」で語る語り口で、自由に会話をさせたというふうに思えるほど、整理されていないセリフの過剰が、実に、自然な形でセリフとなって浮かび上がってくる。

なお、物語の進行は、アリストテレスの悲劇論を踏まえて、登場人物の紹介→敵役の存在→その対立が生み出すラストという流れを綺麗に追いかけているのだが、途中で1箇所、時間系列が前後するので、長回しのロングショットを見続けているしびれかけた頭に、血流を促すいい気分転換になっている。

なにせ、2時間20分を超える映画である。こういう点でも素晴らしい演出だ。

殺人の場面でも、主人公の一人が、これから起こるであろう女二人の修羅場を段ボール箱に穴を開けて隠しカメラを設置して証拠を掴もうとしておいたものが、映画としてのカメラの視点に置き換わるので、実際の殺人場面も、倉庫の段ボール箱の影に隠れて映しだされない演出だ。

こうして、この映画は、様々な映画技法を駆使することによって、観客を映画の世界に泳がせるというよりも、そうした映画技法を剥ぎとってしまったところから、サスペンスやリアリティーを浮かび上がらせることに成功したように思える。

定点から映される20分を超えるロングショットの画面の中で起こる女二人の喧嘩の場面は、リアリティーがあり、それをどこかで覗き見しているような感覚があり、ああ、女の人ってコワイと心底思ったのは事実である。

最後に、この間読んだ『ヒッチコック「裏窓」 ミステリの映画学』加藤幹郎著によれば、ヒッチコックの『裏窓』で起きた殺人事件は、本当に起こったのか?ということを、わざと直接の現場を映さないことによって、ヒッチコックが二重の意味を生じさせたと解釈している

確かに、殺人現場もなく、犯人が直接殺人を自首した場面もないから、そうとも言えるのかもしれない。そのことが、映画に奥行きをもたせているかどうかは疑問だけれども。

この映画も、こういう視点で見ると、殺人が行われた場面で、殺された(とされる)女の足が動かなくなったとしか見えないし、その映像テープを見た父親が、娘を(殺したとされる)かつての愛人(とされる)女のところに行き、女は号泣し、父親は膝をついて崩れ落ちている姿を、遠いところから長回し(20分以上!!!)で撮っているだけなので、殺人は実際に起ったのか?父親と主人公の友人は本当に「出来て」いたのか?という疑問も生じていいのかもしれない。

とにかく、あらゆる映画的なもの(映像や音によって、あるいは、脚本によって真実を明らかにするといったようなもの)を隠すことによって、ふしぎなリアリティーが獲得された素晴らしい映画であることには間違いない。

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2015年05月15日

紙の月(ネタバレ注意)

宮沢りえ主演の映画『紙の月』を観た。

始終、ヒロインに感情移入できないのは、横領事件に手を出すその動機に説得力がないからだ。

学生時代に天災に苦しむ子供を助けるための寄付金を、親の金を盗んでまでも寄付したという善悪の感覚が少しばかり偏っているという説明とどんな大きな犯罪も、最初は小さな犯罪から始まるといった私達が持っているある種の先入観を、「男と金」というテコを利用して、説得力を得させようとしている。

普通の人なら、犯罪の一線を超えるその壁は高いものなのだけれど、彼女は、こうした性格だから、簡単に踏み越えちゃった、そういう風に見えるのだ。

けれど、それは、見る側の予想の範囲内のことであって、そこには、ドラマ的な盛り上がりが少ないのだね。

この映画の内容だが、アリストテレスによれば、物語とは、主人公の説明、次に、対立者の存在、最後に、両者の対決があり、結論が生み出されるという流れになる。

この映画の場合、対立者の存在というのが、やさしいできすぎた夫との日常生活になんとなく満足できない自分自身ということなのだろうけれど、それを乗り越えてこそ、彼女自身が成長する物語、あるいは、苦労の末、敗れ去ったとしても、それまでとは違った自分がここにいるという風に流れないと(ロッキーみたいに)、見る側もココロを動かされないのだ。

この主人公は、平凡だったパートの主婦から、一ミリたりとも最後の最後まで成長していない。見終わって、こちらの気分も高揚しないのである。

2時間程度の映画だと思うが、銀行にパートとして働く主婦が、旦那とのすれ違いを感じ始めた頃、訪問先のお客の甥っ子とできちゃって、浮気をしながら、銀行の金を横領し、捕まる寸前に国外逃亡する話。

以上!で終わってしまう。

という風に、あまりにもわかりやすい筋書きなので、色々な捻りや、屈折した伏線がなければ、映画が持たない。原作に難ありなのか、脚色が悪いのか?

それが、どうにかもっているのは、主役の宮沢りえの魅力だ。

昔のハリウッド映画なら、ベッドシーンなど写さなくても、電車で出会った二人が見つめ合い、ホテルの入口まで歩いて行けば、それだけで、その後の経緯は100%どうなったか説明したことになるのだけれど、この映画では、何度もこんなシーンが続く。

こうしないともたない映画なんだろう。こうした過剰な説明映像を省いたら、単なる10分位のドキュメンタリー映画に堕してしまう可能性がある。だから、魅力的な主人公が必要だったのだ。

たしかに、宮沢りえは魅力がある。

けれど、痩せ過ぎで、顔の頬骨が飛び出て、上唇の鼻の下あたりの肉が薄くて、上の歯列が浮き出て見えるよう(サイコのラストシーンでジョージ・チャキリスの顔と母親のミイラの顔がダブって写されるけれど、そんな感じ)。

最後に、詰問されている銀行の部屋から、大きな窓を椅子でぶち破って逃走するシーンがある(唯一、唐突で意外性があって、一瞬、スカッとした爽快感があるが、次の瞬間、この主人公は、何から逃げて自由になろうとしているんだろうと頭の中でQuestionsが現れて、すぐに快感から冷めてしまった。「カッコーの巣の上で」でチーフが水飲み台を担ぎあげて扉を壊して逃げ出すシーンには感動したが)。カメラは、横から走る姿を取るのだれど、竹馬を履いているのではないかというほど、足が細い。

願わくば、フアンの一人として、あと、5キロほど太った宮沢りえが見たいものである。

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2015年04月18日

ホドロフスキー監督の「リアリティのダンス」を観る

早朝、トレイルを走って、池袋へ。
ホドロフスキー監督の「リアリティのダンス」を鑑賞。
いやあ、素晴らしかった。あっという間に時間が過ぎてしまった。
その色使い。見事ですね。
混沌とした色彩と3色くらいに絞った画面とほとんど色の抜けているもので、空間と時間を自由自在に引き伸ばしたり縮めたりしている。
これは、ビデオで出ているのならば、もう一度観てみたい映画である。今年見た映画では新鮮度は一番だった。
併映の「ホドロフスキーのデューン」は、幻に終わったホドロフスキーの映画「デューン」についてのドキュメンタリー映画。
主役がデビッド‥キャラダイン、ミック・ジャガー、サルバドール・ダリ、オーソン・ウェルズっていうだけで、観てみたくなる。
ほとんど知識がなくても、とても楽しめた映画で、上記俳優たちとの出演交渉のエピソードもとても面白い。
ホドロフスキーというのは何者か?こいつは、ただの映画監督ではないと思うのは、自身「預言者」と思っていて、芸術の神様からインスピレーションを受けて、それを、超一流のスタッフにヴィジョンを伝えるという役目を大切にしていることがよくわかった。
「エル・トポ」は、是非見たい。
ビデオ屋に置いてあるだろうか?
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2015年04月12日

第三の男 恐怖の報酬

病上がりの体が、すこしばかり良くなったので、早朝1時間ほどジョグして、今日の予定を考える。

最近、こんなふうに、朝2,3時間ジョグをして、残りの時間を有効に利用するという休日の使い方になっている。

運動は、最長3時間程度で十分でしょう。朝8時には家に戻って、その他に、予定をこなせばよろしい。

平日も休日も分け隔てなく、体を鍛え、かつ、自分自身の自己実現要求を満たすことが出来る時間の使い方だ。

というわけで、今日の予定は、都バスの1日無料乗車券(金500円也)を使って、池袋から適当にパスを乗り継いで、どこか遠くまで行って、なんとか、そこから、池袋まで戻ってくるという遊びを始めようかと思ったが、池袋についたら、バス乗り場が長蛇の列。後からわかったのだけれど、山手線の事故で電車が止まったからなんだね。

こりゃ、御免こうもり傘。

というわけで、昨日に続き、新文芸坐で映画鑑賞だ。

イギリスの高級住宅地、ハムステッドを歩いていて、ここにキャロル・リードが住んでいたという小さな看板がかかっている前を通り過ぎた。

今日は、そのキャロル・リード監督の名作『第三の男』と、アンリ=ジョルジュ・クルーゾ監督の『恐怖の報酬』の二本立てを楽しんだ。

前者は、10回位は見ている。後者は、3回目。

しかし、映画館で見るニュープリントの白黒映画は素晴らしい。音もよかった。

今回は、より深く映画を鑑賞するために、以下のことを注意しながら見てみた。

カメラを斜めにして写された映像がどんな場面に使われているか。

「マーダー」と叫ぶ少年の効果。

音響がどのように使われているか(チターの奏でるテーマ音楽に、英米露仏の占領下にあるウィーンの何を行っているかわからない各国語も音響効果として有効に使用されている)。

アリダ・バリが、ハリーとホリーを言い間違える脚本上の意味は一体何か?

ホリーがキャラウェイをキャラハンと言い間違える脚本上の意味は一体何か?

ホリーの米語とキャラウェイの英語がどのように脚本上活かされているか?

昨日見たドイツ表現主義の名作『カリガリ博士』の影響はどんなところに現れているか?

などなどの視点から、この映画を読み解くと、じつに味わい深いものがあって、面白い発見があった。

そもそも、主役がホリー・マーチンスとハリー・ライム。

ホリーという”聖者の”とかいった名前を有するマーチンスと、その友人ハリー・ライムが主人公と敵役という対立を生んで、その対立がピークを迎えて結末に至るという脚本であるから、神とサタン的な対比がなされていることを読み取れば、夜のウィーンの町の光と影の対比が必然であったことがわかるわけで、脚本のいろはを知っていると、味わい深く鑑賞できるのだ。

ライトに照らされたオーソン・ウェルズ扮するハリー・ライムの顔が薄試打されるシーンはいつでもココロが弾むのは、そういう演出があるからでもあるけれど、極悪人に感情移入をさせてしまうニヤリとふてぶてしく笑うオーソン・ウェルズの名演技でもあるんだね。

あれやこれや、抜き出すと収まりきれない映画の教科書のような映画なので、またもう一度見て勉強したくなる。

今回、おやっと気づいたのは、ラストのシーン。

ハリー・ライムの2度めの葬式後、トレバー・ハワードに駅までジープで送ってもらっているジョゼフ・コットンが車を降りて、アリダ・バリを迎えるという有名がラストシーン。

降りるときのセリフが、飛行機の時間に間に合わなくなるので、そんな馬鹿なことはやめろと諭されて、

「そんな分別のある名前じゃないんでね、キャロウェイ」と答えて、車を降りるホリー・マーチンス。もちろん、ホリーという名前に引っ掛けて行っているわけだ。

CALLOWAY:  Be sensible, Martins.
MARTINS: I haven't got a sensible name, Calloway.


その時、キャロウェイの頭上に十字架が写るのを発見した。もちろん、背景のお墓なんだけれど。



監督がそれが写るように配置したのだけれど、これには参ったよ。降参です。



というわけで、映画をとことん味わい尽くすことが、ほんの少しの知識で得られるのだから、何事も勉強だ。



次の映画は、『恐怖の報酬』



仕事にあぶれて、にっちもさっちもいかない南米の吹き溜まりの町にいる男たちが、2000ドルという成功報酬に目が眩んでニトログリセリンを積んだトラックを油田の火災現場まで運ぶという物語。



これも有名が映画なんだけれど、今回、ホモセクシャルな関係というのが、強烈ににじみ出ていて面白かった。



最初の1時間余が、物語の背景説明で、次の1時間30分が、スリルとサスペンスのてんこ盛り。



見せ場は、なまこ道というゴツゴツした未舗装道路を走るシーン。今にも腐り落ちてしまうような橋の上で切り返せないと曲がることの出来ない山岳道路を上るシーン。行く手を塞ぐ岩を、運んでいるニトログリセリンで爆破するシーン。何らかのミスで自爆した跡にパイプラインの破損部から油が漏れだして池のようになっているところを脱出しなければいけないシーン。



この4つの見せ場を、いかにスリルとサスペンスで盛り上げるかが、後半の勝負だ。



どんな映像的手法が使われていたか・・・・。枚挙にいとまがないけれど、こいつも、もう一度、細部まで読み込んでみたい映画だ。



名画と言われる作品は、見るたびに発見することがある。



もっと映画を味わい尽くしたい。



というわけで、図書館で、映画の文法を解説したような本を借りてこようと思う。



そうした知識を取り入れたら、次は、映画館で理詰めの鑑賞をするのだよ。



ちょっと、今年は、映画の年になるかもしれないね。



来週も、暇があったら、映画見に行こう。

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2015年04月11日

サイレント映画(弁士、生演奏付)を堪能

新文芸坐で、黒澤明が選ぶ100本の最終回は、『カリガリ博士』『アッシャー家の末裔』『会議は踊る』の超有名な映画の三本立て。

開始1時間前に行ったら、もう列ができてる。

開始早々満席で、こんなマイナーなサイレント映画にこれだけ映画フアンが集まるというのは嬉しい限り。

まえに、ここで、ヴィスコンティの『山猫』を観に行った時も、お爺さん、お婆さんの年齢の人が、列を作って並んでいたっけ。

ボクも映画フアンだが、こういう人がいる限り、日本はまだまだ捨てたもんじゃないとその時も思ったし、今日もそう思った。


ボクの見た回は、『カリガリ博士』が柳下美恵さんというサイレント映画専門のピアノ演奏家のみの演奏で、『アッシャー家の崩壊』では、片岡一郎さんの弁活と湯浅ジョウイチさんのギター演奏付きでサイレント映画を堪能。

ボクの祖父の弟にあたる人が弁士だったんだけれど、品のいい東京弁が懐かしく思えた。

サイレント映画は、『ナポレオン』と小津安二郎の『生れてはみたけれど』くらいしか見たことがなかったのだが、セリフがなくても、十分映像で雄弁に物語ることが可能なんだね。

『カリガリ博士』のドイツ表現主義は有名だけれど、『第三の男』の影の使い方とかね、オマージュとして使用されているわけだし、冒頭の主人公が、屋外のベンチに座って、これまでに起きた出来事を初老の紳士に語っているという冒頭のシーンは、まさに、『フォレスト・ガンプ』にもあったよな、なんて、いろいろな映画を思い出しながら楽しんだのでありました。こういう映画の落ち・・・実は、主人公が語る荒唐無稽な話は、主人公が精神病棟の患者であって、・・・というのは、色々なところで使われているはず。
セットは、すべてデフォルメされた舞台装置で、かなりシュールな印象なのだが、これが、ドイツ表現主義というのだそうだ。三角形のドア、平行四辺形の小屋、道化師のように化粧された顔、壁に映る大きな影など、思い出せないけれど、様々な映画で影響を今も与え続けているのではないかしらん。映画フアンに共通しているアカシックレコードのように記憶されている映画と言えるのかもしれない。

2作目の『アッシャー家の崩壊』は、これもまた無声映画で、弁士の語りとギター生演奏で楽しませてくれたけれど、ボクの祖父の弟は、弁士だったという芸能家族だったんだけれど、大正時代の映画というのは、こうして生演奏で映画を見ると、本当に贅沢極まる娯楽だったというのがわかるんだね。

映画も、これこそ芸術だという映像表現で、カットバックやら、パンを多用した寂寞たる部屋の取り方とか・・・『市民ケーン』の先駆けみたいだし、屋外のシーンの美しさったら・・・荒涼たる沼地の荒野のシーンは、黒澤明の『蜘蛛巣城』っぽいし、時計の振り子が画面の左端から右下に振り下ろされるシーンのダイナミックな動きとか、スローモーション・・・本が本棚から垂直に雪崩落ちるところとか、息を呑む映像美。
植草甚一さんが好みそうなモンタージュもあるし、いやあ、フランス映画というのは、芸術的な映像の伝統は、現在に至るまで綿々と続いているのだなと感嘆した次第。素材がポーの小説だから、こうなるのも当たり前かもしれないが。夜空に輝く十字架がなんとも象徴的。

キューブック監督の『シャイニング』で、ホテルのロビーを子供が三輪車で走るシーンがあるのだけれど、枯れ葉が左右に吹かれていって幽霊が歩いているようなシーンは、まさに鳥肌モノで、多分、キューブリックもこんな映画からヒントを得たのかもと思ったりしたり。

『会議は踊る』は、なんといっても、♫ ただ一度、二度とない♫の「ただひと度」が歌われるシーン。カメラは、クリステルを乗せた馬車と平行に、あるいは、離れた場所からパンしたりして、高揚した気分をどこまでも開放させたように描かれる。いつまでも、このうたが続くようにと思う程素晴らしい場面で、あっという間に時が過ぎてしまったよ。

明日も映画見ちゃおうかな。『恐怖の報酬』と『第三の男』。これまた名画中の名画だ。研究するにはいい映画。



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2013年02月24日

今月見た映画

『東京家族』

これは、ひょっとしら名作かも。最新号のキネマ旬報で川村二郎さんがエッセイで、3回見たという記述があり、嬉しくなった。

『東京物語』

言わずと知れた名作だけれど、東京家族を見てもう一度見たくなったので、DVDを買って家で見る。東京見物に付き合った紀子が、自分のアパートで、義理の両親に店屋物を注文して、3人で食べるシーンがあるけれど、これは、カツ丼だという人がいるけれど、ボクは天丼という気がした。どうでもいいけれど。

『馬鹿が戦車でやってくる』

山田洋次監督の前衛性が前に出た映画。こういう狂ったところがあるんだよね。渡辺篤最高。

『痴人の愛』

小沢昭一じゃないと、こういう演技できないと思う。若い田村正和に笑っちゃう。

『須崎パラダイス 赤信号』

ここでも小沢昭一が蕎麦屋の店員役で出ている。新珠三千代って、「細腕繁盛記」の頃とはぜんぜん違う顔しているような気がする。轟夕起子も懐かしい。

『越後つついし親不知』

とにかく、佐久間良子が画面に最初出てきた時には、薬師丸ひろ子の若いころとしか思えないほどよく似ていた。雪山の農村というのは、こういう風に撮るんだっていうお手本だなあ。三國連太郎・小沢昭一・佐久間良子。凄いメンツ。

『貸間あり』

小沢昭一怪演。渡辺篤を見ているだけで幸せ。なんていい雰囲気のある役者なんだろう。この人の動きは只者じゃない。『どん底』でもいい動きしていた。主役のフランキー堺は、まあまあ。淡島千景もいい。

『幕末太陽傳』

言わずと知れた日本映画の至宝。落語の「居直り佐平次」を幹に、「品川心中」「三枚起請」「お見立て」を枝葉に物語をつなげていく。フランキー堺が最高の演技。浴衣を宙に投げて両手をすっと通すのなんざ、芸だね。走る姿も漫画的で愉快。運動神経と反射神経があるんだね。

三千世界の鴉を殺し、ぬしと朝寝がしてみたい

というのは、落語「三枚起請」の枕で語られる話。これは、高杉晋作が作ったとされているのだけれど、これに釣られた形で、脚本段階で高杉晋作がこの映画に登場することにしたのではないかとおもえる。この役の石原裕次郎もおおらかな演技がいい。久坂玄瑞役の小林旭は笑えるけれど、この日活のスターが共演した映画って他にあるのかな?

イギリスでシェークスピア。日本なら、落語と和歌。これを知らないと世の中なんにも知らないということになる。教養って大切だ。

ほかに、『大工調べ』『付け馬』『文七元結』『甲府い』・・・のエピソードが仄かに香る。

南田洋子、いい役者だなあ。南田洋子と左幸子の喧嘩のシーンも動きがいい。

トントン拍子で、リズムよく進んだドラマが、終盤「お見立て」のエピソードに入ってリズムが狂ってしまうところも、落語的な感じがよく出ている。

「墓場で転ぶと死ぬ」なんていう言い伝えがあるけれど、結核を患って、目の下が黒くなっているフランキー堺。見事墓場で転んで、その行末に暗い影を落として、画面から走り去って行き、映画が終了するのも、話のオチとしてはいいんじゃないかなあ。

音楽は黛敏郎。「品川心中」のエピソードで、のこぎりで作った音を幽霊の場面で使い、いい雰囲気を出している。

1957年の作。

名作は、時間の風化とは無関係で、いつも楽しめる。

『果てしなき欲望』

渡辺美佐子がこんなにいいとは。圧倒的。品のいいお母さん役に慣れているけれど、こんな悪女も演じられる。

高品格もいい味出している。

欲に目が眩んで命を落とすという話は、ジョン・ヒューストンの『黄金』に近い話か。スケールは随分と小さいが。

小沢昭一が、不幸な人生を歩んできたせいで、笑うことが出来ないというキャラクターを好演している。シシシと無表情で「笑う」演技が秀逸。

『エロ事師たちより「人類学入門」』

野坂昭如の小説のほうが数段面白かったなあ。これを名作だという人が多いけれど、ちょっと退屈した。同じ今村昌平監督の『うなぎ』のように、この映画では「鮒」が象徴的に描かれている。近藤正臣がこれでデビューなのかな?チラシには「新人」って書かれている。

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2013年01月07日

レ・ミゼラブル

正月、『レ・ミゼラブル』を見てきました。

ネタバレになるので、それを承知で読んでください。

嵐に揺蕩う帆船。難破船かと思いきや、舐めるように船尾から船首までカメラが追っていくと、綱が見える。造船場に船をドックさせるのか、人が綱を曳いている。もっともっとよって行くと、それは、ボロを着込んだ囚人で、懲役の作業中だということがわかる。

ここで、歌われる歌は、懲役の過酷な世界に身をやつした者の絶望の歌。

ジャン・バルジャン役のヒュー・ジャックマンの囚人姿。髪の毛が刈られて、看守に殴られた跡だろうか髪の地肌から傷口が見える。汚いボロを着て、渾身の力を込めて、船を曳きます。犬以下の扱い。容赦のない看守の暴力。愛というものを捨てさせて、社会に復讐の怨念、あるいは絶望しか生み出さない懲役。その姿も大迫力。

「上には天はなく、あるのは、地獄だけ」

まさに絶望の歌。

こんな演出で、空きっ腹で飲み干した熱燗のように腹身に染み渡り、心が汗をかく。

ここで、一気に、全編セリフが歌でなされる形のミュージカルという変則的な映画(『シェルブールの雨傘』のように)だが、その世界にぐっと入り込めた人は、最後まで楽しめることを確約します。

ファンティーヌを演じたアン・ハサウェイは、アカデミー賞助演女優賞候補になるでしょう。

結婚せずに生んだ子供、いわゆる私生児をもつ女は、社会から追放される時代です。そのことが、露見して、働く工場からつまみ出されてしまう。そうなると、もう落ちるところまで落ちるしか無い。命よりも大切な自分の娘の治療費を稼がないといけないので、自死することもままならない。

そこでは、髪の毛を、歯さえやっとこで抜かれて売らねばならない地獄。そして、身体を売り、あっという間に病気にかかって、死ぬしかない運命が決まっているそんな場所。ブライドも夢も、完全に破壊されて、あるのは、地獄の毎日。

死ぬ直前のマイケル・ジャクソンがそんな感じでしたね。死して、なおハイエナどもが群がっていた。

そんな彼女が、歌う『I dreamed a dream』という歌。

何の因果か、ある日突然に、地獄へ真っ逆さま。昔は、彼女には夢があり、歌は歌いつくされ、味わなかった酒はなかった。ある日突然、何かのはずみで、不幸がやってきて、そんな夢をわたしから引き離してしまった。夢を、恥に変えてしまった。こんなはずではなかった私の人生。

と切々と歌うアン・ハサウェイ。

子供の養育費を稼ぐために、髪の毛を売り、歯を抜いて売り、そして、体を売るところまで落ちに落ちてしまった彼女が、その歌詞を、抜群の演技力で歌い上げる・・・。

時代は進んで、革命の種が生まれそうなパリ。

『民衆の歌』というのも出てくる。

革命を起こすべく立ち上がった学生たち。市民もそれに答えるかのように好意的だ。

何か世の中が間違っている。正しい社会というものがあるはずだ。革命に学生が立ち上がる。

そんな中、歌われる歌。

人々が歌っている歌が聞こえるか?それは、怒った男達の歌だ。

それは、二度と奴隷は御免だという人々の音楽だ。

Do you hear the people sing

singing a song of angry men

It is the music of people who will not be slaves again!

出演者のほとんどが、ミュージカル畑の人なので、英語のセリフがとても聞きやすい。ミュージカルの人は、本当に綺麗な発音で意味がわかるように教育されているんだね。それ故、余計心に伝わることもあって、このあたりでも、ぐぐぐっと涙が登ってくる。

そういえば、我々の今の境遇だって、奴隷と同じじゃないか!東電が電気が有り余っている状態でも、輪番停電なんていうことをやらされて、人々の生活を脅し、蹂躙し、コケにされたじゃないか!奴隷の鎖自慢というが、会社に搾取される自分を誇りに感じ、忙しさを自慢の種にする、卑屈な奴隷根性はないのか?そんな憤怒はどこへ消えた?俺の心には、メラメラと炎は燃えているぜ!

完全に僕も革命軍の一員。おうっし!いっちょやったるか!という気分になる。

その他、いろいろ、感動場面は数々あれど、50歳になってみると、ジャン・バルジャンの40代からのやり直し人生、とても重いものがあります。

ボクは、その人がボクより年上だということで、この辛い人生をボクよりも長い時間真っ当に生きている、そんなことに敬意を表する者であります。

そんなふうに感じたのは、やはり、40代になった頃からか。

ジャン・バルジャンが一生を終える時、ああお疲れ様、安らかに休んでください、と心から思えた頃、また、あの民衆の歌が聞こえる・・・死んだ仲間が共にあの歌を歌っている・・・

もう、ここで、ダム決壊。横隔膜が痙攣して呼吸困難。こらえると酸欠で倒れそうだし。

というわけで、正月から泣きました。そして、それは、決して悪いタチの感動ではありません。泣かそう泣かそうというあざとい映画ではなく、説得力のある感動だから、不快に思う人はいないと思うので、是非ご覧になって下さい。

出来れば、音響システムのいい劇場でごらんになることをおすすめします。

posted by ロビオ at 16:29| 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月30日

風邪ひきの時は、映画が一番。

風邪を引いてしまった時には、枕元にPCを置いて、借りていたDVDを見るという極楽生活がある。目がチッカチッカして辛いけれど。

ジョン・フランケンハイマー監督の「ブラック・サンデー」は、初見。傑作だとは聞いていたけれど、後回しになって、ついつい見そびれてしまった。これが、日本公開中止になったのは、この映画を上映する映画館に爆破予告がなされたからだったと記憶する。ボクが、中学生くらいの頃だったか。

「スティング」「ジョーズ」「サブウェイ・パニック」とボクの映画黄金時代の中枢映画に出ていた、当時最も見たい俳優だったロバート・ショー主演。

パレスチナのテロリストグループ「黒い9月」の首魁女性を、アジトに踏み込んだ際に、殺さずに逃してしまったイスラエルの少佐がロバート・ショー。生かしてしまったことによって、アメリカが最大のテロの危機に瀕し、かつ、相棒がその女テロリストに殺されてしまう。さて、この因縁の対決がどうなるか・・・という線もあるのだが、見ていて、この線がちょっと弱い。もう少し、このあたりを強めるともっと面白かったかも。

気球船にのるテロリストをヘリコプターで追撃するロバート・ショー。機関銃をお互いに構えて、一瞬目と目が合う。そこに、その因縁の線が繋がるのだけれど、これだけだとちょっと感動までには至らない。

テロリストに手を貸すというか実行犯は、元ベトナム帰還兵の英雄だけれど、ここまで、テロを行なってまでも国を憎むというところに、あまり説得力も感じない。

けれども、緊迫した画面を繋いで、そうした欠点を覆い尽くすような、邪悪な行為が明確な意図を持って最終目的に向かって疾走していく課程と、それを待ち受けて、反射神経と運動神経で刹那的に阻止する一匹狼いう構図を大きく取ったことによって、とてもスリリングな映画に仕上げた監督の演出は見事。

次は、シドニー・ルメット監督の「デス・トラップ 死の罠」。主演は、マイケル・ケインとスーパーマンのクリストファー・リーブ。ほぼ、二人の舞台劇といってもいいほどで、ほとんどが二人のセリフ。そして、舞台はマイケル・ケインの自宅のみ。マイケル・ケインの演技の巧さと練られたプロットを劇を見るように楽しむのが最良の鑑賞の仕方。

アイラ・レビンの劇を映画化したようで、この手の傑作としては、アンソニー・シェイファー脚本の舞台劇「探偵スルース」という優れた映画があった。こちらの主演は、ローレンス・オリヴィエとマイケル・ケイン。こちらの脚本は、大学時代の英語の教科書で、その教師が、あの「柄谷行人」だったということで、忘れられない映画なのだ。授業終了後、多くの学生が、先生に教科書にサインを貰ったと記憶する。

どちらも、どんでん返しで形勢逆転ということが繰り返されて、最後に落ちがつくといった筋道があるけれど、後者の「探偵スルース」のほうが、高級な感じだ。英語の会話劇の究極を行くような洒落や皮肉が散りばめられているので、字幕じゃちょっとその内容を伝えられない感じ。この一作に関しては、一年この脚本を勉強してよかったと思っている。

で、やはり、マイケル・ケインは偉大な俳優なのだ。ビデオ時代、DVD時代、この人の出ている映画は大抵見ているけれど、おおよそ二人劇で出ずっぱりなのがフアンには嬉しいところ。英語が美しい。そして、ジョン・レノンの声ととってもよく似ているのね。ブリティシュイングリッシュってやっぱり好きですわ。アイリッシュもいいけんど。

もう一本。急逝した森田芳光監督の「それから」。お恥ずかしながら初見。地味な漱石の「それから」が映画になるはずがないじゃないの、という偏見から全く見なかった。けれど、面白かった。平岡訳の小林薫の口調が誰かに似ている・・・とすぐに思い出したのは、小津安二郎の「秋日和」の中村伸郎。ほほっ、これは、小津安二郎へのオマージュかなとおもったら、主役の永井代助訳の松田優作の父親役が、小津作品の要である笠智衆じゅないの。だから、これは間違いなさそう。構図も意図して小津風をなぞっているところもある。

藤谷美和子が、三千代役で光っている。この人、一体、今はどうしているんだろう?

三千代が、花瓶の水をコップで掬って飲むシーンがあるけれど、これに生けてある花がなんとスズラン。これ、猛毒なんですわ。他の生花ならいいけれど、ちょっとリサーチが足りないと思った痛いシーンでした。その後、腹でも壊して倒れるのかとも思ったら、そんなシーンもないし、困ったもんです。

三四郎・それから・門という漱石の前記三部作は、何回か読んでいるけれど、読むたびに内容を忘れてしまう。読んでいるときには、心より楽しんでいるんだけれどね。

永遠のあこがれ、「高等遊民」というのも気苦労に耐えないということでは、下等労働者とあまり変わらない。

というわけで、今日は、「それから」をもう一度読んでみよう。

 

 

P.S.

「探偵スルース」に関しては、ケネス・ブラナー監督、主演 マイケル・ケイン、ジュード・ロウで、再映画化されている。こちらも、見てみたい。

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2010年08月16日

『マルホランド・ドライブ』

『マルホランド・ドライブ』というデビッド・リンチ監督の映画をようやくみることができた。

同監督の他の映画と同様、これまた夢の世界と現実との継ぎ目がなく、メビウスの輪のように夢の世界が現実に、現実の世界が夢にと知らぬ間に入ってしまうので、話はわかりずらいのだけれど、前々作の『ロスト・ハイウェイ』よりは、わかりやすかったかな。

リンチ監督の映画は、夢を見ている者が、その夢の奇妙な進行に疑問を持たずにその世界に浸っているように、映画を見させてくれる数少ない映画作家だと思う。他には、タルコフスキーなんて監督もいたけれど。

その現実と夢の世界の区別の仕方は、割と常識的な分け方をリンチ監督はやっていて、そんなにうまくいくはずはないよ!と思える所とか、あまりにも美しい映像やギスギスしすぎた映像のところは、おおかた夢の世界。

主役のナオミ・ワッツの化粧の感じで、注意深い観客は、夢か現実かがわかるのではないか。

見終わって、一つ一つ疑問を解消させていく快感は、探偵小説の比ではない楽しさだ。なんたって、本よりも、ずっと映像という肉感的な体験で記憶をたぐっていく作業でもあるから、とても、リアルな感じがする。

そんな風に、2度、3度見てみれば、リンチ監督の術中にはまった証拠である。

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2010年06月11日

映画っていいもんです

掌の傷はほぼ治ってきたけれど、右足の踵の痛みがしつこい。

少々痛みがあっても、走れば痛みが消えるという類の軽い痛みなら走っても大丈夫な様な気がするが、走っていても痛みが消えない場合は、それが軽い痛みでも、後日痛みを増加させるということがあるようだ。

朝起きたときに、一番痛みを感じる。今更ながら、走ると言うことは、気をつけないと慢性的な障害になりがちであることを感じる。誰だ、人は走るために生まれたなんて本(Born to run)を書いたのは!やはり、人は、(Born to walk)でしょ。

というわけで、膝、アキレス腱、踵、腰などなど、少しでも違和感があったら、運動は控えるといい。

とうわけだけれど、走る爽快さというのは、なかなか他のスポーツでは手に入らない楽しみで、「炎のランナー」という映画で、宣教師のエリックが、スコットランドのエディンバラの牧草地帯をランニングする姿、これこそまさにトレイルランの気持ちよさを表しているような気がする。

こういう場所ってなかなか埼玉県にはないのだけれど、埼玉の「池」と読んだ方が良い蚊の多い場所を周回していても、iPodからバンゲリス作曲の「炎のランナー」が流れ出すと、頭の中は、スコットランドの牧草地を走っている気分になって、映画の中に入り込んでしまう。

この映画は、ボクが大学生の頃見た映画で、ケンブリッジ大学の学生が着ている服が格好いい。1920年代の大戦後の風俗がとても良くできていて、ブリティッシュ・トラッドばかり目がいって、そういえば、ボクもブリティッシュ風味のサイドベンツのブレザーを買った覚えがあるから、相当流行ったんだね。こういうスノッブな映画が。

このほかにも、ジェイムズ・アイボリー監督の諸作品が立て続けに映画が公開されたり、ルパート・エヴェレットなんていう俳優が一世を風靡して、一時英国一色の映画界だったような気がする。

この映画、炎のランナーは、なかなか良くできている映画で、主役の一人、ユダヤ人のエーブラムスという100メートル走者と恋人との会話。

「ユダヤ人であることなんか誰も気にしてはいないわ、どんな害があるというの?」と恋人に問われて、

「潜在的差別がある」

「難しいのね。どういう意味?」

「水辺に行けても水は飲めない」

もう一人の主役は、エリックという宣教師。こちらも100メートルの選手。

日曜日に予定されているパリオリンピックの100メートル走を、「休息日には走らない」と苦渋の選択をする。

このエリックに、皇太子やら運営委員会のお偉い面々が、国威や国に対する忠誠を出して、なんとか説得しようとする。

が、頑として断るエリック選手。

保守的なイギリス社会と対峙するユダヤ人という構図、信教の自由を侵してまで国の権威高揚のために出場させようとする構図が明らかにされるのだけれど、前者は、いわば、横の関係、後者は縦の関係として、人間の自由とか尊厳とは何かと世に問う映画でもある(本当か?)。

ま、とにかく、1920年代のイギリスの風俗がきっちりと描かれていて、骨董好きなボクは、使っている品々、食器等々、本物を使用しているので、とても気になる映画ではあるのだよ。

それにしても、冒頭のケント州の海辺を走る選手達をスローモーションで撮って、流れるバンゲリスの「テーマ」は、素晴らしい効果を上げている。サスペリアも怖かったけれど、この人凄い!

もう一つ盛り上がるの、「ロッキー」のテーマ「Gonna fly now」。これも、Ipodに必ず入っている。

これがシャッフル機能でかかったときには、どんなに疲れていてもダッシュすることにしているジョーカー的な曲なのだ。

朝4時の目覚ましでごろつきのロッキーは目を覚ましてトレーニングを開始する。

当時、ポール・マッカートニーとビリー・ジョエルとこのスタローンの顔の違いがよくわからなかったけれど、冷蔵庫を開けて生卵を5つ、コップに右手だけで割って入れて、そのまま飲み干すのは、スタローンしかいないでしょ。げっぷをしたりして。

この生卵飲みというのも、中学生時代に結構流行っていて、2つ3つよく飲んだもの。卵を飲むときに一緒に空気まで飲むこんでしまうから、飲んだ後に卵がぽちゃぽちゃ胃袋の中で泳いで、げっぷが出るんだよね。生卵をかき混ぜて飲む奴は弱虫。男は、そのままゴツクンと飲み干すべし。

トレーニング初日のロッキー。暗い早朝の町中をヨチヨチ走り出す姿は、僕と同じだらしない走り方。最後は、フィラデルフィア美術館の長い階段を、よぼよぼと右脇腹を押さえながらなんとか登り切る・・・

が、エイドリアンに出会い、自分がごろつきでないことを証明するために、マジで練習をし始め、徐々に力が付いてきて、港の波止場を見事な走りっぷりで力走し、最後のフィラデルフィア美術館は、4段跳びくらいで軽々と登りきってしまう。両手を突き出して雄叫びを上げるロッキー。この時に高らかにテーマ曲が流れる!!!!

やあ、スタローンは天才!よくぞ、低予算でこんな素晴らしい映画を作ったね!

ボクも、天覧山の最後の階段を上りきって、頂上で両手を突き出して、クルクル回る「なりきり男」になることもあります・・・誰もいないとき、内緒で。

という風に、映画音楽をiPodに入れてジョギングをすると、こんなに楽しい体験が出来ますという話。

変な話になってしまった。

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2009年03月09日

座頭市が一文銭を真っ二つに切ったとき映画館で拍手が起こった

清水義範の「映画でボクが勉強したこと」という本を読んでいたら、若干の例外を除いて、ボクと趣味が合うというか、だいたい、この方が貶している作品は、ボクもそうだと思うし、ビリー・ワイルダーが最高!という点では、大いに同意してしまう。

が、キューブリックの「2001年宇宙の旅」が大好きなところや、フェリーに好き、ベルイマン嫌い、コッポラ嫌いとか、インディジョーンズが駄目だとか、まあ、このあたりボクと意見を大いに異にするのである。

で、この方も映画を見始めたのは、父親に連れて行かれたことが発端だった。これも、ボクとよく似ているね。

ボクが映画にのめり込んだのは、父がどういう訳か、小学生の俺をオールナイト映画に連れて行ってくれたことに端を発するのだな。

それも、「二十四の瞳」とか、「ノンちゃん雲に乗る」とか、「禁じられた遊び」とか、「野バラ」とか、そんな小学生には退屈な文部省推薦の映画ではなくて、確か、高橋英樹主演の「宮本武蔵」とか、ナチスに立ち向かうソビエト軍の戦争映画ソ連映画「レニングラード攻防戦」とか、これまた、「真剣勝負」という鎖がまの名手宍戸梅軒が登場する、いわば、内田叶夢、中村錦之介の黄金コンビの宮本武蔵シリーズの番外編の映画だったりした。併映で、「ゴジラ対ヘドラ」なんていう無茶苦茶な二本立てだった。こちらは、今は無き有楽町の日劇だった。

どういう訳か、これらの映画はビデオにもDVDにもなっておらず、ボクの中の記憶の中で宝物になっているのよ。本当に、ビデオが普及していない頃の映画フアンの記憶力といったら対したもので、特に、小学校中学校時代に見た映画というのは、本当に良く覚えている。

その中で、忘れられないのが、勝新太郎主演中村玉緒共演の棋士坂田三吉を描いた「王将」だ。これも、DVDにもビデオにもなっていない。名作といわれている板東妻三郎の「王将」はDVDで見たけれど、そして、お芝居の植木等主演のものも見たけれど、やはり、ボクの中では、勝新太郎の「王将」に尽きるのである。これの併映がエロチックというか、相当女の肌が露出していた映画で、これには困った記憶がある。題名は、なんだか、忘れちゃった。

そんな風に、相当偏ったチャンバラ映画を見ていたのだが、そんな中でも、お気に入りは、勝新太郎の「座頭市 百両首」だ。

内容はたいしたことはなくて、ほとんど覚えていないのだけれど、次のシーンには度肝を抜かれたね。

賭場で大もうけしている市に、用心棒(若山富三郎)が難癖をつけて、投げた一文銭を真っ二つに切れるかどうかの賭けをする。

一文銭を放り投げて、近くにあった火箸を投げつけると、見事火箸は一文銭の真ん中に空いている四角い穴を貫通したまま、天井に突き刺さる。

そして、火箸の方が一文銭の穴よりも少しだけ小さいので、一文銭が火箸からつっかえながら落ちていく。その火箸から落ちていく一文銭が落ちていく音、シャリシャリシャリという音に耳をそばだてる市。やがて、火箸から抜け落ちた一文銭を仕込み杖で、気合い一発居合い抜き。収めた刀と同時に、床に落ちた一文銭が真っ二つに切れている。

ここで、拍手。拍手。暗闇で拍手が起こったのは始めてだったので、良く覚えている。

最近だと、というか、もう数十年前かな、酸素ボンベを口に詰めた「ジョーズ」にライフルが命中して、爆発したときにも、拍手が起きたっけ。「ロッキー」でも、パンチがあたるたびに拍手。「スティング」の最後でも拍手が起きたっけ。

最近映画は見に行かなくなって久しいけれど、いまでも、こんな風に盛り上がる映画ってあるのかね。

と、調べたら、この映画1964年に制作されているので、ボクが見たのは、随分後になってからなんだなあ。多分、アメリカで座頭市ブーム見たいのがあって、見直された頃だったのか知らん。

とにかく、ビデオもDVDも無かった頃、街にはオールナイトでマニアックな映画が上演されていて、あちこちに名画座があって、B6サイズくらいで無料だか100円くらいで売っていた「ぴあ」を入り口で貰ったりして、まだ見ていない映画を東京中探し回ったのだった。

ああ、良い時代だったなあ。

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2008年09月26日

American Graffiti(All summer long)

「American Graffiti」を見ていたら、ビーチボーイズに関する台詞があった。有名な台詞なのだが、字幕を追ってみたら、

Rock and Roll's been goin' downhill ever since Buddy holly died.

Don't you think the Beach Boys are boss?

You would, you grungy little twerp.

男 ロックンロールは、バディ・ホリーが死んでから落ち目さ。

女 ビーチボーイズって素晴らしいと思わない?

男 おまえにとってはな。おまえのようなイモでチビなアホにはな。

とか言う意味かね。

字幕では、

男 ロックはバディ・ホリーまでだ。

女 ビーチボーイズは?

男 騒ぐのは女だけだ。

となっております。こうやってシナリオを読むと、ぐぐっと、面白さがわかるというもの。

この映画は、1962年(ボクが生まれた年だ)のカリフォルニアが舞台である。

ところで、この台詞だけを聞くと監督は、ビーチボーイズを馬鹿にしているのかなと思うのだが、もちろん、そんなことはなくて、ビーチボーイズ関連の音楽が沢山流れるのね。ビーチボーイズをリスペクトしていると言ってもいいでしょう。

上記の会話は、ウルフマン・ジャック(懐かしい)のDJで、ビーチボーイズの「サーフィン・サファリ」がジョンが運転するフォードのピックアップトラックの改造車の中の車から流れたときの会話なのだが、その他にも、ビーチボーイズがカバーしてヒットした曲、

Barbara Ann/The Regents(これは、ビーチボーイズの「party」という脳天気なアルバムからシングルカットされて、カバーして全米NO1になったはず。)

Do you wannna dance/Bobby Freeman

Why fools fall in love/Frankie Lymon&the Teenageres

が流れ、最後の最後に、名曲「All summer long」が流れるのだよ。なんと、ビーチボーイズ関連が5曲も流れる訳さ。

先ほどの会話でも、この後、改造車に関するヒット曲を連発するビーチボーイズのことが頭によぎれば、そうした人には、ニヤッとさせる会話ではあるのだ。

この映画の最後に、、車好きのジョンは、「1964年に酔っぱらい運転の車にひかれて死亡」とか、テリィーが「ベトナム戦争で不明」といった登場人物の「それから」が放映されるのだが、ここで、じーんと来る人も多いはず。

間髪おかず流れるのが、このAll summer longで、

その歌詞といえば、

Sittin' in my car outside your house

(Sittin' in my car outside your house)

Rember when you spilled coke all over your blouse

T-shirts, cut-offs, and a pair of thongs

(T-shirts, cut-offs, and a pair of thongs)

We've been having fun all summer long

僕の車の中で 君の家の前

コーラをこぼしてグラウスはびしょびしょ

Tシャツやジーンズやサンダルも

でも、夏中、ずっとたのしかったね。

というもの。

なんか、こう切ないイノセントな夏というか、青春の終わりという感じがするじゃないの。

こういう詩を書けるビーチボーイズの面々は、脳天気というか、やはり、スゴイ!!!

結論

この映画は、ビーチボーイズに捧げられている。

で、家に帰って、この2枚組のサントラ盤を聞いたら、また楽しさもひとしお。早速iPodの中に放り込んでおいた。明日は、これを聞きながら、マフェトンだ。

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2008年03月30日

列車に乗った男

久しぶりにパトリス・ルコント監督の映画を見た。「仕立て屋の恋」「髪結いの亭主」と素晴らしい映画を次々に作っていた頃のリズムを取り戻したのか、この映画も、流れが良く、あっという間に映画を見終わった。

久々に見るジャン・ロシュフォールは、随分年を取っており、それでも、おしゃれなところは変わらない。こんな風に、年を取っても、おしゃれをしているのは、素敵だ。

家の家具や食器もアンティーク製品が多く、注目して見ていた。

すばらしい会話の数々。ちょっと、メモすれば良かった。

パンやで、店の女主人から、勘定の時に「他には?」と聞かれるのがとても嫌で、代わりにパンを買いに行ってもらう主人公。ぼくも、マックで、ファミレスで、コンビニで勘定でお釣りの際、1万円を出すと「1万円からでよかったでしょうか?」とか、訳の分からぬマニュアル言葉か聞きたくなくて、この手の店には、行かないのだが、このあたりの心の動きがよく分かる。時には、殺意さえ起きるのだ、本当に、こういう言葉を聞くと。

2人の人生が交差して、死を境に、それぞれ惹かれ合っていた世界を交換するという、なんかわかりやすい演出で、それなりに見せるけれども、ちょっと、わかりやすくて、コクがその分減ったかな。

ルコント監督は、そのアクが魅力だもんな。

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パンチドランク・ラブ 2

パンチドランク・ラブをもう一度頭の中で繰り返してみたら、オルガンの謎が解けたような気がする。

薄暗い闇の中を突っ走ってくるトラックが、主人公の目の前でひっくり返って横転する。その後、なぜか、誰かが、車で主人公の店の前にオルガンを置き去りに言ってしまう。

明くる日、エイミー・ワトソンが、そのオルガンを避けるようにして主人公の元に現れる。

ま、そんな風に演出されているのだが、パンチドランク・ラブというのは、「一目惚れ」のこと。この意味の無いようにトラックのクラッシュ事故は、まさに、一目惚れの前触れで、その具現化した対象がオルガン=エイミー・ワトソンだったのだ。

と、こういう風に考えると、壊れたオルガンを直したりするその手つきとか、オルガンを抱いて、エイミー・ワトソンの所へ駆けつけたり・・・と、なかなか良くできているが、つい先ほど分かってきた。

謎が解けて、ホッとした。

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2008年03月29日

パンチドランク・ラブ

パンチドランク・ラブ

アダム・サンドラーって、ウェディング・シンガーに出演していた優男だったけど、どうも、口をもぐもぐして喋るその仕草がかんに障って、いらいらする。80年代以降のボブ・ディランに似ているなあ、顔の作りとか、しゃべり方とか。

エミリー・ワトソンも、「本当のジャクリーヌ・デュ・プレ」で初めて見たときよりも、随分と老け込んでました。この手の顔も苦手な私。

もう一人の有名人、「カポーティ」の名演技で知られるフィリップ・シーモア・ホフマンの出る場面は、なかなかよろしいのだけれど、その使われ方が中途半端で残念。ほんと、ちょい役。友情出演か。

アダム・サンドラーの部下役、ルイス・ガスマンは、一度見たら忘れられない顔しているので、この間見た「カリートの道」でも、アル・パチーノを裏切る部下役だと見た瞬間分かった次第で、この人の扱われ方も、これといった特徴のない役で、もったいない起用法でした。

というわけで、苦手な俳優が主演しており、好きな俳優がもったいない起用されているので、がっかりだ。この監督のポール・トーマス・アンダーソンの「マグノリア」は見事だったんだけどな。もちろん、「ブギーナイツ」も。少し、お休みして、次作を期待。

ところで、拾ってきたオルガンの象徴的意味は何なんでしょう?これは、ちょっと謎。このあたりがよくわかるような作りになっていれば、奥行きのある映画になったかも。

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2008年03月22日

酔いどれ天使

というわけで、昼飯を食べ終わったら、映画を見る。

黒澤明監督の「酔いどれ天使」である。

黒沢監督は、「赤ひげ」までは、駄作はなし。どれを見たって面白い。何を借りようか悩んだときのヒッチコック、黒澤明である。

何しろ三船敏郎がすごい。ぎらぎらしている。「野良犬」の時と甲乙つけがたいほどのぎらぎらさ。黒沢監督以外で見る三船敏郎は、ホント演技の下手さが目立ってしまうのだが、それは、素材を十分に生かすことができなかった監督の責任ではないのか。

これまた、黒沢映画には、なくてはならない志村喬が主演だが、完全に主役を食っているのが、三船敏郎だ。

おそらく、日本の映画で初めて、地で演技した(し続けた)俳優が三船敏郎なのである。だから、適材適所に置かれたときには、他の代替が効かないほどのはじけた、素晴らしい演技ができるのだ。

先週見た「悪いやつほどよく眠る」も、ちょっと三船敏郎としては、ちょっとぎりぎりの演技だったけれど、素晴らしかった。やはり、黒澤明と三船敏郎の邂逅は、日本映画にとっての幸福だったということがよくわかる。

ぼくが大好きな女優木暮実千代がやくざの情婦として倦怠の演技を、セーラー服姿の久我美子が一服の清涼剤のような爽やかな姿を見せてくれる。大昔の女優って、貫禄あるなあ。

・戦後直後には、シガレットケースにライターが仕込んであるものがあったようで、たばこをシガレットケースから抜くと、ケースに内蔵されているライターで火をつけるのだ。

・やっぱりやっていました。薬用アルコールにお茶を混ぜて飲酒。親戚のおじさんは、これで、戦後すぐぶっ倒れて、以来、洋酒は飲めなくなった模様。死んだ人も多かったとか。

・作られた時代は、「第3の男」と同じ。ウィーンも、日本も、闇市で大変だけれど、こういう世界にあこがれる自分がいる。

・蚊が大量発生している季節なのに、なぜか、演技者の口から白い息が発せられるのはなぜか?ひょっとしたら、冬に撮影したのかも。だとすると、下着姿で演技するのは、寒かったろうなあ。

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2008年03月05日

それでもボクはやってない

先日、テレビで放映されていた映画だったが、一気に最後まで見てしまった。

痴漢冤罪の話だけれど、死刑に値する犯罪だろうが、執行猶予が付こうが、冤罪で捕まった者の怒り憤りはよく伝わってきた。

子供の頃、小学校低学年だが、たしか作文の一番最初に自分の名前を漢字で書いた原稿用紙が、先生の評価を付されて、戻ってきた。隣にいた奴が、その名前が漢字であることに不審に思って、いきなり、その場で手を挙げてチクリやがった。自分の名前を漢字で書けるように、何度もその当時は練習していたと思う。低学年では、自分の名前を漢字で書けない奴が多かったのか、そいつは、「先生、○○君は、後で、名前を漢字に書き換えてしまいました」と発言しやがったのだ。

いきなり、怒りが足の底からわき上がって、腕を動かし、そいつの顔を、思いっきり張り付け、とっくみあいの喧嘩になったが、その後どうなったか、忘れてしまったけれど、その「やっていないことを、しゃあしゃあとやった」とみんなの前で宣言されたときの、悔しさ、怒りというものは、想像を絶するほどのものだ。40年近く経っても、その時のことを思い出すと、当時の憤りが蘇ってくる。

ことほどさように、これほど腸の煮えくりかえる体験はないのであるのに、これが、メガトン級の権力を持つ国家から指弾され、唯一つの救いである裁判所からも、救済されないという底なしの絶望的な状況にさらされる冤罪を着せられた主人公の心の動きが大変よくわかるのである。

特に、われわれが教科書的に習う「推定無罪」「疑わしきは罰せず」などという扱いがされるわけではなく、拘置所の(まだ罪人との結論が出たわけではないのに)非人間的な扱いを考えるだけで、心が落ち込んでいく。

特に、小日向文世扮する裁判官の「推定有罪」という目つきで被疑者を見る演技は圧巻で、若い頃こういう目で、何度も見られてきたと、こちらの心も千々に乱れるのである。

満員電車の痴漢という、だれでも冤罪に巻き込まれる可能性のあるテーマを持ってきたところがこの映画の成功の点。

この映画を見て、いつしか自分にこういう災いが起こるやも知れないと、心がそわそわしない人は、想像力が欠如しているというべきか。

posted by ロビオ at 16:24| Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする