2008年02月28日

庄野潤三「静物」他

村上春樹の「若い読者のための短編小説案内」という本を、手にとって、目次をパラパラとめくってみた。

@吉行淳之介「水の畔り」

A小島信夫「馬」

B安岡章太郎「ガラスの靴」

C庄野潤三「静物」

D丸谷才一「樹影譚」

E長谷川四郎「阿久正の話」

という有名?な短編小説についてのアメリカの大学での講義を書き下したもののようだ。

@を除いて、すべて読んだことがあったけれど、どれも印象が薄い。もう一度読み直してみた(@は、文庫本で入手できない)。

CEは、何を言いたいのか、テーマ性を求めるとしっぺ返しを食らう。日常性に潜む陥穽を描いたのだろうが、一筋縄ではいかない。何かを書こうと思うと、するりと逃げてしまうような不思議な小説。ただただ、平凡な家族の描写が続くのだが、段落の終わりに、ハッとするような一文(妻が自殺未遂を起こしたことを臭わせるような文章)が、ちょろっと書かれていたりして、そこで、読んでいるこちらの呼吸が荒くなったりする。無茶苦茶文章が美味いので、ため息が出ますな。こんな文章は、絶対書けませぬ。

Aは、これぞ現代小説というような話で、詳しく書いたらとても疲れそうなので、簡単に書くと、書きたいことを文章にしたらこんな小説になりましたという、創作した後がくっきりをわかるような、まさに、フィクション。

端から冷静に見れば、登場人物は、ビョウキか、つきあいたくないヤツばかり。ちょっと考えられない物語の流れを不自然に思うけれども、その引っかかるところが、アクセントになって、なんともいえない魅力がある小説だ。

春の野草の魅力は、その苦みやえぐみが魅力的だという意味で、その味に慣れたものは、その独特の風味がない野草なんて食べたくもないだろう。そんな意味で、こういう小説が気に入るようになると、一皮むけたような気になる。小島信夫は、変な小説が多いですね。「抱擁家族」という名作も含めて、もう一度一挙に読んでしまいたい。

で、この中で、どれが気に入ったかというと、Cの「静物」だ。ほとんど、味のついていない「おすまし」をいただいているようで、こちらの舌の味蕾を最大限敏感にして味を感じなければいけないような小説なのだが、そうやって読むこと、行間に書かれている著者の息づかいを感じながら読む行為が、快楽となってしまう。

難しい言葉一切なし。ストーリーの流れもほとんど無し。ただ、なんとも読んでいるときに気持ちがいいという小説は、他にはない。

これから、何回か、読むだろうなあ。昔読んだときには、そんな感慨もありませんでした。

さて、読んだ後に、村上春樹の「若い読者のための短編小説案内」を楽しく読み終えましたが、目から鱗とはならず、そんな読み方もあるのかなといった印象をもった。やはり、村上春樹は、生来の小説家・翻訳家で、こうした講義調の文章を書くのは、ちょっと違和感がありますね。

「ペットサウンド」と「ティファニーで朝食を」の村上春樹の翻訳本が近々出版されるようなので、これは、要チェック。なにか、私の大好きなアメリか小説が氏によって、訳されるのがとても嬉しい。次は、ケルアックの「ダルマ・バムズ」か、フィリップ・ロスの「さよならコロンバス」あたりを訳してくれれば、満足なのだが・・・。

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2008年02月18日

志賀直哉 「城の崎にて」3

着眼点というのだろうか、興味を持っているものを察知しようと、アンテナを張り巡らして歩いていると、 自分の知りたかったものがやたら目につくようになる。

人が、いかに、知りたいものだけを見、知りたくないものは見ていないかがよくわかる。

いったん、こういう興味が心に芽生えると、人間の情報処理能力とは、たいしたもので、独りでに情報の方から、 我々の方に耳寄りな情報を伝えに来ることが多々あるようだ。

そういえば、禁煙地獄で苦しんだ最初の1週間。夜の自動販売機の蛍光灯の光が、 目に飛び込んできて眩しすぎて直視できなかったモンなあ。

それと同じように、図書館でプラプラしていたら、偶然、マーク・ピーターセン著の「英語で発見した日本の文学」光文社、 を手にとってパラパラめくっていたら、第2章「城の崎にて」を英文解釈する・という章に出くわした。

 

ひょんな事から、「城の崎にて」を英訳しようとした著者が、悩んだ箇所を丁寧に説明している。

例えば、「自分の心には、なにか、死に対する親しみがおこっていた。」を

It had somehow or other developed an affinity with death.と訳していて、

@サイデンスティッカーのintimate with death.

やAシブリーのfriendly with death

の訳が、@は、死に親しすぎるのではないか、セックスの臭いが入ってしまう、Aは、陽気すぎる、と意見している。

同感。

 

「静かだった」という箇所は、peacefulという単語で表していたり、

ちなみに、Cobuild English Dictionaryで、peacefulを引いてみると

A peacefull place is quiet and calm,and free from disturbance

となっており、死に対して親しみを感じた主人公が感じる静けさというのは、こういったものなのだろうと、日本語の勉強にもなるし、 英語の勉強にもなった。

 

そうそう、前回の「城の崎にて」2で、書いたように、風も吹かないのに「ある一つの葉だけがヒラヒラヒラ」動いていて、風が吹いたら、 動かなくなった葉に対して、「原因は知れた。」とだけ書いている場面は、ボクの「謎」だった。

この小説が世に出た当時も、多くの読者が疑問に思ったのだそうだが、当の志賀直哉は、みんな知っていると思って、驚いたそうだ。

これまた、他の評論家(本多秋五)の一つの解釈が本の中に書かれているのだが、さあ、一体どうしてでしょう?そう来たか、 と思ったけれど、半分はあたっているのかなというのが、正直な気持ち。

大岡昇平の「野火」の中でも、同じような内容の表現が出てきたはず(花ですけれどね)。大岡昇平も、 この小説を意識していたに違いない。

しかし、この小説は、噛めば噛むほど味が出る小説ですね。いろいろな角度から味わうことが出来る。素晴らしい作品というのは、 こういうものなのかも。ちなみに、谷崎潤一郎の「文章読本」のなかでも、この「城の崎にて」を褒めている。

巻末に、[At Kinosaki]という英訳版が掲載されていて、「城の崎にて」フアンなら、 読んでみてください。一つ、この小説の深みがわかったような気になります。

 

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2008年02月15日

安部公房 「赤い繭」

男は、家と家との間の狭い割れ目をゆっくりと歩き続ける。「町中にこんなに沢山の家が並んでいるのに、 俺の家が一軒もないのは何故だろう」と繰り返しながら。ひょっしたら、偶然通りかけたこの家は、自分の家ではないか?ドアを叩いて、 ひょうっとすると、この家は、自分の家ではないかと、出てきた親切そうな女に聞いてみる。拒絶。日が暮れても、男は歩き続ける。ふと、 足元を見ると、絹の糸のようなものがからみついている。たぐり寄せていくと、自分の足が消えていく。どんどん自分の体が消えていく。 そのうち、糸自体が自分でほぐれていき、男の体は、消えてしまい、そこには、大きな空っぽの繭が出来ていた。だが、男は嘆く。 繭という家が出来たが、今度は、帰って行く俺がいない・・・。

日本人離れした乾いた感覚。徹底的な拒絶と疎外。ちょっと、安部公房でなければ、こういう小説は書けないのではないか。 つくづく感心してしまう。

安部公房の小説は、読む人を不安がらせる。それは、人間の根源にあたる部分に痛烈な打撃を与えて、足下を揺らすからだ。ムンクに、 「思春期」というのと、「叫び」という二つの有名な絵があるけれど、思春期に特有な未来に対する不安を描いたのが「思春期」だとすれば、 後者は、根源的な不安・疎外・拒絶を描いたものと言えるだろう。あきらかに、違った種類の不安。将来に対するものでもなく、そこにある不安。 安部公房の小説は、後者に近い。

「何故私が私で、他の誰かではないのだろう?」

「たまたま、自分は、この自分の体の中に自己意識があるだけで、どうして、他の誰かではなかったのか?」

こんな疑問に子供の頃捉えられて、不思議な感じを覚えた人は、結構多いだろうけれど、この短編を読んだら、蘇ってきた。 世界全体の秩序が崩落していくような感覚。不安。不思議さ。

この男が、どうして自分だけ家がないのかという問いは、こうした根源的な問いに近いのだろう。だから、不思議でしょうがない。 根を詰めて何万遍も反芻していると、文字を見続けていると、それが違ったような文字に見えるような、なにか、 世界が間違っているような気がしてくる。

繭という家が完成したら、今度は、そこにいるべき自分が消滅していたというあたり、寓話として面白い。例えば、 住宅ローンで自己破産した大勢の経済難民や、ローンを払い終わってみたら、今度は、自分を失っていた事に気づいた多くのサラリーマン。 主客の逆転。

荒涼とした住宅街をあるくと、いつも、この話を思い出す。

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2008年02月14日

トロッコ・野菊の墓・静物など。

志賀直哉の「城の崎にて」から始まった、「もう一度読まずに死ねるか!」シリーズ。

恥ずかしながら、芥川龍之介の「蜘蛛の糸・杜子春・魔術・蜜柑・トロッコ」といった少年少女用の小説を読み返してみて、 その話の展開の素早さ、落ちの切れ味の鋭さなどを、堪能して読み終えた。芥川龍之介の文体は、まだまだ古びておらず、 まだ賞味期限内のものだというのを再確認した。上記の話し、とても有名な話しですよね。蜘蛛の糸は、中学生くらいの教科書に載っていたかな、 トロッコは、小学生高学年くらいか。

「トロッコ」の後半部分、遠くに来てしまって、あたりは夕闇が迫ってきて、頼りにならない大人に、 もう家へ帰れと言われたところからの、少年のトロッコの軌道を走るその疾走感は、見事で、思わず、100%その話の中に入り込んでしまって、 しばし時の経つのも忘れて読み言ってしまうなんざ、さすが芥川龍之介じゃと、感心しきり。精読して、どうして、 そういったスピード感が出ているんだろうと、何度も読み返したけれど、その謎は解けず。芸術というのは、魔法だ。

不安と緊張のあまり、涙がこみ上げてきて、鼻がクックックッと鳴ってしまうというあたり、そう、つい4,5年前、 青梅の山の中で道を間違って、途方に暮れていたときの自分がまさにそんな感じだった。そうそう、その時、 このあたりの描写を思い出したと思う。小説を読んで、多様な情操ができあがるというのも読書の効用かもな。まあ、それだからといって、 実用に耐えられるものではないけれど。

ついで、伊藤左千夫の「野菊の墓」を、これまた、35年ぶりくらいに再読。当時からよく覚えているのが、 矢切の渡しの描写の部分であり、どうして民子と政夫が別れなければならなかったのか、そのあたりことは、すっかり忘れておりました。 そしたら、別れさせられた理由が、民子が政夫より2才年上だったからということがわかって、いささか驚いた。当時は、こういうのって、 駄目だったんですかねえ。

今読み返して感じるのは、この小説の登場人物のすべてが、押しが足りないこと。ただただ、この「たった2才の年の差」(あとで、 ふたりさえよければ、そんなことはどうでもいいと、母親が言っている)という通常とは違うちょっとした相違点の為に、 ありえそうな倫理やら社会の軽い習わしにしたがって、みんながゆったりと排除へと知らず知らず動いていく。このあたりの鈍麻さ、 知性のなさが、とても歯がゆい。そして、悲劇が起こったとき、すべてのものが、泣きじゃくって政夫に許しを請うことになるのだが、 これがまた、情けない。みんな、その場その場の情緒で動く、なんとも主体性のない人たちの集まりであるようなのだ。

それでも、最後のところ、泣けました。電車の中では、辛うございました。小学生のころ読んだときには、ぜんぜん泣けなかったのだが。 そういうヒロインを書き上げたというだけで、この小説は、成功なんじゃないでしょうかねえ。でも、映画の影響か、どうしても読んでいると、 民子役を演じていた松田聖子が出てきてしまい、逆に言えば、あの垢抜けない感じが、民子にぴったりなのかもしれず、これは、 松田聖子にとっても、一世一代の当たり役だったのかもしれない。

そんな風に、読書意欲というか、もう一度読みたい本を探して読んだのが、「谷崎潤一郎随筆集」という岩波文庫の一冊。「陰影礼賛」 が入っているんですが、これも、読み返したい。と、ぱらぱらやっていたら、当時の文壇の話しが載っていて、その箇所を面白がって読んだ。

東大の英語教授だった夏目漱石が、黒羽二重に葉巻を吸いながら、東大の前で人力車を待っていたのだそうで、大学の先生にしては、 金があるんだなあと、学生の谷崎は、感心したとか。

芥川龍之介と谷崎は、最も内容の詰まった小説を書く小説家は、志賀直哉であろうということで意見の一致があったこと。

芥川と谷崎と泉鏡花が共にナベをつつくことが多かったらしいが、話しに夢中になると谷崎は、 半煮えの鳥を間違ってぱくぱく食べてしまうんだそうだ。泉鏡花は、清潔付きで、食べ物は必ず煮沸して、 アルコールで手を拭くような異常な潔癖症なのだが、ここは自分のものと鶏肉を集めていると、谷崎がつっついてしまうので、 嫌な顔をしていたそうだとか。そんなエピソードが満載で思わず、読了。

なんか、文学史上の巨人が鳥ナベをつついている姿が目に浮かんで、なんとも豪華な感じがする。

で、早速、泉鏡花の「外科室」を読んでみた。なんというか、ツゴイネルワイゼンという鈴木清順の映画があったけれど、 そんなおどろおどろしい感じがして、何度読んでも戦慄が走りますな。荒唐無稽な話しなんだが、その文章の豪華絢爛さにクラクラして、 読み終えてしまう類の本。

そんな風に、いままで感銘を受けた本を、ここらで、もう一度読み通す、というのが、とても楽しくて、今日は、庄野潤三の「静物」をば、 熟読。不思議な小説のため、いろいろと考えております・・・。

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2008年02月12日

安部公房 「棒」

雨上がりのむくんだはれぼったい風景の見えるデパートの屋上から墜落した男は、棒になって地面に叩き付けられる。そこに、 教授とおぼしき髭を生やした紳士と、その双子のような生徒が、その棒きれを取りあげて、棒という有用性と象徴性を述べながら、 死んだものの罰として、その棒を置き去りにして去ってしまう。

という内容の、アバンギャルドな短編だ。

これも又、高校の教科書に載っているらしく、大勢の人がその筋を知っている話しだと思う。

なにせ、話しが無茶苦茶だ。脈略がありそうでなさそうで。でも、味わいというのは、確かにあって、棒になった男の子供の発する 「父ちゃん」という叫びが3度、この話しの中に出てくるのだが、これが、現実の社会に連れ戻すようなスパイスになっていて、 なかなかよろしいのだ。

棒になった男を拾い上げたのは、先生と生徒二人の一団。この教授が、棒を両手にささげて持ち目を細めて光にすかせようとしたときに、 付け髭の左端がはがれて、風でぶるぶる震えていたというあたり、また、生徒らが、この棒にどのような罰を与えるべきかという問いを発せられ、 生徒が答えあぐねていたときに、この教授が棒で、地面に怪獣の絵を描いているという描写。なんか、うさんくさく、 インチキくさい香りがプンプンしてきて、なんとも、効果的に使われている。人間の格好をした邪悪な宇宙人が、 何かの拍子にちぐはぐな言動に走ってしまう、そんな感じがするのだ。

話している内容も、棒という有用性と象徴性について、哲学的な会話をしているようだが、この教授、それらの話しのまとめで、「つまり、 この男は棒だったということになる。・・・すなわち、この棒は、棒であった」というトートロジー的な答えを発している所など、 インチキくさい。

でも、深読みすれば、三角形の定義が、それ以下にも以上にも広がらない恒久的なものだとしたら、棒というのも、 それ以上でもそれ以下でもない人間の普遍妥当的存在を象徴しているのかもしれない。と、こういう隙間のある不条理な話しというのは、 読者の解釈の余地があるので、おそらく読者の数だけ意見が続出するのだろう。

さらに、この教授と双子のような生徒は、この棒がかつて人であったことを知っているもの達であり、 死んだ者に罰を与えるのを使命としているようなのだ。こうした存在というのは、神だとか、悪魔だとか、そういう存在なんだろうか。かりに、 そういう風に考えると、棒は、死んでいることになるのだが、最後まで、人としての意識は持っているのが、腑に落ちない。棒というものに、 物質化された男は、その瞬間死んでしまったのだろうか。そうだとすると、以降死者として物語が語られると言うことになる。

と理詰めで、色々考えて、謎の溝を埋めるような楽しみ方もよし。なんか、変な小説だなあ、とわからないなりに、最後まで読み進んで、 おそらく、心が寒々とするか、不安な感じがするだろうから、その感覚を味合うのも良し。

安部公房は、あんまり好きな作家ではなくて、唯一「砂の女」だけは、何回も読み返しているが、たいていは、 途中でホッポリ投げてしまう。今回の「棒」は、R62号の発明 鉛の卵 という新潮文庫に入っている小説。勿体ないけれど、 他の短編を読んでいたら、睡魔に襲われてしまい、電車の中で眠ってしまった。どうやら、安部公房の他の作品とは、相性が悪いみたいだ。

 

 

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2008年02月08日

志賀直哉 「城の崎にて」2

たった9ページ強の短い小説なのに、読みでのある「城の崎にて」。十数回も読み直していると、新たな発見があって、 なかなか興味が尽きることがない。筆者の息遣いが感じられてきて、自分の中の骨となり血となったような気がして、精読というのも、 なかなか楽しい体験である。

例えば、なんで、風が吹いていないのに葉が揺れていて、風が吹き出したら揺れが止まった木の葉の描写をあそこで入れたんだろうとか、 いろいろ考えられるのが楽しいのである。

志賀直哉という作家は有名だけれど、「暗夜行路」は、一般教養の授業のテキストだったが、結局最初の数十ページで退屈で断念したし (それだけの部分で一夜漬けのレポートを提出した記憶あり)、十年くらい前に再度挑戦したけれど、これまた、同じようなところでストップ。 やはり、「暗夜行路」はつまらない小説だと思う。

おなじ、文庫に入っている「小僧の神様」という小説も、有名だけれど、小学生の頃読んで、 なんともつまらない話しだったことはよく覚えている。で、今回再読してみたが、やはり、つまらない。

ほぼ1ページごとに、場面を変えて物語がさっさと進んでいくルビッチ・タッチの映画を見ているようで、 当時としては斬新なスタイルだったのかもしれないけれど、そこには、話しの深みは感じられない。ただ、筋が滞りなく流れていくだけだ。

寿司ネタを下にして口の中へ運ぶのは、魚が腐っていたときに舌へヒリリと来るのが直ぐしれるからなんだ。 なんていう文章が出てきたけれど、本当なのか。

問題なのは、よく練られた脚本を本にした映画が気持ちよく進んでいく感じで読み進んでいくと、最後にどんでん返しというか、 作中に筆者が出てきて、最後の所は、こういう風に終わろうとしたのであるが、それでは、あまりにも小僧に酷な感じがするので、 ここで筆を置くことにする、と書いて、この「小僧の神様」は終わっているところ。

なにか、あまりにも物語がとんとんと繋がって、伏線が伏線を呼びといった技巧的な物語は、志賀直哉にとって、 よいものとは思えなかったのだろう。やはり、この作者は、「城の崎にて」のような、心情を思ったように書くような小説がぴったりと来る。

前回、「淋しい」「静か」が何度も文章中に登場することを書いたけれど、その他にも、「和解」という父親との確執の物語の中では、 「不愉快」という言葉が始終現れて閉口したことを思い出す。

どうやら、志賀直哉は、ボキャ貧らしい。心情にぴったりした言葉を見つけると、それを中心に小説世界を広げていくタイプなのか。 ジョン・コルトレーンというサックス奏者も、マイフェバリット・ シングスというミュージカルの駄曲といっていい曲を何十回何百回と演奏したのだが、それに似ていて、 なにか触発される言葉が世界を広げていくのかもしれない。

しかし、このボキャ貧で、かくも優れた小説を書けるのだから、天才なのか?と思うけれど、天才とは、多作というが、長編は僅かに 「暗夜行路」1冊のみ。他は、短編小説ばかり。深い思想があったわけでもなし。あるがままに、そのままに、文章を書けてしまうのは、 やはり天才なのか。

天才じゃなければ(相当抜けてなければ)、山手線に轢かれるなんてちょっと考えられない気もするし (里見怩ニ散歩していて跳ねられたと言うから、白樺派って結構傑作な人物が揃っていたのかも)。

プロレタリアート文学全盛のこの時代を乗り切れたのも(芥川龍之介は失墜)、智に働かなければ、角は立たず、ということで、 無意識過剰な自然体で文章を書き上げるその姿勢にあったのかも。

しばらく、志賀直哉から目が離せない。

 

 

 

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2008年02月07日

志賀直哉 「城の崎にて」

志賀直哉 「城の崎にて」

昨年の12月2日に、山道をマウンテンバイクで走っていて、檜の幹に肩をぶつけて、鎖骨骨折した。 ぶつかった衝撃のものすごさをなんと表現したらいいのだろう、 全世界が痛みと衝撃の光となったような衝撃が体全体から抜け出たような体験だった。もう少しずれていれば、他の大怪我と同じように、 その体験を最後の関わりとして、ぷっつりと消えてもおかしくはなかったのが一点。

次に、手術で折れた鎖骨をプレートで繋ぐために全身麻酔をしたときに感じた、意識を完全になくすという体験をしたこと。そして、 そのまま意識が戻らなければ、すなわち、あの無意識な状態が続くのが「死」というものなのかもしれないと、感じられたこと。

以上の2つの貴重な体験をしたのだが、どうやら、大怪我や大病をした人の中には、 どうやらボクと同じような感想を持っている人が多いようなのである。表現は違うけれど。

そんな中で、ふと思い出したのが、この「城の崎にて」という短編だった。

この短編は、高校の国語の教科書で読んだ覚えがある。だから、今回が2度目。教科書に載るくらいだから、 素晴らしいと評価されている小説なんだろう。

高校生の頃、初めてこの小説に接したときに、度肝を抜かれたのは、冒頭の文章。「山の手線の電車にはね飛ばされて怪我をした」 という所。普通に生活していて、山手線に跳ね飛ばされるというのは、あり得るんだろうか。路面電車なら話しはわかるのだが。どうやったら、 山の手線に跳ねられることが出来るんだろう?と、ものすごい違和感を感じた覚えがある。

後養生と称して、城崎温泉(何故か表題の城の崎温泉ではない)に来た作者は、一匹の蜂が玄関の屋根で死んでいるのを見つける。 他の蜂は、その傍らをはい回るが、冷淡だった。ふと、自分の事を考えると、青い冷たい硬い顔をして、顔の傷も背中の傷もそのままで、 祖父や母の死骸が脇にある土の下に仰向けになって寝ていることだろうと。それは、多分、自分の死んだ姿を想起させる。蜂の死骸は、 いかにも淋しく、静かな感じを与える。

散歩の途中に、橋の上で大勢が騒いでいるのに遭遇する。鼠が川の中で助かろうと藻掻いているのに石を投げつけて遊んでいるのだ。 その鼠には、七寸ばかりの魚串が刺し通してあって、誰かが川に放り投げたのだ。断末魔の苦しみに助かろうと思った鼠は、 石垣の間に足をかけるが、魚串がつかえて水の中に落ちることの繰り返しだ。死ぬに極まった運命を担いながらも、 全力を尽くして逃げ回っている姿に、自分の姿を重ね合わせて、淋しい嫌な気持ちになる。

その数日後、岩の上にイモリが休んでいるのを発見した自分は、イモリを驚かせて水の中に入れてやろうと思い、 狙うつもりはなかった石が、偶然イモリを直撃してしまう。イモリは死んでしまった。自分は飛んだことをしたと思った。 イモリと自分だけになったような心持ちがしてイモリのみに自分がなってその心持ちを感じた。

「小説の神様」と呼ばれているのだから、文章が悪かろうはずはないけれども、この小説には、「静か」と「淋しい」 という言葉が何度も出てくるのには、驚いた。普通、言葉の重複は避けて、違う言葉に置き換えたりしたり暗に仄めかしたりするのだろうが、 驚く無かれ、たった文庫本(新潮社)の9ページ強の長さの短編に、「淋しい」が7回。「静か」が8回も出てくる。

淋しさの定義が、「本来あった活気や生気が失われて荒涼としていると感じること」だとすれば、生の失われた死骸や死というものは、 まさに、淋しい感じがするものなのだろう。死という厳然たる事実の前には、饒舌はふさわしくなく、やはり、「静か」なものなのだろう。 そこには、透徹した清潔さというものが感じられる。

あるものは偶然に死に、そして死ななかった自分は今こうして歩いている。感謝しなければ済まぬような気もした。 しかし実際喜びの感じは湧き上がっては来なかった。生きていることと死んでしまっていることと、それは両極ではなかった。 それほどに差はないような気がした。

いつ頃人は、死と生は背中合わせに同時期に存在していることに気づき始めるのだろう。高校時代には、全くと言っていいほど、 感銘を受けなかった作品だが、今回読み返して、ひしひしと書かれている内容が伝わってきた。高校生じゃ、この話を「たとえ話」 として理解できるだろうが、その本質を理解するのは、ちょっと無理じゃないかなという気がする。というか、 生に陰りが出てきた中年以降是非読むべき小説のような気がする。

 

 

 

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2007年10月19日

金コーチ。尾崎放哉。

走るのに、コーチを雇わなければ、と思っているのだが、僕の場合は、金哲彦さんがその人だと心に決めている。話がわかりやすいから、 好きなのさ。で、何か、いい本はないかなあと、探して出会った本が、「3時間台で完走するマラソン」光文社新書。早速、 半分くらい読んでみた。いいんじゃないでしょうか。値段も、740円とコーチ代としては破格の安さ。自転車もそうだけど、フォームって大切。 もう一度、頭に入れて、月曜日から訓練しよう。これで、コーチを雇ったかのような大船に乗った気分。ひょっとして、頑張れば、 サブフォー出来るかも。無理かなあ〜。

ついでに、日本語に飢えている私が、ふっと岩波文庫の棚を覗いたら、「尾崎放哉句集」が目についたので、手に取ってみた。 自由律の俳句だけれど。

 とんぼが淋しい机にとまりにきてくれた

なん本もマツチの棒を消し海風に話す

山に登れば淋しい村がみんな見える

鳥が黙って飛んで行つた

 

久しぶりに、腰骨の奥が砕けるように痺れました。俳句の世界って、それはそれは奥が深そうで・・・。

ちょっと、新たなマイブームが始まる予感。

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2007年10月18日

トレイルラン。村上春樹の新刊。ハセツネ。

昨日、ラヴィン・スプーンフルのベスト盤を聞いて走った、という話を書いたら、村上春樹著「走ることについて語るときに僕の語ること」 の17ページに、著者もラヴィン・スプーンフルを聞きながら走っていたそうで、なんとも、シンクロな気分。そう、昨日は、 ラジオ講座のテキスト計5冊とこの本を買って、電車に揺られながら読んでいたのでした。

村上春樹の本は、僕が高校2年か1年の頃、一緒に雑誌をやっていた友人が、凄いヤツが現れたと、「風の音を聴け」 を紹介してくれたのがきっかけ。だから、登場したときからの、ず〜っと、長いつきあいなのです。途中、「国境」あたりから、??? な感じになってきたけれど、それでも、新刊を楽しみにしている日本人作家の数人のうちの一人なのです。要するに、大昔からのファン。

僕は、マラソンには興味がないけれど、山の中を走るのは大好きなので、フムフムと納得しながら読んだけど、 性格的に自分とそっくりだなあ、と思うので、自分のことが書かれているようで、なにか、心が落ち着かない。

というわけで、村上春樹氏のエッセイ?も読めたし、ラジオ講座も大変だけれど、今のところ、 ビジネス英会話とフランス語は理解度100%を目指した復習をしているし、何かと楽しい毎日を送らせてもらっているのだ。

さて、今朝も、上空は、雲が切れていて、そして、寒くなってきた。風があったら、震えるほどだっただろうな。フランク・ ショーターのタイツに、アンダー・アーマーのゴムのような着心地のシャツの上に、ユニクロの長袖。Ipod shuffleの故障が、 襟に挟んでいたため、多分汗の塩気で壊れたんじゃないかなという気がするので、腕にゴム紐を巻き付けて、挟んで固定することにする。 ジョギングシューズは、底はまだ減っていないけれど、完全にへたっているアシックスのニューヨークシリーズ。そろそろ買い換え時かな。 アシックスの靴は、性能ばっちりなんだけど、格好悪いんだよな。ミズノも駄目。となると、ナイキか、ニューバランスか。 トレイルランシューズには、ろくなモノがないんだよな。モントレイルも???な感じ。そんな格好で走ってみる。

今週末に、長谷川恒夫カップが開催されて、何十キロかの山道を走るレースがあるのだが、来年は、これに出てみようかなと。あと、 フルマラソンにも出てみたい気分が、村上春樹の本を読んだら、ちょっと出てきた。あと、1年あるから、よっぽど走り込まないと、 完走も覚束なさそうだ。自転車に乗っている時間がなくなりそうだ。これは、これで、困ったものである。どうしよう。来年は、 忙しくなりそうだ。

村上春樹の本を読んでいたら、とにかく走り込む。毎日10キロを6日間。レースの3ヶ月くらい前から、 いろいろなトレーニングを入れて、ピークを1ヶ月前に持ってくるのだそうだ。そして、回復させてレースに臨む、というのが、 この世界の基本みたいだ。僕の場合、週に走れて4日。土曜日がロード、日曜日が軽くMTB。月曜日は、疲労がピークでたいていが休み。 というパターンなのだが、これでも、通用するんだろうか?実際、天覧山・多峯主山2往復で何キロくらい毎日走っているんだろう。 正味1時間15分くらいだから、7,8キロというところかな。このあたりは、MTBで距離計つけて走ってみないとわからないか?今度、 冬のある日走って計測してみよう。

そんなことを考えながら、今日も天覧山・多峯主山2往復。路面は乾いており、グリップよし。コウヤボウキの花があちこちで見られた。 ミゾソバ、ママコノシリヌグイ、ヤノネグサの同じような花をつける休耕田の草花も盛りを過ぎて、 冬に向けての準備期間という様相を呈している。湿気はまだ、あるけれど。

今年の冬は、平日に、なるたけ走ることにする。マラソンやらジョギングの本も、借りるのではなく、一冊これは! と思うものを買っておこう。

 

 

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2007年09月19日

ザ・ダルマ・バムズ

講談社学芸文庫から、遂に、ジャック・ケルアックの「ダルマバムズ」が復刊(新刊?)。

そう、ソローに憧れ、丹沢の山の中でふらふらしていた高校生当時のバイブルでした。

ず〜っとまえに、講談社文庫で、確か「ジェフィー・ライダー物語 青春のビートニク」という、 なんだか訳のわからぬ題名で発売されておりました。同じ、講談社から発売されるので、そのまま、題名だけを換えて売るのか、 新訳なのかよくわからないけれど、おそらく、前者のような気がする。

ボクは、もう黄色くなったペンギン文庫のペーパーバックしか手元にないので、確かめるわけにも行かない。

ビート族の本は、自動筆記とか訳のわからない詩の羅列とか、読みづらい本が多いのだけれど、この本は例外的に楽しく読めます。 ボクの中では、「オン・ザ・ロード(路上)」よりも、この本の方が好きです。ディランも、デビッド・ボウイも、ケルアックの信奉者のはず。 ディランが、これまた、ビート族のアレンギンズバーグとローリングサンダーレビューでアメリカ国内をコンサートツアーしていたときに、 ケルアックの墓を訪ねている写真が有名ですね。

ああ、嬉しい。だけど、この本文庫本なのに、2000円近くします。これじゃ、ちょっとねえ。

主人公のジェフィー・ライダーは、詩人のゲイリー・スナイダー。その他の登場人物も、アレン・ギンズバーグも出てくるし、 バロウズも出てきたかな?とにかく、ビートニクの大物が登場している、言うなれば、ヘミングウェイの「日はまた昇る」のような本。 何処までが事実で、フィクションなのか境界線が引けない小説だったと記憶している。

ゲイリー・スナイダーに憧れて、李白、杜甫、寒山などの詩集をこの頃、読んでいたなあ。懐かしいので、今度読み返してみよう。

勿論、山に登る話もあって、「山をなめれば怪我をしない」と、 山羊のように重い重登山靴で岩の上を跳ねるように下るシーンが頭の中にインプットされて、4,5年前に、金峰山の「千代の吹き上げ」 の岩場で、そんなことを思い出しながら、岩の上を飛び跳ねて降りたことを思い出した。

原題は、「悟りを開いた乞食達」くらいの意味。付け焼き刃的な仏教の知識とかが色々出てくるのは、ご愛敬。他の出版社では、 「禅ヒッピー」という題で絶版されていなければ売られているはず。

お勧めですよ。

 

 

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2007年08月28日

「武器よさらば」読了。トレイルラン。

9月も近づき、日の出が5時10分。どんどん、日が短くなっていく。夏を惜しんで、やはり、走らなければ。

ということで、トレイルラン。いつものコース。土曜日の白石峠立ち漕ぎ練が、やはり筋トレになっているようで、 珍しく月曜日になっても筋肉痛が抜けなかったので、昨日はお休みしたのだった。金曜日以来のトレイルラン。

昨晩、ボランテイア活動のタメ、都内某所へ行ったんだけど、地下鉄の出口から某所までなだらかな坂。鍛えているのに、 上手く歩けないというか、足の運びが重かった。そしたら、ボクを抜いて、 颯爽と歩くウォーキングしているオジサンにスピードを上げてついていったら、これがまた、調子が良く足が前に出る。心拍も、 20くらいあがったかな。うっすら汗をかく程度。

走ったりしていると、だらけて歩くのが、かえって疲れてしまい、非効率な歩きになってしまうのかも。ロードでも、 ゆっくり走っていると、疲れるもの。それと同じか。なんだか、おかしな体になってきた。

というわけで、某所のブースで相談者を待っていると、今日の相談はゼロ。でも、時間は、しっかりと拘束されてしまうので、 この間買ったまんまにしておいた光文社の古典文庫の新訳「武器よさらば」上下を一気読み。メロドラマとして、良くできていて、 いかにも映画向きな小説。まだ見ていないけれど、2回くらい映画化されていたはず。

正直言って、ヘミングウェイって、あんまり好きではない。ある種の小説を抜かせば、 賞味期間が残酷にも過ぎてしまった作家という評価をしている。ところが、新訳で読むと、これが、いいんだ。やはり、 訳の賞味期間というのもあって、どんどん、新しい人が訳していった方がいいね。その意味で、光文社の古典文庫シリーズは、 いい所をついていると思う。

大学の時に、2年かけて、「By line 」というペリカン文庫の、特派員時代の文章を集めた本を授業で購読したけれど、これは、 楽しかった。特に、教授がスペイン戦争の研究者だったから、2重の意味で面白かった。いわゆる、ハードボイルド文体というのは、 このころの特派員時代に身につけたんだろうなあ。ところが、このハードボイルド文体を小説で読むとですね、省略が多くて、 いまいち想像力を働かせないと、意味不明なときがある。

注意して読むと、勉強になるところがたくさんある。超一流の短編に比べて、甘いところがあるのだが、特に、会話文。短い会話なのだが、 どの一文を抜いても会話が成立しない、ギリギリのところで文章を書いている。長い会話文の中では、ざーっと読んでしまうと、 何でもないのだが、いくつかのキーになる短い台詞があって、そこだけが、ページの中でもっこりと起き出しているような気がするのだ。これは、 魔法以外のなにものでもない。

およそ、靴でもボールペンでも自転車でも、一流品というものは、語るべき点が多いもので、ヘミングウエイの小説は、短編でも長編でも、 一日中でも、同好の輩と語れば、何処までも語れそうなので、やはり、小説として一流品なんだろうなあ。

主人公のヘンリーが、爆風で負傷するシーンの描写は、ピカイチ。最前線の雰囲気は、開高健の「輝ける闇」とよく似ていて、 上官同士の会話なんて、そっくりなんだねえ。文体さえも。

そんなこんなで、3時間、ブースの中で読書タイム。なかなか楽しかった。間髪入れず、これまた、新潮文庫で新訳が3年くらい前に出た 「日はまた昇る」に突入。ペーパーバックで1度読んで、それっきり。全体の理解度70%位だったので、日本語で読むのだ。

と、今年の目標に、月に1冊は、ペーパーバックを読むべし、というのがあったのだが、今年は、ロバート・B・パーカーのストーン・ コールドシリーズを2冊と、マリオ・プーゾの「ゴッドファザー」しか読んでいないことが判明。 リブロのペーパーバックセールで10数冊買ったものが山と積んであるけれど、以後、チョビチョビと読まないとなあ。あと、4ヶ月か・・・。

と、脱線してしまったが、いつものように、天覧入りから天覧山まで猛ダッシュ。2分20秒は前回と同じ。トレーニング法として、 アドバイスも受けたし、どこか図書館で借りた本にも書いてあったのだが、同じ場所を繰り返して行うといいのだそうだ。次回からは、 最低2回は走ってみようかと思う。

 

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2007年07月26日

エンゾ・早川とラクダのコブと朝トレ

駄目だ!朝トレが出来ないと、底なしに体重が増えていく。何処までも何処までもとどまるところを知らず、転石苔を生ぜず、とは言うが、 動かない肉体は、ただ脂肪がつくのみ。よくわかる。嗚呼、無情。無情とはいえ、食べ過ぎるのがいけないんだよな。今まで、 食事制限など考えたことがなかった。運動すれば、いくら喰っても太らなかった。水平に体重表は、推移していき、安定していたのだ。だけど、 運動を休むと、とたんだね。これで、運動するのを半年止めたら、10キロはあっという間に太るだろうなあ。クウ・ネル・ダスと、 豚にふさわしい生活が続けば、あっという間に、メタボにも成りましょう。で、あるからして、運動と、食事制限に気をつけましょう、せいぜい。

昨日、図書館へ、用があって(といっても、一週間に2度は訪れるのだが)、エンゾ・早川著の「ロードバイクに乗るときに読む本」と 「ラクダのコブのある自転車乗りになりたい」を借りて、昨日の帰りの電車で読了。Masakiさんのブログにも紹介されていたけれど、 ボクは、後者の「ラクダ・・・」は、なかなか面白かったヨ。ビョウキだね、この人。でも、私、病的な人好きだから、好感が持てる。 背伸びして書いた轍屋店主のの奥さんが書いた小説・・・なんだっけ?ど忘れ。「青葉台、チャリンコ3分」とか、そんな名前の本。あれは、 少々文章の表現がとげとげしくて、痛々しい感じがして、それが又、魅力にもなっていてんだけど、この人は、文章が上手なので、 安心して読み進めることが出来ました。

サドルが高いこと

骨盤が立っていること

背中に奇妙なコブのようなものがあること

以上の3点。ペダリングや体幹の筋肉を発動するために必要なものらしい、ということは、この人のサイクルクラブの記事が出なければ、 今ほど人口に膾炙していなかったろう。これが、エンゾ・早川氏の功績だな。偉いと思う。この記事は、結構評判が高くて、 サイクルスポーツ紙がその後、「骨盤を傾けよう」という正反対の記事が出たくらいなのだ(サイクルスポーツ誌は、あの漫画家と、編集長? が出た大会の半分漫画のレポートが面白いね。あれだけは、毎回立ち読みしてます。)。その後、そんな記事が出ていないので、エンゾ・ 早川の勝ちということになるのかな。

ところで、一流の選手というのは、ごく当たり前に普通にサドルに跨っているので、時として、 当たり前すぎる事を言葉にすることが難しいのだろう。名選手が名コーチになれるとは、限らないということもあるし。というわけで、 一流選手と自転車を趣味で乗っている人との間の隙間を埋める解説者が必要なんだね。その「ニッチ」で文章を書いているのが、このエンゾ・ 早川氏ですね。

とにかく、いまだに自転車雑誌の記者の文章が酷すぎる。吐き気がするほどの文章で、僕なんか、3つの大きな自転車雑誌があるけれど、 その中の1つの自転車のインプレ記事は、絶対に読まないよ。そんな中で、エンゾ・早川氏は、ようやく「読める」記事を書いてくれました。 疋田氏という人も、文章が上手だけれど、興味の対象から内容がずれているから、ほとんど読んだことはないな。

この人の、バイシクルクラブの「ラクダのコブ」の記事と、「体幹を使う」みたいな記事は、ちょうど、私がロードを買った頃で、 よくわからないながらも、ふ〜んそうかと、何度も何度も読み返した記憶がある。時々、嫌な文章に出くわすことがあるけれど、 立派な編集者がつけば、これからも面白い記事を書いてくれると思う。

そんなわけで、今朝は、朝トレ。サドルは上げなかったけれど、骨盤を立てるようにして、 クリーンセンター坂>小沢峠>名郷の往復50キロ強を走ってきました。小沢峠の下りの路面は、久方ぶりに乾いていたので、 楽しく下ることが出来た。しかし、こんな短い下りなのに、やはり、首が痛いんだなあ。 もう少しハンドルの位置が高いといいのかなと思うものの、これ以上無駄なコラムなし。絶対無理。でも、下ハンドルを握ったときの、 トレックマドンの安定感は、抜群。この自転車って、穏当に走っていれば、外側に膨らむってことは、まずなさそうだ。これが、 ベストポジションなのか。

あと、一番楽な感じのする手の置き場所が、ブランケットから2センチほどの手前の背の部分なんだが、これって、 2センチほど短いステムを取り付けるといいのだろうか?あとで、店長に聞いてみよう。でも、そうなると、もっと体が窮屈になるので、 下ハンドルを握ったときは、もっと首が痛くなりそうだなあ。う〜ん、最近、ポジショニングに敏感な私。 5ミリの違いのわかる男にもう少しだな。ふふふ。わかり出すと、うるさいよぉ。

今日は、名郷往復か、この間走って楽しかった天目指峠→子の権現→飯能というコースをとるか、最後まで悩んだ。 時間的にどちらが早く飯能につくのか?夜明けが遅くなり、さすがに4時30分前は、暗いので、最近出る時間が遅くなってきているのだ。 距離は、子の権現コースの方が短いだろうけれど、坂は急だし、早朝の大きな動物に遭遇しそうな寂しそうな場所だし・・・ といろいろ悩んでいたら、分岐を見逃し、もう、橋の上。3 0 −19位でくるくる回し、もう一つ落として、ケイデンス90をキープ。 次のややきつい左カーブからは立ち漕ぎで藻掻きに藻掻いて、水飲み場を33.5キロで通過。心拍は、本日最高の167。なんとも、 進歩がないよのお。ガックシ。

帰りの小沢峠は、30-21でくるくると、でも、私の貧脚だと、本当は、30-24でくるくるが一番楽な登り方ではある。なんか、 あっという間にトンネルへ。心拍160。下りは、路面が乾いているので、ノンブレーキで、60キロで左カーブ、 右カーブのダブルカーブを気持ちよく走る。以後、この坂はなだらかで、漕がなくとも数キロ先の信号機までたどり着けるけれど、それでは、 鈍いので、やはり踏み込まざるを得ない。大体35,6キロくらいで、ケイデンスは、80くらいかな。力を入れずに、 自然に足が回るようなケイデンスで、楽して走る。

クリセン坂は、39−15くらいかな、重めのギアをぎしぎしと。下りは、軽トラの後をぴったりと60キロでくっついて走って、 今日は終了。LSDモードで、久々に朝の太陽も拝めたし、めでたしめでたし。飯喰って、シャワー浴びて、下着着て、体重計量ったら、 700グラム痩せていた。ほとんど水だろうなあ。でも、ちょっとは、痩せたかもな。

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2007年07月24日

高橋和己「邪宗門」とマルケス「百年の孤独」

梅雨明けか?と思ったので、ブログのデザインを変えてみた。なんか、イマイチ。紫色が目にしみます。

とうとう、昨日の朝の電車の中で、「カラマーゾフの兄弟」を読み切った。衝撃度は、 高校生に読んだときとは比べものにならないくらい弱かったけれど、圧倒されることなく、また、「悪」にも染まらず、批判的に読めるところが、 多少は人間的幅が出来てきた証拠なのかもしれない。

この本は、絶対に10代に読んでおい他方がいい本の筆頭だな。駄目だ!オジサンになってから読むと。精神の高揚も跳躍も、はたまた、 明日世の中が転覆したってかまわねえぜ!といった気分にならないものな。こんな本を読んで、ディランの音楽聞いて、ギブソンのピーター・ フランプトンモデルという、黒いレスポールのグレコ製というなんともいかがわしいエレキギターを質屋で買って、ミュージック・ マンといったか、友人のアンプにつなげて、レッド・ゼッペリンの「ブラック・ドッグ」のリフを練習していたものさ。

イワンの「神がいないなら、何でも許される!!!!」なんて言う所なんか、痺れるように読んだ記憶があるもの。

そんなわけで、やはり、こういう全体小説というか、思想小説というか、体力で読み切るしかない小説というのは、10代で読むと、 道を踏み外すかもしれないけれど、昨日の自分とは明らかに違う自分を発見することが出来て、何度でも、人生というものは、 やり直しがきくんだなあ、という気分にさせてくれるんだなあ。

で、次に何を読もうか?いろいろ悩んだんだが、日曜日に飯能の本屋に行ってプラプラしていたら、なんと絶版だと思っていた高橋和己の 「邪宗門」が・・・。高橋和己と行ったら、「日本の悪霊」とか、「我が心石にあらず」とか、昔の全共闘学生が本当は、わからないのに、 わかったつもりで読んでいた本であったと思う。全共闘的価値観がクルリンパと方向転換してしまった現在、 新潮文庫であれほど出ていた本も今はない。私は、高校生の時「我がこころ石にあらず」を読んだことがあるけれど、退屈で、 読み終えられなかったぞ。いや、1冊あった。岩波漢詩シリーズの「寒山拾得」の解説及び訳者が、この高橋和己なのでした(作者は、 京都大学の中国文学の(助)教授?でもあったのだ)。当時、ジャック・ケロアックというビート作家・詩人に心ときめいて、 講談社文庫にあった、「ジェフィー・ライダー物語」という小説。これは、昔から「禅ヒッピー」という邦題で他の出版社、なんと言ったかな、 太陽出版だったっけかなあ、そんな出版社から今でも発売されているはず。英文は、「Dharma Bums」だったかな、 「悟りを開いた乞食」みたいな題だ。

そのなかで、このジェフィー・ライダーという主人公は、実在のビート詩人「ゲーリー・スナイダー」で、このなかで、 盛んに李白や寒山を英訳していたのを、格好いいなあと思って、以後、漢詩の世界にしばし逍遙した時期があったのでした。

あれま、何書いているんでしょうね。どんどんずれる。

でだ、ここで買わなければ、線を引っ張ったりして本を読むのが好きな私としては、なんとも残念な事になりそうなので、「邪宗門」 上下2冊。2000円弱。細かい文字で上下巻あわせて1500ページくらいあるんじゃないか。買ってしまいました。これは、 大本教に題材をとった、宗教と救済をテーマにした本で、確か、私の「いつか読まなければ読書リスト」の中には、常に入っていた本だったのだ。 紛れもなく、ぶっ飛ぶようなパワーのある本であるには間違いない。読めば、自分の目盛りが一つアップすることは間違いない小説なのだが、 なんとなく、暑くなってきたし、最近細かい文字を見るのも嫌なので、読み切ることが出来るかどうか不安である。

で、今日図書館へ行ったついでに、書架を眺めていたら、読みたかった本が置いてあるではありませんか。ガルシア・マルケスの 「百年の孤独」。世紀の大傑作と言われて久しい本だが、まだ未読。「族長の秋」「エレンディら」「予告された殺人の記録」あたりは、 読んだけどね。ついでに、これは、同じ訳者の改訳で、あんまりこういう事聞いたことがないので、期待していた本はあったのだ。借りました。 今日から、読むつもり。これでまた、極楽電車通勤がしばらく楽しめそうだ。

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2007年07月12日

全国ドストエフスキーフアンの皆様

全国ドストエフスキーフアンの皆様。本日12日、「カラマーゾフの兄弟 第4巻」が発売されるようです。

本屋へ、急げ!!!飢えているフアンの取り合いになるぞ!

 

↓は、訳者のブログ。

http://stavrovsky.blog.ocn.ne.jp/

 

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2007年06月08日

チャップリンの独裁者

第2次大戦中に、命がけで作ったチャップリンの独裁者。ナチスが戦争に勝ったら、チャップリンの命はなかったはずだ。

この映画の主題は、最後の5分あまりのスピーチに集約されているのだが、これが何とも感動的。だいたいが、 ストレートに表現された言葉というものは、かえってリアリティが足りず、聞いていて気恥ずかしくなったりするものだが、このスピーチは例外。 聞けば、いつも心が熱くなる。

http://www.youtube.com/watch?v=xl2e69fEFf4&mode=related&search=

 

ついでに、「モダンタイムズ」(「黄金狂時代」の間違いでした)の「パンバレエ」の芸。芸人は、こういう芸を持っていなければね。 「ライムライト」の蚤の芸も素晴らしいけど。

http://www.youtube.com/watch?v=xoKbDNY0Zwg&mode=related&search=

 

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2007年05月24日

クッチェー著「恥辱」 半藤一利著「昭和史」など。

今日は、気持ちよくトレイルラン。忘れ物は無し。IPODには、それこそ凝縮されたジョグ用のロック&ポップスがしまい込まれている。 けれど、さすがに飽きたので、今日は家に帰ったら入れ替えよう。もう、CCRはいいだろう。ゾンビーズも飽きた。ニール・ ヤングさんも数曲を残して削除しよう。ドアーズも、厳選しよう。というわけで、家に戻って朝飯前に、色々とMP3化する。まずは、 ジェームズ・ブラウンの初期のベスト盤。サム・クックのベスト盤。これらを全曲装填。

しかし、山道にJBは如何なものか。まあ、結構あのリズムは悪くないような気がする。

さてと、いつものように天覧山までは、散歩ペース。妻と馬鹿話をしながら、考え事をしながら歩く。エノキの花は今がピーク。山道は、 所々に、エノキの花でできた白い絨毯がある。ちょっと立つと、この清楚な白い花も茶色く変色してしまうのだが、朝は涼しいのか、鮮度がよく、 白い花がよく目立つ。カエデの種は、包というのか、竹とんぼのような形をした種が出来て、落ちていくときにプロペラを回すように落ちていく。 一説によれば、こうすることによって、種が一カ所に集中して落ちるのを防いでいるとか。まあ、面白い形をしているので、妻に一講義してみる。

先日見つけた、タツナミソウは、まだ健在で、波頭の形をしていると思えなくはない紫色の花びらを満開にしていた。

500ミリリットルの水を飲んで、同じくらいかそれ以上の汗をかいて、今日のトレイルランは終了。

ラジオフランス語講座を聞き終わって、ダッシュで電車に乗り込む。電車の中では、J・M・クッチェーの「恥辱」を読了。

この作者、史上初めてのブッカー賞(イギリス、およびイギリス領の国々で出版された小説に対する一番権威のある賞だとされている) をこの作品で2度受賞したそうな。さらに、この本で、ノーベル文学賞の最終候補となり、ついに、最近ノーベル文学賞を取ったのだそうで、 不勉強な私は、ぜんぜんその経緯を知らなかった。南アフリカ人の小説を読むのは、これが初めて。

で、読後の感想といえば、悪くは無いけれど、心の琴線をかき乱すほどではないな。といったものに落ち着きました。

大学教授の主人公は、50代。リストラで授業は減らされて、やる気はあまり無い。離婚歴2度。 子供は南アフリカの農場を経営している娘が一人。だが、教え子との関係を持ったときからは、事態は泥沼化して、ついに、スキャンダルへ。 大学を追放される。それで、娘の農場に転がり込むが、そこで、またまた、予測を超える事件が発生。南アフリカの片田舎だからこその人間関係、 慣習と、変わり者の娘との関係。そうした関係を悪化させながらも、主人公は、自分の人生を見つめ直していく・・・

といった内容の本なのだが、あと一歩のところで、娘にも主人公にも、周りの登場人物にも、腑に落ちないところがあって、 のめり込むことが出来なかった。文章は、端正で会話文の流れは素晴らしいけれど。それだけでは、感動はやってこないのよ。ちょっと、残念。 全世界的に、現代小説というのは、退行しているのかな。南アフリカでも。

というわけで、今日この本が読み終わりそうということを、見越して、これまた、図書館でなかなか順番が回ってこない半藤一利著 「昭和史」平凡社をぺぺの本屋で購入。一読、中学生レベルの簡単な文章(難しい漢字には、ふりがながついている!!!)ですが、何故、 日本が満州に侵略(進出)しなければならなかったかを、3つ挙げて、わかりやすく解説しています。

私も、日本史が大好きだけれど、この昭和史、戦後史というのは、なかなか興味がわかなかったのです。何故なんだろうね。高校でも、 このあたりまで、試験範囲にならないで、1年が終わっちゃうから、勉強した人の数は大変少ないのではないだろうか。で、先週の土曜日に見た 「硫黄島からの手紙」他の映画を見て、このあたりの歴史を勉強したい気になったので、まあ、評判の良かったこの本を購入したのでした。

かなり、ハイペースで読み終えそうです。続編の昭和史(戦後編)もあるみたいなので、この本も買っておこうっと。 半藤一利の他の著作は、すべて図書館で予約済。これからしばらくは、「昭和史」がマイブームになりそうです。

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2007年05月11日

ギャッツビー読了。今度は、落語か?

激しい強風でしたね。電柱から引いているわが家の電線が、風に揺れて、キコキコ耳障りな音を立てるので、昨晩屋根の上に登って、 原因を確かめて、チタン入りぬるぬる自転車用オイルスプレーを、擦れている部分に、体が落ちないように注意しながら、屋外噴射(命がけ!!! )。見事該当箇所にオイルが当たり、キコキコは無くなり、心が穏やかになったと思いきや、やはり、風がうるさく、 起きたり眠ったりして朝4時30分を迎える。

朝の風は冷たく風も強く、日々のトレイルランで足は強ばっているし、今日は遠出することもあって、トレイルランは、お休みにした。

6時50分頃の八高線に飛び乗り、高崎へ向かう。久しぶりの八高線で高崎まで。なんか、旅行気分。単線でしかも、 ディーゼルエンジンなんだ。昔は、全線ディーゼルだったのさ。北海道みたいだ。

で、読み始めたのは、村上春樹訳の「グレート・ギャッツビー」。電車の中で完読。

実際、ストーリーが良くできていると感じたのは、今回が初めて。暗喩があり、伏線が注意深く読めば張り巡らされていて、 注意深く読むと本当に良くできた物語だったんだなあというのが驚きだったよ。村上春樹の訳は、 懇切丁寧に一語一語をかみ砕いた後に現れるいくつかの訳の方向性を確固たる自信でもって選び抜いた訳といった様相を呈し、 安心してストーリーの中に身を置けた。

後書きで、影響を受けた本として、この本の他に、「カラマーゾフの兄弟」「ロング・グッドバイ」と書かれていたのには、ちょっと驚き。 偶然にも、私が最近連続して読んだ本がこの3冊だったから・・・。

文頭の名文から、今でも1年に1回くらいは、小説や映画の中で引用されているのに出会う、あの最も有名な最後の段まで、 一度としてテンションが下がることはなく、枝葉末節の細部の細胞まで心配りが届いた文章だ。いろいろこれ以上書き連ねると、 本気に難しい言葉とかを多用したりして頭をひねらないと文章が出てこないので、これは、又の機会に思い出したように、感想を書こうと思う。 ああでもない、こうでもないと考えるのも、読後の楽しみでもあるので。

ただ、訳者も20年悩んだという、old sportという訳。そのまま、オールド・スポートとして訳しているんだけど、これは、 やはりちょっとどうかなと思う。読んでいて、引っかかって、どうも気になる訳でした。このオールド・スポートというのは、マイ・ フレンドというのと同じ意味なんだそうですが。

たとえば、ボブ・デイランの「風に吹かれて」

The answer is,my friend,

is blowin' the wind.

The answer is blowin' the wind

という時の、マイ・フレンドと同じ意味なのだと思う。

これは、あんまり意味が無くて、呼びかけだ。

僕の恩師が、よくこんなしゃべり方をする。

「いやあ、君、その当時は、大変だったんだよ。」というふうに。

その、「君」とちょっと気取った呼びかけ、そんな感じの言葉だと思う。

だとしたら、もうちょっと、意訳して、流れのある訳にした方が良かったかもなあ、と少し思う。

でも、まあ、いいんだけど。この言葉をトム・ブキャナンが、侮蔑的にジェイ・ギャッツビーにむかって使う場面があるのだが、 その当たりの含蓄が難しそうなんだけど。でも、このトム・ブキャナンがこの言葉を使ってからかう気持ちはよくわかるんだよな。 東京生まれでもないのに、得意になって江戸弁を使う下手な落語家を目にしたときの違和感。

まあ、一度は、この傑作を読んでください。一度読むと、アメリカ人の中では、この話が共通の話題というか、常識になっていて、映画、 新聞、雑誌、音楽に接するときに、その背後にある意味を理解する為の背景的な教養にもなります。

古今亭志ん生のCDをいくつか

1 火焔太鼓 黄金餅 後生うなぎ 

2 火焔太鼓 搗屋幸兵衛 たぬさい 一眼国

3 抜け雀 百年目 元犬

4 らくだ 強情灸 親子酒 宿屋の富

私にとって、志ん生、志ん朝、馬生は、神様みたいなもん。心して聞きますよ。このシリーズ48巻まであるそうで、全部欲しい。ううっ。

 

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2007年04月20日

カラマーゾフの兄弟とトレイルラン

ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」(光文社文庫)を読み返すという、何とも贅沢な時間に浸っている。訳がわかりやすいのか、 頭にすいすい入る。高校の時は、わからないところは、勢いで読み飛ばし進んでいったのだが、おじさんになって読み返すと、やはり、 読解力は進んでいるようだ。

10代で、読んでよかったよ、と思う小説がある。「罪と罰」「パルムの僧院」「赤と黒」「人間失格」「堕落論」「哲学草稿」 こんな本は、10代の時に読むと読まないでは、全然その後の人生に与える影というか影響が違う。実際私も、そんな本を読んだときに、 少年から青年になりたくなくとも、ならざるを得ない状況に置かれたような気がする。

今の読書は、アリョーシャの魂の叫びも体験的に理解できる。10代の時は違った。それは、体験だった。 自分を完全にアリョーシャと同一視して、読みながら自分も悩み抜いたのだった。イワンの台詞に激しく心を動かされ、 本当に徹夜して読み終えたときには、世界が変わって見えた。そんな10代にこの本に邂逅できたのは、難という幸福なことだったのだろうと、 今、思う。

あと、今から考えると、10代のそんな多感な頃、ニューヨークへ行きたかったな。チャンスはあったのだが・・・。妻は、その頃、 アメリカの中西部の町で、奨学生として生活していたのでした。羨ましいですね。でも、僕なんか、ドロップアウトして、 ヤバイ世界に突入してたかもな。

そして、困ったことに、この「カラマーゾフの兄弟」全4巻の内、3巻までが発行されていて、残りの最終章が、 おそらく6月以降の発売になるという・・・。なんとも、勢いで読み切ってしまいたいのだが・・・。

それで、本日、同じく光文社古典新訳文庫で、カントの「永遠平和のために/啓蒙とは何か」という中山元訳の本をそっと買いました。 確か、岩波文庫でも出ていたと思いますが、なんとも、読みやすい感じがしたので。

来週は、こんな本を読むことにします。

今朝は、暖かく楽しく、いつもの天覧山・多峯主山トレイルラン。体もかなり動きます。そうそう、金哲彦著 「カラダ革命ランニング マッスル補強運動と正しい走り方」という本を読んでます。この人の話は、わかりやすいんだよねえ。体幹重視。 丹田をカラダの中心に。肩胛骨。腸腰筋。腰の回転。そんなところがキーワードか。

今日、そんなことを意識した走ったら、随分とスピードに乗れて走れました。やはり、こうした本で勉強すると進歩があるなあ。

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2007年04月13日

ドストエフスキーとグラスの縁

かつて開高健という作家がいて、サントリーがスポンサーのテレビ番組に出演していた時代があった。私自身、開高健の大フアンだったし、 今でも、一晩で読み切った「日本三文オペラ」を読み終えたときの感動は、忘れられない。「オーパ」の成功以来、テレビによく出ていたのだが、 フアンとしては、闇の3部作の完結が待たれていて、もう、テレビはいいから、早く新しい作品を書いてくだされ、と心の中で叫んでいたのだが。

そんな、開高健の生前の最後のテレビ番組だったか、薄暗いタクシーの中で、こんなようなことをつぶやいていたのが印象に残っていた。

「グラスの縁に口をつけたら、グラスを飲み干さなくてはいけない」

で、以来、この言葉を時々思い出されて、これは、どういう意味なのかなあと、いろいろと考えていたのでした。

そんな時、偶然に、今読んでいる「カラマーゾフの兄弟 2」の例の大審問官のまえあたり、で、こんな文章を発見。思わず、 赤線を引いてしまった。

カラマーゾフ家の次男、イワンの言葉

「人生という大きな杯にいったん唇をつけた以上、最後までこれを飲み干さない限り、絶対に手から杯を離さない、 ってな」

これで、カラマーゾフの兄弟を読み返すのは、3度目だけれど、さすがに、この表現は覚えてはいなかった。誰かの文章の引用だとは、 思っていたが、まさか、ドストエフスキーの著作からとは・・・。これは、酒好きのアポリネールとかヴェルレーヌとか、 そんな作家の言葉だと思っていたのだが・・・。

それにしても、「カラマーゾフの兄弟」凄いですね。何より面白いです。確か、村上春樹の小説の中だったか、 カラマーゾフの兄弟の名前を言えるということを言及していたシーンがあったはず。「ダンス・ダンス・ダンス」とか、「ノルウェイの森」 あたりだと思うのだが、その時、俺もしているさ、と、なんだか、嬉しい気分になったことがある。ミーチャ、イワン、アリョーシャ、 スメルジャコフさ。ね、名前だけ見ても、読みたくなるでしょう?

とにかく、この小説を読み切るということは、それだけで、大きな体験だよ。読み終わって世界が変わるかもしれない小説というのは、 そうそうあるもんじゃない。最近出た、光文社文庫のものが読みやすくてお勧め。

というわけで、寄り道しっぱなし。

朝は、天覧山・多峯主山トレイルラン。今日の朝は、暖かく、 アーマーというゴムのようなぴったりとした下着にサイクルジャージという格好だと、汗だくになりました。

体重は、驚愕の67キロジャスト。びっくりしたな、もう!

昨晩も、よく食べました。エビと鶏肉のグラタン4人前のうち、3人前くらいぺろり。食パン1枚。大量のサラダ。加えて、ブンタン2個。 ヨーグルトも、ご飯一膳分ぐらい食べた記憶が。止せばいいのに、アイスクリームを妻と半分。おまけに、ラズベリージャムを載せてだよ。 これじゃ、痩せますまい。

でも、走り終わって、シャワー浴びる前に量ったら、66キロだった。まあ、ほとんどが、汗でしょう。

で、軽い筋肉痛が足にあって、張っている感じ。なんか、全然楽に走れませんね。そのうち、 ターボがかかったみたいに軽快に走ることが出来るようになるのでしょうか?

音楽は、昨晩いろいろ考慮の末、MP3化したのが、なんと、エルトン・ジョンの「グレイテスト・ヒット」でした。ああ〜。 シャッフル機能でかかったのが、クロコダイル・ロック1曲だったのだが、まあまあってところか。なんか、 最近1ギガで固定して入れていた音楽が、なんか飽きてきて、大幅に入れ直したい気分。8ギガのIpod nanoなんて、いいだろうなあ。 そんなことしなくても済みそうだから。

千葉方面で用事を済ませて、リブロの本屋で、「英辞郎」購入。これは、インターネットでみんなで作り上げた辞書。 精度も語彙数も多くて、重宝しているのだが、その改訂版が出ていて、久しいのだが、何となく買ってみた。これで、英語のサイトなんか、 楽ちんに英辞郎を引きながら、読み進めることが出来るのだよ。そんな勢いに乗って、Newsweekの最新版買いました。800円でした。 英語の勉強を始めます。まあ、ひたすら読むだけですが・・・。目が慣れてきたら、年間購読でもしようかな。でも、 どんどん読まずに溜まっていくんだよなあ。購読すれば、安いんだが・・・。

ああ、なんとも、だらだらの日記だなあ。

明日は、朝には雨が止むという。ロードでしょう。先週より強くなっているかなあ?楽しみ。

 

posted by ロビオ at 14:09| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月18日

供述によると、ペライラは・・・、カポーテイ

久しぶりの休日の雨だ。今日は、運動は無しにしよう。
雨の日は、映画に限る。
それで、「UNKNOWN」と「カポーティ」という映画を新・文芸座へ見に行くことにした。
ここに来るのも、久しぶりだ。上映20分前には席を取り、アントニオ・タブッキ著の「供述によるとペライアは・・・」という本を、読了。
ポルトガルのリスボンを舞台とした1937年の物語、ヒトラーがオーストリアを併合して、スペインでは、フランコ将軍を支持したナチスが、ゲルニカを襲撃した時代だ。そういった、重苦しい雰囲気が、リスボンにも充ちていてる。主人公のペライアは、元社会部記者、現在は、文芸欄を担当している。数年前に妻を亡くし、甘いレモネードを愛飲している太った心臓に持病を持っている。カトリックではあるけれど、死者の復活は信じていない。政治には、興味がないと言うよりは、敢えて、興味を逸らしているという風情。ある日、新聞で死について書かれている卒業論文を目にする。丁度、死亡記事を、芸術家の生存時に書きためていないと、実際に死んだときに、手早く記事にすることが出来ないので、あらかじめそうした死亡記事を書かせるための助手が必要だったので、電話をかけた。これが、モンティ・ロッシで、政治的に過激に運動している若者であるようだ。その若者の出現で、ペライアは、否応なく時間に巻き込まれていく・・・といったあらまし。
いままで、イタリアの作家は、あまり読んだことがなかったのだが、これまた、大傑作で、息つく暇もなく一気に読了してしまった。いやあ、世の中広い物です。
「私の同志は、私だけです。」というペライアに、深く同感。


という、深い感動と共に、映画が始まる。
最初の「UNKOWN」は、誘拐犯3人が、2人を拉致したが、監禁部屋でガスが漏れて、気づいたときは、その影響でこの5人の記憶が失われていて、誰が犯人だかお互いに謎のまま、監禁所を脱出するために、力を合わせるという物。まあ、面白い筋書きだが、どんでん返しが何度かあって、それなりに楽しめた。
次の本命「カポーティ」だ。主役のホフマンは、これで、アカデミー賞主演男優賞を取ったのだそうで、さもありなん、という演技。実際の動くカポーティは、あのパロディ映画の傑作「名探偵登場」で見たことはあるけれど、こんな話し方してたんでしょうね。おかまっぽい話し方と仕草。まあ、アカデミー賞も順当というわけで。
内容は、カポーティが南部の町で一家4人が頭をショットガンで撃ち抜かれて殺された事件を取材し書き上げた「冷血」という本の完成までの話。捕まった犯人の一人をインタヴューする内に、深いところで共感が生まれてしまう。「僕たちは、同じ部屋の中で生まれて、彼は、裏口から出て、ボクは、表から外へ出た」なんていう台詞があるくらい。
一方で、犯人の処刑がなされなければ、本の出版は出来ないが、死刑判決が出た後の再審等で、死刑の執行が伸びに伸び、そのはざまで、苦しむカポーティをホフマンが熱演。
「アラバマ物語」の作者リー役の女の人、なんとかアドラーといったか。これまた、熱演で、助演女優賞をあげたいくらいだった。
また、「冷血」を読みたくなったので、最近新しい訳がでたので、図書館で借りてみようと思う。いやはや、作家というのは、タフでないとやっていけない職業だね。弱々しそうに見えるカポーティだが、その作家精神というもの、タフの一語に過ぎる。そんなところにも、感心。

いやあ、映画は、良いですね。週末に雨が降れば、もう少し映画も見に行けるのだけれど。

帰りは、妻と輸入食料品雑貨店でリュックサック一杯の食材を購入。重くて腰を痛めそうくらい。で、全部で4000円弱。これで、かなり長い間イタリア料理を楽しめるでしょう。

posted by ロビオ at 00:00| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする