2008年06月03日

エデンの東

ジョン・スタインベックの「エデンの東」を読み終えた。長かった。文庫本で4巻。ブック・オフで旧訳1冊100円を纏めて買ったのでした。

そして、1巻を読み進むと、次の文章に出くわした。勿論日本語で読んだのだけれど、その内容をどこかで読んだ気がしたので、「英文標準問題精講」で探してみたら、ありました。

This I believe: that the free, exploring mind of the individual human is the most valuavle thing in the world. And this I would fight for: the freedom of the mind to take any direction it wishes, undirected. And this I must fight against: any idea, religion, or government which limits or destroys the individual. This is what I am and what I am about.  I can understand why a system built on a pattern must try to destroy the free mind, for that is one thing which can by inspection destroy such a system.

18才の受験生には、なにやらわからなかった文章だけれど、今では、よくわかる。今の社会が生きやすいと感じている人は、おそらく、ここで言う「exploring mind」というのが欠けているのかも知れないな。

この文章の直前のものも、この受験参考書に採用されていて、それも味わい深い文章で、これら二つの文章が、同じページから切り取られたのだと、どうでもいいんだけれど、新たな発見をしたのだった。

こういう優れた卓見がちりばめられてはいるのだが、作品としてどうなのか?と言えば、傑作とは言えないかも知れない。それに、訳者が1巻と4巻が野崎孝! 2巻と3巻が大橋健三郎!という変則的なもので、キャラクターの性格が首尾一貫していないような気がするし、そのあたり、途中でガックシすること多々あるのだった。

(以下ネタバレあり)

凶暴なチャールズにいびらていたアダムが、軍隊から帰ると、とたんにチャールズと引けを取らない頑強さを発揮したり、アロンとキャルの父親は本当はチャールズらしいのに、そのことについて深く言及されていなかったり・・・あの悪の化身のような母親キャシーが何故自殺しなければならないのか判然としないし、母親が売春宿を経営していることを知ったとして、兵士になって死ぬ選択をアロンがしなければならないほど、それほど衝撃的な事実だったのだろうか?周りの町のみんなは知っていたのだし・・18才になるまで、そういう周りの状況に気がつかないアロンもちょっと足りない気がするしな。

まあ、そんな風に???が続くのでありました。

しかし、アダムとチャールズ アロンとキャルの2代にわたる兄弟の確執というか、それぞれの父親の愛を巡る3角関係というか、創世記のアダムとカインの話を、微妙にずらしながら現代に置き換えた話ではあるので、構成はわかりやすい。

そこに、アダムとイブの原罪の話が入り込んできて、頭の中は、質疑応答でくらくらしてくるのだが、読み終えて、これらの視点を整理すると、なかなか面白い話だったなあと今気がついたのでした。これらのテーマは、スタインベックをしても手に余るものだったのかも。

この本の中で、中国人リーが聖書の解釈を巡る会話が延々と続く場面があるのだが(まるでカラマーゾフの兄弟の「大審問官」のよう)、ヘブライ語の聖書によると、「ティムシェル」という言葉があって、これは、「汝 罪を治めることを能う」という風に解釈できるという話だったと思う。そうなると、人には原罪を克服する力がそもそも備わっており、そうする努力は決して無駄ではないと言うことなのか。

う〜ん、そうか。

しかし、キャラクターは良く書かれています。映画では、キャルを「ジェームス・ディーン」をやったのかな?だとしたら、キャルは、色黒で髪の毛は黒じゃなかっか、目つき鋭い野卑な感じで狡賢いというキャラクターだから、ジェームス・ディーンはミスキャストなんじゃないか?まだ、見ていない映画なので、見てみたい。

ボクが配役を決めるのなら・・・

チャールズは、メル・ギブソン

アダムは、バート・ランカスター

キャシーは、ニコール・キッドマン

アロンとキャルは、リバー・フェニックスとホアキン・フェニックスの兄弟で

こんな配役で見てみたいものですな。

最近、新訳の文庫本が発刊されたようで、こちらは、訳が読みやすいらしいので、こちらを購入するか図書館で借りることをお勧めしますよ。

いやあ、久しぶりにながいの読んだわ。

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2008年04月05日

ペット・サウンズ ジム・フーリ著

「これは実に実に偉大な曲だ」とポール・マッカートニーは言った。「ぼくはこの曲がたまらなく好きだ。」

「ペット・サウンズ」の中の「神様しか知らない」のこと。

ロック史上初めてのコンセプト・アルバムビートルズの「ラバー・ソール」に刺激を受けたブライアン・ウィルソンが、自分の頭の中になっている音楽を完璧に再現して出来たアルバムが、この「ペット・サウンズ」だ。

いやはや、素晴らしいアルバムだ。ロックCDの中から1枚選べと言われれば、1週間くらい悩んだ末、このアルバムを選ぶと思う。空前絶後。もう2度とこの基準を超える音楽は、生まれないとさえ思う。

高校生の頃、このアルバムを買ったけれど、何が良いのか途方に暮れた覚えがある。世評も、悪く、一般的に軽んじられてきた作品だった。ローリングストーン誌のレコード評も星3つ。デーブ・マーシュという優れた評論家が下した結論だ。曰く「サージェント・ペパー」の真似をブライアンがしたことに間違いがあった」と。事実は、その逆なのだが。

しかし、聞き続けて30年近く。徐々に、雨のしずくが岩に穴を穿つがごとく、徐々にぼくの中に独自の位置を占めるようなそんな存在になってきたのが、このアルバムだ。

この本を読み終えてから、3日間。我が家で、ジョギング中、仕事中、この「ペット・サウンズ」が鳴り響いている。

ぼくの持っているボックスセット「The Pet Sounds Sessions」は、4枚のCDが入っていて、ステレオバージョンの他、演奏のセッションと、声のみのトラックと、別バージョンの曲が入っていて、それを繰り返して聴いていると、いろいろな発見があって、とてつもなく面白い。

こんな風にぼくは、ペットサウンズを考える。この音楽は、人を選ぶのだと思う。誰が聞いても楽しいものではないかもしれない。たいていの優れた作品と同様、辛抱強く何度も聞くことによって、心の底に音が届くようになると、もう、この音楽なしでいることが出来なくなるような作品なのだ。

とにかく、聞けば聞くほど理解が深まり、時に詩の一節に感極まって、心が震える事があるのだ、30年も聞き続けているのに!

1966年5月に、ブルース・ジョンストンが出来たばかりのアセテート盤をロンドンへ持って行った。ザ・フーのキース・ムーンがこのアルバムを偉く気に入って、何人かの人にコンタクトを取った。レノン、マッカートニーがホテルにやってきて、何度か、それを聞いた。二人は、言葉を失っていた。世間向きのクールでちゃらちゃらしたペルソナをかなぐり捨てて、その音楽を子細に検討しているのを、ブルースは目撃したそうである。

そうして出来たのが、「サージェント・ペパー」だったのだが、この最後に出てくる訳の分からない音は、「ペットサウンズ」に対する敬意を表しているものとされている。

「ペッパー」がレノン・マッカトニーのコラージュ的編集技術とスタジオワークの見事な結晶だとすれば、「ペット」は、ブライアン個人の頭の中に鳴り響いている音の具現化といったところだろうか。なんと、ブライアンの頭の中では、素晴らしい音楽が当時鳴り響いていたことか。

村上春樹の訳は、相変わらず素晴らしく、何たって、自身の作品に「ダンスダンスダンス」なんて題を使う程のフリークだもの、楽しんで訳したのではないでしょうか。しかし、あの名作「神のみぞ知る」の訳が、

いかなるときにも、君を愛するとは、いいきれないかもね。

というのは、いかがなものか。先日読んだ、「村上ソングス」の中にもこの訳が載っていたけれど。この、「かもね」というところが、妙にひっかかる。

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2008年03月24日

カインド・オブ・ブルーの真実 アシュリー・カーン著

何はなくとも、「カインド・オブ・ブルー」である。最も有名なジャズアルバムが、この1959年3月2日と、4月22日に、ニューヨークのエンパイア・ステートビルの近くにある30丁目スタジオで録音された。その詳細なデータを、マスターテープの音源を再現しながら、纏めたのがこの本。

何はなくとも、A面1曲目の「So what」である。

ポール・チェンバースのベースとビル・エバンスの彩り鮮やかな軽いタッチのピアノが作り出すプレリュード。ここで、心の準備を整える。そして、次にチェンバースのベースが高らかにマントラのような至高の8音を紡ぎ出し、「Soooooo what!」の2音が続く。

やがて、マイルス御大のトランペットが入り込むが、その直前、必殺のジミー・コブのシンバルが1回だけたたき込まれる。まあ、ここでたまらず鼻血が出るところ。

中低音を強調したマイルスの旋律は、「春冬山水図」を制作中の雪舟もかくありや、とうほどの緊張感でリリシズムが絞り出すかのようだ。失敗は許されない、二度と生まれない、アドリブ。こちらの手のひらにも汗がにじむ。

で、次に登場するのが、怒濤のコルトレーンのテナーとアダレーのアルトだ。太いタッチで油絵の具を一インチも違わず筆を運んでいくという風情で、彼らだけの出来る絵画を音で作ってみせる。上下に浮かれて気持ちよさそうに吹いているのが、アダレーだ。どんな絵を書いていたのだろう。

ビル・エバンスのソロは、ドビッシーのような繊細な音で、絵で言うと水彩画のようなものだ。どこまでも、ピュアーでイノセンスな音を目を閉じて追い続けると、テナーの音で目が覚めた後、知らぬ間に優美で幽玄な小径を逍遙している自分に気がつく。

そして、また最初の8音に戻って、静かに消えていく。

ああ、素晴らしい。どうしたら、こんな素晴らしい音楽が生まれるのだろう。

という秘密を解き明かすのが、この本。でも、いくら記録を集めてきても、そんな秘密は、明かされないのだ。当たり前だけれど。

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2008年03月21日

ナチュラルスタイルの私らしい暮らし

この雑誌の中のどこかに、我が家の台所が隠れている・・・。謎。

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村上ソングス 村上春樹 和田誠著

グレン・キャンベル(Glen Campbell )の名を初めて知ったのは、多分、「銀座ナウ」という番組の提供会社であるコカ・コーラのコマーシャルの中だ。ベスパを乗り回す若い男女が、ハワイのような海あり山ありのワインディング・ロードを走っているところに、「Come home me to my brother♪♪」という歌が流れて、演奏・歌 グレン・キャンベルと出ていたような気がするのだが、どうだろう。

その後、バーズの「ミスター・タンブリンマン」のイントロの12弦ギターがこのグレン・キャンベルで、その当時は、スタジオからスタジオへとギター1本抱えて、歩き回るミュージシャンだったというのを知って、そのギター演奏の神髄に触れようとして、ベスト盤をLPで買ったのは、中学2年生くらいか。

だけど、当時 のボクは、ディラン・バンド・ストーンズ・ジミヘンという音楽に夢中で、ロビー・ロバートソンのギターのように金属音を出すには、こうするんだぜ!なんて言う風に、ギターを弾いてみたものの、周りには、「あっ、そう」くらいにしか受けとめれれず、今も昔も、寂しい、周りのヒット曲とは、外れた視野狭窄なロックフアンだったので、こういうポップカントリーな曲は、クールではなく、ちょっと気恥ずかしい思いをしていたのだ。ギターもほとんど聞こえなかったし。

だけど、その中で、「ジェントル・オン・マイ・マインド」と「恋はフェニックス」、そして「ガルベストン」という曲は、大いに気に入っていたけれど、周りの奴らとキャンベル叔父さんの話をして大いに盛り上がるという事はなくて、寂しい思いをしたものだ(クイーンにキッスにアバが幅をきかせていた時代だったので。

いつの時代にもマイノリティというのは、敏感であり、片岡義男の「気まぐれ飛行船」で「ジェントル・オン・マイ・マインド」がかかったときには、ま・さ・か・と、よく覚えているし、たしか、アン・タイラーの小説「ブリージング・レッスン」だったか、「あの頃私たちは大人だった」だったか、で、カーラジオから「恋はフェニックス」が流れたという描写をそれこそ、ドキドキしながら読んだことをよく覚えているわけだ。

そして、「ガルベストン」。

「村上ソングス」村上春樹・和田誠著をぱらぱらと読んでいたら、出てきましたよ、「ガルベストン」が。この本は、村上春樹が歌の詩を訳して、それに関するエッセイを書いているもの。発売日に、ぱらぱらとめくって、この「ガルベストン」が目に入ったときは、正直嬉しかった。ようやく、グレン・キャンベルのことを話し合える友人にあったような気がして・・・。

初っぱなの曲がブライアン・ウィルソンの「神のみぞ知る」から始まるのがとてもいい。そうそう、「死ぬ前にしたい10のこと」でサラ・ポーリーが、台所で歌ってましたね。よく覚えています。そして、ラブ・アクチュアリーという映画の最後にも使われていましたね。

あと、ボクの大好きなライ・クーダーの失敗作だと考えられている「ゲット・リズム」の中から「Going back to Okinawa」が紹介されていたり、最近、ジョグ用によく聞いたいるシェリル・クロウの「All I wanna do」が扱われていて、十分楽しめました。

3分の2くらいCDでもっているんで、暇なときにこの順番でMP3化してみようかしらん。

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2008年03月20日

いのちのレッスン 新藤兼人著

いつの頃からか、生きていくことが、楽しいことではなく、辛さの上に成り立っているという実感がひりひりと胸に感じる頃がやってくる。何があったわけではないけれど、ふとそんなことを実感する時期が必ずやってくる。

そんな時、自分より年長者に対し、自分よりもながいこと、このどうにもならない人生というものを積み上げているという事実にたいして、頭を垂れるような謙虚な姿勢が自分に出来る。

この本の著者の新藤兼人は、もちろん単なる年長者ではなくて、映画監督・脚本家として、映画史に残る作品を残しているし、現在最高齢の現役監督(今年97才!)でもある。勿論、自分の2倍以上の人生を生きているという事実だけで、尊敬するという意味ではなく、なにか、この本を読んでいると、こちらが謙虚な気持ちになり、そのメッセージが直接心の中にすんなりと入り込んでくるのだ。

どの章を読んでも、嘘のない、誠実な切ったら血の出るような文章だ。始終、読んでいる間中、枯れた心が水を求めるように、文書を貪り読んだ体験は、久しぶりのことだ。曖昧に感じていたが形にはなっていなかったイメージの塊が、この90を越える人生の大先輩の言葉を通じて、外に出てきて、形をなして頭の中に定着する。

こんな風に、心の中を鍬鋤で耕されると、掘り起こされた心の断面が地表に現れて、生まれ変わったような気分になる。

ああ、得したなあ。監督の脚本や映画も素晴らしいけれど、本でも感動を与えてくれました。

詳しい内容は、http://seisoushobou.com/book/nonfiction/nonfiction01_01/

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2008年03月19日

名盤の裏側 デレク&ドミノス インサイド・ストーリー ジャン・レイド著

デュエイン・オールマンの頭の中に、「レイラ」の最初の7音が閃いたときに、この曲を含む「レイラ」というアルバムは、間違いなく人類の至宝とも言うべきものになったに違いない。

そんなアルバムを作り得た5名のミュージシャン、デュエイン・オールマン、ボビー・ウィットロック、カール・レイドル、ジム・ゴードン、そして、エリック・クラプトンが「デレク&ドミノス」という交差点ですれ違い、そして、去っていくまでの物語が描かれている。

真新しい情報はあまりなかったけれど、断片的に知っている知識を整理するには、良い本。音楽的にも、異性にも、変わり身の早いエリック・クラプトンを知ることが出来る。

以下の5枚のアルバムを持っている貴兄には、知っている事ばかりかも知れないけれど、こんなアルバムを引っ張り出してきて聞きながら、本書を読むと、音楽鑑賞に深みが出てくる。まあ、ロックを聞くもののたしなみとして、是非。

デラニー&ボニー&フレンズ「オン・ツアー・ウイズ・エリッククラプトン」

ザ・バンド「ミュージック・フローム・ビッグピンク」

ジョージ・ハリスン「オール・シング・マスト・パス」

デュエイン・オールマン 「アンソロジー VOL1」

そして、デレク&ドミノス「レイラ」

本の中で、へぇ〜と思ったこと。

・クリーム時代にジミ・ヘンドリックスに出会ったとき、リズム・ギターとソロとを同時に弾くことが出来たのにぶっ飛んだそうだ。

・そのリスペクトとして、ジミの「リトル・ウイング」をアルバムの中で演奏し、そのテープと左利き用のストラトキャスターを、イギリスにやって来たジミに手渡そうとしたが、出来なかった。その日、ジミは、風呂場で窒息死していたから。

・デュエイン・オールマンの代わりに、本来は、ディブ・メイソンが、ドラマーとしては、ジム・ゴードンの代わりに、ジム・ケルトナーが考えられていた。二人とも予定が付かずに、、仮に、メイソンとケルトナーが入っていたら、多分、オールシング・マスト・パスのLPでいうと3枚目のB面のような冗長な演奏になったような気がする。

・「レイラ」の後半、ピアノの演奏は、ジム・ゴードンと当時つきあっていたリタ・クーリッジが、どちらが下手糞に演奏できるか戯れに演奏していたのを、クラプトンが覚えていて、くっつけたもの。このお陰で、ジム・ゴードンには、莫大な印税が入ったのだが、リタ・クーリッジの名はクレジットされていない。

・ジム・ゴードンの最後は悲惨だ。強度の分裂症にかかり、ボブ・ディランからの「スロー・トレイン・カミングス」のドラマーとしてのオファーがあったとき、母親の声が「止めろ」と命じてしまう。そうこうしているうちにポール・アンカからのオファーも同様に母親の声に阻止されてしまう。「邪魔しやがって、母親を殺してやる!」と、母親に金槌で頭を3回たたき割り、ナイフで3度刺し、ナイフは胸に挿されたままだったという。刑期16年から無期と判決されたが、二度と社会には出てこられる見込みはないそうである。

・最後の曲「庭の木」は、ボビー・ウィットロックの名曲だけど、レオン・ラッセルの大邸宅で、訳あって飼い猫を捨てさせられたときの悲しい気持ちを書きためたものであった。

・クラプトンの夢が「生涯1000人の女と寝ること」「世界一のギタリストになること」というもの。

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2008年03月17日

「生きることを学んだ本」からのブックリスト

伸び支度 島崎藤村

よだかの星 宮沢賢治   3/21 読了 (悲しみの塊となって生き返って星になった夜鷹。悲しい話)

顔の中の赤い月 野間宏

ひとよ草 幸田露伴

生物祭 伊藤整

春先の風 中野重治

小さな王国 谷崎潤一郎

狐 永井荷風

赤蛙 島木健作

二銭銅貨 黒島伝治 3/21読了 (生きていることのかけがえのなさ。失って初めて浮かび上がってくる生の愛しさ。ぐっと来る)

セメント樽の中の手紙 葉山嘉樹

風と光と二十の私と 坂口安吾 3/21読了 (ボクの憧れ、安吾のような先生に出会えていたらなあと思う。たしかに、少年より青年になるある時期、大人より老成することがある。)

ナポレオンと田虫 横光利一

火を点ずる 小川未明

蜆 梅崎春生

重右衛門の最後 田山花袋

以上 「生きることを学んだ本」 高史明(コサミョン)著から未読の本のリスト

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2008年03月13日

「散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官 栗林忠道」 梯(かけはし)久美子著

調べてみたら、昨年の5月19日に「硫黄島からの手紙」を文芸座で見ている。クリント・イーストウッド監督の素晴らしい作品だった。10年に1度の作品といったら言い過ぎか?

そして、ずっと気になっていた「散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官 栗林忠道」 梯(かけはし)久美子著を読んでみた。

映画の中では、渡辺謙が演じた栗林忠道中将は、過酷な運命に真っ正面から対峙し、自分の役割をはっきりと認識して、その役割を果たすのに、最も効果的で実際的な方法を合理的に編み出して、用意周到に決戦の準備をし、結局は、本土決戦の捨て石として大本営からは見捨てられるにもかかわらず、冷徹な目を持って作戦を敢行した指揮官であった。

自ら島を観察し、最も効果的で合理的な戦いの方法を編み出して、絶望的な状況では、生きる地獄よりもバンザイ突撃をして玉砕することの方が楽と思う兵士も多いらしく、そうした事例がたくさんあったそうだけれども、そうした「死」を厳に戒め、そうした「無駄」な死をさせることなく指揮した。

サイパン陥落後、そのサイパンと本土のちょうど中間地点にある硫黄島が陥落すれば、ここを出発点として、本土に何度でも爆撃が可能になる、そして、この地を守り抜くことができれば、それだけ本土空襲を少しでも減らすことが出来るという意味合いにおいて、兵士に意味のある「死」をもたらすために、バンザイ突撃、将校は後方で切腹という、玉砕という美しい言葉で括ることを許さなかったのである。

自分の良心に従い、冷静に戦局を見極め、結局は、捨て石にされ見捨てられ後方支援も全くない状況にあって、大本営に対する批判の電報を、用意周到に大本営に直接訴えても黙殺されるばかりと思って、信頼する自分教官宛にも送っている。こうした凄惨な戦闘を余儀なくされている時に、抜かりなく行動に起こせるところに驚く。

平時にあっても、会社やら組織やら家族やらにもたれかかるのではなく、自分を見失うことなく、信念を持って自分らしく生きるという、ごく普通の人間性というものを保つのはとても難しいものだ。しかし、戦場という究極の生き地獄のなかにあっても、そうした生き方を貫いた人間がいたということは、私を元気づけさせてくれる。その姿は、硫黄島で敗者として無念のうちに散ったという姿は思い浮かばず、持てる力をすべて出し切って、実りのある生を存分に生きた自由人として心に刻み込まれたのだ。風通しがよく、自然体で、いかなる誹謗中傷も跳ね返すような、凛とした風体が浮かび上がってくる。

3日で陥落と思われた硫黄島を数ヶ月にわたって死守するという偉業を成し遂げた軍人というよりも、人が人として生きるに値する価値観を最後まで失わなかった希有な人として心に残っていくだろう。

そんな風に思わせるのも、著者である梯久美子さんのセンチメンタリズムを排した理性的な文体と、おそらく第1級の資料である「手紙」を基に、その他沢山の資料と調査によるものが多いだろう。

間違いなく傑作。次作が楽しみ。

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2008年03月07日

ふるさとは貧民窟(スラム)なりき(ちくま文庫) 小板橋二郎著

読んでも読んでも無くならない「未読本、積読本」在庫。全部読み通すのは、絶対無理。だが、ガシガシ読んでいこう!

この本、前々から気にはなっていた。舞台が板橋区の岩の坂。旧中山道の板橋は「縁切り榎」の近くにあったというから、何度かそのあたりを通ったこともあったのだ。

貧民窟というのも、ボクが小学生のころでも、確かにあった。友人と自転車で走っていたら、ムシロをドアにした掘っ立て小屋のような家に家族が何人も生活しているような住宅群、突然そんな所に入り込んでしまって、見たことのない風景に唖然としてしまったことがある。今では、見晴らしのよい公園になっている。

そういえば、「修羅雪姫 怨み恋歌」という藤田敏八監督、梶芽衣子主演の映画でも、スラム街が舞台だった。同潤会アパートも、貧民窟を排除するために取って代わられたものだったというような、アナウンスが冒頭にあって、なるほど、と思ったのだった。

著者は、スラム街の木賃宿で育ったわけだが、映画を見てうり二つの光景に出会ったことが2度あり、その一つが、「どん底」の最初の場面。たしか、平家の大きなつくりの家屋で、間口は一つ、屋根の上には、吹き飛ばされないように石が置いてあるとても良く燃えそうな木ばかりで出来ている家、という印象があるのだけれど、こんど、もう一度、「どん底」を見てみよう。

その著者が、2度目の東京大空襲でスラム街が灰燼に帰し、一人で生計を立てていくまでを回想して書いたのがこの本。

スラムに関して、必要以上の興味を示して、異常に怖がるのは、インテリ層に多いらしいという指摘は、そこを揺籃として育った著者だから言える発言だろう。

貧しさが故の切ない話もあるけれど、石屋の頭領で無頼な生活をしている木賃宿の主人やら、梅毒で鼻がもげてしまった「ハフハフおばさん」、博徒、パンパンになってしまう心の優しい美しい幼なじみやら、出てくる登場人物を時には、ユーモラスに描いているので、あっという間に通読。

戦中のスラム街の暮らしは、皆が零落はしているものの、そこはかとないヒューマニズムのようなものがかいま見られて、おおらかに書かれているけれど、戦後の食料の欠乏は、本当に辛そうだ。なかでも、戦争孤児と呼ばれる両親を失った子供達の哀れさといったらない。

最大の悲惨は、戦争に国民が巻き込まれること。

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2008年03月06日

小川未明童話集

35年ぶりくらい?で「赤いろうそくと人魚」で有名な小川未明の童話を読んでみた。

やはり、「赤いろうそくと人魚」は完成度が高い。ボクの気に入った話は、「野バラ」「月夜と眼鏡」「月とアザラシ」「金の輪」といったところだろうか。

赤いろうそくと人魚の冒頭は、

人魚は、南の方の海にばかり住んでいるのではありません。

最後は、

幾年も経たずして、その麓の町はほろびて、滅(な)くなってしまいました。

と締めくくられる話。そこに、「赤いろうそくと人魚」という表題を持ってくると、哀しい話ができあがる。

これらの童話を読んでいるとき、しばしば、なんでもないけれど、少しだけ、つじつまが合わない、なんだか、懐かしい風景や人々が出てくる夢を見ているような気がする。それは、無垢で、あらゆる感情を結晶化して、静謐の世界を形作っているようだ。

小学生の頃初めて読んだ感覚もそんな感覚を感じていたような気がする。その世界が、あまりにも静かで清潔な世界だったので、陰気で、拒絶されたような気がして、なんとなく、怖い感じがした。

「金の輪」なんて、まさにそう。あちらの世界が、ふとこちらの世界に陽炎のように現れてくる世界。あんな風に、あちらの世界に、引っ張られていってしまうのか、と。

綺麗な言葉とは、こういうようなものだ、というほど、洗練されている文章で構成されている。現代の童話って読んだこと無いけれど、こういう文章に子供の頃に出会えて、ボクも運がよかったなあ、と思う。


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2008年02月29日

「ペット・サウンズ」「ティファニーで朝食を」「ナイン・ストーリーズ」

昨晩、仕事帰りに本屋で、村上春樹訳の「ペット・サウンズ」をパラパラと立ち読み。このビーチボーイズのアルバムを初めて聴いたのは、高校生のころか。最初は、とても、取っつきにくい感じがして、あまり聞かなかったけれど、ターンテーブルで、何度も聞いている内に、だんだんと気に入るようになって、今じゃ、何故か春に聞く定番アルバムになってしまって、夏秋冬もよく聞くし、これなしでは、いられない無人島へは絶対に持って行くであらうアルバムになってしまった。

ちなみに、1980年くらいにRollingstone誌のレコードガイドでは、3つ星程度の評価しかされていなかったような気がするのに、つい2,3年前の同誌のもっとも偉大なアルバムの中の2位(1位はビートルズのSPLHCB、そして3位は、ボブ・ディランのHighway61 revisited)にランクされていて、ここ20年くらいの間に、評価が急激に上がったアルバムである。

昭和57年に発行された「ローリングストーンレコードガイド」を繙いて調べてみたら、三つ星(五つ星が最高)。

<pet sounds>は、商業的な意味での初めての失敗作だった。その主な原因は、ビートルズが<Sgt.Pepper>でやってのけたようなような試みを、ほとんどそれと同じような形でやろうとしたことにあった。その音楽はつい印象を与えるが、むらがある。

と当時ローリングストーン誌で活躍していたデイヴ・マーシュ(あの、ブルース・スプリングスティーンの伝記の名作「明日なき暴走」の著者でも有名)が書いているくらい過小評価されていた作品だったのだ。

それが、1992年版の「Rolligstone album guide」では、五つ星で、できるべきしてできた傑作アルバムと手放しの褒めようだ。

不毛の80年を経過して、人の見る目が変わったからなのか?

この1966年は、様々なスタジオにロックの神様が降りてきて、乗り移ったとしか言いようのないアルバムがたくさんある。65,66,67,68年という年に制作されたアルバムだけで、十分満足できる素晴らしい物が目白押しなのである。

 

そして、今日、村上春樹役のカポーティの「ティファニーで朝食を」が店頭に並べられた。これは、学生時代、物好きな友人数名でペーパーバックで精読した思い出のある本。キーワードは、「mean red」という語。この訳しづらい言葉をどんな風に訳しているのか、興味津々だったので、パラパラとめくっていった。

村上役では、「いやったらしい赤」となっていて、その前後のホリー・ゴライトリーとナレーターとの会話をざ〜っと読んでみて、なんて上手い訳なんだろうと感心した。村上役では、チャンドラーの「ロング・グットバイ」で、痺れさせて貰ったけれど、この訳もいけそう。買うには、1200円は高いかな?図書館で待つべし。

と、村上春樹は、訳者としても相当な腕前なのだが、どうもぴんと来なかったのが、「ライ麦畑でつかまえて」。やはり、野崎孝訳で慣れちゃっているからねえ。今回は、この野崎孝訳の「ナイン・ストーリーズ」を読んでみる。

まず、9つの短編のタイトルを読んで貰いたい。

1 バナナフィッシュにうってつけの日 2 コネティカットのひょこひょこおじさん 3 対エスキモー戦争の前夜 4 笑い男 5 小舟のほとりで 6 エズミに捧ぐ 愛と汚辱のうちに 7 愛らしき口もと目は緑 8 ド・ドーミエ=スミスの青の時代 9 テディ

1,2,3,4,8なんて、村上春樹がタイトルとして今でも使いそうだし、7なんか、片岡義男的かな?

20数年ぶりに読み通してみたのだが、全く持って古くさくはなく、都会的で知的な会話に一緒におしゃべりをしているような気分にさせられ、物事が落ち着くところに落ち着くと思わせる微妙で繊細なあたりにふわりと着地させるような物語の進行の巧みさに、ただただ驚く。

禅の公案 両手の鳴る音は知る。片手の鳴る音はいかに?というのが冒頭に書かれてあるとおり、シュールな「バナナフィッシュ」に始まり、東洋哲学的唯心論を語る天才少年「テディ」に終わる物語となっており、「ペット・サウンズ」の曲の繋がりのように、この位置を変えることは、物語全体を損なうことになるのではないかというほど、きっちりと読んでいて気持ちの良い物語の配列になっている。

また、最後の「テディ」の成長し、先頭の「バナナフィッシュにうってつけの日」にシーモアとして登場し、物語の最後で7.65ミリ口径のオルトギーズ自動拳銃で、右のこめかみを打ち抜く・・・という9つの話が回転するような形式になっているような(ちょうど、ボブ・ディランの「見張り塔からずっと」のように)気もする。

禅の公案のように、論理を追っていくと、なかなか真実にたどり着けないような話ばかりなのだが、ありのままに物語を読んでいくと、なんとも楽しい話なのだ。腑に落ちるか落ちないかは別として。

一番有名なのは、1,4かな。4は、たしか、大学の英文購読の教科書に入っていたような気がする。4が、一番古典的な筋らしい筋がある話だろうか。

「ライ麦畑」のよき愛読者が、レーガンを狙撃し、ジョン・レノンを暗殺した訳だけれど、こういうカルトの臭いがプンプンとするのが、このサリンジャーかな。

ホールデン・コールフィールドは、これまた、長い名前のデビッド・カッパーフィールドの反パロディという気がするけれど、後者のように、世界と対峙するのではなく、物事を好き嫌いの2極に分けて(phonyか否か)行く内に、どんどん世界が狭くなって、世界が最終的に消え去って、留まるべき場所も無くなってしまった、というお話。感性の鋭いときに読むと、不思議な電波をキャッチしかねないそんな本だった。

そんな風に感じて、この「ナイン・ストーリーズ」を読み終えた。また、きっと読むだろうなあ。このシーモアを巡るグラース家のお話を、メモを取りながら、「フラニーとゾーイ」「シーモア序章」「1924年ハプワース16日」を読んで、纏めて読んでみたい気分が半分ぐらいあるけれど・・・。


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2008年02月28日

庄野潤三「静物」他

村上春樹の「若い読者のための短編小説案内」という本を、手にとって、目次をパラパラとめくってみた。

@吉行淳之介「水の畔り」

A小島信夫「馬」

B安岡章太郎「ガラスの靴」

C庄野潤三「静物」

D丸谷才一「樹影譚」

E長谷川四郎「阿久正の話」

という有名?な短編小説についてのアメリカの大学での講義を書き下したもののようだ。

@を除いて、すべて読んだことがあったけれど、どれも印象が薄い。もう一度読み直してみた(@は、文庫本で入手できない)。

CEは、何を言いたいのか、テーマ性を求めるとしっぺ返しを食らう。日常性に潜む陥穽を描いたのだろうが、一筋縄ではいかない。何かを書こうと思うと、するりと逃げてしまうような不思議な小説。ただただ、平凡な家族の描写が続くのだが、段落の終わりに、ハッとするような一文(妻が自殺未遂を起こしたことを臭わせるような文章)が、ちょろっと書かれていたりして、そこで、読んでいるこちらの呼吸が荒くなったりする。無茶苦茶文章が美味いので、ため息が出ますな。こんな文章は、絶対書けませぬ。

Aは、これぞ現代小説というような話で、詳しく書いたらとても疲れそうなので、簡単に書くと、書きたいことを文章にしたらこんな小説になりましたという、創作した後がくっきりをわかるような、まさに、フィクション。

端から冷静に見れば、登場人物は、ビョウキか、つきあいたくないヤツばかり。ちょっと考えられない物語の流れを不自然に思うけれども、その引っかかるところが、アクセントになって、なんともいえない魅力がある小説だ。

春の野草の魅力は、その苦みやえぐみが魅力的だという意味で、その味に慣れたものは、その独特の風味がない野草なんて食べたくもないだろう。そんな意味で、こういう小説が気に入るようになると、一皮むけたような気になる。小島信夫は、変な小説が多いですね。「抱擁家族」という名作も含めて、もう一度一挙に読んでしまいたい。

で、この中で、どれが気に入ったかというと、Cの「静物」だ。ほとんど、味のついていない「おすまし」をいただいているようで、こちらの舌の味蕾を最大限敏感にして味を感じなければいけないような小説なのだが、そうやって読むこと、行間に書かれている著者の息づかいを感じながら読む行為が、快楽となってしまう。

難しい言葉一切なし。ストーリーの流れもほとんど無し。ただ、なんとも読んでいるときに気持ちがいいという小説は、他にはない。

これから、何回か、読むだろうなあ。昔読んだときには、そんな感慨もありませんでした。

さて、読んだ後に、村上春樹の「若い読者のための短編小説案内」を楽しく読み終えましたが、目から鱗とはならず、そんな読み方もあるのかなといった印象をもった。やはり、村上春樹は、生来の小説家・翻訳家で、こうした講義調の文章を書くのは、ちょっと違和感がありますね。

「ペットサウンド」と「ティファニーで朝食を」の村上春樹の翻訳本が近々出版されるようなので、これは、要チェック。なにか、私の大好きなアメリか小説が氏によって、訳されるのがとても嬉しい。次は、ケルアックの「ダルマ・バムズ」か、フィリップ・ロスの「さよならコロンバス」あたりを訳してくれれば、満足なのだが・・・。

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2008年02月18日

志賀直哉 「城の崎にて」3

着眼点というのだろうか、興味を持っているものを察知しようと、アンテナを張り巡らして歩いていると、 自分の知りたかったものがやたら目につくようになる。

人が、いかに、知りたいものだけを見、知りたくないものは見ていないかがよくわかる。

いったん、こういう興味が心に芽生えると、人間の情報処理能力とは、たいしたもので、独りでに情報の方から、 我々の方に耳寄りな情報を伝えに来ることが多々あるようだ。

そういえば、禁煙地獄で苦しんだ最初の1週間。夜の自動販売機の蛍光灯の光が、 目に飛び込んできて眩しすぎて直視できなかったモンなあ。

それと同じように、図書館でプラプラしていたら、偶然、マーク・ピーターセン著の「英語で発見した日本の文学」光文社、 を手にとってパラパラめくっていたら、第2章「城の崎にて」を英文解釈する・という章に出くわした。

 

ひょんな事から、「城の崎にて」を英訳しようとした著者が、悩んだ箇所を丁寧に説明している。

例えば、「自分の心には、なにか、死に対する親しみがおこっていた。」を

It had somehow or other developed an affinity with death.と訳していて、

@サイデンスティッカーのintimate with death.

やAシブリーのfriendly with death

の訳が、@は、死に親しすぎるのではないか、セックスの臭いが入ってしまう、Aは、陽気すぎる、と意見している。

同感。

 

「静かだった」という箇所は、peacefulという単語で表していたり、

ちなみに、Cobuild English Dictionaryで、peacefulを引いてみると

A peacefull place is quiet and calm,and free from disturbance

となっており、死に対して親しみを感じた主人公が感じる静けさというのは、こういったものなのだろうと、日本語の勉強にもなるし、 英語の勉強にもなった。

 

そうそう、前回の「城の崎にて」2で、書いたように、風も吹かないのに「ある一つの葉だけがヒラヒラヒラ」動いていて、風が吹いたら、 動かなくなった葉に対して、「原因は知れた。」とだけ書いている場面は、ボクの「謎」だった。

この小説が世に出た当時も、多くの読者が疑問に思ったのだそうだが、当の志賀直哉は、みんな知っていると思って、驚いたそうだ。

これまた、他の評論家(本多秋五)の一つの解釈が本の中に書かれているのだが、さあ、一体どうしてでしょう?そう来たか、 と思ったけれど、半分はあたっているのかなというのが、正直な気持ち。

大岡昇平の「野火」の中でも、同じような内容の表現が出てきたはず(花ですけれどね)。大岡昇平も、 この小説を意識していたに違いない。

しかし、この小説は、噛めば噛むほど味が出る小説ですね。いろいろな角度から味わうことが出来る。素晴らしい作品というのは、 こういうものなのかも。ちなみに、谷崎潤一郎の「文章読本」のなかでも、この「城の崎にて」を褒めている。

巻末に、[At Kinosaki]という英訳版が掲載されていて、「城の崎にて」フアンなら、 読んでみてください。一つ、この小説の深みがわかったような気になります。

 

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2008年02月15日

安部公房 「赤い繭」

男は、家と家との間の狭い割れ目をゆっくりと歩き続ける。「町中にこんなに沢山の家が並んでいるのに、 俺の家が一軒もないのは何故だろう」と繰り返しながら。ひょっしたら、偶然通りかけたこの家は、自分の家ではないか?ドアを叩いて、 ひょうっとすると、この家は、自分の家ではないかと、出てきた親切そうな女に聞いてみる。拒絶。日が暮れても、男は歩き続ける。ふと、 足元を見ると、絹の糸のようなものがからみついている。たぐり寄せていくと、自分の足が消えていく。どんどん自分の体が消えていく。 そのうち、糸自体が自分でほぐれていき、男の体は、消えてしまい、そこには、大きな空っぽの繭が出来ていた。だが、男は嘆く。 繭という家が出来たが、今度は、帰って行く俺がいない・・・。

日本人離れした乾いた感覚。徹底的な拒絶と疎外。ちょっと、安部公房でなければ、こういう小説は書けないのではないか。 つくづく感心してしまう。

安部公房の小説は、読む人を不安がらせる。それは、人間の根源にあたる部分に痛烈な打撃を与えて、足下を揺らすからだ。ムンクに、 「思春期」というのと、「叫び」という二つの有名な絵があるけれど、思春期に特有な未来に対する不安を描いたのが「思春期」だとすれば、 後者は、根源的な不安・疎外・拒絶を描いたものと言えるだろう。あきらかに、違った種類の不安。将来に対するものでもなく、そこにある不安。 安部公房の小説は、後者に近い。

「何故私が私で、他の誰かではないのだろう?」

「たまたま、自分は、この自分の体の中に自己意識があるだけで、どうして、他の誰かではなかったのか?」

こんな疑問に子供の頃捉えられて、不思議な感じを覚えた人は、結構多いだろうけれど、この短編を読んだら、蘇ってきた。 世界全体の秩序が崩落していくような感覚。不安。不思議さ。

この男が、どうして自分だけ家がないのかという問いは、こうした根源的な問いに近いのだろう。だから、不思議でしょうがない。 根を詰めて何万遍も反芻していると、文字を見続けていると、それが違ったような文字に見えるような、なにか、 世界が間違っているような気がしてくる。

繭という家が完成したら、今度は、そこにいるべき自分が消滅していたというあたり、寓話として面白い。例えば、 住宅ローンで自己破産した大勢の経済難民や、ローンを払い終わってみたら、今度は、自分を失っていた事に気づいた多くのサラリーマン。 主客の逆転。

荒涼とした住宅街をあるくと、いつも、この話を思い出す。

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2008年02月14日

トロッコ・野菊の墓・静物など。

志賀直哉の「城の崎にて」から始まった、「もう一度読まずに死ねるか!」シリーズ。

恥ずかしながら、芥川龍之介の「蜘蛛の糸・杜子春・魔術・蜜柑・トロッコ」といった少年少女用の小説を読み返してみて、 その話の展開の素早さ、落ちの切れ味の鋭さなどを、堪能して読み終えた。芥川龍之介の文体は、まだまだ古びておらず、 まだ賞味期限内のものだというのを再確認した。上記の話し、とても有名な話しですよね。蜘蛛の糸は、中学生くらいの教科書に載っていたかな、 トロッコは、小学生高学年くらいか。

「トロッコ」の後半部分、遠くに来てしまって、あたりは夕闇が迫ってきて、頼りにならない大人に、 もう家へ帰れと言われたところからの、少年のトロッコの軌道を走るその疾走感は、見事で、思わず、100%その話の中に入り込んでしまって、 しばし時の経つのも忘れて読み言ってしまうなんざ、さすが芥川龍之介じゃと、感心しきり。精読して、どうして、 そういったスピード感が出ているんだろうと、何度も読み返したけれど、その謎は解けず。芸術というのは、魔法だ。

不安と緊張のあまり、涙がこみ上げてきて、鼻がクックックッと鳴ってしまうというあたり、そう、つい4,5年前、 青梅の山の中で道を間違って、途方に暮れていたときの自分がまさにそんな感じだった。そうそう、その時、 このあたりの描写を思い出したと思う。小説を読んで、多様な情操ができあがるというのも読書の効用かもな。まあ、それだからといって、 実用に耐えられるものではないけれど。

ついで、伊藤左千夫の「野菊の墓」を、これまた、35年ぶりくらいに再読。当時からよく覚えているのが、 矢切の渡しの描写の部分であり、どうして民子と政夫が別れなければならなかったのか、そのあたりことは、すっかり忘れておりました。 そしたら、別れさせられた理由が、民子が政夫より2才年上だったからということがわかって、いささか驚いた。当時は、こういうのって、 駄目だったんですかねえ。

今読み返して感じるのは、この小説の登場人物のすべてが、押しが足りないこと。ただただ、この「たった2才の年の差」(あとで、 ふたりさえよければ、そんなことはどうでもいいと、母親が言っている)という通常とは違うちょっとした相違点の為に、 ありえそうな倫理やら社会の軽い習わしにしたがって、みんながゆったりと排除へと知らず知らず動いていく。このあたりの鈍麻さ、 知性のなさが、とても歯がゆい。そして、悲劇が起こったとき、すべてのものが、泣きじゃくって政夫に許しを請うことになるのだが、 これがまた、情けない。みんな、その場その場の情緒で動く、なんとも主体性のない人たちの集まりであるようなのだ。

それでも、最後のところ、泣けました。電車の中では、辛うございました。小学生のころ読んだときには、ぜんぜん泣けなかったのだが。 そういうヒロインを書き上げたというだけで、この小説は、成功なんじゃないでしょうかねえ。でも、映画の影響か、どうしても読んでいると、 民子役を演じていた松田聖子が出てきてしまい、逆に言えば、あの垢抜けない感じが、民子にぴったりなのかもしれず、これは、 松田聖子にとっても、一世一代の当たり役だったのかもしれない。

そんな風に、読書意欲というか、もう一度読みたい本を探して読んだのが、「谷崎潤一郎随筆集」という岩波文庫の一冊。「陰影礼賛」 が入っているんですが、これも、読み返したい。と、ぱらぱらやっていたら、当時の文壇の話しが載っていて、その箇所を面白がって読んだ。

東大の英語教授だった夏目漱石が、黒羽二重に葉巻を吸いながら、東大の前で人力車を待っていたのだそうで、大学の先生にしては、 金があるんだなあと、学生の谷崎は、感心したとか。

芥川龍之介と谷崎は、最も内容の詰まった小説を書く小説家は、志賀直哉であろうということで意見の一致があったこと。

芥川と谷崎と泉鏡花が共にナベをつつくことが多かったらしいが、話しに夢中になると谷崎は、 半煮えの鳥を間違ってぱくぱく食べてしまうんだそうだ。泉鏡花は、清潔付きで、食べ物は必ず煮沸して、 アルコールで手を拭くような異常な潔癖症なのだが、ここは自分のものと鶏肉を集めていると、谷崎がつっついてしまうので、 嫌な顔をしていたそうだとか。そんなエピソードが満載で思わず、読了。

なんか、文学史上の巨人が鳥ナベをつついている姿が目に浮かんで、なんとも豪華な感じがする。

で、早速、泉鏡花の「外科室」を読んでみた。なんというか、ツゴイネルワイゼンという鈴木清順の映画があったけれど、 そんなおどろおどろしい感じがして、何度読んでも戦慄が走りますな。荒唐無稽な話しなんだが、その文章の豪華絢爛さにクラクラして、 読み終えてしまう類の本。

そんな風に、いままで感銘を受けた本を、ここらで、もう一度読み通す、というのが、とても楽しくて、今日は、庄野潤三の「静物」をば、 熟読。不思議な小説のため、いろいろと考えております・・・。

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2008年02月12日

安部公房 「棒」

雨上がりのむくんだはれぼったい風景の見えるデパートの屋上から墜落した男は、棒になって地面に叩き付けられる。そこに、 教授とおぼしき髭を生やした紳士と、その双子のような生徒が、その棒きれを取りあげて、棒という有用性と象徴性を述べながら、 死んだものの罰として、その棒を置き去りにして去ってしまう。

という内容の、アバンギャルドな短編だ。

これも又、高校の教科書に載っているらしく、大勢の人がその筋を知っている話しだと思う。

なにせ、話しが無茶苦茶だ。脈略がありそうでなさそうで。でも、味わいというのは、確かにあって、棒になった男の子供の発する 「父ちゃん」という叫びが3度、この話しの中に出てくるのだが、これが、現実の社会に連れ戻すようなスパイスになっていて、 なかなかよろしいのだ。

棒になった男を拾い上げたのは、先生と生徒二人の一団。この教授が、棒を両手にささげて持ち目を細めて光にすかせようとしたときに、 付け髭の左端がはがれて、風でぶるぶる震えていたというあたり、また、生徒らが、この棒にどのような罰を与えるべきかという問いを発せられ、 生徒が答えあぐねていたときに、この教授が棒で、地面に怪獣の絵を描いているという描写。なんか、うさんくさく、 インチキくさい香りがプンプンしてきて、なんとも、効果的に使われている。人間の格好をした邪悪な宇宙人が、 何かの拍子にちぐはぐな言動に走ってしまう、そんな感じがするのだ。

話している内容も、棒という有用性と象徴性について、哲学的な会話をしているようだが、この教授、それらの話しのまとめで、「つまり、 この男は棒だったということになる。・・・すなわち、この棒は、棒であった」というトートロジー的な答えを発している所など、 インチキくさい。

でも、深読みすれば、三角形の定義が、それ以下にも以上にも広がらない恒久的なものだとしたら、棒というのも、 それ以上でもそれ以下でもない人間の普遍妥当的存在を象徴しているのかもしれない。と、こういう隙間のある不条理な話しというのは、 読者の解釈の余地があるので、おそらく読者の数だけ意見が続出するのだろう。

さらに、この教授と双子のような生徒は、この棒がかつて人であったことを知っているもの達であり、 死んだ者に罰を与えるのを使命としているようなのだ。こうした存在というのは、神だとか、悪魔だとか、そういう存在なんだろうか。かりに、 そういう風に考えると、棒は、死んでいることになるのだが、最後まで、人としての意識は持っているのが、腑に落ちない。棒というものに、 物質化された男は、その瞬間死んでしまったのだろうか。そうだとすると、以降死者として物語が語られると言うことになる。

と理詰めで、色々考えて、謎の溝を埋めるような楽しみ方もよし。なんか、変な小説だなあ、とわからないなりに、最後まで読み進んで、 おそらく、心が寒々とするか、不安な感じがするだろうから、その感覚を味合うのも良し。

安部公房は、あんまり好きな作家ではなくて、唯一「砂の女」だけは、何回も読み返しているが、たいていは、 途中でホッポリ投げてしまう。今回の「棒」は、R62号の発明 鉛の卵 という新潮文庫に入っている小説。勿体ないけれど、 他の短編を読んでいたら、睡魔に襲われてしまい、電車の中で眠ってしまった。どうやら、安部公房の他の作品とは、相性が悪いみたいだ。

 

 

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2008年02月08日

志賀直哉 「城の崎にて」2

たった9ページ強の短い小説なのに、読みでのある「城の崎にて」。十数回も読み直していると、新たな発見があって、 なかなか興味が尽きることがない。筆者の息遣いが感じられてきて、自分の中の骨となり血となったような気がして、精読というのも、 なかなか楽しい体験である。

例えば、なんで、風が吹いていないのに葉が揺れていて、風が吹き出したら揺れが止まった木の葉の描写をあそこで入れたんだろうとか、 いろいろ考えられるのが楽しいのである。

志賀直哉という作家は有名だけれど、「暗夜行路」は、一般教養の授業のテキストだったが、結局最初の数十ページで退屈で断念したし (それだけの部分で一夜漬けのレポートを提出した記憶あり)、十年くらい前に再度挑戦したけれど、これまた、同じようなところでストップ。 やはり、「暗夜行路」はつまらない小説だと思う。

おなじ、文庫に入っている「小僧の神様」という小説も、有名だけれど、小学生の頃読んで、 なんともつまらない話しだったことはよく覚えている。で、今回再読してみたが、やはり、つまらない。

ほぼ1ページごとに、場面を変えて物語がさっさと進んでいくルビッチ・タッチの映画を見ているようで、 当時としては斬新なスタイルだったのかもしれないけれど、そこには、話しの深みは感じられない。ただ、筋が滞りなく流れていくだけだ。

寿司ネタを下にして口の中へ運ぶのは、魚が腐っていたときに舌へヒリリと来るのが直ぐしれるからなんだ。 なんていう文章が出てきたけれど、本当なのか。

問題なのは、よく練られた脚本を本にした映画が気持ちよく進んでいく感じで読み進んでいくと、最後にどんでん返しというか、 作中に筆者が出てきて、最後の所は、こういう風に終わろうとしたのであるが、それでは、あまりにも小僧に酷な感じがするので、 ここで筆を置くことにする、と書いて、この「小僧の神様」は終わっているところ。

なにか、あまりにも物語がとんとんと繋がって、伏線が伏線を呼びといった技巧的な物語は、志賀直哉にとって、 よいものとは思えなかったのだろう。やはり、この作者は、「城の崎にて」のような、心情を思ったように書くような小説がぴったりと来る。

前回、「淋しい」「静か」が何度も文章中に登場することを書いたけれど、その他にも、「和解」という父親との確執の物語の中では、 「不愉快」という言葉が始終現れて閉口したことを思い出す。

どうやら、志賀直哉は、ボキャ貧らしい。心情にぴったりした言葉を見つけると、それを中心に小説世界を広げていくタイプなのか。 ジョン・コルトレーンというサックス奏者も、マイフェバリット・ シングスというミュージカルの駄曲といっていい曲を何十回何百回と演奏したのだが、それに似ていて、 なにか触発される言葉が世界を広げていくのかもしれない。

しかし、このボキャ貧で、かくも優れた小説を書けるのだから、天才なのか?と思うけれど、天才とは、多作というが、長編は僅かに 「暗夜行路」1冊のみ。他は、短編小説ばかり。深い思想があったわけでもなし。あるがままに、そのままに、文章を書けてしまうのは、 やはり天才なのか。

天才じゃなければ(相当抜けてなければ)、山手線に轢かれるなんてちょっと考えられない気もするし (里見怩ニ散歩していて跳ねられたと言うから、白樺派って結構傑作な人物が揃っていたのかも)。

プロレタリアート文学全盛のこの時代を乗り切れたのも(芥川龍之介は失墜)、智に働かなければ、角は立たず、ということで、 無意識過剰な自然体で文章を書き上げるその姿勢にあったのかも。

しばらく、志賀直哉から目が離せない。

 

 

 

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2008年02月07日

志賀直哉 「城の崎にて」

志賀直哉 「城の崎にて」

昨年の12月2日に、山道をマウンテンバイクで走っていて、檜の幹に肩をぶつけて、鎖骨骨折した。 ぶつかった衝撃のものすごさをなんと表現したらいいのだろう、 全世界が痛みと衝撃の光となったような衝撃が体全体から抜け出たような体験だった。もう少しずれていれば、他の大怪我と同じように、 その体験を最後の関わりとして、ぷっつりと消えてもおかしくはなかったのが一点。

次に、手術で折れた鎖骨をプレートで繋ぐために全身麻酔をしたときに感じた、意識を完全になくすという体験をしたこと。そして、 そのまま意識が戻らなければ、すなわち、あの無意識な状態が続くのが「死」というものなのかもしれないと、感じられたこと。

以上の2つの貴重な体験をしたのだが、どうやら、大怪我や大病をした人の中には、 どうやらボクと同じような感想を持っている人が多いようなのである。表現は違うけれど。

そんな中で、ふと思い出したのが、この「城の崎にて」という短編だった。

この短編は、高校の国語の教科書で読んだ覚えがある。だから、今回が2度目。教科書に載るくらいだから、 素晴らしいと評価されている小説なんだろう。

高校生の頃、初めてこの小説に接したときに、度肝を抜かれたのは、冒頭の文章。「山の手線の電車にはね飛ばされて怪我をした」 という所。普通に生活していて、山手線に跳ね飛ばされるというのは、あり得るんだろうか。路面電車なら話しはわかるのだが。どうやったら、 山の手線に跳ねられることが出来るんだろう?と、ものすごい違和感を感じた覚えがある。

後養生と称して、城崎温泉(何故か表題の城の崎温泉ではない)に来た作者は、一匹の蜂が玄関の屋根で死んでいるのを見つける。 他の蜂は、その傍らをはい回るが、冷淡だった。ふと、自分の事を考えると、青い冷たい硬い顔をして、顔の傷も背中の傷もそのままで、 祖父や母の死骸が脇にある土の下に仰向けになって寝ていることだろうと。それは、多分、自分の死んだ姿を想起させる。蜂の死骸は、 いかにも淋しく、静かな感じを与える。

散歩の途中に、橋の上で大勢が騒いでいるのに遭遇する。鼠が川の中で助かろうと藻掻いているのに石を投げつけて遊んでいるのだ。 その鼠には、七寸ばかりの魚串が刺し通してあって、誰かが川に放り投げたのだ。断末魔の苦しみに助かろうと思った鼠は、 石垣の間に足をかけるが、魚串がつかえて水の中に落ちることの繰り返しだ。死ぬに極まった運命を担いながらも、 全力を尽くして逃げ回っている姿に、自分の姿を重ね合わせて、淋しい嫌な気持ちになる。

その数日後、岩の上にイモリが休んでいるのを発見した自分は、イモリを驚かせて水の中に入れてやろうと思い、 狙うつもりはなかった石が、偶然イモリを直撃してしまう。イモリは死んでしまった。自分は飛んだことをしたと思った。 イモリと自分だけになったような心持ちがしてイモリのみに自分がなってその心持ちを感じた。

「小説の神様」と呼ばれているのだから、文章が悪かろうはずはないけれども、この小説には、「静か」と「淋しい」 という言葉が何度も出てくるのには、驚いた。普通、言葉の重複は避けて、違う言葉に置き換えたりしたり暗に仄めかしたりするのだろうが、 驚く無かれ、たった文庫本(新潮社)の9ページ強の長さの短編に、「淋しい」が7回。「静か」が8回も出てくる。

淋しさの定義が、「本来あった活気や生気が失われて荒涼としていると感じること」だとすれば、生の失われた死骸や死というものは、 まさに、淋しい感じがするものなのだろう。死という厳然たる事実の前には、饒舌はふさわしくなく、やはり、「静か」なものなのだろう。 そこには、透徹した清潔さというものが感じられる。

あるものは偶然に死に、そして死ななかった自分は今こうして歩いている。感謝しなければ済まぬような気もした。 しかし実際喜びの感じは湧き上がっては来なかった。生きていることと死んでしまっていることと、それは両極ではなかった。 それほどに差はないような気がした。

いつ頃人は、死と生は背中合わせに同時期に存在していることに気づき始めるのだろう。高校時代には、全くと言っていいほど、 感銘を受けなかった作品だが、今回読み返して、ひしひしと書かれている内容が伝わってきた。高校生じゃ、この話を「たとえ話」 として理解できるだろうが、その本質を理解するのは、ちょっと無理じゃないかなという気がする。というか、 生に陰りが出てきた中年以降是非読むべき小説のような気がする。

 

 

 

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2007年10月19日

金コーチ。尾崎放哉。

走るのに、コーチを雇わなければ、と思っているのだが、僕の場合は、金哲彦さんがその人だと心に決めている。話がわかりやすいから、 好きなのさ。で、何か、いい本はないかなあと、探して出会った本が、「3時間台で完走するマラソン」光文社新書。早速、 半分くらい読んでみた。いいんじゃないでしょうか。値段も、740円とコーチ代としては破格の安さ。自転車もそうだけど、フォームって大切。 もう一度、頭に入れて、月曜日から訓練しよう。これで、コーチを雇ったかのような大船に乗った気分。ひょっとして、頑張れば、 サブフォー出来るかも。無理かなあ〜。

ついでに、日本語に飢えている私が、ふっと岩波文庫の棚を覗いたら、「尾崎放哉句集」が目についたので、手に取ってみた。 自由律の俳句だけれど。

 とんぼが淋しい机にとまりにきてくれた

なん本もマツチの棒を消し海風に話す

山に登れば淋しい村がみんな見える

鳥が黙って飛んで行つた

 

久しぶりに、腰骨の奥が砕けるように痺れました。俳句の世界って、それはそれは奥が深そうで・・・。

ちょっと、新たなマイブームが始まる予感。

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