2009年02月24日

ヅャコ・パストリアスの思い出

こんな世の中で正気を保つには、ジョグが必要だ、と常々思っている。

生き残るための智恵、それがジョギングだ。

だから、今日もジョグ。

寒くは感じるのだけれど、山の中に入って、いつもは厚い氷が張っている水溜まりは凍ることなく坂道を転がっていたから、ついこの前よりは暖かいはずだ。手袋の隙間から触る外気の冷たさは相当のものだけれど。

中山康樹という人は、ボクがジャズに一番凝っていた高校生の頃、「スイングジャーナル」の編集長で、当時は、ジャズもロック並みの人気があったボクの周りには、若干1名だけ、ジャズの話ができる友達がいたけれど、まあ、ジャズが最後の光を発していた時代かも知れない。

密かに、当時はそんな雑誌社に就職したいなあと思っていたのだけれど、今じゃ、しがない自営業者。

そんな中山氏が書いた本をほとんど読んでいるのだけれど、昨日図書館へ行ったら、「ジャズメンとの約束」という著作が棚にあったので、借りて読んでみた。クオリティ・ペーパーに寄稿されたバーのカウンター話に最適なジャズ版<ちょっといい話>的な内容。

あのフェラーリを乗り回し、ジャズの帝王と呼ばれていたマイルズが残した遺産は、<たった>200万ドルだったらしいし、彼と組んで何作かアルバムを制作し、多くのミュージシャンから尊敬を集めていたギル・エバンスは、経済的には恵まれず、妻に愚痴られていたそうだし、アート・ペッパーは、死んで入る墓もなく、貧しい人用のロッカーが墓代わり。

ビル・エバンスがあれほど多くのレコード録音をしたのもドラッグ欲しさの小金作りだったらしいし。

芸術家に金はついて回らないということなのか。

惨烈凄惨悲惨辛酸な生活こそ彼らの生きる道なのか。

だからこそ、いっそうCDを聞くこちらの耳に伝わってくる感動がある、みるみると立ち上がる実像が感じられる。

日本のジャズ雑誌では華々しくレコードを販売して、雑誌にそれこそジャズの成功者としてインタビューをされていたミュージシャンというのは、実情厳しい生活を強いられていたんだ。差別があり、ジャズというほんと少数者しか聞かない音楽ということで、もともとパイが少ないし。

なかでも、ジャコ・パストリアスの晩年は悲惨だ。

ウェザー・リポートで人気者になった後間もなくグループを離れ、莫大な費用をかけた「ワード・オヴ・マウス」を制作するものの、あまり売れず、それから以後は、ニュースが途切れていたのだが、その間、ジャンキーとなり、路上生活者となり、出会った友人から10ドルを無心し、「俺が天才のジャコだぜ」と言いながら友人のうちから盗んだ自分のレコードを路上で販売する始末。辛抱強い友人からも見放されて、前妻に精神病院へ強制的に入院させられるも脱走。公園で暮らしながらの生活が続き、クラブのボディガードともみ合い殴打されて死亡。それは、殺人に匹敵する行為だったと伝えられた(と一部訂正)頃、ボクは、雨戸を閉め切った真っ暗な自宅の四畳半の勉強部屋で法律の本を一日中読んで暮らしていた。

その訃報がボクの耳に届いた頃、ジャコよりも、バッハやらモーツアルトを好んで聴いていたような気がする。ボクの中で、時代が一周回ったのかも知れない。

が、思い出すのだ、。1980年の厚生年金大ホールのウェザー・リポートのコンサートを。友人のバイクに拾って貰い、バイクのケツに乗って新宿まで。どこかで、サインのための色紙を買ってコンサート会場へ行ったときのことを。

ほぼ、前から3列前の向かって右側よりの場所。ジャコの汗が落ちる玉が見えるほどの良い席。ジミヘンのフレーズをベースで弾くパフォーマンス。バードランドのただ事ではないベースラインとヴォーカル。おまえの印での、ベースの音の美しさ。その日の主役はザビヌルでもなく、ショーターでもなく、ジャコだった。

とにかくジャコの周りには、近寄りがたいカリスマとオーラが渦巻いてステージ上に氾濫していた。

コンサート終了後、友人と辛抱強く裏口に回って待つこと小一時間、ウェザーリポートのメンバー全員から握手をしてサインを貰った。

ステージ上で鬼気迫る演奏を終えて裏口から出てきたジャコは、痩せた普通の外国人で、その他のメンバーも、ビックリするほど小柄であることにビックリ。これは、どこかですれ違ってもわからないな。

そして、紳士的な態度で、こちらの差し出す色紙にサインしてくれたのだった。

ジャコは、色紙を左手に持ちながら、右手に持ったマジックで空中に縦に横に何かを思い出すように線を描いている。「何やっているんですか」と聞いたような気がするけれど、いたずら小僧のように微笑むだけ。そしたら、色紙にカタカナで「ジャコ」ならぬ「ヅャコ」と書いてくれたのだった。本式のサインが欲しかったような、まあ、珍しいから嬉しいような微妙な心持ちがしたけれど、嬉しい気持ちには変わりない。書き終えて、こちらの目を見て白くて細くて長くて冷たい手を差し出してくれた。

神に愛されてその後に疎まれた本当の天才と接点をもてたのは、後にも先にもこの時限り。おそらく、今後も無いだろう。

そうか、ジョー・ザビヌルもこの世にいないのか。

「In a silent way」でジャズの歴史を変えた男。ボクサー、ウォッカ飲み、そして、握手したその手は、小さいが分厚く温かだった。

そんなことを昨晩読んだ本で思い出して、彼らの不在を淋しく思いながら、山道をとぼとぼ下ったのだった。

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2009年02月09日

新々百人一首 丸谷才一著

「笹まくら」があまりにも刺激的だったので、丸谷才一著の「新々百人一首」上下巻を購入。この1年、定価で本で購入したのは、ラジオ講座のテキストくらいで、そのくらい気合いを入れて購入。

で、今上巻の半分くらいを読み終えて、やはり、日本人は和歌というもので生成されてきた文化というものが、あるのだなと思ったし、いまこそ、こういう知識を生きたものとして体内に取り入れる必要があることを痛感した。

重層的に意味が重なり合って、謎かけがあり、そのほとんどが恋愛の歌であり・・・と日本人の美意識というか、文化の多相性を理解するのには、和歌が一番。

ボクは高校の時に、古典の教師が、試験範囲に「百人一首」と、さらに、漢文の教師が「長恨歌」を暗記してくるのが、夏休みの宿題という、夏休み終了数日前から鳴きながら丸暗記をした覚えがある。

その結果、百人一首(ひゃくにんしゅ、と読む)は朧気に憶えているのである。時代は、便利になったもので、ネットで、百人一首のExcelの表なんかがあって、そいつをプリントアウトして、記憶に定着するよう、1日25首くらいずつ今暗記しているところなのだ。

それとは、異なる選定で、丸谷自身が選んだ100首、それを色々な検証をしながら、解説している、とても為になる本であるのだ。

何故「新百人一首」でないかというと、室町時代に一度「新百人一首」というのがあるのだそうで(巻末にその100首も羅列されている)、「新々」となったわけで、この本が著者に万一のことがあったら、大岡信氏に引き継いで貰うという約束まで取り交わしたという、著者入魂の本なのだ。

これが、上下文庫本で1300円程度で買えるのだから日本人なら読まなくっちゃ。

そうそう、いつの頃か、以後詠む本は、古典と英語の本だけ!と決心して1ヶ月くらい過ごしたことがあり、その時は、枕草子、徒然草、更級日記、奥の細道、和泉式部日記と読み続けた時期があった。

そうだ、今年も、もう一度この路線に戻って、日本の古典を読んでいこうじゃないかという気になってきた。

まずは、この「新々百人一首」。寝ながら読んでいる「古今和歌集」が終わったら、こんど「新古今和歌集(昨日、角川文庫でいいのがあることを発見)」と読んでみようじゃないの。

「長根歌」も懐かしく思い出したので、これは確か岩波新書の「新唐詩選」だったか、吉川孝次囈試mの本だったはず。よく憶えたなあ。

と思って、ネットでググれば、出てくるじゃないの。長恨歌が。ああ、懐かしい。

温泉水滑らかにして凝脂 を洗ふ

このエロティシズムに高校生のオスどもは、想像をたくましくしたものだった。この本は、どこかにあったはず。

たまに、温泉に入ると、このフレーズが出てくる。若い頃の苦労は、するもんだね。泣き泣き憶えたけれど。

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2009年02月05日

笹まくら 丸谷才一著

マーチン・スコセッシ監督が、遂に遠藤周作の「沈黙」をダニエル・デイ・ルイス主演で映画化することが決定したようで、この間、この本を読み終えた者にとっては、その完成が待ち遠しい。

日本人のキャストは誰になるのか、興味津々。

黒澤明監督の「夢」のなかで、ゴッホ役をスコセッシ監督自身やっていたので、今度は、監督として日本人俳優を指揮する事になる。

読み終えた文芸書では、丸谷才一の「笹まくら」。

見事な構成で、しかも、文章にたるむところが無く、圧倒される。40年も前の作品なのに、全く古さを感じないのも驚き。時代と一緒に育っている希有な本ではないか。

どうして、もっと早い時期に読まなかったのか、悔やまれるけれど、久しぶりに貪るように本が読めた。快感!

丸谷才一の本は、「横しぐれ」「たった一人の反抗」と無数のエッセイを読み飛ばしてきたけれど、「裏声で歌へ君が代」にイマイチ感動できず、「女ざかり」で、ガックシだったので、この名作を欠いて、丸谷才一の本を読んだ気になっていたのだった。

ああ、危ない危ない。やはり、気に入った作家の本は、すべて目を通しておかないと。

徴兵忌避者として戦中逃げ延びた男が、戦後大学の職員となって、その徴兵忌避のために職場を追われるに至る迄の話を、<意識の流れ>を駆使した文体で、戦中戦後の時間を行き来しながら語られる話。

国家の存在理由が戦争をする為にあると看破した主人公が、その戦争を逃げる事によって生き延びたはずなのに、世の中の右傾化とともに、戦後もまた徴兵忌避者としての<前科>が取りざされて、周辺がざわめいて、誰が梶を取ることもなく、左遷、退職の為の道がぼんやりと確実に目の前に現れてくる様を、徴兵忌避者としての逃亡時代の全身が張り詰めるような緊張感と同じ繊細さで、時には、読者には、勘ぐりすぎだと思えるほどの熱心さで誰何する様は、それだけで、スリリングで、身につまされるように心臓がばくばくと大きな音を立てるほどなのだ。

戦前の逃亡中の恋人との描写は、濡れそぼるといった表現で良いのか、一見俗のような雰囲気を漂わせ、酔っぱらった「西」という反主人公の独り言は、それだけで、見事な落語の一席を聞いたような芸があるし、この人の実力は、計り知れない深さがある。

そんな至芸を楽しむのも良し、あちこちに(多分一度読んだだけでは気づかない)伏線がたくさん張られているようだし、<意識の流れ>で突然に過去のある点に思いが飛ぶのだけれど、その順序も考え抜かれたものである。

「少年カフカ」になにやら似ている最後の章。村上春樹自身の本でも、この本に言及しているので、影響を受けているのは、間違いない。

構成の見事さをメモを取りながらもう一度読んでみよう。

ジョイスの<ユリシーズ>に挑戦したくなってきた。Attack299!より辛いものになるであらう。

もう、今年のベスト1は、これで決まりかな。

というようなことを考えながら、今日もジョギング。

坂道は心拍165で固定。できるだけ160をキープ。下り坂では、猛スピードで走ることになる。結果、腰を痛めたみたいで、暮れに痛めたところが痛みだした。

今日は、早朝より出撃したので、坂を登ったり下りたり。車道を走っていたら、妙な道を見つけて、トレイルラン。

がしがしと、ほぼ暗闇の細い道の行き着く先には、お墓があり、卒塔婆が揺れてビックリ仰天。その先に続くか細き道を走ったらいつもの坂道の途中に出くわした。これは、かなりの近道だ。が、二度とこの道は通らない、少なくとも暗闇時は御免。

ロッド・スチュワートのベスト盤を聴きながら走る。やはり、「ガソリンアレイ」や「エブリイ・ピクチャー・テルズ・ア・ストーリイ」あたりがベストで、セイリングとか、文字通りアメリカへ<アトランティック・クロッシング>したあたりから、ちょっとつまらない。ヒットした「ダウンタウン・トレイン」での声量があまり衰えていないのには驚くけれど。

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2009年01月14日

今年に入って読んだ本

今年にはいって読んだ本

遠藤周作 「深い河」

 著者が「沈黙」と共に棺の中に入れるように遺言した本。

嵐山光三郎 「悪党芭蕉」

 芭蕉フアンなら読まなくっちゃ。

金子光晴 「放流」

 ボクの憧れ、金子光晴。

冠松次郎 「峰と渓」

 登山家は詩人である。

小林信彦 「映画×東京 とっておき雑学ノート」

 この人の本は、ほとんどすべて読んでいる。

村越真・宮内佐季子 「最新読図ワークブック」

 山を登る人ならこの本がそばにないと話にならんでしょう。

八田秀雄 「乳酸」

 乳酸について、自分なりに多くの知識を得ることができた。体の中で運動中に何が起こっているのかわかるので、自称運動好きならば、必須の本。

八田秀雄 「エネルギー代謝を活かしたスポーツトレーニング」

 これまた、為になる。トレーニングにも王道なし!

石原千秋 「『こころ』大人になれなかった先生」

 夏目漱石の「こころ」の評論文だけれど、ボクは、この人の意見とは全く違う。

志賀浩二 「算数から見えてくる数学 1 数からはじまる」

 小中高と逃げ回っていた算数数学の世界。しかし、本当は、数学好きな自分を発見するのだった。ひょっとしたら、俺、理系かも?

加藤尚武 「応用倫理学のすすめ」

 東大の全共闘時代、この人がいて西部すすむがいて・・・。環境倫理学で名前を知って、ヘーゲル哲学に入り込んで・・・と道案内してくれる人。

山本勉 「仏像のひみつ」

 仏像の見方を知ると、博物館やお寺で楽しめます。

齋藤孝 「読み上手 書き上手」

 なるほど。

現在読書中

安部公房 「箱男」

 再読中。

夏目漱石「彼岸過迄」

 これまた再読中。

膨大な本がボクの体の中を通り過ぎていく。

今年は、途中までしか読まなかった本も含めて、目を通した本を上げていこうか。

あれま、今年に入ってまだ14日なのに、13冊読了ということは、1日1冊ペースですかい。こちらのトレーニングも継続中・・・。 

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2008年12月10日

幼年期の終わり クラーク著

SFは苦手だ。カート・ボネガットとフィリップ・K・ディックとJ・D・バラードの何冊かは別として、ほとんど読んだことはないのだが、気になっていたアーサー・C・クラークの「幼年期の終わり」は、やはり読んでおくべきだとず〜っと思っていたのだが、早川文庫版のそれを、2、3回読み始めては、第1章でつまずくというのを繰り返した。ほとほと、SF小説音痴だなあと思っていたのだが、このほど、光文社古典新訳文庫にあの池田真紀子訳でこの小説が出たので、思わず図書館で借りてしまったのだった。

そういえば、あの「2001年宇宙の旅」というキューブリック(クブリックと発音するのだそうだが)監督の映画があるのだが、そして、これも同じ著者なんだけれど、この映画、みんなが素晴らしい素晴らしいと絶賛し、その昔、ビデオなんて言うものがなかった時代には、何度も何度もロードショウ館で公開されていたほどの人気抜群の映画だったのだ。

で、たしか有楽町のみゆき座に見に行ったのだが、モラリスが発見されて、猿人類から人間へと進化する過程を、武器として猿人類が手に取った骨を空に放った瞬間、その骨が宇宙船となり滑るように宇宙空間を走っている。その何十万年かを一瞬で観客に理解させる手腕はさすが!と思わせたけれど、宇宙ステーションが宇宙空間を、「美しき青きドナウ」とともに、回転するようなシーンで、目が徐々にくっついていき、遂に眠りに入ってしまって、気づいたら最後の人類の進化の最終形態が現れるフラッシュのような光で目が覚めたけれど、これは、最後のシーンだった。本当に退屈な映画だった。

その後、何度かこの映画をビデオで見たけれど、まあつまらない映画ではないけれど、なぜ、みんなが熱狂するのがよくわからない。いかにつまらないか、映画フアンを自認するみんなの前で言うものだから嫌われた。

この映画の謎解きは面白い。が、なんか、深みがないような気がするのだ。音痴なボクにとっては、感情移入ができにくいので、心が浮き立ったり、激しく拒絶したりすることが少ないのだ。

で、読み終わって、なるほど、「2001年宇宙の旅」のテーマというのは、こういう事だったのかと、得心した。

最初から最後まで、次の展開が読めない。最後の最後でこのテーマは、「2001年宇宙の旅」に似通っていると、わかったけれど、そこまでは、遙かにこちらの常識を上回る話の展開だった。こういう物語を紡げるのは凄い才能だ。

人類が始めて火星に出発するというその日、地球の上空にオーバーロードと後に呼ばれる宇宙船が現れて、停泊し続け、人類を統治する。その圧倒的な知性と文明を目の当たりにして、地球人の有する科学知識、民族間の衝突、差別、貧困というものは、意味をなさなくなり、人類からは、徐々に理想郷とも思える世界がもたらされていく。が、このオーバーロードが地球に君臨する最終目的とは一体何だったのか?というのが、話の筋。

感情移入を一切排した物語の流れ。そうした意味の無機質な感触を味わいながら、ページを薦めていくと、最終的に驚愕の事実が現れていく。

というわけで、また一つ、読まずに死ねるか!的本を読み終えた。これで、未練は一つなくなった。といっても、膨大な本のリストがあるのだけれど。

でも、やはり、SF小説は苦手である。

次は、漱石に行こうか?

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2008年12月04日

「沈黙」 遠藤周作

遠藤周作の「沈黙」を読み終える。

夏目漱石の「こころ」に次いで重いテーマの小説。くたくたになりながらも、やはり、読んで良かった。

アマゾンでこの小説に関する評の多さに驚くし、「純文学」とかつて呼ばれたジャンルでも、かなりの評の数に関しては、かなりの上位にあるのではないか。

こういう重いテーマの小説であっても、やはり、多くの人に長いこと読まれ続けられる小説というのは、とても面白い。そうでなけりゃ、「カラマーゾフの兄弟」がロングセラーになるはずがないよ、父親殺しの話だもん。

で、この「沈黙」、とても面白かった。

で、終わらしたいのだけれど、なんか書いてみよう。

神は存在するのか?という、異教者にとっては、切実に日々考える話ではないのだけれど、そこは、小説。その世界にどっぷり浸かると、司祭と共に、悩み苦しむのである。

殉教しても、祈りを捧げても、迫害されても、ただただ、神は沈黙する。柱に結わかれて何日も放置されて、やがて死んでしまう信徒達。が、神は何を行うことなく、放り出された砂浜に置かれた死骸に波が何事もなかったかのように押しては引いていく。

キリスト教徒にとって、神とはどんな存在なのか。例えば、自己を写す鏡のように、それが無くては、自己を認識することのできない存在だとする。

そうだとすると、神の不在は、自己を「あらしめている」ものの不在となり、結果、自己も喪失してしまうのではないか。

こうなると、こういう状況というのは、絶えられないし、恐ろしい問題である。価値が無くなる。罪とは罰とは?と、こうなると、「カラマーゾフの兄弟」での場違いな会見におけるイワン・カラマーゾフの意見開陳ということになる。

神というのは全知全能であるので、すべての起こることに対して、すべてお見通しなはずである。

が、神は沈黙するのである。

その沈黙の重さは大きい。

そして、もう一つのテーマが、「教会の」キリスト教と「私の」キリスト教というキリスト像。

穴吊りの獄門に苦しむ信徒を救うために、踏み絵を断行した司祭。転ぶことは、決して許さない「教会」のキリストと、そんな弱い自分を許すと語ったように思える「私」のキリストという図式である。

キリストは、果たしてユダの裏切りを許したのか。同じように、踏み絵を踏んで裏切った司祭は許されるのか?キリストは、そうした心の弱さ、転ぶことによる心の痛みを分かつため、この世に生まれ、十字架を背負ったのだろうか。

それを肯定するのが遠藤周作が訴えたかったキリスト像だと思われる。

思い出すのは、「カラマーゾフ兄弟」の中の白眉「大審問官」である。弱い人間にキリストは強さを求めた云々という議論だったかな?もう一度読んでみたい。

日本人でかつてキリスト教徒であった筑後守が

仏の慈悲とキリシタンデウスの慈悲とはいかに違うかと?どうにもならぬ己の弱さに、衆生がすがる仏の慈悲、これを救いと日本では教えておる。キリシタンの違いとは、デウスにすがるだけのものではなく、信徒が力の限り守る心の強さがそれに伴わねばならぬ。

との意見に対して、司祭は、基督教はあなたの言うようなものではない、と叫びたくなるところを我慢したのは、こうした宗教上の問題は、相対化して語られるのではなく、絶対的なものとして考えるので、その議論に嘘くささを感じたのではないか。

日本という風土は、八百万の神と言われるほど、至る所に神が存在して、なんら矛盾の生じない世界に親しんでいるのだが、そうした態度は、基督教的世界では許されないものであろう。

かつて、京都を旅していたとき、熱心なキリスト教徒は、絶対に、お寺に観光としては行くけれど、お参りはしなかったことを思い出す。

が、日本では、クリスマスだの、七五三だの、初詣だの、お盆だの、もう、無茶苦茶である。

そんな風土において、基督教なるものが日本に根付くことが可能であるのか、というのも、小さなテーマとして現れている。

そんな3つの重いテーマが、大きなうねりとなって、最後の最後まで読ませてしまう力量は、凄いものですな。

これもまた、漱石の「こころ」と同じく、再度、赤ペンの後を括りながら、読んでみようと思う小説だった。

大満足。

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2008年11月29日

「こころ」と3時間マフェトン

夏目漱石の本はほとんど読んだつもりだった。が、ふと手にした「こころ」は、教科書で「先生と遺書」の一部分を読んだだけで、読んだ気になっていたのは迂闊だった。というわけで、赤ボールペン片手に読んでみた。

どこを教科書で読んだのか、つゆわからず。当時の印象より、相当陰気な文学だ。

陰気な話は嫌いだけれど、面白いのなんのって。先生とKとのお嬢さんを巡る三角関係の落ち着く先はどこ?というのが、話の筋だが、「先生」の内心の動きが手に取るようにこちらに伝わってくるので、息が苦しくなる。ミステリーとしても読めるので、ページをめくるスピードが徐々に速くなる。

こういう卑怯な事をしたことで、後年思い出す度に胸が苦しくなるというような経験は大なり小なり誰にもあるんじゃないか。骨身に染みるよ、読んでいると。

それでいて、嫌なものに目が離せなくなるのは、人は、自分に一番興味があるからで、醜い自己の一部であっても、自己の者である限り、興味が無くなるはずもなく、そのエゴイズムたるものを夏目漱石に的確に描写して貰いたくて、一字一字を丹念に読み進めることをやめることが出来ないことになる。ただただ、こちらは唸るばかり。

夏目先生の知性にようやくこの年になって追いついたのか、ちょっと、こりゃあ、高校生のしみったれた頭じゃ理解不能だね。大人の文学です。

ひさしぶりに、読書の愉悦を堪能した。

優れた小説というのは、読後に数々の謎を残していくけれど、この本もまさにそう。

自己中心主義を貫くことを潔しとする文学の台頭、白樺派の「友情」とか、そういう「お目出度い」文学にたいする、アンチテーゼとして、エゴイズムを外科医のごとく解剖して腑分けしてみた文学だ。「愛は惜しみなく奪えるわけがない」という話。

明治天皇崩御に対し、「殉死」という態度で死を選んだ乃木大将。その「殉死」という言葉が、先生に「明治の精神に殉死する」という契機を与えた。

そんな江戸文化の冷徹な倫理、まさに、漱石は、江戸文化の直接的後継者であるので、大正デモクラシーという「エログロナンセンス」で中途半端な自己解放の時代に対する異議申し立てでもあるようにおもわれる。

実際、明治人にとって、乃木希典の殉死は、相当のインパクトがあったようだ。この小説も、この殉死にインスパイアされて書かれたのかもしれない。

このお嬢さんというのは、「三四郎」の美禰子を彷彿とさせる天然ぼけというか、論理ではとらえられないと漱石が思っている女性像をよく表している。意味もないのに笑ったり、こちらも、その紹介の仕方に小首をかしげるばかり。

とにかく文体が凄い。今使われる文章ではないけれど、漱石のペンの先から、言わんとすることが次から次へと、ちょっと使われないような言葉が連なって、最後の句点で、なるほど、そういうことが言いたかった文章なんだ、と腑に落ちる文章。漢文と英語の達人である漱石ならではの文章。

これに近い文章を書くのは、片岡義男だね。とくに、評論文の。同じような脳みその回路を持っていそうだ。

そんなことを考えながら、今日も3時間トレーニング。

ルールは簡単。心拍139で、3時間走り続けること。

今日は、自宅から飛び出して、ふと今まで走ったことのない七国峠方面へ行ってみようという気になる。

道を間違いながら、なんとか音大坂へ、ここからは、何度もマウンテンバイクで走ったことがあるので、できるだけ、大回りで三角点まで走る。

路面は、昨晩の雨で多少ぬかるんではいるけれども、なかなか走りやすい。傾斜も、たいしたことはなくて、ここはまさにトレイルラン用の道だね。

桜山展望台から豚小屋へ。豚小屋から激坂を登って、細いシングルトラックを走って、踏切を渡ったら、工事中。そういえば、墓の脇の細い道があったと思い出して、細い通路をくねくねと。激坂登りで、墓場の上を走って、次のトレイルへ。

音大の策を渡って、三角点。三角点から、外周で、S谷さんとご挨拶。今日は、マウンテンバイクに乗っている人には、他には会わなかった。墓場へのダウンヒル。こうやって、走ると、実際マウンテンバイクだと、結構な下りの様な感じがするけれど、至って、普通な道。

阿須の交差点から岩淵方面へえっちら走って、美杉台を抜けて、家路について、3時間。一度も休まず、足を止めずに走れたことが嬉しい。

いやあ、強くなりました。まだまだ、走れます。が、このくらいがちょうど良いくらいかな。やはり、トレーニングは、3時間が限界。体力が残っていようが、飽きますな。

ちょっと、気になるので、これから、もう一度「こころ」の線を引いた箇所を中心に、読み返してみよう。

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2008年11月11日

木曜日だった男 一つの悪夢 チェスタトン著

「木曜日だった男 一つの悪夢」チェスタトン著を読んでみた。

この光文社古典翻訳シリーズは、訳が新しくて、現代にマッチして読みやすい反面、あれだけ苦労に苦労を重ねて読破した「カラマーゾフの兄弟」や「罪と罰」なんかが、簡単に読み飛ばせてしまうというのが、なにか、腑に落ちない。

というのも、難解な言い回しが、読んでいて引っかかって、何度も何度も同じ文を再読反芻している内に、小さな理解のピークを何度も何度も繰り返して、やがて、最終ページに進んで全体がぬ〜っと現前する、といった、まさに「小説を読む」という醍醐味が失われてしまったような気がするのだ。

でも、ま、読んで楽しいし、最近、このシリーズをブックオフで見つけては、買い足し、読みふけっている。

「武器よさらば」「車輪の下」「恐るべき子供たち」「初恋」と、中学時代に読みふけった小説群を再度読み返しているのである。どれも、まあまあ、楽しかった。が、やはり、中学時代に読んだ感激というか、そういうものはなかったのは、残念であった。若い頃の読書は、すべて出会った文章の内容や節回しが、未来を予感させる暗示や啓示であるのに対し、中年になってからの読書は、自分の人生観やら体験を、見事な言葉で鮮やかに切り取ってくれるものとして、「ほら」と差し出してくれるものに過ぎず、言わば、人生の再体験というか、失語症に陥った者に言葉を与えてくれる、そんな意味合いの方が強いと思うのである。

で、この小説。かの吉田健一の訳で「木曜の男」という題で人口に膾炙している小説ではある。おそれおおいことである。吉田健一と野坂昭如は、天才で、やはり、天才には近づかない方が良いのである。と言うわけで、推理小説研究会の面々には、読むべき本だと言われていたのだけれど、敬して遠ざけていたのであった。

で、筋は、インターネットで色々調べて貰えばいいのだけれど、「日曜日」を議長とする7人からなる無政府主義者評議会が開催され、フランス国王だか、そん偉い人の暗殺が決行されることが決まったのだったが、その中に、刑事が潜り込んでいた。その刑事はいかにしてその暗殺を阻止するのか・・・という流れの中で、いろいろな奇怪な事実が判明してくる。追う者と終われる者が逆転し、猛スピードで話は転がっていくのだが、無政府主義評議会の議長である「日曜日」とは、そもそも一体何ものなのか?

といった、話。

が、そんな話を超越した19世紀の奇怪な風景描写やら、諧謔に満ちた会話、そして、ドタバタというか(象に乗って逃げたり、気球で飛んでいったり)、不条理な世界が、達者な筆で描かれると、眼がちかちかするような感覚に陥り、これは、読書という体験を生々しく得られる、そんな本になっている。

ボクの意見だと、この話は、筆者の体験した夢の世界を、忠実に描いたものを基礎にして書かれた本だと思う。

サイムという「木曜」が、議長である「日曜」を追いかける内に、背中が顔に見えてくる・・・なんて言う記述が出てくるけれど、前が後ろになり、表が裏になるなんて、フロイトとどちらが世に出るのが早かったのかわからないけれど、「夢」が抑圧を払いのけて、表面に出てきたことの証であるような気がする。その他、「日曜」が逃げる際に、色々投げ捨てていく「木曜」に宛てた手紙の内容、たとえば、「今一番素敵な色は、ピンクです」なんていいう内容のものがあるのだけれど、この不条理というか、突拍子もない言葉は、まさに、僕らが体験する夢の在り方を示している。

その他、「創世記」の最初の一週間の話などを知っていれば、この当たりからこの本のテーマに近づくことも可能かも知れない。

深読みすればするほどつじつまが合わなくなるし、かといってまったく合わないわけではないところが、この本の懐が深いところで。大学生がこの本をテーマに色々と議論したら面白いんじゃないか?

で、結論は、この本は、小説らしい小説で、小説でなければできない問題の提起、つまり、人間とは何か?という問いに対する一つの答えを、言葉にならない「状況」で指し示している。

これを読まずに死ねるか。

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2008年06月03日

エデンの東

ジョン・スタインベックの「エデンの東」を読み終えた。長かった。文庫本で4巻。ブック・オフで旧訳1冊100円を纏めて買ったのでした。

そして、1巻を読み進むと、次の文章に出くわした。勿論日本語で読んだのだけれど、その内容をどこかで読んだ気がしたので、「英文標準問題精講」で探してみたら、ありました。

This I believe: that the free, exploring mind of the individual human is the most valuavle thing in the world. And this I would fight for: the freedom of the mind to take any direction it wishes, undirected. And this I must fight against: any idea, religion, or government which limits or destroys the individual. This is what I am and what I am about.  I can understand why a system built on a pattern must try to destroy the free mind, for that is one thing which can by inspection destroy such a system.

18才の受験生には、なにやらわからなかった文章だけれど、今では、よくわかる。今の社会が生きやすいと感じている人は、おそらく、ここで言う「exploring mind」というのが欠けているのかも知れないな。

この文章の直前のものも、この受験参考書に採用されていて、それも味わい深い文章で、これら二つの文章が、同じページから切り取られたのだと、どうでもいいんだけれど、新たな発見をしたのだった。

こういう優れた卓見がちりばめられてはいるのだが、作品としてどうなのか?と言えば、傑作とは言えないかも知れない。それに、訳者が1巻と4巻が野崎孝! 2巻と3巻が大橋健三郎!という変則的なもので、キャラクターの性格が首尾一貫していないような気がするし、そのあたり、途中でガックシすること多々あるのだった。

(以下ネタバレあり)

凶暴なチャールズにいびらていたアダムが、軍隊から帰ると、とたんにチャールズと引けを取らない頑強さを発揮したり、アロンとキャルの父親は本当はチャールズらしいのに、そのことについて深く言及されていなかったり・・・あの悪の化身のような母親キャシーが何故自殺しなければならないのか判然としないし、母親が売春宿を経営していることを知ったとして、兵士になって死ぬ選択をアロンがしなければならないほど、それほど衝撃的な事実だったのだろうか?周りの町のみんなは知っていたのだし・・18才になるまで、そういう周りの状況に気がつかないアロンもちょっと足りない気がするしな。

まあ、そんな風に???が続くのでありました。

しかし、アダムとチャールズ アロンとキャルの2代にわたる兄弟の確執というか、それぞれの父親の愛を巡る3角関係というか、創世記のアダムとカインの話を、微妙にずらしながら現代に置き換えた話ではあるので、構成はわかりやすい。

そこに、アダムとイブの原罪の話が入り込んできて、頭の中は、質疑応答でくらくらしてくるのだが、読み終えて、これらの視点を整理すると、なかなか面白い話だったなあと今気がついたのでした。これらのテーマは、スタインベックをしても手に余るものだったのかも。

この本の中で、中国人リーが聖書の解釈を巡る会話が延々と続く場面があるのだが(まるでカラマーゾフの兄弟の「大審問官」のよう)、ヘブライ語の聖書によると、「ティムシェル」という言葉があって、これは、「汝 罪を治めることを能う」という風に解釈できるという話だったと思う。そうなると、人には原罪を克服する力がそもそも備わっており、そうする努力は決して無駄ではないと言うことなのか。

う〜ん、そうか。

しかし、キャラクターは良く書かれています。映画では、キャルを「ジェームス・ディーン」をやったのかな?だとしたら、キャルは、色黒で髪の毛は黒じゃなかっか、目つき鋭い野卑な感じで狡賢いというキャラクターだから、ジェームス・ディーンはミスキャストなんじゃないか?まだ、見ていない映画なので、見てみたい。

ボクが配役を決めるのなら・・・

チャールズは、メル・ギブソン

アダムは、バート・ランカスター

キャシーは、ニコール・キッドマン

アロンとキャルは、リバー・フェニックスとホアキン・フェニックスの兄弟で

こんな配役で見てみたいものですな。

最近、新訳の文庫本が発刊されたようで、こちらは、訳が読みやすいらしいので、こちらを購入するか図書館で借りることをお勧めしますよ。

いやあ、久しぶりにながいの読んだわ。

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2008年04月05日

ペット・サウンズ ジム・フーリ著

「これは実に実に偉大な曲だ」とポール・マッカートニーは言った。「ぼくはこの曲がたまらなく好きだ。」

「ペット・サウンズ」の中の「神様しか知らない」のこと。

ロック史上初めてのコンセプト・アルバムビートルズの「ラバー・ソール」に刺激を受けたブライアン・ウィルソンが、自分の頭の中になっている音楽を完璧に再現して出来たアルバムが、この「ペット・サウンズ」だ。

いやはや、素晴らしいアルバムだ。ロックCDの中から1枚選べと言われれば、1週間くらい悩んだ末、このアルバムを選ぶと思う。空前絶後。もう2度とこの基準を超える音楽は、生まれないとさえ思う。

高校生の頃、このアルバムを買ったけれど、何が良いのか途方に暮れた覚えがある。世評も、悪く、一般的に軽んじられてきた作品だった。ローリングストーン誌のレコード評も星3つ。デーブ・マーシュという優れた評論家が下した結論だ。曰く「サージェント・ペパー」の真似をブライアンがしたことに間違いがあった」と。事実は、その逆なのだが。

しかし、聞き続けて30年近く。徐々に、雨のしずくが岩に穴を穿つがごとく、徐々にぼくの中に独自の位置を占めるようなそんな存在になってきたのが、このアルバムだ。

この本を読み終えてから、3日間。我が家で、ジョギング中、仕事中、この「ペット・サウンズ」が鳴り響いている。

ぼくの持っているボックスセット「The Pet Sounds Sessions」は、4枚のCDが入っていて、ステレオバージョンの他、演奏のセッションと、声のみのトラックと、別バージョンの曲が入っていて、それを繰り返して聴いていると、いろいろな発見があって、とてつもなく面白い。

こんな風にぼくは、ペットサウンズを考える。この音楽は、人を選ぶのだと思う。誰が聞いても楽しいものではないかもしれない。たいていの優れた作品と同様、辛抱強く何度も聞くことによって、心の底に音が届くようになると、もう、この音楽なしでいることが出来なくなるような作品なのだ。

とにかく、聞けば聞くほど理解が深まり、時に詩の一節に感極まって、心が震える事があるのだ、30年も聞き続けているのに!

1966年5月に、ブルース・ジョンストンが出来たばかりのアセテート盤をロンドンへ持って行った。ザ・フーのキース・ムーンがこのアルバムを偉く気に入って、何人かの人にコンタクトを取った。レノン、マッカートニーがホテルにやってきて、何度か、それを聞いた。二人は、言葉を失っていた。世間向きのクールでちゃらちゃらしたペルソナをかなぐり捨てて、その音楽を子細に検討しているのを、ブルースは目撃したそうである。

そうして出来たのが、「サージェント・ペパー」だったのだが、この最後に出てくる訳の分からない音は、「ペットサウンズ」に対する敬意を表しているものとされている。

「ペッパー」がレノン・マッカトニーのコラージュ的編集技術とスタジオワークの見事な結晶だとすれば、「ペット」は、ブライアン個人の頭の中に鳴り響いている音の具現化といったところだろうか。なんと、ブライアンの頭の中では、素晴らしい音楽が当時鳴り響いていたことか。

村上春樹の訳は、相変わらず素晴らしく、何たって、自身の作品に「ダンスダンスダンス」なんて題を使う程のフリークだもの、楽しんで訳したのではないでしょうか。しかし、あの名作「神のみぞ知る」の訳が、

いかなるときにも、君を愛するとは、いいきれないかもね。

というのは、いかがなものか。先日読んだ、「村上ソングス」の中にもこの訳が載っていたけれど。この、「かもね」というところが、妙にひっかかる。

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2008年03月24日

カインド・オブ・ブルーの真実 アシュリー・カーン著

何はなくとも、「カインド・オブ・ブルー」である。最も有名なジャズアルバムが、この1959年3月2日と、4月22日に、ニューヨークのエンパイア・ステートビルの近くにある30丁目スタジオで録音された。その詳細なデータを、マスターテープの音源を再現しながら、纏めたのがこの本。

何はなくとも、A面1曲目の「So what」である。

ポール・チェンバースのベースとビル・エバンスの彩り鮮やかな軽いタッチのピアノが作り出すプレリュード。ここで、心の準備を整える。そして、次にチェンバースのベースが高らかにマントラのような至高の8音を紡ぎ出し、「Soooooo what!」の2音が続く。

やがて、マイルス御大のトランペットが入り込むが、その直前、必殺のジミー・コブのシンバルが1回だけたたき込まれる。まあ、ここでたまらず鼻血が出るところ。

中低音を強調したマイルスの旋律は、「春冬山水図」を制作中の雪舟もかくありや、とうほどの緊張感でリリシズムが絞り出すかのようだ。失敗は許されない、二度と生まれない、アドリブ。こちらの手のひらにも汗がにじむ。

で、次に登場するのが、怒濤のコルトレーンのテナーとアダレーのアルトだ。太いタッチで油絵の具を一インチも違わず筆を運んでいくという風情で、彼らだけの出来る絵画を音で作ってみせる。上下に浮かれて気持ちよさそうに吹いているのが、アダレーだ。どんな絵を書いていたのだろう。

ビル・エバンスのソロは、ドビッシーのような繊細な音で、絵で言うと水彩画のようなものだ。どこまでも、ピュアーでイノセンスな音を目を閉じて追い続けると、テナーの音で目が覚めた後、知らぬ間に優美で幽玄な小径を逍遙している自分に気がつく。

そして、また最初の8音に戻って、静かに消えていく。

ああ、素晴らしい。どうしたら、こんな素晴らしい音楽が生まれるのだろう。

という秘密を解き明かすのが、この本。でも、いくら記録を集めてきても、そんな秘密は、明かされないのだ。当たり前だけれど。

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2008年03月21日

ナチュラルスタイルの私らしい暮らし

この雑誌の中のどこかに、我が家の台所が隠れている・・・。謎。

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村上ソングス 村上春樹 和田誠著

グレン・キャンベル(Glen Campbell )の名を初めて知ったのは、多分、「銀座ナウ」という番組の提供会社であるコカ・コーラのコマーシャルの中だ。ベスパを乗り回す若い男女が、ハワイのような海あり山ありのワインディング・ロードを走っているところに、「Come home me to my brother♪♪」という歌が流れて、演奏・歌 グレン・キャンベルと出ていたような気がするのだが、どうだろう。

その後、バーズの「ミスター・タンブリンマン」のイントロの12弦ギターがこのグレン・キャンベルで、その当時は、スタジオからスタジオへとギター1本抱えて、歩き回るミュージシャンだったというのを知って、そのギター演奏の神髄に触れようとして、ベスト盤をLPで買ったのは、中学2年生くらいか。

だけど、当時 のボクは、ディラン・バンド・ストーンズ・ジミヘンという音楽に夢中で、ロビー・ロバートソンのギターのように金属音を出すには、こうするんだぜ!なんて言う風に、ギターを弾いてみたものの、周りには、「あっ、そう」くらいにしか受けとめれれず、今も昔も、寂しい、周りのヒット曲とは、外れた視野狭窄なロックフアンだったので、こういうポップカントリーな曲は、クールではなく、ちょっと気恥ずかしい思いをしていたのだ。ギターもほとんど聞こえなかったし。

だけど、その中で、「ジェントル・オン・マイ・マインド」と「恋はフェニックス」、そして「ガルベストン」という曲は、大いに気に入っていたけれど、周りの奴らとキャンベル叔父さんの話をして大いに盛り上がるという事はなくて、寂しい思いをしたものだ(クイーンにキッスにアバが幅をきかせていた時代だったので。

いつの時代にもマイノリティというのは、敏感であり、片岡義男の「気まぐれ飛行船」で「ジェントル・オン・マイ・マインド」がかかったときには、ま・さ・か・と、よく覚えているし、たしか、アン・タイラーの小説「ブリージング・レッスン」だったか、「あの頃私たちは大人だった」だったか、で、カーラジオから「恋はフェニックス」が流れたという描写をそれこそ、ドキドキしながら読んだことをよく覚えているわけだ。

そして、「ガルベストン」。

「村上ソングス」村上春樹・和田誠著をぱらぱらと読んでいたら、出てきましたよ、「ガルベストン」が。この本は、村上春樹が歌の詩を訳して、それに関するエッセイを書いているもの。発売日に、ぱらぱらとめくって、この「ガルベストン」が目に入ったときは、正直嬉しかった。ようやく、グレン・キャンベルのことを話し合える友人にあったような気がして・・・。

初っぱなの曲がブライアン・ウィルソンの「神のみぞ知る」から始まるのがとてもいい。そうそう、「死ぬ前にしたい10のこと」でサラ・ポーリーが、台所で歌ってましたね。よく覚えています。そして、ラブ・アクチュアリーという映画の最後にも使われていましたね。

あと、ボクの大好きなライ・クーダーの失敗作だと考えられている「ゲット・リズム」の中から「Going back to Okinawa」が紹介されていたり、最近、ジョグ用によく聞いたいるシェリル・クロウの「All I wanna do」が扱われていて、十分楽しめました。

3分の2くらいCDでもっているんで、暇なときにこの順番でMP3化してみようかしらん。

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2008年03月20日

いのちのレッスン 新藤兼人著

いつの頃からか、生きていくことが、楽しいことではなく、辛さの上に成り立っているという実感がひりひりと胸に感じる頃がやってくる。何があったわけではないけれど、ふとそんなことを実感する時期が必ずやってくる。

そんな時、自分より年長者に対し、自分よりもながいこと、このどうにもならない人生というものを積み上げているという事実にたいして、頭を垂れるような謙虚な姿勢が自分に出来る。

この本の著者の新藤兼人は、もちろん単なる年長者ではなくて、映画監督・脚本家として、映画史に残る作品を残しているし、現在最高齢の現役監督(今年97才!)でもある。勿論、自分の2倍以上の人生を生きているという事実だけで、尊敬するという意味ではなく、なにか、この本を読んでいると、こちらが謙虚な気持ちになり、そのメッセージが直接心の中にすんなりと入り込んでくるのだ。

どの章を読んでも、嘘のない、誠実な切ったら血の出るような文章だ。始終、読んでいる間中、枯れた心が水を求めるように、文書を貪り読んだ体験は、久しぶりのことだ。曖昧に感じていたが形にはなっていなかったイメージの塊が、この90を越える人生の大先輩の言葉を通じて、外に出てきて、形をなして頭の中に定着する。

こんな風に、心の中を鍬鋤で耕されると、掘り起こされた心の断面が地表に現れて、生まれ変わったような気分になる。

ああ、得したなあ。監督の脚本や映画も素晴らしいけれど、本でも感動を与えてくれました。

詳しい内容は、http://seisoushobou.com/book/nonfiction/nonfiction01_01/

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2008年03月19日

名盤の裏側 デレク&ドミノス インサイド・ストーリー ジャン・レイド著

デュエイン・オールマンの頭の中に、「レイラ」の最初の7音が閃いたときに、この曲を含む「レイラ」というアルバムは、間違いなく人類の至宝とも言うべきものになったに違いない。

そんなアルバムを作り得た5名のミュージシャン、デュエイン・オールマン、ボビー・ウィットロック、カール・レイドル、ジム・ゴードン、そして、エリック・クラプトンが「デレク&ドミノス」という交差点ですれ違い、そして、去っていくまでの物語が描かれている。

真新しい情報はあまりなかったけれど、断片的に知っている知識を整理するには、良い本。音楽的にも、異性にも、変わり身の早いエリック・クラプトンを知ることが出来る。

以下の5枚のアルバムを持っている貴兄には、知っている事ばかりかも知れないけれど、こんなアルバムを引っ張り出してきて聞きながら、本書を読むと、音楽鑑賞に深みが出てくる。まあ、ロックを聞くもののたしなみとして、是非。

デラニー&ボニー&フレンズ「オン・ツアー・ウイズ・エリッククラプトン」

ザ・バンド「ミュージック・フローム・ビッグピンク」

ジョージ・ハリスン「オール・シング・マスト・パス」

デュエイン・オールマン 「アンソロジー VOL1」

そして、デレク&ドミノス「レイラ」

本の中で、へぇ〜と思ったこと。

・クリーム時代にジミ・ヘンドリックスに出会ったとき、リズム・ギターとソロとを同時に弾くことが出来たのにぶっ飛んだそうだ。

・そのリスペクトとして、ジミの「リトル・ウイング」をアルバムの中で演奏し、そのテープと左利き用のストラトキャスターを、イギリスにやって来たジミに手渡そうとしたが、出来なかった。その日、ジミは、風呂場で窒息死していたから。

・デュエイン・オールマンの代わりに、本来は、ディブ・メイソンが、ドラマーとしては、ジム・ゴードンの代わりに、ジム・ケルトナーが考えられていた。二人とも予定が付かずに、、仮に、メイソンとケルトナーが入っていたら、多分、オールシング・マスト・パスのLPでいうと3枚目のB面のような冗長な演奏になったような気がする。

・「レイラ」の後半、ピアノの演奏は、ジム・ゴードンと当時つきあっていたリタ・クーリッジが、どちらが下手糞に演奏できるか戯れに演奏していたのを、クラプトンが覚えていて、くっつけたもの。このお陰で、ジム・ゴードンには、莫大な印税が入ったのだが、リタ・クーリッジの名はクレジットされていない。

・ジム・ゴードンの最後は悲惨だ。強度の分裂症にかかり、ボブ・ディランからの「スロー・トレイン・カミングス」のドラマーとしてのオファーがあったとき、母親の声が「止めろ」と命じてしまう。そうこうしているうちにポール・アンカからのオファーも同様に母親の声に阻止されてしまう。「邪魔しやがって、母親を殺してやる!」と、母親に金槌で頭を3回たたき割り、ナイフで3度刺し、ナイフは胸に挿されたままだったという。刑期16年から無期と判決されたが、二度と社会には出てこられる見込みはないそうである。

・最後の曲「庭の木」は、ボビー・ウィットロックの名曲だけど、レオン・ラッセルの大邸宅で、訳あって飼い猫を捨てさせられたときの悲しい気持ちを書きためたものであった。

・クラプトンの夢が「生涯1000人の女と寝ること」「世界一のギタリストになること」というもの。

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2008年03月17日

「生きることを学んだ本」からのブックリスト

伸び支度 島崎藤村

よだかの星 宮沢賢治   3/21 読了 (悲しみの塊となって生き返って星になった夜鷹。悲しい話)

顔の中の赤い月 野間宏

ひとよ草 幸田露伴

生物祭 伊藤整

春先の風 中野重治

小さな王国 谷崎潤一郎

狐 永井荷風

赤蛙 島木健作

二銭銅貨 黒島伝治 3/21読了 (生きていることのかけがえのなさ。失って初めて浮かび上がってくる生の愛しさ。ぐっと来る)

セメント樽の中の手紙 葉山嘉樹

風と光と二十の私と 坂口安吾 3/21読了 (ボクの憧れ、安吾のような先生に出会えていたらなあと思う。たしかに、少年より青年になるある時期、大人より老成することがある。)

ナポレオンと田虫 横光利一

火を点ずる 小川未明

蜆 梅崎春生

重右衛門の最後 田山花袋

以上 「生きることを学んだ本」 高史明(コサミョン)著から未読の本のリスト

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2008年03月13日

「散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官 栗林忠道」 梯(かけはし)久美子著

調べてみたら、昨年の5月19日に「硫黄島からの手紙」を文芸座で見ている。クリント・イーストウッド監督の素晴らしい作品だった。10年に1度の作品といったら言い過ぎか?

そして、ずっと気になっていた「散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官 栗林忠道」 梯(かけはし)久美子著を読んでみた。

映画の中では、渡辺謙が演じた栗林忠道中将は、過酷な運命に真っ正面から対峙し、自分の役割をはっきりと認識して、その役割を果たすのに、最も効果的で実際的な方法を合理的に編み出して、用意周到に決戦の準備をし、結局は、本土決戦の捨て石として大本営からは見捨てられるにもかかわらず、冷徹な目を持って作戦を敢行した指揮官であった。

自ら島を観察し、最も効果的で合理的な戦いの方法を編み出して、絶望的な状況では、生きる地獄よりもバンザイ突撃をして玉砕することの方が楽と思う兵士も多いらしく、そうした事例がたくさんあったそうだけれども、そうした「死」を厳に戒め、そうした「無駄」な死をさせることなく指揮した。

サイパン陥落後、そのサイパンと本土のちょうど中間地点にある硫黄島が陥落すれば、ここを出発点として、本土に何度でも爆撃が可能になる、そして、この地を守り抜くことができれば、それだけ本土空襲を少しでも減らすことが出来るという意味合いにおいて、兵士に意味のある「死」をもたらすために、バンザイ突撃、将校は後方で切腹という、玉砕という美しい言葉で括ることを許さなかったのである。

自分の良心に従い、冷静に戦局を見極め、結局は、捨て石にされ見捨てられ後方支援も全くない状況にあって、大本営に対する批判の電報を、用意周到に大本営に直接訴えても黙殺されるばかりと思って、信頼する自分教官宛にも送っている。こうした凄惨な戦闘を余儀なくされている時に、抜かりなく行動に起こせるところに驚く。

平時にあっても、会社やら組織やら家族やらにもたれかかるのではなく、自分を見失うことなく、信念を持って自分らしく生きるという、ごく普通の人間性というものを保つのはとても難しいものだ。しかし、戦場という究極の生き地獄のなかにあっても、そうした生き方を貫いた人間がいたということは、私を元気づけさせてくれる。その姿は、硫黄島で敗者として無念のうちに散ったという姿は思い浮かばず、持てる力をすべて出し切って、実りのある生を存分に生きた自由人として心に刻み込まれたのだ。風通しがよく、自然体で、いかなる誹謗中傷も跳ね返すような、凛とした風体が浮かび上がってくる。

3日で陥落と思われた硫黄島を数ヶ月にわたって死守するという偉業を成し遂げた軍人というよりも、人が人として生きるに値する価値観を最後まで失わなかった希有な人として心に残っていくだろう。

そんな風に思わせるのも、著者である梯久美子さんのセンチメンタリズムを排した理性的な文体と、おそらく第1級の資料である「手紙」を基に、その他沢山の資料と調査によるものが多いだろう。

間違いなく傑作。次作が楽しみ。

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2008年03月07日

ふるさとは貧民窟(スラム)なりき(ちくま文庫) 小板橋二郎著

読んでも読んでも無くならない「未読本、積読本」在庫。全部読み通すのは、絶対無理。だが、ガシガシ読んでいこう!

この本、前々から気にはなっていた。舞台が板橋区の岩の坂。旧中山道の板橋は「縁切り榎」の近くにあったというから、何度かそのあたりを通ったこともあったのだ。

貧民窟というのも、ボクが小学生のころでも、確かにあった。友人と自転車で走っていたら、ムシロをドアにした掘っ立て小屋のような家に家族が何人も生活しているような住宅群、突然そんな所に入り込んでしまって、見たことのない風景に唖然としてしまったことがある。今では、見晴らしのよい公園になっている。

そういえば、「修羅雪姫 怨み恋歌」という藤田敏八監督、梶芽衣子主演の映画でも、スラム街が舞台だった。同潤会アパートも、貧民窟を排除するために取って代わられたものだったというような、アナウンスが冒頭にあって、なるほど、と思ったのだった。

著者は、スラム街の木賃宿で育ったわけだが、映画を見てうり二つの光景に出会ったことが2度あり、その一つが、「どん底」の最初の場面。たしか、平家の大きなつくりの家屋で、間口は一つ、屋根の上には、吹き飛ばされないように石が置いてあるとても良く燃えそうな木ばかりで出来ている家、という印象があるのだけれど、こんど、もう一度、「どん底」を見てみよう。

その著者が、2度目の東京大空襲でスラム街が灰燼に帰し、一人で生計を立てていくまでを回想して書いたのがこの本。

スラムに関して、必要以上の興味を示して、異常に怖がるのは、インテリ層に多いらしいという指摘は、そこを揺籃として育った著者だから言える発言だろう。

貧しさが故の切ない話もあるけれど、石屋の頭領で無頼な生活をしている木賃宿の主人やら、梅毒で鼻がもげてしまった「ハフハフおばさん」、博徒、パンパンになってしまう心の優しい美しい幼なじみやら、出てくる登場人物を時には、ユーモラスに描いているので、あっという間に通読。

戦中のスラム街の暮らしは、皆が零落はしているものの、そこはかとないヒューマニズムのようなものがかいま見られて、おおらかに書かれているけれど、戦後の食料の欠乏は、本当に辛そうだ。なかでも、戦争孤児と呼ばれる両親を失った子供達の哀れさといったらない。

最大の悲惨は、戦争に国民が巻き込まれること。

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2008年03月06日

小川未明童話集

35年ぶりくらい?で「赤いろうそくと人魚」で有名な小川未明の童話を読んでみた。

やはり、「赤いろうそくと人魚」は完成度が高い。ボクの気に入った話は、「野バラ」「月夜と眼鏡」「月とアザラシ」「金の輪」といったところだろうか。

赤いろうそくと人魚の冒頭は、

人魚は、南の方の海にばかり住んでいるのではありません。

最後は、

幾年も経たずして、その麓の町はほろびて、滅(な)くなってしまいました。

と締めくくられる話。そこに、「赤いろうそくと人魚」という表題を持ってくると、哀しい話ができあがる。

これらの童話を読んでいるとき、しばしば、なんでもないけれど、少しだけ、つじつまが合わない、なんだか、懐かしい風景や人々が出てくる夢を見ているような気がする。それは、無垢で、あらゆる感情を結晶化して、静謐の世界を形作っているようだ。

小学生の頃初めて読んだ感覚もそんな感覚を感じていたような気がする。その世界が、あまりにも静かで清潔な世界だったので、陰気で、拒絶されたような気がして、なんとなく、怖い感じがした。

「金の輪」なんて、まさにそう。あちらの世界が、ふとこちらの世界に陽炎のように現れてくる世界。あんな風に、あちらの世界に、引っ張られていってしまうのか、と。

綺麗な言葉とは、こういうようなものだ、というほど、洗練されている文章で構成されている。現代の童話って読んだこと無いけれど、こういう文章に子供の頃に出会えて、ボクも運がよかったなあ、と思う。


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2008年02月29日

「ペット・サウンズ」「ティファニーで朝食を」「ナイン・ストーリーズ」

昨晩、仕事帰りに本屋で、村上春樹訳の「ペット・サウンズ」をパラパラと立ち読み。このビーチボーイズのアルバムを初めて聴いたのは、高校生のころか。最初は、とても、取っつきにくい感じがして、あまり聞かなかったけれど、ターンテーブルで、何度も聞いている内に、だんだんと気に入るようになって、今じゃ、何故か春に聞く定番アルバムになってしまって、夏秋冬もよく聞くし、これなしでは、いられない無人島へは絶対に持って行くであらうアルバムになってしまった。

ちなみに、1980年くらいにRollingstone誌のレコードガイドでは、3つ星程度の評価しかされていなかったような気がするのに、つい2,3年前の同誌のもっとも偉大なアルバムの中の2位(1位はビートルズのSPLHCB、そして3位は、ボブ・ディランのHighway61 revisited)にランクされていて、ここ20年くらいの間に、評価が急激に上がったアルバムである。

昭和57年に発行された「ローリングストーンレコードガイド」を繙いて調べてみたら、三つ星(五つ星が最高)。

<pet sounds>は、商業的な意味での初めての失敗作だった。その主な原因は、ビートルズが<Sgt.Pepper>でやってのけたようなような試みを、ほとんどそれと同じような形でやろうとしたことにあった。その音楽はつい印象を与えるが、むらがある。

と当時ローリングストーン誌で活躍していたデイヴ・マーシュ(あの、ブルース・スプリングスティーンの伝記の名作「明日なき暴走」の著者でも有名)が書いているくらい過小評価されていた作品だったのだ。

それが、1992年版の「Rolligstone album guide」では、五つ星で、できるべきしてできた傑作アルバムと手放しの褒めようだ。

不毛の80年を経過して、人の見る目が変わったからなのか?

この1966年は、様々なスタジオにロックの神様が降りてきて、乗り移ったとしか言いようのないアルバムがたくさんある。65,66,67,68年という年に制作されたアルバムだけで、十分満足できる素晴らしい物が目白押しなのである。

 

そして、今日、村上春樹役のカポーティの「ティファニーで朝食を」が店頭に並べられた。これは、学生時代、物好きな友人数名でペーパーバックで精読した思い出のある本。キーワードは、「mean red」という語。この訳しづらい言葉をどんな風に訳しているのか、興味津々だったので、パラパラとめくっていった。

村上役では、「いやったらしい赤」となっていて、その前後のホリー・ゴライトリーとナレーターとの会話をざ〜っと読んでみて、なんて上手い訳なんだろうと感心した。村上役では、チャンドラーの「ロング・グットバイ」で、痺れさせて貰ったけれど、この訳もいけそう。買うには、1200円は高いかな?図書館で待つべし。

と、村上春樹は、訳者としても相当な腕前なのだが、どうもぴんと来なかったのが、「ライ麦畑でつかまえて」。やはり、野崎孝訳で慣れちゃっているからねえ。今回は、この野崎孝訳の「ナイン・ストーリーズ」を読んでみる。

まず、9つの短編のタイトルを読んで貰いたい。

1 バナナフィッシュにうってつけの日 2 コネティカットのひょこひょこおじさん 3 対エスキモー戦争の前夜 4 笑い男 5 小舟のほとりで 6 エズミに捧ぐ 愛と汚辱のうちに 7 愛らしき口もと目は緑 8 ド・ドーミエ=スミスの青の時代 9 テディ

1,2,3,4,8なんて、村上春樹がタイトルとして今でも使いそうだし、7なんか、片岡義男的かな?

20数年ぶりに読み通してみたのだが、全く持って古くさくはなく、都会的で知的な会話に一緒におしゃべりをしているような気分にさせられ、物事が落ち着くところに落ち着くと思わせる微妙で繊細なあたりにふわりと着地させるような物語の進行の巧みさに、ただただ驚く。

禅の公案 両手の鳴る音は知る。片手の鳴る音はいかに?というのが冒頭に書かれてあるとおり、シュールな「バナナフィッシュ」に始まり、東洋哲学的唯心論を語る天才少年「テディ」に終わる物語となっており、「ペット・サウンズ」の曲の繋がりのように、この位置を変えることは、物語全体を損なうことになるのではないかというほど、きっちりと読んでいて気持ちの良い物語の配列になっている。

また、最後の「テディ」の成長し、先頭の「バナナフィッシュにうってつけの日」にシーモアとして登場し、物語の最後で7.65ミリ口径のオルトギーズ自動拳銃で、右のこめかみを打ち抜く・・・という9つの話が回転するような形式になっているような(ちょうど、ボブ・ディランの「見張り塔からずっと」のように)気もする。

禅の公案のように、論理を追っていくと、なかなか真実にたどり着けないような話ばかりなのだが、ありのままに物語を読んでいくと、なんとも楽しい話なのだ。腑に落ちるか落ちないかは別として。

一番有名なのは、1,4かな。4は、たしか、大学の英文購読の教科書に入っていたような気がする。4が、一番古典的な筋らしい筋がある話だろうか。

「ライ麦畑」のよき愛読者が、レーガンを狙撃し、ジョン・レノンを暗殺した訳だけれど、こういうカルトの臭いがプンプンとするのが、このサリンジャーかな。

ホールデン・コールフィールドは、これまた、長い名前のデビッド・カッパーフィールドの反パロディという気がするけれど、後者のように、世界と対峙するのではなく、物事を好き嫌いの2極に分けて(phonyか否か)行く内に、どんどん世界が狭くなって、世界が最終的に消え去って、留まるべき場所も無くなってしまった、というお話。感性の鋭いときに読むと、不思議な電波をキャッチしかねないそんな本だった。

そんな風に感じて、この「ナイン・ストーリーズ」を読み終えた。また、きっと読むだろうなあ。このシーモアを巡るグラース家のお話を、メモを取りながら、「フラニーとゾーイ」「シーモア序章」「1924年ハプワース16日」を読んで、纏めて読んでみたい気分が半分ぐらいあるけれど・・・。


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posted by ロビオ at 14:07| Comment(2) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする