2010年02月26日

「2万5000分の1 地図の読み方」を読む 

「2万5000分の1 地図の読み方」平塚晶人著

この本が、読図のバイブルといわれている優れた入門社用の本。

図書館で借りるのは、これで3回目だけれど、今まで2回は、ざ〜っと読んだだけ。

今回は、一気に精読しました。

で、やはり、この本が読図関係の本では最高ではないでしょうか。

98カ所の実際の2万5000分の1の地図が後ろのページにあって、本を読みながら、それを参照にして、学習ポイント、注意するべき点を、懇切丁寧に解説している。

支尾根の発生する所は小ピーク 沢はツメで一気に標高を稼ぐ さわは、ピークかコルに突き上げる等高線のカーブは、屋根は丸く、沢は尖る 

等々地図読む際の参考になる実際の山の姿がたくさんの2万5000分の1の地図の中からピンポイントで解説してくれているのだ。

今回初めて、シルバコンパスの使い方が理解できたよ。154ページから164ページまでの「磁石の使い方」の箇所は、後ろ側についている2万5000分の1の地図を参照にしながら、磁石を使って現在位置が正しいかどうかを判断するやり方が完璧に理解することができた。

何冊かの本を読んで、その使い方に関する記述は、真剣に読んだけれど、実際どういう風に使うかちんぷんかんぷんだったのだ。

シルバーコンパスの回転板の中の矢印ってこうやって使用するのだね。磁北線は絶対に引いておくこと。屋根に乗って自分の所在地を確認できる!山座同定も実に簡単にでき、霧で前が見えなくとも、道に迷うことなく行きたい場所に到達できる。素晴らしい、実に素晴らしい道具なのだよ、シルバーコンパスは。

こんな事を知らないで、よく山へ行っていたものだ。自分で自分を褒めてあげたい。ははは。

ことほどさように、この本を読まないで、山の中へ入ることは、やはり相当危険な行為だと思う。とくに、トレイルランの人、ヤバイです。走って、支尾根に迷って、はや遭難。これから、こういう事故がかなり増えるんじゃないでしょうかね。山を舐めたらいけません。

それに、2万5000分の1の地図は、必携ですな。まずは、奥武蔵の遭難しようがない山道で、読図の練習として、以後走りたいのは山々だけれど、要所要所でじっと我慢して地図と現在地を確かめることをしないといけない。

そして、先ほど、図書館から、同著者の「山岳地形と読図」という本が届いたという連絡をもらったので、この週末はこの本を精読して、読図の知識をさらに頭に入れるのだ。

そして、山の中で実践を繰り返して、頭の中の知識を、踵の中に滑り込ませて、知識を血肉とするのである。

こういう向上心は大切だし、命を守ることに繋がるのだ。

なんといっても、山の醍醐味は、そこがどんな低山であっても「生き延びる」事だからね。野生に手を触れて、そこで精神が跳躍し、命の炎が燃えるわけだから。

posted by ロビオ at 09:29| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月29日

ライ麦畑よ、永遠に

J.D.サリンジャーが亡くなった。91歳。正月を過ぎて体調を崩していたという。

ニューヨークタイムズのインターネット版では、4ページにわたる記事が書かれている。

また一人、遠い親戚が亡くなったという気分。

若かりし頃に全面的に悪か善かの見境もなく呑み込んで、そのまま背骨の奥に吸収して、ボクにとっては、大切な作家の一人。

10代に「ライ麦畑」を読んだことが良かったのかどうかわからないけれど、カラカラに乾いたスポンジが水を吸い込むように、その言葉を背骨で吸収してしまったので、どこをどう影響されたのか全くわからないのだけれど。 思うに、この「ライ麦畑」と太宰の諸作品、そして、ドストエフスキー。この3つを10代で読んだ人は、相当、人生という道のりを蓮っ葉に歩かざるを得ないのではないかしらん。

この間、村上春樹訳で「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を何十年ぶりかで読んだのも、その死の暗示を読み取ったからかも知れないな。この際、日本でしか読むことのできない「若者たち」他の初期短編集などを、図書館で借りて一気に読んでしまおう。「ニューヨーカー短編集TUV」の中のどこかにも短編が収まっていたはず。

そんなわけで、最近はあまり読んでいなかった英文学を読みたくなってきたので、図書館でジャック・ロンドンの「火を熾す」という柴田元幸翻訳叢書の1冊目と、2冊目のバーナード・マラマッドの「喋る馬」という2冊の短編集を借りてきた。

どちらも、Switchという雑誌に掲載されたものらしいのだけれど、定評ある作家の昔の短編を繙いて読めるというのは嬉しい。とくに、マラマッドの「最初の七年間」は、新潮文庫の「マラマッド短編集」が絶版になっていて、悔しい思いがしていたのだった。 というのは、この短編集の「最初の七年間」という短編が、大学時代の英文購読のテキストになっていて、つまらない授業だったのだが、内容の面白さに惹かれて読み進めたんだけれど、最後まで読むことはなく、授業が終了。 クラスが終われば、教科書なんかどこかへ行ってしまうし、洋書も探せず、日本語訳もそんなわけで手に入らなかった代物だったのだ。 そういえば、1980年代ユダヤ作家が注目を浴びていて、サリンジャー(というか半ユダヤというべきか)とか、このマラマッド、ソール・ベローなどなど、盛んに書店に並んでいたものだ。 アイザック・B・シンガーというユダヤ語で小説を書く作家もいて、大変興味深く大学時代によく読んだものだ。 それが、このところピタリとお目にかからない。 案外、小説の寿命が短かったね。アップダイクも亡くなったけれど、これまたあんなに翻訳が書店に並んでいたのに、最近は、とんと見ませんからね。 現代小説というのは案外、その賞味期限は短いのかもしれない。

ジャック・ロンドンは、「荒野の呼び声」や「白い牙」などで有名なのだけれど、ノンフィクションやら200あまりの短編を数多く書いていて、なにせ、幼児の頃から牡蠣の密漁、そして、後にその密漁の監視員になったり、ゴールドラッシュで山を掘りに行き、日露戦争をルポし、ありとあらゆる職業と経験をしたちょっと他にはいないタイプの小説家なので、オカルト、海洋小説、冒険ものと色々な小説群があってとても一筋縄ではいかない小説家なのだ。

タイトルの「火を熾す」という短編は、零下数十度に及ぶ人がとうてい生きて行くことのできない自然環境の中に楽観的で無知な男を登場させ、彼が命を落とすまでを、リアルに描いた作品で、特に死が訪れるまでの体と心の刻々と変わる描写は、僕らが冬山で遭難したら、こういう順序でもって命を落としていくのだろうと切実に心に染みた。 山岳登山家は、根本は詩人の要素があるので、その文章は研ぎ澄まされたものがあり、それらの山岳に関する文章は読むに値するものが多いけれど、こうしたプロフェッショナルな書き手が、裸の自然と取り組んだ文章というのは、やはりずば抜けて上手に書くものだ。

マラマッドの方は、絵画で言ったら、セザンヌのセントビクトワール山のような色彩の土色で純朴な感じ。特に、不器用な足捌きで、狭い部屋の中を足音をさせながら徘徊しているような文章が味があって堪らない。勿論、柴田元幸の訳が、精微を極めているからだろうとは思うけれど、推敲に推敲を重ねて鍛え抜かれた文章といえばいいのか。

最近の新訳ブームでやや記憶の奥にしまわれて忘れられがちな作家というものの著作が翻訳される機運が高まっているのは、良いことだと思うな(まあ、今の小説がつまらないということのあらわれなんだろうけれど)。

片岡義男の「ミス・リグビーの幸福」という私立探偵マッケルウェイシリーズの第1巻目を読み終える(早川ミステリー文庫)。

これまた、不思議な不思議な感覚を持った小説群で、翻訳ここに至れりといった風情の文体で書かれた21歳のカリフォルニアを仕事場とする私立探偵が引き受けた事件についての物語。

人工的な文体で、人工的な登場人物、舞台をここまで徹底的に書かれると、人工的な絵空事が、角が取れて、リアリズムの香りが強く漂ってくる。

「探偵アムステルダム、最後の事件」の味わいといったらどうだ。

ほとんど無視されている作家だけれど、ボクは、常々凄い文章を書く作家だと思っているのだ。

ああ、今日は、本の話ばっかり。

posted by ロビオ at 10:43| Comment(2) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月08日

キャッチャー・イン・ザ・ライ

村上春樹訳の「キャッチャー」を読み終えて2週間くらいが経つけれど、心の片隅に幽霊が住み着いたように、時々その幻影が現れてくる・・・なんて言うと、ジョン・レノンを射殺した後に、警官が現れるまで座って、この本を読んでいたマーク・チャップマン(たしか、ホールデン・コールフィールドと姓名を変えていたはず)のようで気味が悪いのだけれど、やはり、この本は、「特別」な本だ。

予防接種のようなもので、中学から高校へと入る思春期にこの本に巡り会った人は、幸福なのか不幸なのか、それは、その人によるのだろうけれど、若い頃読んでまさに邂逅というのにふさわしいと思った人は、ボクの友人だ。

予防接種の副作用がでると、ヤバイ状況になりかねないというのが、この本にはあって、やはり優れた文学という毒のなせる技。そう感じなかった人は、残念ながら、この世界の住人にはなれずに、ノックをしてハローといい、戻ってくる人なのだと思う。文学芸術とは、悪なのだよ、本来は。

野崎孝訳にほとほと感心して、当時、翻訳と言うことはこういうことかと感心したのだけれど、村上役を読んで、またまたそういう感想を持った。

素晴らしい2つの「キャッチャー」「ライ麦畑」の邦訳がある日本人は幸せ者だ。

しかし、スゴイ人がいたもんだ。一筆書きで一気に書き上げたかのような本なのに、完成度は抜群。そもそも完成させるというか、心に浮かぶよしなしごとを書き進めることによって、ストーリーができあがり、最後の方では、かなり暴力的なシーンが現れてきて、「こいつ、ホントに狂いかかっている!」と読者は嫌な感じがするのだけれど、はっきりと狂うところまではいかずに、なんとか、その場で留まっているという危うさだ。

この物語の後半で、ふとピストルを手にするという流れがあれば、ごく自然に物語は、ジョン・レノンの悲劇的な場面まで、すんなりと繋がっていくはずだ。あるいは、「バナナフィッシュ」的最後かな?

その危うさの中に、とことん入り込んじゃうと、おかしな世界から足が抜けなくなり、その世界では、コンパスが歪んでいるので、正当な地図で真っ当な道を歩こうとしても、ついつい道を踏む外しちゃうと言うギリギリの世界の中に入り込んじゃうわけだ。

ヤバイ本だよ。マジで。

例えば、ある種の得体の知れないグループが、掲示板に貼られている「この猫を探しています」といったポスターとか、道に蝋燭で書かれている「ケンケンパ」の子供の遊びの落書きとかで、連絡を取り合っていると信じている人間とかは、スティーブン・キング的に、この本を読んで、何でもない箇所からメッセージを読み取って、反社会的な行動に陥る可能性があるということ。

そういう人間の持っている危うさ、スリル、狂気というものがわからないと、多分、この本を身近に近づけて読むことはできず、ただ、イノセンスを失わない少年の社会的な反抗とか、管理社会に踏みつぶされそうな無垢な魂の彷徨とか、そういう紋切り型の鑑賞しかできなくなってしまう。

ホールデン・コールフィールドが、歩道を渡っている最中、あちら側に行くまでに自分が消えてしまうんじゃないか焦るという感覚は、馬鹿げているけれどね、感覚的にその焦りの息遣いが感じ取れるは、やはり、この本の良き鑑賞者だと思う。そんな風に、あやういバランス感覚を「感じる」小説だ。

ホールデン・コールフィールドは、世の中の多くの部分をインチキといって否定するけれども、今回読んでみて、これは、近親憎悪と自己愛という言葉で括ってみる。

AからBが生まれて、BからCが生まれる。Aは、そのことを知らずに、BやCをインチキ偽物とののしるけれど、実は、自分の分身が相手の存在の中に含まれているんだな。すべての事象は、自分の投影なんだな。つまり、自己が投影された鏡を憎んでいるわけだ。そして、同時に、愛してもいるわけだ。ナーバスな精神は、そういった偽善やら破廉恥をかぎ分ける鋭敏さがある。それって、僕らがかつて少年少女だったときに誰しも持っていた感覚だ。

そして、Aがどこから生まれたかというと、実はCから生まれたというように、何処まで行っても、自己がBC...XYZまで投影されているから、どんな物や人を見ても憎んだり、愛したりしてしまう。

そんな視点でこの本を読むと、理解できるというか、言葉で説明できる部分が少なくないと思う。しかし、理解できる小説なんて、まあ、たいした小説ではないし、理解できない部分、定義して定義からはみ出す部分に鉱脈は存在しているわけで、僕らの感性は、そういう所にツルハシで打ち当てることができるかどうかにかかっている。こんな分析的な読み方はつまらない。知己と飲み会の席でこの本について語るときにふと浮かぶアイデアみたいなものだ。

今回再読してみて、狂気とも言える世界、例えば、山小屋に住んで口のきけない振りをして誰とも話すことはせずに、子供ができたら学校へ行かせず、自分で教育するとか、ファック・ユーと小学校に落書きした相手を、階段に叩き付けて殺してやりたいとかいう心に怒りが沸々と湧いてくる所とか、いじめられて、学校の窓から飛び降りて路面に叩き付けられて飛び散った歯と血の描写とか、悪夢のような、サリンジャーの暴力性というか、真っ当にずれている感覚というか、そういうのに出会ったときには戦慄する気分だった。キングのホラーよりも、ずっと感覚的にコワイ。

まあ、この本が、アメリカで禁書になったというのも納得したよ。やはり、この本はスゴイ。あと、100年は生き残るでしょうよ。

というわけで、このコールフィールドは、「バナナフィッシュ」という短編で、エレベーターの中でピストルで頭を撃ち抜いて死んでしまうのだけれど(多分)、どんな話だったっけ?「コネチカットのひょこひょこおじさん」にも会いたいよ!

ちなみに、今読んでいるジャック・ロンドンの新訳の「野生の呼び声」もやっぱり素晴らしい本でした。こちらも、30年ぶりくらいに読み返しているのだけれど、久しぶりに文学に接したような感動を覚えました。こちらもお勧めです。

ジョギングで、こんなことを考えながら走るのも、とても楽しいものです。

posted by ロビオ at 11:42| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月17日

「地獄の黙示録」の原作を遂に読み終える。

今日もジョグ。

およそ2時間以内で20キロ毎朝走るというのがわかりやすくていいという理由でいいかなと思うのだけれど、毎朝15キロ走る終盤には、さすがに足に疲れが溜まっていて、あと5キロというところで躊躇する。

15キロを走っていても、二日走ると三日目は、体が重く感じられるので、20キロを疲れを溜め込まないで連日走れるようになるには、まだまだ体ができていないような気がする。

今のボクの疲れを溜め込まずに走れる最適な距離がこの15キロあたりのだろう。しばらく走り続けて、物足りなくなり始めたら、距離を伸ばしてみよう。

新訳光文社文庫のコンラッドの「闇の奥」を読み終える。

岩波文庫の「闇の奥」は、3回ほど学生時代に挑戦したのだけれど、ほんの数ページで嫌になって、あるいは、眠くなって、読み通すことのできなかった気になる1冊ではあったのだ。

この本は、言うまでもなく、コッポラ監督の「地獄の黙示録」の原作で、カーツ大佐がクルツという風に、配役の名前もよく似ている。

原作は、新訳ということで、とてもわかりやすい日本語にはなっているのだけれど、それでも、茫洋として焦点のぼけた物語で、クルツが連絡を絶って象牙を勝手に集めている村落まで、各箇所で何ヶ月も足止めをくらって、なかなかたどり着けない、というストーリーそのまま、読者の方も、なにがなんだか煙に巻かれたようで、物語の核心に到達できない感じなのだ。

そんな原作を映画化した「地獄の黙示録」も、主役のマーチン・シーンは、心臓発作で倒れ、マーロン・ブランドはだだをこねて途中アメリカに帰ってしまったり、フィリピンロケ最中に台風が襲来して、こっぴどい損害を受けて、当初の予算を遙かに超えてコッポラ自身破産寸前まで追い込まれて、まさに、狂気の世界を地でいくように完成させた映画なのだった(この映画を制作した時のメイキングムービーが単独で公開されたはず。この映画を作ったということが、グリフィス監督の「イントレランス」のように、一つの偉業なのだ)。

原作を初めて読み終えて、なるほど、この原作に呪われたかのような映画進行だったんだなあと思う。

立花隆の「解読「地獄の黙示録」」いう本は、それなりに面白かったのだけれど、エリオットの「荒地」やフレイザーの「金枝篇」も下敷きにしているという事だったので、そんな風にひねくれた脚本(ジョン・ミリアスとコッポラの共同作業)でストーリーが難解になったのかなと思っていたのだけれど、原作自体が難解というかわかりづらいので、この「闇の奥」を映像化し脚色するには、とことん苦労したと思われ、絶体絶命の窮地から迸った言の葉が、ミリアス・コッポラを根本から支えている英米文学の「教養」で、結果、評論すると、そうしたものが下敷きにされたと評されるのではないかと思う。

なにせ、あの天才、オーソン・ウェルズが映画化しようとしていたというから、かなり野心的な題材ではあったのだ。

こうして、原作を読むと、また映画が見たくなる。

この映画は、本当に素晴らしい。

最初見たのは、高校の「映画鑑賞会」で、全校生徒が有楽町のみゆき座だったか、に連れられて見たのだけれど、あのワルキューレの行進で、ロバート・デュバル扮するキルゴア中佐の狂気とナパーム弾の威力に圧倒されたものの、全編に流れるロックに感動した他は、何が何だかわからず、感動の爆発はなかったのだけれど、何故か気になる映画で、年に1度は必ず見る映画の一つなのだ。

キューブリックの「時計仕掛けのオレンジ」や「2001年宇宙の旅」なんていうのも、年に1回見たくなる映画だけれど、こういう未完成な振りをして、深遠な疑問が次から次へと浮かんできて、それを解明する度に、違った角度から「意味」を見いだせるようなな映画で、生まれた子供が、一人歩きして成長していくように、監督や製作者の当初の意図を遙かに超えて、不滅な生命を得ているというのが素晴らしい。

特別完全版は、エピソードが追加されていて、かなり物語をわかりやすくさせている。フランス領であるから、フランス人の植民地経営者が出てきたり、ここの奥さんとウィラード大尉が寝てしまったり、右往左往しながら物語が進行していく様は、まさに、「闇の奥」の原作さながら、何処にも行き着けない迷宮を船で進んでいるような印象を与える。をなるほど、こうやって物語は繋がるのか!と目から鱗が落ちることもあるだろう。

当初の劇場版とこの特別完全版の2つをもっていれば十分に「一生」楽しめる映画である。そして、鑑賞する側にもある程度の努力が必要で、この「闇の奥」を読んでおくとより一層深く映画を味わえる事になると思う。

ああ、映画の話になってしまった。

posted by ロビオ at 09:14| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月18日

チャンドラーとサムピック

図書館から連絡があり、ようやく予約していた村上春樹訳の「さよなら、愛しい人」を借りることができた。例のベストセラーは、1年くらい経たないと読めなさそう。

実は、この本、早川文庫で、4回くらいは読んでいるのに、毎度話の筋がバラバラになってしまい、「長いお別れ」と「かわいい女」と「プレイバック」とかの筋とごっちゃになっていて、読み進むまで思い出せなかったな。

いまだに、すべての筋書きが頭に入ったわけではなく、どうしてへらじかマロイが、かくまわれていたのか、よくわからない。

が、やはり、読ませるのは、きりりとしまったドライ・マティーニのように文章が美しいから。

ボクの場合、推理小説でもハードボイルド小説でも、誰が犯人か?なんてどうでもいいことで、ただただ、プロフェッショナルな文章に酔うことができればそれでいいのだ。

村上春樹訳の「ロンググッドバイ」が一つの事件のように思えるほど、素晴らしい訳だと感じたけれど、こちらは、まあまあ、という感じかな。

使ってみたい台詞は数々あれど、とても恥ずかしくて使えない。

金持ちの依頼者に対して、マーロウが言う台詞。

「私は貧しい人間だが、自分のことは自分で好きなようにやっている。そして私のやり方は、あなたのお気に入るほどやわではない」

なんて、一度啖呵を切ってみたいもの。

難渋な哲学書をチミチミ読んでいるので、こういう本は、最高に楽しい。

村上春樹が後書きで、「チャンドラーの小説のある人生と、チャンドラーの小説のない人生とでは、確実にいろんな物事が変わってくるはずだ。」と書いているけれど、ボクもチャンドラーの愛読者じゃなければ、今の職業には就いていないような気がする。

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歌舞伎町でお仕事。外国人ばかりで日本語が通じない。ここは、本当に日本かよ?

帰りに、昔良く通った新大久保の黒澤楽器へ寄ってみた。

オベーション、マーチン、ギルド、ギブソン。自分が買える範囲の値段よりも一桁大きい。

今日は、ギブソンの「ハミングバード」を買ったつもりで、店を出る前に、サムピックを一つ買ってみる。105円也。

事務所に帰って、このサムピックで、ブルーマウンテンラグを弾いてみる。なかなか良い感じ。

もう一度、一からギター勉強し直してみたい気もするけれど、これ以上趣味の領域を広げるのは、ちょっと無理か?無理でないにしろ、負担に感じられるだろうな。

たまにつま弾くぐらいがちょうど良いかも。

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2009年07月23日

快適自転車塾

快適自転車塾 長尾藤三著

という本を読んでいたら、自転車乗りの特徴について、

マイペースで自己中心的

一人でいても平気

アマノジャク

苦労を乗り越えるのが好き

上昇志向出世指向なし

素顔でいて飾らない

ははは、ボクの場合も、ほとんど当てはまりそう。

著者は、1941年生まれと言うから、御年68歳。が、ロードに乗っている姿は、とてもそんな年には思えずに、骨盤が立っているし、背骨がテントのように張っていて、見事なフォーム。ボクも、こんなフォームで走るのが、自転車に乗る為の唯一の目標だ。

副題に、「速くはなくともカッコよく疲れず楽しく走る法」とあるように、それらのことを指南してくれているのだけれど、これが、適切なアドバイスだし、いちいち肯ける内容。

自転車雑誌を見れば、速く走る方法とか、フレームの剛性がどうのこうの、要らぬ特集が組まれているけれど、まあ、こういう雑誌を買うのは、ホルモン分泌が豊富な若者が読むから、まあしょうがないやね。

が、枯れて酸っぱくなった中年は、こういうのは、ほとんど意味がない。

明らかに、こうした雑誌を読んで、年齢のギャップを感じるのは、欲しい自転車が全く誌面に現れてこないこと。

あんな妙竹林なフレームは要らないし、カーボン・ディープリムのホィールや、10速が11速になったところで、手動が電動になったところで、ロックのリズムで揺れながら坂道を登ったり下りたりするボクにとって、必要な類のものだとは思えないわけだ。

自転車は、速ければいいと言うわけではないし、年取って頑張る姿は、悲壮でもあるし、第一危ない。競争する姿もみっともない。やはり、ニコニコと、自己中心的にマイペースで走りたい

遅いけれど上手=格好いい・・・。これだ!

だから、カッコウからはいる。

が、カッコよく走るには、腹を引っ込ませる為の日々の鍛錬が必要だし、フォームを考えないといけないし、自転車だって、太い筋肉質のフレームは、似つかわしくないだろうし、なにより、楽しみながら自転車に乗る姿が格好いいと思うので、それ相応の努力が必要。

だから、こういう「格好よく疲れず楽しく走る」うちに、自然と、速く走れるようになるというのが、中年のあるべき姿だと思うのだ。

そんな内容の本(だと思う)。

この著者は、マウンテンバイクも、嗜むのだけれど、リジッドフォーク使用しているみたい。話が合いそうだなあ。サムシフターだし。

ロードは、クロモリ(vogueとDe rosa)で、ダブルレバーを愛用しているみたい。ますます、話が合いそうだなあ。

一事が万事。こういう人は、他の世界でも、こうした世界をもっていると思うからだ。

便利なものは、敬遠して、少しずつ、不便なものだが、実際は、必要にして十分な機能を持つ部品へと換えていくと、なかなか良い自転車になるんじゃないか。一手間を楽しむ、あるいは、楽しめるような状況で自転車を乗り続けていきたいと思うのだ。

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2009年06月30日

膝の痛みを抱えながら、辛い読書をする

先週の雨の日にジョギングをしてから、膝に違和感を覚えて、自重してジョギングは休んでいたのだが、今朝ほど、妻に左右の膝の形が違う事を指摘されて、フニョフニョと膝下の更に皿の下の出っ張りを弄っていたら、痛くなってきた。

形が変わっていると言うことは、水が溜まっていると言うことなのかしらん。

自転車は、膝には負担がかからないので、OKなんだけれど、これじゃしばらくジョグはできませんなあ。残念です。

最近、坂道ばかりを走っているので、平地が詰まらなくなってきて、どうにもこうにも、名郷飯能なんか走る気が全く起きない。これも困ったものだ。なんか、そこに坂があれば、喜んでヒョイヒョイと登るのだけれど、平地は苦手だ。

と、平地ばかり走っていると、坂を避ける傾向もあり、なかなかロードの練習も難しいものがある。

読書もそうで、単なる暇つぶしのための読書というものは、できなくなってきて、自分の限界を超えたようだけれど、頑張れば読み通せそうな本に焦点を当てて読んでいるのだ。

先週は、炎天下に負けて、辛い坂道を登ることになったのだけれど、現在読んでいるニーチェの「道徳の系譜」も、これも炎天下の麦草峠を登っているように、辛い辛い。何度、途中で足を着いちゃおうかと思ったことか。そのたびに、なにくそっと、ダンシングでスイッチバック的激坂を乗り越えてきたのである。

言葉の意味の振幅が大きいのか小さいのか、これって日本語かよ?という文章が延々と続き、詩人の跳躍的表現に翻弄され、(多分)常識事項は省かれているので、直接に問題提起が現れるので、路頭に迷いつつも、時に頭にバチッと閃くものが通過するときもあり、数行わかったつもりで嬉々として読み進み、あっという間に、晦渋の海に突き落とされて、文字が目の中を滑って、なかなか意味が通らない。

悔しい、ニーチェの後ろ姿がどんどん遠くなるようで・・・。が、哲学書なるもの、相当な訓練が必要で、ニーチェの場合は、ワザとわかりにくくし牛のように反芻して咀嚼しないと下痢をするというような塩梅で文章を書いているようで、なかなか一筋縄ではいかないのだ。

天才と会話をするようになるには、それ相応の準備というものが必要で、実力不足の人には、面と向かって対話してくれないものである。いつになったら、目を合わせてくれるのか。

が、もうあと、20ページくらいでとにかく読み終わる。

一度読み終えたら、これが又、無二の知己を得たような気分になるのがこの手の本で、次回は、線を引きながら、更に深みに流れる思想に手を触れたいと思うのだ。

というわけで、やはり、読書は辛い辛い本を読み通すのが一番。

次は、ヘーゲルの「歴史哲学講義」をば。

と、そんな風に、辛い事じゃないと満足できないようになるということは、何事においても実力がついてきたということで、自分の取り巻く世界が、知らず知らずのうちに変化して、自分に取り巻いてくるということでもあるのだ。

だから、何事も、楽な道と辛そうな道があったら、辛そうな道を選ぶような、危機を選ぶような人生を選択したいと思うのでした。

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2009年02月24日

ヅャコ・パストリアスの思い出

こんな世の中で正気を保つには、ジョグが必要だ、と常々思っている。

生き残るための智恵、それがジョギングだ。

だから、今日もジョグ。

寒くは感じるのだけれど、山の中に入って、いつもは厚い氷が張っている水溜まりは凍ることなく坂道を転がっていたから、ついこの前よりは暖かいはずだ。手袋の隙間から触る外気の冷たさは相当のものだけれど。

中山康樹という人は、ボクがジャズに一番凝っていた高校生の頃、「スイングジャーナル」の編集長で、当時は、ジャズもロック並みの人気があったボクの周りには、若干1名だけ、ジャズの話ができる友達がいたけれど、まあ、ジャズが最後の光を発していた時代かも知れない。

密かに、当時はそんな雑誌社に就職したいなあと思っていたのだけれど、今じゃ、しがない自営業者。

そんな中山氏が書いた本をほとんど読んでいるのだけれど、昨日図書館へ行ったら、「ジャズメンとの約束」という著作が棚にあったので、借りて読んでみた。クオリティ・ペーパーに寄稿されたバーのカウンター話に最適なジャズ版<ちょっといい話>的な内容。

あのフェラーリを乗り回し、ジャズの帝王と呼ばれていたマイルズが残した遺産は、<たった>200万ドルだったらしいし、彼と組んで何作かアルバムを制作し、多くのミュージシャンから尊敬を集めていたギル・エバンスは、経済的には恵まれず、妻に愚痴られていたそうだし、アート・ペッパーは、死んで入る墓もなく、貧しい人用のロッカーが墓代わり。

ビル・エバンスがあれほど多くのレコード録音をしたのもドラッグ欲しさの小金作りだったらしいし。

芸術家に金はついて回らないということなのか。

惨烈凄惨悲惨辛酸な生活こそ彼らの生きる道なのか。

だからこそ、いっそうCDを聞くこちらの耳に伝わってくる感動がある、みるみると立ち上がる実像が感じられる。

日本のジャズ雑誌では華々しくレコードを販売して、雑誌にそれこそジャズの成功者としてインタビューをされていたミュージシャンというのは、実情厳しい生活を強いられていたんだ。差別があり、ジャズというほんと少数者しか聞かない音楽ということで、もともとパイが少ないし。

なかでも、ジャコ・パストリアスの晩年は悲惨だ。

ウェザー・リポートで人気者になった後間もなくグループを離れ、莫大な費用をかけた「ワード・オヴ・マウス」を制作するものの、あまり売れず、それから以後は、ニュースが途切れていたのだが、その間、ジャンキーとなり、路上生活者となり、出会った友人から10ドルを無心し、「俺が天才のジャコだぜ」と言いながら友人のうちから盗んだ自分のレコードを路上で販売する始末。辛抱強い友人からも見放されて、前妻に精神病院へ強制的に入院させられるも脱走。公園で暮らしながらの生活が続き、クラブのボディガードともみ合い殴打されて死亡。それは、殺人に匹敵する行為だったと伝えられた(と一部訂正)頃、ボクは、雨戸を閉め切った真っ暗な自宅の四畳半の勉強部屋で法律の本を一日中読んで暮らしていた。

その訃報がボクの耳に届いた頃、ジャコよりも、バッハやらモーツアルトを好んで聴いていたような気がする。ボクの中で、時代が一周回ったのかも知れない。

が、思い出すのだ、。1980年の厚生年金大ホールのウェザー・リポートのコンサートを。友人のバイクに拾って貰い、バイクのケツに乗って新宿まで。どこかで、サインのための色紙を買ってコンサート会場へ行ったときのことを。

ほぼ、前から3列前の向かって右側よりの場所。ジャコの汗が落ちる玉が見えるほどの良い席。ジミヘンのフレーズをベースで弾くパフォーマンス。バードランドのただ事ではないベースラインとヴォーカル。おまえの印での、ベースの音の美しさ。その日の主役はザビヌルでもなく、ショーターでもなく、ジャコだった。

とにかくジャコの周りには、近寄りがたいカリスマとオーラが渦巻いてステージ上に氾濫していた。

コンサート終了後、友人と辛抱強く裏口に回って待つこと小一時間、ウェザーリポートのメンバー全員から握手をしてサインを貰った。

ステージ上で鬼気迫る演奏を終えて裏口から出てきたジャコは、痩せた普通の外国人で、その他のメンバーも、ビックリするほど小柄であることにビックリ。これは、どこかですれ違ってもわからないな。

そして、紳士的な態度で、こちらの差し出す色紙にサインしてくれたのだった。

ジャコは、色紙を左手に持ちながら、右手に持ったマジックで空中に縦に横に何かを思い出すように線を描いている。「何やっているんですか」と聞いたような気がするけれど、いたずら小僧のように微笑むだけ。そしたら、色紙にカタカナで「ジャコ」ならぬ「ヅャコ」と書いてくれたのだった。本式のサインが欲しかったような、まあ、珍しいから嬉しいような微妙な心持ちがしたけれど、嬉しい気持ちには変わりない。書き終えて、こちらの目を見て白くて細くて長くて冷たい手を差し出してくれた。

神に愛されてその後に疎まれた本当の天才と接点をもてたのは、後にも先にもこの時限り。おそらく、今後も無いだろう。

そうか、ジョー・ザビヌルもこの世にいないのか。

「In a silent way」でジャズの歴史を変えた男。ボクサー、ウォッカ飲み、そして、握手したその手は、小さいが分厚く温かだった。

そんなことを昨晩読んだ本で思い出して、彼らの不在を淋しく思いながら、山道をとぼとぼ下ったのだった。

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2009年02月09日

新々百人一首 丸谷才一著

「笹まくら」があまりにも刺激的だったので、丸谷才一著の「新々百人一首」上下巻を購入。この1年、定価で本で購入したのは、ラジオ講座のテキストくらいで、そのくらい気合いを入れて購入。

で、今上巻の半分くらいを読み終えて、やはり、日本人は和歌というもので生成されてきた文化というものが、あるのだなと思ったし、いまこそ、こういう知識を生きたものとして体内に取り入れる必要があることを痛感した。

重層的に意味が重なり合って、謎かけがあり、そのほとんどが恋愛の歌であり・・・と日本人の美意識というか、文化の多相性を理解するのには、和歌が一番。

ボクは高校の時に、古典の教師が、試験範囲に「百人一首」と、さらに、漢文の教師が「長恨歌」を暗記してくるのが、夏休みの宿題という、夏休み終了数日前から鳴きながら丸暗記をした覚えがある。

その結果、百人一首(ひゃくにんしゅ、と読む)は朧気に憶えているのである。時代は、便利になったもので、ネットで、百人一首のExcelの表なんかがあって、そいつをプリントアウトして、記憶に定着するよう、1日25首くらいずつ今暗記しているところなのだ。

それとは、異なる選定で、丸谷自身が選んだ100首、それを色々な検証をしながら、解説している、とても為になる本であるのだ。

何故「新百人一首」でないかというと、室町時代に一度「新百人一首」というのがあるのだそうで(巻末にその100首も羅列されている)、「新々」となったわけで、この本が著者に万一のことがあったら、大岡信氏に引き継いで貰うという約束まで取り交わしたという、著者入魂の本なのだ。

これが、上下文庫本で1300円程度で買えるのだから日本人なら読まなくっちゃ。

そうそう、いつの頃か、以後詠む本は、古典と英語の本だけ!と決心して1ヶ月くらい過ごしたことがあり、その時は、枕草子、徒然草、更級日記、奥の細道、和泉式部日記と読み続けた時期があった。

そうだ、今年も、もう一度この路線に戻って、日本の古典を読んでいこうじゃないかという気になってきた。

まずは、この「新々百人一首」。寝ながら読んでいる「古今和歌集」が終わったら、こんど「新古今和歌集(昨日、角川文庫でいいのがあることを発見)」と読んでみようじゃないの。

「長根歌」も懐かしく思い出したので、これは確か岩波新書の「新唐詩選」だったか、吉川孝次囈試mの本だったはず。よく憶えたなあ。

と思って、ネットでググれば、出てくるじゃないの。長恨歌が。ああ、懐かしい。

温泉水滑らかにして凝脂 を洗ふ

このエロティシズムに高校生のオスどもは、想像をたくましくしたものだった。この本は、どこかにあったはず。

たまに、温泉に入ると、このフレーズが出てくる。若い頃の苦労は、するもんだね。泣き泣き憶えたけれど。

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2009年02月05日

笹まくら 丸谷才一著

マーチン・スコセッシ監督が、遂に遠藤周作の「沈黙」をダニエル・デイ・ルイス主演で映画化することが決定したようで、この間、この本を読み終えた者にとっては、その完成が待ち遠しい。

日本人のキャストは誰になるのか、興味津々。

黒澤明監督の「夢」のなかで、ゴッホ役をスコセッシ監督自身やっていたので、今度は、監督として日本人俳優を指揮する事になる。

読み終えた文芸書では、丸谷才一の「笹まくら」。

見事な構成で、しかも、文章にたるむところが無く、圧倒される。40年も前の作品なのに、全く古さを感じないのも驚き。時代と一緒に育っている希有な本ではないか。

どうして、もっと早い時期に読まなかったのか、悔やまれるけれど、久しぶりに貪るように本が読めた。快感!

丸谷才一の本は、「横しぐれ」「たった一人の反抗」と無数のエッセイを読み飛ばしてきたけれど、「裏声で歌へ君が代」にイマイチ感動できず、「女ざかり」で、ガックシだったので、この名作を欠いて、丸谷才一の本を読んだ気になっていたのだった。

ああ、危ない危ない。やはり、気に入った作家の本は、すべて目を通しておかないと。

徴兵忌避者として戦中逃げ延びた男が、戦後大学の職員となって、その徴兵忌避のために職場を追われるに至る迄の話を、<意識の流れ>を駆使した文体で、戦中戦後の時間を行き来しながら語られる話。

国家の存在理由が戦争をする為にあると看破した主人公が、その戦争を逃げる事によって生き延びたはずなのに、世の中の右傾化とともに、戦後もまた徴兵忌避者としての<前科>が取りざされて、周辺がざわめいて、誰が梶を取ることもなく、左遷、退職の為の道がぼんやりと確実に目の前に現れてくる様を、徴兵忌避者としての逃亡時代の全身が張り詰めるような緊張感と同じ繊細さで、時には、読者には、勘ぐりすぎだと思えるほどの熱心さで誰何する様は、それだけで、スリリングで、身につまされるように心臓がばくばくと大きな音を立てるほどなのだ。

戦前の逃亡中の恋人との描写は、濡れそぼるといった表現で良いのか、一見俗のような雰囲気を漂わせ、酔っぱらった「西」という反主人公の独り言は、それだけで、見事な落語の一席を聞いたような芸があるし、この人の実力は、計り知れない深さがある。

そんな至芸を楽しむのも良し、あちこちに(多分一度読んだだけでは気づかない)伏線がたくさん張られているようだし、<意識の流れ>で突然に過去のある点に思いが飛ぶのだけれど、その順序も考え抜かれたものである。

「少年カフカ」になにやら似ている最後の章。村上春樹自身の本でも、この本に言及しているので、影響を受けているのは、間違いない。

構成の見事さをメモを取りながらもう一度読んでみよう。

ジョイスの<ユリシーズ>に挑戦したくなってきた。Attack299!より辛いものになるであらう。

もう、今年のベスト1は、これで決まりかな。

というようなことを考えながら、今日もジョギング。

坂道は心拍165で固定。できるだけ160をキープ。下り坂では、猛スピードで走ることになる。結果、腰を痛めたみたいで、暮れに痛めたところが痛みだした。

今日は、早朝より出撃したので、坂を登ったり下りたり。車道を走っていたら、妙な道を見つけて、トレイルラン。

がしがしと、ほぼ暗闇の細い道の行き着く先には、お墓があり、卒塔婆が揺れてビックリ仰天。その先に続くか細き道を走ったらいつもの坂道の途中に出くわした。これは、かなりの近道だ。が、二度とこの道は通らない、少なくとも暗闇時は御免。

ロッド・スチュワートのベスト盤を聴きながら走る。やはり、「ガソリンアレイ」や「エブリイ・ピクチャー・テルズ・ア・ストーリイ」あたりがベストで、セイリングとか、文字通りアメリカへ<アトランティック・クロッシング>したあたりから、ちょっとつまらない。ヒットした「ダウンタウン・トレイン」での声量があまり衰えていないのには驚くけれど。

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2009年01月14日

今年に入って読んだ本

今年にはいって読んだ本

遠藤周作 「深い河」

 著者が「沈黙」と共に棺の中に入れるように遺言した本。

嵐山光三郎 「悪党芭蕉」

 芭蕉フアンなら読まなくっちゃ。

金子光晴 「放流」

 ボクの憧れ、金子光晴。

冠松次郎 「峰と渓」

 登山家は詩人である。

小林信彦 「映画×東京 とっておき雑学ノート」

 この人の本は、ほとんどすべて読んでいる。

村越真・宮内佐季子 「最新読図ワークブック」

 山を登る人ならこの本がそばにないと話にならんでしょう。

八田秀雄 「乳酸」

 乳酸について、自分なりに多くの知識を得ることができた。体の中で運動中に何が起こっているのかわかるので、自称運動好きならば、必須の本。

八田秀雄 「エネルギー代謝を活かしたスポーツトレーニング」

 これまた、為になる。トレーニングにも王道なし!

石原千秋 「『こころ』大人になれなかった先生」

 夏目漱石の「こころ」の評論文だけれど、ボクは、この人の意見とは全く違う。

志賀浩二 「算数から見えてくる数学 1 数からはじまる」

 小中高と逃げ回っていた算数数学の世界。しかし、本当は、数学好きな自分を発見するのだった。ひょっとしたら、俺、理系かも?

加藤尚武 「応用倫理学のすすめ」

 東大の全共闘時代、この人がいて西部すすむがいて・・・。環境倫理学で名前を知って、ヘーゲル哲学に入り込んで・・・と道案内してくれる人。

山本勉 「仏像のひみつ」

 仏像の見方を知ると、博物館やお寺で楽しめます。

齋藤孝 「読み上手 書き上手」

 なるほど。

現在読書中

安部公房 「箱男」

 再読中。

夏目漱石「彼岸過迄」

 これまた再読中。

膨大な本がボクの体の中を通り過ぎていく。

今年は、途中までしか読まなかった本も含めて、目を通した本を上げていこうか。

あれま、今年に入ってまだ14日なのに、13冊読了ということは、1日1冊ペースですかい。こちらのトレーニングも継続中・・・。 

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2008年12月10日

幼年期の終わり クラーク著

SFは苦手だ。カート・ボネガットとフィリップ・K・ディックとJ・D・バラードの何冊かは別として、ほとんど読んだことはないのだが、気になっていたアーサー・C・クラークの「幼年期の終わり」は、やはり読んでおくべきだとず〜っと思っていたのだが、早川文庫版のそれを、2、3回読み始めては、第1章でつまずくというのを繰り返した。ほとほと、SF小説音痴だなあと思っていたのだが、このほど、光文社古典新訳文庫にあの池田真紀子訳でこの小説が出たので、思わず図書館で借りてしまったのだった。

そういえば、あの「2001年宇宙の旅」というキューブリック(クブリックと発音するのだそうだが)監督の映画があるのだが、そして、これも同じ著者なんだけれど、この映画、みんなが素晴らしい素晴らしいと絶賛し、その昔、ビデオなんて言うものがなかった時代には、何度も何度もロードショウ館で公開されていたほどの人気抜群の映画だったのだ。

で、たしか有楽町のみゆき座に見に行ったのだが、モラリスが発見されて、猿人類から人間へと進化する過程を、武器として猿人類が手に取った骨を空に放った瞬間、その骨が宇宙船となり滑るように宇宙空間を走っている。その何十万年かを一瞬で観客に理解させる手腕はさすが!と思わせたけれど、宇宙ステーションが宇宙空間を、「美しき青きドナウ」とともに、回転するようなシーンで、目が徐々にくっついていき、遂に眠りに入ってしまって、気づいたら最後の人類の進化の最終形態が現れるフラッシュのような光で目が覚めたけれど、これは、最後のシーンだった。本当に退屈な映画だった。

その後、何度かこの映画をビデオで見たけれど、まあつまらない映画ではないけれど、なぜ、みんなが熱狂するのがよくわからない。いかにつまらないか、映画フアンを自認するみんなの前で言うものだから嫌われた。

この映画の謎解きは面白い。が、なんか、深みがないような気がするのだ。音痴なボクにとっては、感情移入ができにくいので、心が浮き立ったり、激しく拒絶したりすることが少ないのだ。

で、読み終わって、なるほど、「2001年宇宙の旅」のテーマというのは、こういう事だったのかと、得心した。

最初から最後まで、次の展開が読めない。最後の最後でこのテーマは、「2001年宇宙の旅」に似通っていると、わかったけれど、そこまでは、遙かにこちらの常識を上回る話の展開だった。こういう物語を紡げるのは凄い才能だ。

人類が始めて火星に出発するというその日、地球の上空にオーバーロードと後に呼ばれる宇宙船が現れて、停泊し続け、人類を統治する。その圧倒的な知性と文明を目の当たりにして、地球人の有する科学知識、民族間の衝突、差別、貧困というものは、意味をなさなくなり、人類からは、徐々に理想郷とも思える世界がもたらされていく。が、このオーバーロードが地球に君臨する最終目的とは一体何だったのか?というのが、話の筋。

感情移入を一切排した物語の流れ。そうした意味の無機質な感触を味わいながら、ページを薦めていくと、最終的に驚愕の事実が現れていく。

というわけで、また一つ、読まずに死ねるか!的本を読み終えた。これで、未練は一つなくなった。といっても、膨大な本のリストがあるのだけれど。

でも、やはり、SF小説は苦手である。

次は、漱石に行こうか?

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2008年12月04日

「沈黙」 遠藤周作

遠藤周作の「沈黙」を読み終える。

夏目漱石の「こころ」に次いで重いテーマの小説。くたくたになりながらも、やはり、読んで良かった。

アマゾンでこの小説に関する評の多さに驚くし、「純文学」とかつて呼ばれたジャンルでも、かなりの評の数に関しては、かなりの上位にあるのではないか。

こういう重いテーマの小説であっても、やはり、多くの人に長いこと読まれ続けられる小説というのは、とても面白い。そうでなけりゃ、「カラマーゾフの兄弟」がロングセラーになるはずがないよ、父親殺しの話だもん。

で、この「沈黙」、とても面白かった。

で、終わらしたいのだけれど、なんか書いてみよう。

神は存在するのか?という、異教者にとっては、切実に日々考える話ではないのだけれど、そこは、小説。その世界にどっぷり浸かると、司祭と共に、悩み苦しむのである。

殉教しても、祈りを捧げても、迫害されても、ただただ、神は沈黙する。柱に結わかれて何日も放置されて、やがて死んでしまう信徒達。が、神は何を行うことなく、放り出された砂浜に置かれた死骸に波が何事もなかったかのように押しては引いていく。

キリスト教徒にとって、神とはどんな存在なのか。例えば、自己を写す鏡のように、それが無くては、自己を認識することのできない存在だとする。

そうだとすると、神の不在は、自己を「あらしめている」ものの不在となり、結果、自己も喪失してしまうのではないか。

こうなると、こういう状況というのは、絶えられないし、恐ろしい問題である。価値が無くなる。罪とは罰とは?と、こうなると、「カラマーゾフの兄弟」での場違いな会見におけるイワン・カラマーゾフの意見開陳ということになる。

神というのは全知全能であるので、すべての起こることに対して、すべてお見通しなはずである。

が、神は沈黙するのである。

その沈黙の重さは大きい。

そして、もう一つのテーマが、「教会の」キリスト教と「私の」キリスト教というキリスト像。

穴吊りの獄門に苦しむ信徒を救うために、踏み絵を断行した司祭。転ぶことは、決して許さない「教会」のキリストと、そんな弱い自分を許すと語ったように思える「私」のキリストという図式である。

キリストは、果たしてユダの裏切りを許したのか。同じように、踏み絵を踏んで裏切った司祭は許されるのか?キリストは、そうした心の弱さ、転ぶことによる心の痛みを分かつため、この世に生まれ、十字架を背負ったのだろうか。

それを肯定するのが遠藤周作が訴えたかったキリスト像だと思われる。

思い出すのは、「カラマーゾフ兄弟」の中の白眉「大審問官」である。弱い人間にキリストは強さを求めた云々という議論だったかな?もう一度読んでみたい。

日本人でかつてキリスト教徒であった筑後守が

仏の慈悲とキリシタンデウスの慈悲とはいかに違うかと?どうにもならぬ己の弱さに、衆生がすがる仏の慈悲、これを救いと日本では教えておる。キリシタンの違いとは、デウスにすがるだけのものではなく、信徒が力の限り守る心の強さがそれに伴わねばならぬ。

との意見に対して、司祭は、基督教はあなたの言うようなものではない、と叫びたくなるところを我慢したのは、こうした宗教上の問題は、相対化して語られるのではなく、絶対的なものとして考えるので、その議論に嘘くささを感じたのではないか。

日本という風土は、八百万の神と言われるほど、至る所に神が存在して、なんら矛盾の生じない世界に親しんでいるのだが、そうした態度は、基督教的世界では許されないものであろう。

かつて、京都を旅していたとき、熱心なキリスト教徒は、絶対に、お寺に観光としては行くけれど、お参りはしなかったことを思い出す。

が、日本では、クリスマスだの、七五三だの、初詣だの、お盆だの、もう、無茶苦茶である。

そんな風土において、基督教なるものが日本に根付くことが可能であるのか、というのも、小さなテーマとして現れている。

そんな3つの重いテーマが、大きなうねりとなって、最後の最後まで読ませてしまう力量は、凄いものですな。

これもまた、漱石の「こころ」と同じく、再度、赤ペンの後を括りながら、読んでみようと思う小説だった。

大満足。

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2008年11月29日

「こころ」と3時間マフェトン

夏目漱石の本はほとんど読んだつもりだった。が、ふと手にした「こころ」は、教科書で「先生と遺書」の一部分を読んだだけで、読んだ気になっていたのは迂闊だった。というわけで、赤ボールペン片手に読んでみた。

どこを教科書で読んだのか、つゆわからず。当時の印象より、相当陰気な文学だ。

陰気な話は嫌いだけれど、面白いのなんのって。先生とKとのお嬢さんを巡る三角関係の落ち着く先はどこ?というのが、話の筋だが、「先生」の内心の動きが手に取るようにこちらに伝わってくるので、息が苦しくなる。ミステリーとしても読めるので、ページをめくるスピードが徐々に速くなる。

こういう卑怯な事をしたことで、後年思い出す度に胸が苦しくなるというような経験は大なり小なり誰にもあるんじゃないか。骨身に染みるよ、読んでいると。

それでいて、嫌なものに目が離せなくなるのは、人は、自分に一番興味があるからで、醜い自己の一部であっても、自己の者である限り、興味が無くなるはずもなく、そのエゴイズムたるものを夏目漱石に的確に描写して貰いたくて、一字一字を丹念に読み進めることをやめることが出来ないことになる。ただただ、こちらは唸るばかり。

夏目先生の知性にようやくこの年になって追いついたのか、ちょっと、こりゃあ、高校生のしみったれた頭じゃ理解不能だね。大人の文学です。

ひさしぶりに、読書の愉悦を堪能した。

優れた小説というのは、読後に数々の謎を残していくけれど、この本もまさにそう。

自己中心主義を貫くことを潔しとする文学の台頭、白樺派の「友情」とか、そういう「お目出度い」文学にたいする、アンチテーゼとして、エゴイズムを外科医のごとく解剖して腑分けしてみた文学だ。「愛は惜しみなく奪えるわけがない」という話。

明治天皇崩御に対し、「殉死」という態度で死を選んだ乃木大将。その「殉死」という言葉が、先生に「明治の精神に殉死する」という契機を与えた。

そんな江戸文化の冷徹な倫理、まさに、漱石は、江戸文化の直接的後継者であるので、大正デモクラシーという「エログロナンセンス」で中途半端な自己解放の時代に対する異議申し立てでもあるようにおもわれる。

実際、明治人にとって、乃木希典の殉死は、相当のインパクトがあったようだ。この小説も、この殉死にインスパイアされて書かれたのかもしれない。

このお嬢さんというのは、「三四郎」の美禰子を彷彿とさせる天然ぼけというか、論理ではとらえられないと漱石が思っている女性像をよく表している。意味もないのに笑ったり、こちらも、その紹介の仕方に小首をかしげるばかり。

とにかく文体が凄い。今使われる文章ではないけれど、漱石のペンの先から、言わんとすることが次から次へと、ちょっと使われないような言葉が連なって、最後の句点で、なるほど、そういうことが言いたかった文章なんだ、と腑に落ちる文章。漢文と英語の達人である漱石ならではの文章。

これに近い文章を書くのは、片岡義男だね。とくに、評論文の。同じような脳みその回路を持っていそうだ。

そんなことを考えながら、今日も3時間トレーニング。

ルールは簡単。心拍139で、3時間走り続けること。

今日は、自宅から飛び出して、ふと今まで走ったことのない七国峠方面へ行ってみようという気になる。

道を間違いながら、なんとか音大坂へ、ここからは、何度もマウンテンバイクで走ったことがあるので、できるだけ、大回りで三角点まで走る。

路面は、昨晩の雨で多少ぬかるんではいるけれども、なかなか走りやすい。傾斜も、たいしたことはなくて、ここはまさにトレイルラン用の道だね。

桜山展望台から豚小屋へ。豚小屋から激坂を登って、細いシングルトラックを走って、踏切を渡ったら、工事中。そういえば、墓の脇の細い道があったと思い出して、細い通路をくねくねと。激坂登りで、墓場の上を走って、次のトレイルへ。

音大の策を渡って、三角点。三角点から、外周で、S谷さんとご挨拶。今日は、マウンテンバイクに乗っている人には、他には会わなかった。墓場へのダウンヒル。こうやって、走ると、実際マウンテンバイクだと、結構な下りの様な感じがするけれど、至って、普通な道。

阿須の交差点から岩淵方面へえっちら走って、美杉台を抜けて、家路について、3時間。一度も休まず、足を止めずに走れたことが嬉しい。

いやあ、強くなりました。まだまだ、走れます。が、このくらいがちょうど良いくらいかな。やはり、トレーニングは、3時間が限界。体力が残っていようが、飽きますな。

ちょっと、気になるので、これから、もう一度「こころ」の線を引いた箇所を中心に、読み返してみよう。

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2008年11月11日

木曜日だった男 一つの悪夢 チェスタトン著

「木曜日だった男 一つの悪夢」チェスタトン著を読んでみた。

この光文社古典翻訳シリーズは、訳が新しくて、現代にマッチして読みやすい反面、あれだけ苦労に苦労を重ねて読破した「カラマーゾフの兄弟」や「罪と罰」なんかが、簡単に読み飛ばせてしまうというのが、なにか、腑に落ちない。

というのも、難解な言い回しが、読んでいて引っかかって、何度も何度も同じ文を再読反芻している内に、小さな理解のピークを何度も何度も繰り返して、やがて、最終ページに進んで全体がぬ〜っと現前する、といった、まさに「小説を読む」という醍醐味が失われてしまったような気がするのだ。

でも、ま、読んで楽しいし、最近、このシリーズをブックオフで見つけては、買い足し、読みふけっている。

「武器よさらば」「車輪の下」「恐るべき子供たち」「初恋」と、中学時代に読みふけった小説群を再度読み返しているのである。どれも、まあまあ、楽しかった。が、やはり、中学時代に読んだ感激というか、そういうものはなかったのは、残念であった。若い頃の読書は、すべて出会った文章の内容や節回しが、未来を予感させる暗示や啓示であるのに対し、中年になってからの読書は、自分の人生観やら体験を、見事な言葉で鮮やかに切り取ってくれるものとして、「ほら」と差し出してくれるものに過ぎず、言わば、人生の再体験というか、失語症に陥った者に言葉を与えてくれる、そんな意味合いの方が強いと思うのである。

で、この小説。かの吉田健一の訳で「木曜の男」という題で人口に膾炙している小説ではある。おそれおおいことである。吉田健一と野坂昭如は、天才で、やはり、天才には近づかない方が良いのである。と言うわけで、推理小説研究会の面々には、読むべき本だと言われていたのだけれど、敬して遠ざけていたのであった。

で、筋は、インターネットで色々調べて貰えばいいのだけれど、「日曜日」を議長とする7人からなる無政府主義者評議会が開催され、フランス国王だか、そん偉い人の暗殺が決行されることが決まったのだったが、その中に、刑事が潜り込んでいた。その刑事はいかにしてその暗殺を阻止するのか・・・という流れの中で、いろいろな奇怪な事実が判明してくる。追う者と終われる者が逆転し、猛スピードで話は転がっていくのだが、無政府主義評議会の議長である「日曜日」とは、そもそも一体何ものなのか?

といった、話。

が、そんな話を超越した19世紀の奇怪な風景描写やら、諧謔に満ちた会話、そして、ドタバタというか(象に乗って逃げたり、気球で飛んでいったり)、不条理な世界が、達者な筆で描かれると、眼がちかちかするような感覚に陥り、これは、読書という体験を生々しく得られる、そんな本になっている。

ボクの意見だと、この話は、筆者の体験した夢の世界を、忠実に描いたものを基礎にして書かれた本だと思う。

サイムという「木曜」が、議長である「日曜」を追いかける内に、背中が顔に見えてくる・・・なんて言う記述が出てくるけれど、前が後ろになり、表が裏になるなんて、フロイトとどちらが世に出るのが早かったのかわからないけれど、「夢」が抑圧を払いのけて、表面に出てきたことの証であるような気がする。その他、「日曜」が逃げる際に、色々投げ捨てていく「木曜」に宛てた手紙の内容、たとえば、「今一番素敵な色は、ピンクです」なんていいう内容のものがあるのだけれど、この不条理というか、突拍子もない言葉は、まさに、僕らが体験する夢の在り方を示している。

その他、「創世記」の最初の一週間の話などを知っていれば、この当たりからこの本のテーマに近づくことも可能かも知れない。

深読みすればするほどつじつまが合わなくなるし、かといってまったく合わないわけではないところが、この本の懐が深いところで。大学生がこの本をテーマに色々と議論したら面白いんじゃないか?

で、結論は、この本は、小説らしい小説で、小説でなければできない問題の提起、つまり、人間とは何か?という問いに対する一つの答えを、言葉にならない「状況」で指し示している。

これを読まずに死ねるか。

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2008年06月03日

エデンの東

ジョン・スタインベックの「エデンの東」を読み終えた。長かった。文庫本で4巻。ブック・オフで旧訳1冊100円を纏めて買ったのでした。

そして、1巻を読み進むと、次の文章に出くわした。勿論日本語で読んだのだけれど、その内容をどこかで読んだ気がしたので、「英文標準問題精講」で探してみたら、ありました。

This I believe: that the free, exploring mind of the individual human is the most valuavle thing in the world. And this I would fight for: the freedom of the mind to take any direction it wishes, undirected. And this I must fight against: any idea, religion, or government which limits or destroys the individual. This is what I am and what I am about.  I can understand why a system built on a pattern must try to destroy the free mind, for that is one thing which can by inspection destroy such a system.

18才の受験生には、なにやらわからなかった文章だけれど、今では、よくわかる。今の社会が生きやすいと感じている人は、おそらく、ここで言う「exploring mind」というのが欠けているのかも知れないな。

この文章の直前のものも、この受験参考書に採用されていて、それも味わい深い文章で、これら二つの文章が、同じページから切り取られたのだと、どうでもいいんだけれど、新たな発見をしたのだった。

こういう優れた卓見がちりばめられてはいるのだが、作品としてどうなのか?と言えば、傑作とは言えないかも知れない。それに、訳者が1巻と4巻が野崎孝! 2巻と3巻が大橋健三郎!という変則的なもので、キャラクターの性格が首尾一貫していないような気がするし、そのあたり、途中でガックシすること多々あるのだった。

(以下ネタバレあり)

凶暴なチャールズにいびらていたアダムが、軍隊から帰ると、とたんにチャールズと引けを取らない頑強さを発揮したり、アロンとキャルの父親は本当はチャールズらしいのに、そのことについて深く言及されていなかったり・・・あの悪の化身のような母親キャシーが何故自殺しなければならないのか判然としないし、母親が売春宿を経営していることを知ったとして、兵士になって死ぬ選択をアロンがしなければならないほど、それほど衝撃的な事実だったのだろうか?周りの町のみんなは知っていたのだし・・18才になるまで、そういう周りの状況に気がつかないアロンもちょっと足りない気がするしな。

まあ、そんな風に???が続くのでありました。

しかし、アダムとチャールズ アロンとキャルの2代にわたる兄弟の確執というか、それぞれの父親の愛を巡る3角関係というか、創世記のアダムとカインの話を、微妙にずらしながら現代に置き換えた話ではあるので、構成はわかりやすい。

そこに、アダムとイブの原罪の話が入り込んできて、頭の中は、質疑応答でくらくらしてくるのだが、読み終えて、これらの視点を整理すると、なかなか面白い話だったなあと今気がついたのでした。これらのテーマは、スタインベックをしても手に余るものだったのかも。

この本の中で、中国人リーが聖書の解釈を巡る会話が延々と続く場面があるのだが(まるでカラマーゾフの兄弟の「大審問官」のよう)、ヘブライ語の聖書によると、「ティムシェル」という言葉があって、これは、「汝 罪を治めることを能う」という風に解釈できるという話だったと思う。そうなると、人には原罪を克服する力がそもそも備わっており、そうする努力は決して無駄ではないと言うことなのか。

う〜ん、そうか。

しかし、キャラクターは良く書かれています。映画では、キャルを「ジェームス・ディーン」をやったのかな?だとしたら、キャルは、色黒で髪の毛は黒じゃなかっか、目つき鋭い野卑な感じで狡賢いというキャラクターだから、ジェームス・ディーンはミスキャストなんじゃないか?まだ、見ていない映画なので、見てみたい。

ボクが配役を決めるのなら・・・

チャールズは、メル・ギブソン

アダムは、バート・ランカスター

キャシーは、ニコール・キッドマン

アロンとキャルは、リバー・フェニックスとホアキン・フェニックスの兄弟で

こんな配役で見てみたいものですな。

最近、新訳の文庫本が発刊されたようで、こちらは、訳が読みやすいらしいので、こちらを購入するか図書館で借りることをお勧めしますよ。

いやあ、久しぶりにながいの読んだわ。

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2008年04月05日

ペット・サウンズ ジム・フーリ著

「これは実に実に偉大な曲だ」とポール・マッカートニーは言った。「ぼくはこの曲がたまらなく好きだ。」

「ペット・サウンズ」の中の「神様しか知らない」のこと。

ロック史上初めてのコンセプト・アルバムビートルズの「ラバー・ソール」に刺激を受けたブライアン・ウィルソンが、自分の頭の中になっている音楽を完璧に再現して出来たアルバムが、この「ペット・サウンズ」だ。

いやはや、素晴らしいアルバムだ。ロックCDの中から1枚選べと言われれば、1週間くらい悩んだ末、このアルバムを選ぶと思う。空前絶後。もう2度とこの基準を超える音楽は、生まれないとさえ思う。

高校生の頃、このアルバムを買ったけれど、何が良いのか途方に暮れた覚えがある。世評も、悪く、一般的に軽んじられてきた作品だった。ローリングストーン誌のレコード評も星3つ。デーブ・マーシュという優れた評論家が下した結論だ。曰く「サージェント・ペパー」の真似をブライアンがしたことに間違いがあった」と。事実は、その逆なのだが。

しかし、聞き続けて30年近く。徐々に、雨のしずくが岩に穴を穿つがごとく、徐々にぼくの中に独自の位置を占めるようなそんな存在になってきたのが、このアルバムだ。

この本を読み終えてから、3日間。我が家で、ジョギング中、仕事中、この「ペット・サウンズ」が鳴り響いている。

ぼくの持っているボックスセット「The Pet Sounds Sessions」は、4枚のCDが入っていて、ステレオバージョンの他、演奏のセッションと、声のみのトラックと、別バージョンの曲が入っていて、それを繰り返して聴いていると、いろいろな発見があって、とてつもなく面白い。

こんな風にぼくは、ペットサウンズを考える。この音楽は、人を選ぶのだと思う。誰が聞いても楽しいものではないかもしれない。たいていの優れた作品と同様、辛抱強く何度も聞くことによって、心の底に音が届くようになると、もう、この音楽なしでいることが出来なくなるような作品なのだ。

とにかく、聞けば聞くほど理解が深まり、時に詩の一節に感極まって、心が震える事があるのだ、30年も聞き続けているのに!

1966年5月に、ブルース・ジョンストンが出来たばかりのアセテート盤をロンドンへ持って行った。ザ・フーのキース・ムーンがこのアルバムを偉く気に入って、何人かの人にコンタクトを取った。レノン、マッカートニーがホテルにやってきて、何度か、それを聞いた。二人は、言葉を失っていた。世間向きのクールでちゃらちゃらしたペルソナをかなぐり捨てて、その音楽を子細に検討しているのを、ブルースは目撃したそうである。

そうして出来たのが、「サージェント・ペパー」だったのだが、この最後に出てくる訳の分からない音は、「ペットサウンズ」に対する敬意を表しているものとされている。

「ペッパー」がレノン・マッカトニーのコラージュ的編集技術とスタジオワークの見事な結晶だとすれば、「ペット」は、ブライアン個人の頭の中に鳴り響いている音の具現化といったところだろうか。なんと、ブライアンの頭の中では、素晴らしい音楽が当時鳴り響いていたことか。

村上春樹の訳は、相変わらず素晴らしく、何たって、自身の作品に「ダンスダンスダンス」なんて題を使う程のフリークだもの、楽しんで訳したのではないでしょうか。しかし、あの名作「神のみぞ知る」の訳が、

いかなるときにも、君を愛するとは、いいきれないかもね。

というのは、いかがなものか。先日読んだ、「村上ソングス」の中にもこの訳が載っていたけれど。この、「かもね」というところが、妙にひっかかる。

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2008年03月24日

カインド・オブ・ブルーの真実 アシュリー・カーン著

何はなくとも、「カインド・オブ・ブルー」である。最も有名なジャズアルバムが、この1959年3月2日と、4月22日に、ニューヨークのエンパイア・ステートビルの近くにある30丁目スタジオで録音された。その詳細なデータを、マスターテープの音源を再現しながら、纏めたのがこの本。

何はなくとも、A面1曲目の「So what」である。

ポール・チェンバースのベースとビル・エバンスの彩り鮮やかな軽いタッチのピアノが作り出すプレリュード。ここで、心の準備を整える。そして、次にチェンバースのベースが高らかにマントラのような至高の8音を紡ぎ出し、「Soooooo what!」の2音が続く。

やがて、マイルス御大のトランペットが入り込むが、その直前、必殺のジミー・コブのシンバルが1回だけたたき込まれる。まあ、ここでたまらず鼻血が出るところ。

中低音を強調したマイルスの旋律は、「春冬山水図」を制作中の雪舟もかくありや、とうほどの緊張感でリリシズムが絞り出すかのようだ。失敗は許されない、二度と生まれない、アドリブ。こちらの手のひらにも汗がにじむ。

で、次に登場するのが、怒濤のコルトレーンのテナーとアダレーのアルトだ。太いタッチで油絵の具を一インチも違わず筆を運んでいくという風情で、彼らだけの出来る絵画を音で作ってみせる。上下に浮かれて気持ちよさそうに吹いているのが、アダレーだ。どんな絵を書いていたのだろう。

ビル・エバンスのソロは、ドビッシーのような繊細な音で、絵で言うと水彩画のようなものだ。どこまでも、ピュアーでイノセンスな音を目を閉じて追い続けると、テナーの音で目が覚めた後、知らぬ間に優美で幽玄な小径を逍遙している自分に気がつく。

そして、また最初の8音に戻って、静かに消えていく。

ああ、素晴らしい。どうしたら、こんな素晴らしい音楽が生まれるのだろう。

という秘密を解き明かすのが、この本。でも、いくら記録を集めてきても、そんな秘密は、明かされないのだ。当たり前だけれど。

posted by ロビオ at 10:33| Comment(2) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月21日

ナチュラルスタイルの私らしい暮らし

この雑誌の中のどこかに、我が家の台所が隠れている・・・。謎。

posted by ロビオ at 15:29| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

村上ソングス 村上春樹 和田誠著

グレン・キャンベル(Glen Campbell )の名を初めて知ったのは、多分、「銀座ナウ」という番組の提供会社であるコカ・コーラのコマーシャルの中だ。ベスパを乗り回す若い男女が、ハワイのような海あり山ありのワインディング・ロードを走っているところに、「Come home me to my brother♪♪」という歌が流れて、演奏・歌 グレン・キャンベルと出ていたような気がするのだが、どうだろう。

その後、バーズの「ミスター・タンブリンマン」のイントロの12弦ギターがこのグレン・キャンベルで、その当時は、スタジオからスタジオへとギター1本抱えて、歩き回るミュージシャンだったというのを知って、そのギター演奏の神髄に触れようとして、ベスト盤をLPで買ったのは、中学2年生くらいか。

だけど、当時 のボクは、ディラン・バンド・ストーンズ・ジミヘンという音楽に夢中で、ロビー・ロバートソンのギターのように金属音を出すには、こうするんだぜ!なんて言う風に、ギターを弾いてみたものの、周りには、「あっ、そう」くらいにしか受けとめれれず、今も昔も、寂しい、周りのヒット曲とは、外れた視野狭窄なロックフアンだったので、こういうポップカントリーな曲は、クールではなく、ちょっと気恥ずかしい思いをしていたのだ。ギターもほとんど聞こえなかったし。

だけど、その中で、「ジェントル・オン・マイ・マインド」と「恋はフェニックス」、そして「ガルベストン」という曲は、大いに気に入っていたけれど、周りの奴らとキャンベル叔父さんの話をして大いに盛り上がるという事はなくて、寂しい思いをしたものだ(クイーンにキッスにアバが幅をきかせていた時代だったので。

いつの時代にもマイノリティというのは、敏感であり、片岡義男の「気まぐれ飛行船」で「ジェントル・オン・マイ・マインド」がかかったときには、ま・さ・か・と、よく覚えているし、たしか、アン・タイラーの小説「ブリージング・レッスン」だったか、「あの頃私たちは大人だった」だったか、で、カーラジオから「恋はフェニックス」が流れたという描写をそれこそ、ドキドキしながら読んだことをよく覚えているわけだ。

そして、「ガルベストン」。

「村上ソングス」村上春樹・和田誠著をぱらぱらと読んでいたら、出てきましたよ、「ガルベストン」が。この本は、村上春樹が歌の詩を訳して、それに関するエッセイを書いているもの。発売日に、ぱらぱらとめくって、この「ガルベストン」が目に入ったときは、正直嬉しかった。ようやく、グレン・キャンベルのことを話し合える友人にあったような気がして・・・。

初っぱなの曲がブライアン・ウィルソンの「神のみぞ知る」から始まるのがとてもいい。そうそう、「死ぬ前にしたい10のこと」でサラ・ポーリーが、台所で歌ってましたね。よく覚えています。そして、ラブ・アクチュアリーという映画の最後にも使われていましたね。

あと、ボクの大好きなライ・クーダーの失敗作だと考えられている「ゲット・リズム」の中から「Going back to Okinawa」が紹介されていたり、最近、ジョグ用によく聞いたいるシェリル・クロウの「All I wanna do」が扱われていて、十分楽しめました。

3分の2くらいCDでもっているんで、暇なときにこの順番でMP3化してみようかしらん。

posted by ロビオ at 10:36| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする