2012年02月16日

時計じかけのオレンジ

「時計じかけのオレンジ」を原作で読んでみた。

今回は、ハヤカワ文庫の最終章を加えた訳で、字が大きくて昔の版よりかなり読みやすい。

ソビエト語と英語の造語がタップリと入っていて、ハラショー?な文体が魅力な一冊だ。

映画で相当有名な本だけれど、本を読み終えて、大抵が本のほうが映画よりも感銘を受ける度合いが高いのだが、これは、引き分け。

どちらも素晴らしいのよ。

原作では、主人公のアレックスは15歳。映画のマルコム・マクドウェルは、どう見ても18歳以上。

15歳のガキがレコード屋へ行って、10歳の二人の女の子を自宅に引き入れて、「入れたり出したり」しちゃうのは、やっぱりまずいので、その点、映画のほうは、同じ年代の女の子で、「インアンドアウト」しているから、原作のほうが過激だろう。

刑罰理論の新派・旧派の対立。犯罪観の相違。刑罰は、目には目をの応報ではなくて、教育して社会に有益な人材として社会に送り返すことなのだという教育系論等々、刑法理論を学んだものとしては、甚だ面白い議論があって、それが、この小説の大きなテーマになっているのに違いないと思うし、刑法を専攻した学生はぜひ見るべしということになるのだが、それよりも何よりも、スタイリッシュな文体が魅力だ。

少年ギャング団4人のリーダーであるアレックスは、麻薬入りミルクを飲みながら、どんなウルトラ暴力を犯すか思考中。かっぱらったスポーツカーで、次々人を襲って、暴力のしたい邦題。人を殺しても全くもって反省なし。14年の刑期を宣されて、刑務所へいれられが、新たに開発されたルドビコ療法という洗脳を受けることを条件に刑期を短縮される。

このルドビコ療法というのは、薬と残忍な映画を見させることによって(目が閉じられないように、瞼を強制的に開かせる装置が秀逸)、暴力の要求が体に芽生えると猛烈な吐き気に襲われてしまうという洗脳方法で、この処置を受けた主人公のアレックスは、二度と暴力をすることのできない体となってしまった。

この小説の素晴らしいところは、この暴力を楽しむ主人公の頭の良さと感受性豊かなところ、またベートーベンを始めとするクラシカル音楽に対する造詣の深さ、そして、これが一番気に入るところなのだが、自己告白の率直さ、誠実さといった特性に主人公に惹かれてしまっていくことだ。

生来の犯罪者で、どう考えても酷い人間だが、裏表はなく、まして、偽善的なところが一切ないところが、主人公を魅力的にさせて、いつのまにか、主人公がルドビコ療法によって反撃できないことをいいことに、かつての仲間にリンチされてしまったりすることに激しい憤りさえ感じてしまう。いい気味だとか、同害報復だ、といった感情は、あまり浮かんでこない。

この小説のテーマは、善より悪を選ぶ自由を否定するのは、その悪よりも更に悪いことではないかということで、人間の自由意志の中に神の意志もまた存するといった価値判断が入っている。

このルドビコ療法は、現政権の政治に利用されるが、反対勢力の政治団体にも利用されて、飛び降り自殺を企てることになる。

洗脳と、政治利用という「不自然な」力に翻弄された主人公に、読者は、哀れみすら感じるので、この飛び降り自殺で九死に一生を得た病院で洗脳を解かれて元の隙あらば暴力を楽しもうとする主人公に、我々は、ほっと溜息をつき、今後の主人公の「活躍」に期待する自分を発見するのだ。

と、ここまでが、旧版の小説で、新しい版では、このあとに1章付け加えられていて、刑務所にいた間に時代は移り、昔の仲間は、結婚相手をみつけ、新たな「言葉遊び」をするグループに入って、落ち着いた生活をしているのに感銘を受けて、自分も、そろそろ落ち着いた生活をしようかという気分で終わっている。

この章の存在は、僕には蛇足に思えるし、文体もくすんで重たい感じがするし、取ってつけたような感じがしないでもない。暴力というボールを転がし続けて、「倫理的」な落とし所として、「クリスチャン」の参加であるアンソニー・パージェスがこの章で終えたい気持ちはわかるけれど、やはり、パワーが削がれる感じがする。

キューブリック監督の映画も、この最終章は無視しているが、これは正当だと思う。

飛び降りで体中石膏に固められて、洗脳を解かれて、元に戻ったアレックスが、現政権の内務大臣に食事の世話をさせて、ナイフとフォークで肉の切れ端を口に運ばさせる際のふてぶてしい態度を愉快に思うところで終わるのがやはり正しいこの小説の映画のあり方だと思える。

映画も、再度見たけれど、近未来的なポップな家具や建築に目を見張るところがあり、色の配置とかカメラアングルの素晴らしさは言うまでもなく、クラシカル音楽が随所に現れて、音響効果と暴力シーンのアンバランスさが見事。

人は笑いながら怒ることができないように、「ウイリアム・テル序曲」を聞きながら乱痴気騒ぎが滑稽に映るので、正当な価値判断で評価を下しながら見ることができない。

同じように、現代美術の権化のようなペニスの置物で、殺人が行われ、最後の一突きに、芸術作品のような絵でその結末を暗示させることによって、一連の暴力に対する判断停止、あるいは、映画の愉悦というものを感じるように巧みに作られている。

またモダンバレエのように、「雨に唄えば」を歌って踊りながらの暴力シーンは、アレックスの暴力に対するヨロコビを表現するとともに、我々を倫理的に宙ぶらりんの状況にする手腕でもある。

今シーンを取るのに3日間かけたというけれど、作家の本棚を倒すシーンのマクドウェルの運動神経が素晴らしい。

スローモーションと高速度撮影。これが、ポップな様式美を支えている。

というふうに、小説では、ロシア語と英語の混じり合った造語で綴られたポップな文体を、キューブリック監督は、こうした手腕で「映画の文体」を見事に映像の中に刻み込んだという点で、やはりこの映画は、素晴らしい。

 

 

「非情の罠」「現金に体を張れ」「突撃」「スパルタカス」

「ロリータ」「博士の異常な愛情」

「2001年宇宙の旅」「時計じかけのオレンジ」「バリー・リンドン」「シャイニング」「フルメタルジャケット」

そして「アイズ・ワイド・シャット」。

長編は、このわずか12作。そして、そのどれもが基準を超えて、ため息の出るような映画ばかり。

年代順に、もう一度見てみようと思って、現在取組中。

 

 

  • 冒頭に出てくる「コロバ・ミルクバー」の裸の女性の形をしたテーブルは、この映画のために「2001年」でスターチャイルドの彫刻をしたリズ・ムーアが担当した。
  • 作家夫婦の家に掛けられていた絵は、娘のクリスティアーヌ・キューブリックが描いた「シード・ボックス」で、撮影の終了後は、キューブリック家のダイニングの壁に飾られた。
  • アレックスの「矯正」が終わったことを観客に示すシーンで、ステージ上に現れた男が、アレックスを床に倒して踏みつけるのだが、この時に、アレックス役のマルコム・マクドウェルは、肋骨を折ってしまった。
  • 元仲間が警察官になって、矯正後のアレックスに偶然遭遇し、リンチされるシーンで、水の中に首を突っ込まれるシーンは、あわや溺死するんじゃないかというほど長くて、窒息寸前だった。
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2012年01月31日

月と六ペンス

「月と六ペンス」読了。

楽しい読書時間だった。

こういう味のある小説を書ける日本人というのはいなかったし、これからも、いないだろうな。

どこをとっても、英文和訳の素晴らしいテキストになりそう。

次は「劇場」を読むか、もう一度「人間の絆」を読むか?

posted by ロビオ at 12:26| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月08日

やはり古文漢文を読まなきゃね

昨日、帰りにジュンク堂によってみたら、文庫本の売れ筋の3位の棚にこの「漢文法基礎」という本が置かれていた。

誰かが、悪戯に置いた手の込んだ悪い冗談なのかなという気がしないでもないけれど、突発的に、どこかの大学か高校で、参考図書に指定されて、多くの注文が入ったのかなとも思う。

今、漢文ブームなの?漢詩ブームというのと関係があるのか?

以前ブログにも書いたけれど(大学受験の際にZ会から出版されていたこの本を読んで勉強したというようなこと)、とにかく、この本、2週間くらい前に珍しく私買いました。

最近は、古文漢文がマイブームで、我が家にある少ない古文漢文の書かれている本を読み散らかしているのだけれど、文章のアンソロジーとして、また、忘れてしまった文法や基礎知識を整理するのに、読んでいる。

この本の特色は、「之」「乎」「者」「也」「矣」「焉」「哉」などの助字(読まない漢字)に詳しく説明がなされていて、まあ、受験時代には、こういう文字の重要性についてわからなかったから、読み飛ばしていたと思うのだけれど、ちゃんと、こういう助字にも当然意味があって、そんなことを勉強していると、漢文というものがより一層わかるようになってくる。

というわけで、私立文系でかつ漢文が大好きだった人じゃないと読み通すのは簡単じゃないと思うけれど、一度、基礎が出来れば、読む本の範囲が広がって、そこには、素晴らしい世界が待っている。

古文漢文と呼ばれる文章を最近集中的に読んでいて、とにかく、昔の人は、文章が短い。そして、多くの事を伝えることができた。すばらしい。書く為の文章として完成されていたんだね。

それが、言文一致となって、現代日本語の文章になるのだけれど、これは、まだまだ不完全で、だらだらとつかみ所が無く、おそらく、今後も、それ以前の完成された文書の域まで到達することは無いような気がする。

この言文一致体の完成と共に、江戸時代まで続いた我々の伝統や思考回路などなど、とっても大切なものが分断されてしまったような気がする。

ここには、綿々と続いてきた日本人の思想や感性の源泉が詰まっているのに、ああ、それなのに、古文漢文というのは、最近はやらないようで、大学の受験でもあまり配点が少ないのか、あるいは、選択して現代文だけで受験できるのかわからないが、ジュンク堂の受験参考書売場に言ってみると、あれっ?というほど参考書の数が少ないわけだ。

とにかく、日本人の感性や考え方を支えたのは、中国の書物に多くを負っているわけで、枕草子でも源氏物語でも、奥の細道でも、中国の古典がパロディとして、あるいは話の前提として、言及されていることに驚くのだ。

夏目漱石は、幼少の頃より漢文に親しみ、終生中国に対する敬意を失わなかった。

確か、漱石の日記に、中国人と間違えられることを日本人が嫌がるというのは、おかしな話で、中国人は、日本人より名誉な国民である、なんて事が書かれてあったと記憶する。

インターネットで検索してみると、ありました。

「日本人を観て支那人と云はれると厭(いや)がるは如何、支那人は日本人よりも遥かに名誉ある国民なり、只不幸にして目下不振の有様に沈淪せるなり、心ある人は日本人と呼ばるるよりも支那人と云はるるを名誉とすべきなり、仮令(たとい)然らざるにもせよ日本は今迄どれ程、支那の厄介になりしか、少しは考へて見るがよかろう、西洋人はややともすると御世辞に支那人は嫌いだが日本人は好きだと云ふ、之を聞き嬉しがるは世話になった隣の悪口を面白いと思って自分の方が景気がよいと云ふ御世辞を有難がる軽薄な根性なり」

読み返して、本当にそうだと思う。昨今の中国に対する憤りや、アメリカに対するお追従などを考えると、感慨が深い。

思うに、とにかく、拝金主義で、金にならないもの、ビジネスに将来結びつかないものというのが、高校や中学で排除されるという悪しき風潮が蔓延していて、古文、漢文を始め、無くてもいいモノとして排斥されてしまっているのかも知れない。

高校で、金融やら株式やらの勉強をやって何になる。英会話をして何になる。

勉強の基本は、面白いと思い、面白いと思ったら、もっともっと知りたいと思う。その指向性が大切なのであって、将来為になるからとか、将来の仕事で役立つからとか、そういう実践的なものではないだろう。

まあ、そういう人物が、たとえば、英語なんぞをぺらぺら喋っていても、多分、そこには、軽薄な内容しか無く、重みが感じられないのは、日本語を話しているのと全く同じで、端で見ていて笑止千万な気がする。

というわけで、話が大きくなってしまったが、言葉というのは、文化そのもので、日本の文化を知る最適な方法は、古文漢文に代表されるような文章を読んで、感動することに尽きるので、興味のある方は、是非、古文漢文を読んで貰いたいと思い、冒頭の本など、まずは手始めに受験参考書などを読むことを推薦したい。

posted by ロビオ at 10:49| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月03日

古文の基礎を勉強してみた

長い本を読む気力が全く起きないので、古本で買った「古文の読解」や「Word power made easy」や「徹底例解ロイヤル英文法」や「高校生のための現代思想エッセンスちくま評論選」やら日栄社の「方丈記」などを、ぱらぱらと捲って電車の中で楽しんでいる。

昔から定評のある大学受験の参考書というのは、下手な新書で発売されているその手の本よりも、内容が深く、そして、値段が安い。

未成年者が買うからそれなりの値段設定なのだろうけれど、さらに、ボクはアマゾンの古本かブックオフの100円コーナーで見つけてくるから、さらに、経済的ではある。

中学、高校と国語の教科書が配られると、楽しい読み物としてそれらを読んだのは、短い文章で、中身の濃い部分を選んで掲載しているから飽きずに読めるんだなと思う。

そういう意味で、受験参考書に載っかっているような問題文は、良い文章が選ばれているようで、読んでいて飽きないし、文章を精読するという意味で勉強になる。

その中でも、久しぶりに「古文」の勉強というか、解説付きで日本の古典を読んだというところなのだが、実に、昔の日本人というのは、文章が上手だったということに驚くわけで、特に中世の文章には、ハッとするほど感動する所があった。

平家物語の木曾義仲の最期のところの文章なんか、読んでいて目頭が熱くなるほど。方丈記の天災の記述なんか、それこそ、手に汗を握るほどの臨場感が、ただならぬ感じでこちらに伝わり、800年くらい前の人である鴨長明の息遣いがリアルに伝わってくる心地がして驚いた。

徒然草も、いままで何回か通読はしたけれど、こうやって、受験用の書物に出てくる例文を子細に分析してみると、上っ面だけでいかに読み飛ばしているかがわかって、たまには、こういう精読も心の滋養になるなと感慨深い。

本当に少ない語彙で、ぽつんぽつんと単語を並べて文章が構成されているように思えるのだけれど、その言葉の広がりや配置の絶妙さ、比喩の確かさ、対比の面白さという面で、現代日本語が失ったものを、再発見させてくれると共に、言葉の省略が却って、文章に深みを増すということを学ぶには、模範的な文章のカタログにもなっている。

というわけで、この小西甚一という学者の書いた「古文の読解」「古文研究法」「国文法ちかみち」という本は、一般教養で古文を知りたいという人にとっては、是非とも一度は目を通した方が良いと思われる本だ。

日本人に生まれて、日本の素晴らしい古典の世界に浸らずに死んでしまうのはとてももったいないと思うのだ。

この3冊の本で、みっちりと古文の基礎、常識を身につけたら、後は、無限に広がる日本の古典文学の世界に飛び込めばいい。

例えば、これは基礎の基礎なのかも知れないが、俳句鑑賞の際の「象徴」ということをこれらの本で初めて知ったのだ。

病む雁の夜寒に落ちて旅寝かな 芭蕉

という句があって、意味はよくわかるし、そのままその俳句を鑑賞していたのだけれど、

夜寒の旅愁と病む雁のわびしさという「深い共通性」を味わうことが俳句を鑑賞することだということを教わって目から鱗が落ちた思いがした。

「たがいに異なりながら、しかもどこか深い共通性があって、両者を対照することにより、それぞれの一番本質的な性格が同時に捕らえられるような表現」を著者は、「象徴性」ということの定義としてさらりと書いてあるけれど、これは、とても役立つ重要な定義だと思う。

句を詠む際には、この「深い共通性」を捉えることが鑑賞の要になる重要なポイントだ・・・なんて、誰にも教わったことがないし、読んだことも無かったので、受験用の参考書といって馬鹿にしてはいけないのだ。

しかし、問題を解きながら読み進めるので、ちくま文庫で500ページあるこの本を読み通すのに2週間かかった。が、得る物は大きかったので、次は、「古文研究法」に進もうと思う。

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2010年09月15日

ノルウェイの森

『ノルウェイの森』が映画化されて、公開は12月だとのこと。公開は随分先なんだね。

昨晩妻が映画版のホームページを見つけた。

妻が、珍しくこの映画を見に行きたいというので、久しぶりにロードショー公開で見に行くことになりそうである。

http://www.norway-mori.com/

映画の予告編が公開されていて、みてみると、ワタナベ君役は???。キヅキはいいんじゃないの。直子役は、なかなか良い線いっていると思う。小林緑役はイメージからほど遠い。もっともっと元気で、線の太い女優はいないものか。永沢さん、ハツミは、ちょっと困るくらいに若い感じがする。直子と緑は、生と死を糾う縄のような物語の中心だから、強弱のある女優がいいよなあ。なんて、勝手に今の段階では思っている。まあ、この予告編だけじゃ、何とも言えないけれど。 

舞台は1969年らしいのだけれど、この本が発売されたのは、僕らが大学3年の頃だったと思う。村上春樹の登場人物が遂に我々と同年代を書いたので、喜び勇んで生協に並べられていたのを買ったと思う。当時生協割引で1割引で買えたから。

浅田彰の『構造と力』なんか、ぽ〜んと放り出して、英語の先生だった柄谷行人の「隠喩としての建築」なんかも、ぽ〜んと放り出して、熱中して読んだ記憶がある。

ボクの入っていたサークルでも二三の村上春樹が好きな友人がいたのだけれど、そんな話はした覚えは全くない。けれど、妻とは、ボクは、この本の中の登場人物で唯一現実的な緑が好きで、「緑って、元気で良いよな。」と話したことは覚えている。

酷い高校時代と長い浪人生活と心身ともにくたくたで大学生となった4年間は、モラトリアムそのもので、極楽トンボだったのだが、なにせ、就職しないでやっていく!ことだけは決めていたので、大学3、4年にもなると、どうしようかそわそわしてくるんだね。

そんな状況で読んだ「ノルウェイの森」のワタナベ君は、おい、こいつ俺じゃねえかよ!と思えるほど、自分のことが書かれているような気がしたのだけれど、まあ、優れた小説というのは、そういう部分があり、「ライ麦畑」を読んだチャップマンがジョンレノンを射殺したときに、コールフィールドと名前を変えていたくらいだからね。

とにかく、ボクの大学時代で一番の思いで深い本と言えば、この本が挙げられる。

この本が洒落ているのは、主人公が、ハンブルグ空港へ降り立つ(「やれやれ、またドイツか」と主人公が呟くのだから、成功した社会人なんだろう)、まさにその瞬間に過去を振り返るという設定で話が流れていく事なんだろうね。

その過去を思い出す切っ掛けがイージーリスニングで流れる『ノルウェイの森』だったんだね。その音楽に目眩を伴って巻き込まれるように過去を思い出していく・・・というのが、優れて映画的で、感心したことを覚えている。

この『ノルウェイの森』というのは、京都の精神病院で直子と同室のレイコさんが、ギターで弾くんだね。この人のつま弾くギターの曲も、ボクが当時良く弾いていたものも多かったので、どうして、俺のギターで弾ける曲を知っているんだ!と、これも不思議に思った。S&G(スカボロフェアとか)だったり、ビートルズ(ヒア・カムズ・ザ・サンとか、ミッシェルとか)だったり。

そして、結末が、直子を失い旅行に出かけて傷が癒えたかに思えたとき、緑に公衆電話をかけるのだが、緑の「今どこにいるの?」という問いかけに、自分がどこにいるのか見失うというバランスの欠いた終わり方をしているわけだ。

この結末と最初の飛行機の中は語られていないけれど、それは、僕らが大学を卒業して、橋の下を大量の水が流れて、なんとか現在の時点で踏みとどまって生きているというところに至る変化は、だれでも経験していることだから、ごく自然にその最初のプロローグに戻ることが出来る。そうして、物語は、円環運動を始める。完結した物語なんだ。

ボブ・ディランの「All along the wachtower」とか、ヘミングウェイのニック・アダムス登場の短編とか、そういう最初と最後が輪で繋がっているものって結構あるのだけれど、それが、効果的に使われていて感心してしまう。

というわけで、原作のある映画はほとんどが、原作を超えないことが多いから、この映画をみれば、十中八九失望するんだろうなあと思いながらも、そのギャップを楽しむのも映画を見る楽しみ方でもある。

高校生の頃「風の歌を聴け」の映画版を見に行って、ずっこけたことを思い出した。まあ、実験映画みたいで、嫌いじゃないけれど、ちょっと、イメージからはほど遠かったな。村上龍監督の「限りなき透明に誓いブルー」のほうが面白かった(特に映画音楽がよかった)。

と、こうした話を書き連ねると、話が終わらないので、このくらいで。

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2010年07月27日

高山植物ポケット図鑑を買う

『北岳・甲斐駒』の登山地図を買ってきた。

南アルプスは勿論、3000メートルを超える体験も初めて。初めてづくしで心が躍る。

南アルプスは、行けそうで行けない微妙な位置にあり高度もあるので、一人では行こうとも思いつかなかった山だ。

地図を見て、北岳の周りの山が、これまた『日本百名山』ばかり。お隣の間ノ岳は、日帰りで北岳ピストン往復する人もいるようだ。

思えば、いままで、奥秩父限定で、薄暗い地味な山を何度も何度も登ってきた。

ひょっとしたら、南アルプスの山に登って、いままでの山登りとは違う次元で、山登りの楽しさを体験できるかも知れない。そうなると、病みつきになってしまうかもな。まあ、それも良いでしょう。

高山植物に出会える少ないチャンスなので、しっかりと準備しておきたい。里山の植物は少しはわかるが、高山植物は全くわからない。

花の名前を覚えると、それが一つ二つであっても、完全に分別ができるようになると、不思議なことに、どんどん覚えていけるようになる。彼の心に植物と言葉による結びつきが生まれ、もっと知りたいという要求が生まれてくるはずだ。

一つ固有名詞を覚えるということは、その人の世界が少しずつ広がっていくということだ。そうして、一つ一つ自然を征服していく。ひとは、言葉無しに、世界を理解することはできないのだから。

そのためには図鑑が必要だ。大きな図鑑は持っているのだけれど、持ち運びができるコンパクトな図鑑はないかしらんと、そういえば、前に文庫本で高山植物の図鑑が売りに出されていたなと、ひょいと思い出して、ジュンク堂で探して貰った。620円。

花の色で検索できるから、便利かも知れない。

北岳の花畑には希少な植物がたくさん見られるという。

キタダケソウ、キタダケキンポウゲ、タカネマンテマ、チョウノスケソウ、キンロバイなどなど。

あちこちの高山へ出向いて、花の名前を覚えていきたいな。

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2010年07月13日

言語表現法講義

心拍計をにらめっこして我慢に我慢を重ねたLSDと、思いっきり走りたいように走るトレーニングというのを一日おきにするのが、合っているのか、体の調子はまずまず。

踵の痛みは、走ると無くなるが、朝起きたときには、本当に走れるかしらんと思えるほど痛い。

が、しばらく歩いていると痛みは消え去る。へんなの。

本当は、@LSDAキツイトレーニングB軽めの運動という3日一サイクルの運動が良いらしいのだけれど、やはりAのキツイトレーニングは、ボクのノリじゃないんだよね。

今朝は、美杉台周回コースの大河原・クリーンセンター・下畑を登りダッシュ・下りLSDを3回くらい繰り返そうかと思ったが、辛そうでちょっと考えたら行く気が失せた。

というわけで、やはり心和むのは、山の中。今日は、M湖周回コースに行ってみる。1周6キロくらい?2周回る。

1周目は、上り坂をダッシュで頑張って走り、2周目もそうしたいのだけれど、頑張る気力も失せてしまい、負荷のかかったジョギングといった感じ。

寝汗をかいた土の表面は、苔が生えてツルツルで、下りは、慎重にならざるを得ない。腰を引けば、ズルリと後転し尻餅つきそうだから、足の裏で斜面をひっぱたくようにして普通に走って下りるのが良いことに気がついた。また、技術が身についた。

先週の土曜日に、ここを走って泥だらけになった靴を久しぶりに洗ったのに、また熊のぬいぐるみみたいに泥で茶色になっちまった。

ところで、この厳めしいタイトルの『言語表現法講義』は著者の大学における講義録を元にして書かれた本で、普通は、このデザインと題名と「岩波書店」ということで実際に手に取ることさえしないような本だ。

けれども、これが、面白い。

言っている内容は、高度だけれど、それほど、理解するのには難しくはない。

新書版でちがう題名で出れば、たくさんの人が手に取るだろうになあ。

とにかく、文章を書くためのハウトウものではなくて、書かれた文章が何故我々に一定の感銘を与えているのか?といった視点で、学生の書いた文章を通してそれらを伝えるという内容の本である。

テニヲハの使い方とか、こうすればわかりやすい文章になるとか、といった本では全くない。

面白いのは、不完全な文章が、それゆえに、あるいは、誤植によるミスが、たまたま文章に感動とか躍動感を与えているのはどうしてだろうかということを具体的な例を挙げて解説している。

それはまさに神妙なもので、言霊という言葉があるほど、それは筆舌に尽くしがたいのであるけれど、それを筆者の言葉でもって解説しているというのがこの本の最大の魅力だと僕は思う。

著者は有名な文芸評論家なんだけれど、その文章が巧いんだねえ。この本の内容を理解し、文章を書くときに利用しようという以前に、この著者のこの本を読む事自体、文章の力が一目盛り上がる様な気がする。

比喩の使い方も独特かつ適切で、感服いたしました。さすが、文章のプロです。

ちょこっと、僕の大好きな作家、片岡義男について言及してあったのも、嬉しい。この人を評価している人は、ボクの読んだ限りでは、他に小林信彦、高橋源一郎くらいのものだからね。

久しぶりに、読書の愉悦を味わさせていただきました。

これは、図書館で借りたのだけれど、是非とも本棚に置いておいて、5年に1度くらいパラパラと捲りたい本だ。

この本の参考図書として『高校生のための文章読本』『高校生のための批評入門』以上筑摩書房、が挙げられているのだけれど、帰りに本屋で立ち読みしたら、これが楽しいアンソロジーになっているんだよね。

高校でも中学でも国語の教科書ってさ、大好きで、貰ったその日に、読み始めちゃったものだけれど、そんなワクワクする本なんだね。

というわけで、アマゾンの中古本で、1冊1円と23円でそれぞれ売っていたから、久しぶりに本を買ってしまった。

というわけで、M湖一周だいたい35分くらいで廻って、本日のトレーニングは終了。

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2010年06月30日

ほら、これ、ちょっと試してみなよ。

先日、「スイング・ジャーナル」誌の休刊についてちょっと書いたのだけれど、その編集長であった中山康樹氏は、ボクのお気に入りの音楽評論家で、怒濤のように新刊を出し続けている。

ボクがそのホームページで新刊の情報を得て、その発刊を楽しみにしている作家の一人で、そのほとんどの著作を読んでいる。

何が素晴らしいのか?中山節というか、文章が、リズムが好きなのね。

ジャズ・ロックに関する評論文が多いのだけれど、マイルス・コルトレーン・ディラン・ビートルズ、ビーチボーイズと、滔滔と流れる音楽の本流を相手にしていて、興味が尽きない。

それぞれ、恐ろしい数のアマチュア研究家が存在しており、トリビアな知識は、ネットで探せば、簡単に出てくるこのご時世で、音楽評論家として食べていくのは、とても大変なのだろうけれど、なにも、僕らは、細かな知識や新たな説を知りたくて本を読んでいるのではなくて、文は人なり、中山先生と共に、お喋りをしているような感覚で、肯きながら、そうじゃないだろうと反論しながら、その著作を読むのを楽しみにしているのだ。

というわけで、新刊の一つである「ビートルズとボブ・ディラン」を読み終える。

1964年8月28日にディランは、ビートルズと、マンハッタンのデルモニコ・ホテルで始めて出会う。

ポールの証言:そして、ディランが現れた。彼は、僕らのホテルにやってきて、「ほら、これ、ちょっと試してみなよ」と言ったんだ。

ディランに勧められたマリファナを定説では、ジョンの後、煙草のように吸い続けたリンゴが最初にラリったらしい。

ディランがビートルズにマリワナを教えたというのは、誰でもが知っていることだけれど、新たな本で、様々な証言が得られてきて肉付けされていくと、ラバーソウル・リヴォルヴァー・サージェント・ペッパーで頂点を極めたドラッグカルチャーの影響の渦中にある傑作が生まれたのも、この出会いが象徴的に暗示しているのがよくわかる。

それにしても1965年に発売された両者のアルバムのリストを見て溜息が出る。

3月 ディラン「ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム」

8月 ビートルズ「ヘルプ」

8月 ディラン「追憶のハイウエイ61」

12月 ビートルズ「ラバー・ソウル」

うっへえ、メガトン級のアルバムの数々。

ディランが、ビートルズに出会って、ロックを志向したのは、ブリンギング・イット・オール・バック・ホームのB面に始めて電化楽器を使っているし、「追憶のハイウェイ61」では、はっきりしたバンド志向を持ち始めているのがよくわかる。

ヘルプ・ラバーソウルのジョンは、ディランの影響を強く受けた作品を作っている。

この1964年がロックが誕生し、以後ビートルズが解散する70年までがロックが最盛期を迎えた時期だったというのがよくわかる。

この両者の相互の関係性をエピソードや、証言によって読み解いたのが本書。

今回面白かったエピソードが、バングラディッシュのコンサートにおけるディランだ。

このコンサートは、ジョージ・ハリソンが友人のラビ・シャンカールのところに遊びに行ったとき、母国のバングラディシュの為に力になって欲しいと依頼されたのを切っ掛けに、ジョージがしきって、開催したチャリィティ演奏会である。

出演交渉は難航したが、レオン・ラッセル、ビリー・プレストン、ジェシ・エド・ディヴィス、クラス・フォアマン、ジム・ケルトナー、ジム・ホーン、それに、バッドフィンガーズの面々。広くジョージの人脈から選ばれた。

目玉は、元ビートルズの参加だ。リンゴは快諾。ポールは解散後すぐにビートルズが結成されるのは馬鹿げていると断った、ジョンは、「ヨーコと一緒なら」という条件に、ジョージは一方的に交渉を打ち切った。

ミック・ジャガーは、フランスから出国できず、司会のピーター・セラーズは、映画出演中で無理。

そして、ドラッグの海に溺れていたエリック・クラプトンは、「ブツの供給を保証してくれるならば」との条件で参加。ニューヨークに着いた時には、「切れかかっていて」用意された「ブツ」は、薄められたもので、コールド・ターキーに悩まされてリハーサルには出られなかったという。

そして、ディランだ。

ジョージは、ディランに出演交渉したときに「風に吹かれて」を歌って欲しいと要望したそうだ。ディランは、「君は、<抱きしめたい>を歌うのか」と返したという。

舞台に上がるまで、やる気がなかったみたいだよ。<コンサートの前日、マディソン・スクエア・ガーデンの回りを見渡して、<あのさ、やっぱり、これって、俺のノリじゃないんだよね>って言うんだ。

とは、ジョージの証言。いかにも、ディランらしい発言だ。

それでも、本番にディランが参加するかどうか確信が持てなかったのだけれど、当日、舞台の袖にディランが立っていたので、司会を兼ねるジョージは、「古い友人、ボブ・ディランです!」と叫んだ。

これらのエピソードは、知っていたけれど、こうやって、確かな証言とともに、読むと、あのコンサートの舞台裏までわかっておもしろい。

感動的なレオン・ラッセル(ベース)ジョージ・ハリソン(リードギター)リンゴ・スター(タンバリン!)を従えた

なんか、ぶっつけ本番のコンサートだったんだね。クラプトンのギターも精彩を欠くし、ディランがのって何曲も歌うものだから、バッドフィンガーの出番が無くなったというのは、本当だろうか?

この本を読むまでは、バンドリーダーとしてのジョージ・ハリソンというのは思いつかなかったのだけれど、人脈にはアメリカ・イギリスに腕利きのミュージシャンがたくさんいるし、これだけの人をチャリティで集めることができるのは、人望が厚いんだろうな。

かてて加えて、特に人付き合いの悪い年上のディランにたいしては、「頼りがいのある弟」として、トラベリング・ウィルベリーズでも、よく癖のあるメンバーを纏めていた。偉いもんです。

ま、とにかく、この手の本を書いて、「読ましてくれる」作家は、中山康樹氏しかいない。次は、どんな本で楽しませてくれるのか楽しみだ。

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2010年06月18日

イエスの生涯 遠藤周作著

「リトル・ランナー」というカナダの映画。

母親が病で意識を失い、看護婦に「奇跡が起こらないと目を覚まさない」と告げられた少年。

奇跡が起これば、母親が目を覚ますと信じ、ボストンマラソンで優勝を果たそうと努力する。

カナダの厳格なカトリックの私立学校で、担当の教師は、ニーチェを読ませたりする一風変わった先生である。

この先生に、少年が質問する。

「奇跡を起こすにはどうしたらいいのですか?」

「信仰と純潔と祈りだよ。信仰とは、論理的でない物を信じること。祈りとは、神と交わす会話だ。純潔は、全く罪を起こさないこと。」

奇跡を起こすべき、猛練習の少年。

実は、この先生は、短距離走の世界記録を持っていた選手だったのだ。

この少年の才能とひたむきさにほだされて、コーチになる。但し、条件は、「奇跡」の類のことを話さないこと。キリスト界では、奇跡のことを語ることは、神に対する冒涜となるらしい。

徐々に頭角を現してきた少年。この奇跡を話したことが、新聞に載ってしまい、厳格な校長の耳にはいる。この少年を走らせないように画策する校長。ボストンマラソンに参加はさせないと。

教師という職業と、神父職を賭けて、校長に直訴するコーチ。

「実は、彼に会うまではなにも信じていませんでした。でも、今はこう思います。

この世を去るときに、神がお尋ねになる。

『危険を冒したことは?先が見えずに跳んだことは?目を閉じて天に任せたことは?』と。

『いいえ、ありません』と今の私は言うでしょう。

だから、目を閉じます。」

ボストンマラソン大会日。

少年は、コーチに

「(奇跡を起こす三要素、信仰、純潔、祈りのうち、信仰はあるけれど、)純潔じゃないし、祈れません」

「(純潔になるためには、)いまここで懺悔しなさい」

「でも、祈りが」

「(マラソンで)32キロを過ぎるとどんな選手も藁にすがる思いで祈り出す」

なんていう台詞は、マラソンの最後10キロの辛さを知っていると、ニヤッとするところ。

というわけで、ボストンマラソンに参加。どういう結果になるかは、映画を見て欲しいのだけれど、こういう映画でも、洒落た台詞というものがあるもんだ。

なんで、こんな映画を思い出したかというと、昨日電車の中で読み終えた遠藤周作著「イエスの生涯」に深く感動したから。いったい、奇跡というのはどういう文脈でキリスト教徒は考えているのだろう?

イエスの受難の場面。まったくもって、神の子イエスに奇跡が起きない。それは何故?

こういうコミック的な映画でも、キリスト教的な素養のある人が見たら、ふむふむとその会話の中の奥に隠された深層部分まで理解出来ていると思われ、少しはキリスト教と言うのも勉強してみるか!という気楽な気持ちで読み始めたのだった。

いままでも、遠藤周作には、打ちのめされるような読後の「沈黙」という本があり、中学生の頃徹夜で一気に読み上げた「彼の生き方」というエンターテイメント風の本もあった。「白い人黄色い人」「砂の城」などなど読んできたけれど、「沈黙」と同様の衝撃あり。

この本が、氏の小説の背骨であり根幹であるキリスト教そのものに照準を当てているので、遠藤周作的キリスト教に触れるには、最適な本であるとともに、ひとりのイエスという人物を中心にした歴史小説としても大変面白く読めて、またまた圧倒されたのだった。

遠藤周作は、聖書に書かれている物語を事実と真実によって腑分けして、その書かれた内容の真意を読み取ろうとする。

奇跡は、それを比喩的に表現したもので、奇跡を否定することはしないけれど、その奇跡が起こったという事の真意をつかもうとする解釈は、宗教に疎い僕らでも納得できる筋だと思う。

イエスが何故殺害されなくてはならなかったのか。

何故、イエスを弟子を含めた信者が見捨てたのか。

イエスが残そうとしたメッセージは何か?

などということが、中心に書かれていて、特に、イエスが奇跡を行わず、ユダヤ民族の英雄・救世主としてローマに立ち向かう英雄でも無いことに深く失望し、かつ、イエスを見捨てて保身に走った弟子たちの姿を記述するその筆は、キリシタンとしての遠藤周作が長年頭の中で温めていた考えなのであろう、圧倒的に説得力がある部分で思わず時間を忘れて読みふけったのだった。

久しぶりに胸を破って感動が突き抜けていった。素晴らしい本だ。

そして、本当の謎は、この後だ。

我々と同様、弱虫で、自分の利益だけを願い、神の国での自分の出世などを夢見、病気を癒し、死者を蘇らせるなどの奇跡を求め、民族を救う英雄とは程遠いただただ悲しい目をして愛という全く役立たない原理を説くイエスに失望したが故にイエスを裏切り、本来なら自分たちも磔刑に処せられてしかるべきなのに、何故か、自分らは処刑を免れ、イエスのみ十字架に磔刑に処されたが故に、深く後悔と自責の念でも悶えていただろうこれらの弟子が、イエスの死後、何故屈強な宣教師として、命を張って、拷問に耐え殉死していったかが、次に残る最後の謎になる。

後悔や負い目だけでは、こうも人間は強くなれないはずだと、遠藤周作はいう。この劇的変化は一体なんなのか。

他にも、イエスよりも強力なたくさんの預言者が当時現れていたのに、何故、この悲しげな目をした弱々しい人物だけが神聖化されていったのか?

此の話は、続編である「キリストの誕生」に書かれているという。キリストというのは救世主の意味もあるから、人間である『「イエス」の生涯』から「キリストの誕生」という題になるのだろう。

早速、本を手にいれた。今夜は、これを読みふけろうと思う。

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2010年03月09日

イワン・イリッチの死

トルストイの「イワン・イリッチの死」を読むのは今回が3回目。今回は、岩波文庫ではなくて、光文社の新訳文庫で読んでみた。

人が死受け入れるまでの心理的葛藤をこれほどリアルに書けるのは神業だ。死を体験した人はこの世にはいないのだけれど、死に至る過程というのは、正確にこういう道筋を通っていくのではないか。

イワン・イリッチが病を患って死に至る過程で「当の本人の死」「近親者から見た死」「友人から見た死」が、冷徹に書かれていて、かなり辛辣である。

イワン・イリッチの死を知って、同僚達は、「この人物の死が自分自身もしくは知人の異動や昇進にどんな意味を持つかと言うことが頭によぎる」し

「身近な知人の死という事実そのものが、それを知ったすべての人の心に、例の喜びの感情をもたらしたのだった。死んだのが他のものであって自分でなかったという喜びを。」

なんて、かなり辛辣な文章だが、見事に的を得ている。

死というのは、迫り来るまで、誰にもそれが訪れると言うことは知ってはいても、本気でそうはおもえない。流れ弾がいつか誰かに当たることは確実なことだけれど、自分は特別で、流れ弾は自分を避けて行く、位にしか考えていない。

「カイウスは人間である。人間はいつか死ぬ。したがって人間はいつか死ぬ。」という論理学の三段論法が、カイウスに関する限り正しいものと思えたのだが、自分に関してはどうしてもそう思えなかった。

一般の人間には、その論法が当てはまるだろう。が、この私は、人間一般ではなくて、常に他の人間達とは全然違った特別の存在であった。

だから、「この私が死ななくてならないなんて、あり得ない無いじゃないか。それはあまりにも非道なことだ。」

しかし、堂々巡りして考えて戻ると、目の前にまた大きな壁のように「死」が行く手を塞いでいる・・・。

とてもリアルな筆の進め方に手に汗握る。

「イワン・イリイチを一番苦しめたのは嘘だった」落ち着いて治療すれば何かとても良い結果が出るだろうという何故か皆に受け入れられている嘘だった。

「お互いにわかっていることを認めようとせず、こちらの症状がいくら酷くても嘘をつき続け、おまけにこちらまでその嘘に加わるように強いる、そんな連中の手口はうんざりだった。

彼にはわかっていた、誰一人彼を哀れまないのは、誰一人彼の置かれた状況を理解しようとさえしないからだった。

「彼は、妻と、娘と医者と顔を合わせたが・・・彼らのうちに彼は自分を見いだし、自分が生き甲斐としてきたすべてのものを見いだした。そして、そうしたものがことごとくまやかしであり、生と死を覆い隠す恐るべき巨大な欺瞞であることをはっきりと見て取ったのだった。」

エリザベス・キューブラ・ロスの「死の瞬間」に書かれていた死の受容までのプロセス、「否認→怒り→取引→抑鬱→受容」のほぼ同じ順番で(但し、(神との)取引については、意図的に除かれているようだ)話が流れていくのだけれど、実に死生学誕生の100数十年前に小説の中でこのようなプロセスが書かれているわけだ。

そして、このターミナルケアの専門家であるキューブラ・ロスさえ、自分の死に直面して、かなり心を乱したという映像がNHKの番組で放映されたという。

ちょっと検索したら、その時の映像がYoutubeにあった。

つまり、死というのはその人しか体験できない直接的なもので、何度「他人の死」を看取っても、それは、「自分の死」を体験したものではないということなのだろう。

読む度ごとに、切実度が上がってくるのは、ボクもそんな年になったかも知れない。再読して、ボールペンで線を引いたら、引く場所ばかりで、途中で止めた。人生の教師とも呼ばれるトルストイだけれど、すべての言葉が、この物語を構築する無駄のない材料になっていて、これまた、神業としか思えない。

サルトル、カフカ、カミュの諸作品も、究極的には、この小説と親子関係にある。そして、黒澤明の「生きる」がこの本からヒントを得たというのは、初めて、解説を読んで知った。

トルストイは、凄い。

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2010年03月08日

弓術で悟りを開く

コリン・フレッチャー著「遊歩大全」と宝島別冊の「アウトドア入門 実践編」という二冊の本は、高校時代、あちこちふらついていたときのバイブルといっていい本だ。

当時の山道具の商品カタログにもなっており、そのどれもが、欧州アメリカ産で、なんとも格好良かったのである。

当時学校の帰りに、今はまだ1店舗しかなかったサカイヤや石井スポーツに行っては、ピーター・ストームのセーターやら、シエラのマンパやフィルソンのマッキンノークルーザーなんていう服などなどを、こんな服を着て山の中で過ごせたら最高だぜ!と当時は到底手にすることの出来ない価格に溜息をつきながら眺めていたのだった。

ピーターストームのマッキンノークルーザーの代わりに、ウールリッチのそんなようなジャケット、シェラのマンパの代わりに、国産のなんとかとかいうマンパを(これは、数年前まで妻が着てくれて、穴があいてお釈迦にした)、ピーターストームのセーターの代わりに、これまた国産の厚手のウールシャツ(SCENE)だったか、バックパックもケルティーのアルムフレームのものではなくて、タウチェの国産アルミフレームを買って、北海道なんかをほっつき歩いたのだった。

まあ、時代も時代。上記の服なんて、スポーツとしてのハイキングには、到底役立たない分厚いウール100%の重い服だったり、岩場や木の茂ったシングルトラックなんか歩いた日には、すぐにフレームがつっかえてしまう大きなアルミフレームだったりして、どれも実用には耐えないもの。

しかし、なんというか、これらの本に書かれている、なんとも自由で知的な雰囲気に痺れてしまって、これまた、商品にも色々な能書きがあって、持つヨロコビは計り知れないものがあるのは、やはり、マシーン手作り的なウール100%な製品で、いまのような石油製品にはない、こう、使えば使うほど体に合ってくるような使い心地の魅力があったからだろう。

さてさて、そんなわけで、久しぶりに、「遊歩大全」を読んでみた。

ざ〜っと読み飛ばしていたら、なんだか読んだことのあるような表現が現れてきた。筆者が登山でピークハントの苦行をしているときに「私は頂上である。私は頂上である」と何度も繰り返し、私=頂上に意識の上で同一視できたとか、そんなことが書かれていたので、そういえば・・・そんな風な本を昔読んだぞとアマゾンで見当をつけて探してみると、その本があるじゃないの。

オイゲン・ヘゲル著「弓と禅」。これに間違いないだろう。これは手元にないけれど、岩波文庫の「日本の弓術」ならある。オイゲン・ヘゲル述(というのは、講演会の筆記だから)。

ドイツからやって来た哲学教授が、阿波師範から弓の手ほどきを受けて、5年間の弓術研鑽の体験を帰国後公演を行った時の講義である。

その「遊歩大全」の中で、コリン・フレッチャーが「私は頂上だ」と念じた時と相通じる記述箇所が、次の弓を射放するやり方についての阿波師範の言の部分。

「私は的が次第にぼやけてくるほど目を閉じる。すると的は私の方へ近づいてくるように思われる。そして、それは私と一体になる。・・・

的が私と一体になるならば、それは私が仏陀と一体になることを意味する。

そして、私ば仏陀と一体になれば、矢は有と非有の不動の中心に従ってまた的の中心にあることになる。矢が中心にある・・・矢は中心から出て中心から出て中心に入るのである。

それゆえ、あなたは、的を狙わずに自分自身を狙いなさい。」

剣も弓も悟りを得る為の一つの方便であって、ヨガのアーサナがこれまた三昧境に至る一つの方便なのと同じ事である。

山岡鉄舟が剣の道を突き進んでいたとき悟りを開いて免許皆伝を得たというし、こういう武術に頼って道を究めて悟る方法が、日本には古来からあったわけだ。

あまりの唐突さに面食らうけれど、なんとか日本人なら理解できるのではないか。

仏性は自分自身の中にあり、しかも、すべてのものに在る。従って、本来の自分というのは、自分を超えていて、他のすべてのものに存在する・・・。という禅的感覚を持っている人ならば、理解することの出来る話である。

的を狙わず的を当てる事を承伏できない筆者に、師範は、暗闇のなかで矢を的に放ち、「1本目の矢は見事的の真ん中に立ち、2本目の矢は、第1の矢の筈(弓の弦をかける部分)に当たって、それを2つに引き裂いていた。」

1本目の弓矢を的に当てるのは、狙わずにもこの道場で30年も練習してきたのだから、当てることは可能であろう。が、二本目の矢を暗闇の中で、1本目の矢の筈を貫通して2つに引き裂くのは狙ってできるものではない。」と的を狙わずして的に当てることを実証してみせる信じられない師範の神業がでたりするところは、思わず引き込まれる。

アスリートにとっても、運動愛好家にとっても、為になる本。是非ご一読を!

僕もできるなら、こういう風にスポーツを楽しんでいきたいな。技術や体力なんて二の次。まさに、「私」とは何かを知ることを極めるための一つの道具として。

しかし、大きな文字で老眼のボクには助かるけれど、66ページで本体が終わって、価格が460円というのは、ちと高すぎるのではないか、岩波さん。

次は、「弓と禅」を借りて読んでみよう。

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2010年03月05日

安吾の新日本地理 高麗神社の祭の笛――武蔵野の巻―― 坂口安吾

安吾の新日本地理

高麗神社の祭の笛――武蔵野の巻――

坂口安吾

地元の興味も手伝って、一気に読んでしまいました。

青空文庫でダウンロードして読んで下さい。

http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/card45910.html

posted by ロビオ at 15:54| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

昨日借りて読んでしまった本

「マラソン100回の知恵 サブフォーを目指す市民ランナーへ」原章二著 平凡社新書

を読む。この本の特徴は、仕事に忙しく、練習もままならない「一般的」なランナーにマラソン大会に参加するための色々なアドバイスが書かれている。

著者は言う、名ランナー・名コーチはエリートマラソンの専門家だが、市民マラソンの専門家ではない。たしかに、エリートランナーは素晴らしい。当然のこととして、市民ランナーは、名ランナー・名コーチに学ぼうとする。が、エリートランナーと市民ランナーとは求めるものが違う・・・。

確かに。わかっちゃいるんだけど。

ボクも色々な、図書館にあるほとんどすべてのマラソンジョギング関連本は斜め読みしているけれど、あんなメニューはこなせないな、と思うものが多い。が、参考にはなるけれどね。あれは、プロがプロになる人のために書いた本だということを、つい忘れてしまって、オーバーワークで膝を壊したりするわけだよ。

そういう意味じゃ、マフェトン先生の本がこの手の本では出色の出来だった。これ以上の単純で、初心者から上級者まで、有効な本はない。

とにかく、自分の心拍数に合わせて、長くゆっくり走れば、初心者は初心者なりに、上級者は上級者なりに心肺機能や筋力がついて、しかも、故障無し!ということだから。

ボクも今じゃ、心拍数は150くらいまでは上げても良いのではないかと思っていて、自分なりに!勝手にマフェトン運動をしているけれど、2年地道に続けると体が変わってくる。食糧補給はほとんど要らないし、体脂肪も徐々に減ってくるし、スタミナがついたようだ。

今じゃ本も売っていないから、中古本で探すしかないのだけれど。

やはり、こういうダルダルの運動だと、どうしても、運動をやった気にならない人が多いのだろう。ボクは、これが一番だと今でも思う。

そんなわけで、ざ〜っと読んだら、最後のページにトレイルラン参考コースというのがある。これが、ロード+トレイルのコースが、しかも武蔵五日市周辺で書かれていて、たまの土日なんか、このあたりをぶらついたら楽しそうだ。

「トレイルランニングを楽しむ」石川弘樹著

今のボクにはあまり為になる事が書かれていないけれど、初心者にはなかなかよさそう。

78ページの「プランニングの実際」というところで、エスケープルートを確保するのが必要だ、ということで紹介されているのが、なんと、多峯主山から大高山までの「飯能アルプス」コースでした。ははは。

ここを走って(歩いて)、トレイルランなんか嫌になっちゃうんじゃないでしょうかね。筋トレのつもりなら良いんですけど。

「トレイルランニング入門 森を走ろう」岩波書店 有吉正博 村越真著

これ、発売された直後に図書館で借りて読んだことがある。その時の印象はツマランの一言。このブログにも書いた様な気がする。

が、ハイキングを始めて、改めて読んでみると、鏑木毅さん担当の4章5章のトレイルランニングのテクニック・トレーニングに関するところは、食い入るように精読しました。

ある一定のレベルまでいかないと、わからないところもあるわけで、こういう本は、一旦駄目な本!と結論づけても、再度読んでみて、目から鱗的な所もあるから、定期的に図書館で借りて読むと宜しい。

例えば、ボクのMTBのバイブル本の中の一つ、ウイリアム・ニーリーの「MTB」という本は、最初読んだとき、まったくその本の内容がつまらないように思えた。そして、ややMTBに乗れるようになれたかな、と思ったときに、偶然に本棚から取り出して読んでみると、わかるじゃないの、そこに書かれていることの意味が。

そんな風に、どんな本でもそうだけれど、出会いのタイミングというものがあるわけだ。

と、本筋からずれたけれど、この本の中で書かれているトレーニング方法だけれど、ボクの毎朝のジョグ&トレランの中でやっていることとほぼ同じだと言うことが判明。勿論、ボクはマフェトン中心、楽しんで走っているのだけれど、本気になって、スピードを上げれば、なかなか良いトレーニングコースなのだ。

この本と、これまた一緒に借りてきた「Adventure Sports 2008」の鏑木毅氏のインタビュー記事を合わせて考えると、ますます良い感じ。「5センチ上を滑るように走っている感じ」と、彼が書いているけれど、バンクを使った高速走行の時に、この間そういう感覚がわかったので、ふむふむと思ったのだ。

ということは、ボクも、ちょっとは、トレイルランナーになってきたかな。だとすれば、嬉しいのだけれど。

だけれど、最初に戻って、こういう本は、エリートランナーがやっている(ほとんどがセミプロでしょう)トレーニングで、迂闊に、素人の私たちが真似をしてはいけない。

けれども、こういう本を読んで、トレーニングや走り方の着眼点というものがわかると、それを自分なりに取り入れて、試行錯誤していく課程が、なにより楽しいものだ。

けれど、やはり、

芦沢一洋著 バックパッキング入門 や コリン・フレッチャー著 遊歩大全 や

メイベル男爵のバックパッキング教書 最低の費用で最高のハイキング、登山、アウトドア・アドベンチャーを楽しむために というボクのアウトドアのバイブル本のような精神性が最近のこれらの本には全くないのが残念だ。時代が、そういうものを求めていないのだろうけれど。

運動場をハイキング道に代えただけのトレイルランは、たんなる障害物競走で、それ以上ではあり得ないと思うのだ。

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2010年02月26日

「2万5000分の1 地図の読み方」を読む 

「2万5000分の1 地図の読み方」平塚晶人著

この本が、読図のバイブルといわれている優れた入門社用の本。

図書館で借りるのは、これで3回目だけれど、今まで2回は、ざ〜っと読んだだけ。

今回は、一気に精読しました。

で、やはり、この本が読図関係の本では最高ではないでしょうか。

98カ所の実際の2万5000分の1の地図が後ろのページにあって、本を読みながら、それを参照にして、学習ポイント、注意するべき点を、懇切丁寧に解説している。

支尾根の発生する所は小ピーク 沢はツメで一気に標高を稼ぐ さわは、ピークかコルに突き上げる等高線のカーブは、屋根は丸く、沢は尖る 

等々地図読む際の参考になる実際の山の姿がたくさんの2万5000分の1の地図の中からピンポイントで解説してくれているのだ。

今回初めて、シルバコンパスの使い方が理解できたよ。154ページから164ページまでの「磁石の使い方」の箇所は、後ろ側についている2万5000分の1の地図を参照にしながら、磁石を使って現在位置が正しいかどうかを判断するやり方が完璧に理解することができた。

何冊かの本を読んで、その使い方に関する記述は、真剣に読んだけれど、実際どういう風に使うかちんぷんかんぷんだったのだ。

シルバーコンパスの回転板の中の矢印ってこうやって使用するのだね。磁北線は絶対に引いておくこと。屋根に乗って自分の所在地を確認できる!山座同定も実に簡単にでき、霧で前が見えなくとも、道に迷うことなく行きたい場所に到達できる。素晴らしい、実に素晴らしい道具なのだよ、シルバーコンパスは。

こんな事を知らないで、よく山へ行っていたものだ。自分で自分を褒めてあげたい。ははは。

ことほどさように、この本を読まないで、山の中へ入ることは、やはり相当危険な行為だと思う。とくに、トレイルランの人、ヤバイです。走って、支尾根に迷って、はや遭難。これから、こういう事故がかなり増えるんじゃないでしょうかね。山を舐めたらいけません。

それに、2万5000分の1の地図は、必携ですな。まずは、奥武蔵の遭難しようがない山道で、読図の練習として、以後走りたいのは山々だけれど、要所要所でじっと我慢して地図と現在地を確かめることをしないといけない。

そして、先ほど、図書館から、同著者の「山岳地形と読図」という本が届いたという連絡をもらったので、この週末はこの本を精読して、読図の知識をさらに頭に入れるのだ。

そして、山の中で実践を繰り返して、頭の中の知識を、踵の中に滑り込ませて、知識を血肉とするのである。

こういう向上心は大切だし、命を守ることに繋がるのだ。

なんといっても、山の醍醐味は、そこがどんな低山であっても「生き延びる」事だからね。野生に手を触れて、そこで精神が跳躍し、命の炎が燃えるわけだから。

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2010年01月29日

ライ麦畑よ、永遠に

J.D.サリンジャーが亡くなった。91歳。正月を過ぎて体調を崩していたという。

ニューヨークタイムズのインターネット版では、4ページにわたる記事が書かれている。

また一人、遠い親戚が亡くなったという気分。

若かりし頃に全面的に悪か善かの見境もなく呑み込んで、そのまま背骨の奥に吸収して、ボクにとっては、大切な作家の一人。

10代に「ライ麦畑」を読んだことが良かったのかどうかわからないけれど、カラカラに乾いたスポンジが水を吸い込むように、その言葉を背骨で吸収してしまったので、どこをどう影響されたのか全くわからないのだけれど。 思うに、この「ライ麦畑」と太宰の諸作品、そして、ドストエフスキー。この3つを10代で読んだ人は、相当、人生という道のりを蓮っ葉に歩かざるを得ないのではないかしらん。

この間、村上春樹訳で「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を何十年ぶりかで読んだのも、その死の暗示を読み取ったからかも知れないな。この際、日本でしか読むことのできない「若者たち」他の初期短編集などを、図書館で借りて一気に読んでしまおう。「ニューヨーカー短編集TUV」の中のどこかにも短編が収まっていたはず。

そんなわけで、最近はあまり読んでいなかった英文学を読みたくなってきたので、図書館でジャック・ロンドンの「火を熾す」という柴田元幸翻訳叢書の1冊目と、2冊目のバーナード・マラマッドの「喋る馬」という2冊の短編集を借りてきた。

どちらも、Switchという雑誌に掲載されたものらしいのだけれど、定評ある作家の昔の短編を繙いて読めるというのは嬉しい。とくに、マラマッドの「最初の七年間」は、新潮文庫の「マラマッド短編集」が絶版になっていて、悔しい思いがしていたのだった。 というのは、この短編集の「最初の七年間」という短編が、大学時代の英文購読のテキストになっていて、つまらない授業だったのだが、内容の面白さに惹かれて読み進めたんだけれど、最後まで読むことはなく、授業が終了。 クラスが終われば、教科書なんかどこかへ行ってしまうし、洋書も探せず、日本語訳もそんなわけで手に入らなかった代物だったのだ。 そういえば、1980年代ユダヤ作家が注目を浴びていて、サリンジャー(というか半ユダヤというべきか)とか、このマラマッド、ソール・ベローなどなど、盛んに書店に並んでいたものだ。 アイザック・B・シンガーというユダヤ語で小説を書く作家もいて、大変興味深く大学時代によく読んだものだ。 それが、このところピタリとお目にかからない。 案外、小説の寿命が短かったね。アップダイクも亡くなったけれど、これまたあんなに翻訳が書店に並んでいたのに、最近は、とんと見ませんからね。 現代小説というのは案外、その賞味期限は短いのかもしれない。

ジャック・ロンドンは、「荒野の呼び声」や「白い牙」などで有名なのだけれど、ノンフィクションやら200あまりの短編を数多く書いていて、なにせ、幼児の頃から牡蠣の密漁、そして、後にその密漁の監視員になったり、ゴールドラッシュで山を掘りに行き、日露戦争をルポし、ありとあらゆる職業と経験をしたちょっと他にはいないタイプの小説家なので、オカルト、海洋小説、冒険ものと色々な小説群があってとても一筋縄ではいかない小説家なのだ。

タイトルの「火を熾す」という短編は、零下数十度に及ぶ人がとうてい生きて行くことのできない自然環境の中に楽観的で無知な男を登場させ、彼が命を落とすまでを、リアルに描いた作品で、特に死が訪れるまでの体と心の刻々と変わる描写は、僕らが冬山で遭難したら、こういう順序でもって命を落としていくのだろうと切実に心に染みた。 山岳登山家は、根本は詩人の要素があるので、その文章は研ぎ澄まされたものがあり、それらの山岳に関する文章は読むに値するものが多いけれど、こうしたプロフェッショナルな書き手が、裸の自然と取り組んだ文章というのは、やはりずば抜けて上手に書くものだ。

マラマッドの方は、絵画で言ったら、セザンヌのセントビクトワール山のような色彩の土色で純朴な感じ。特に、不器用な足捌きで、狭い部屋の中を足音をさせながら徘徊しているような文章が味があって堪らない。勿論、柴田元幸の訳が、精微を極めているからだろうとは思うけれど、推敲に推敲を重ねて鍛え抜かれた文章といえばいいのか。

最近の新訳ブームでやや記憶の奥にしまわれて忘れられがちな作家というものの著作が翻訳される機運が高まっているのは、良いことだと思うな(まあ、今の小説がつまらないということのあらわれなんだろうけれど)。

片岡義男の「ミス・リグビーの幸福」という私立探偵マッケルウェイシリーズの第1巻目を読み終える(早川ミステリー文庫)。

これまた、不思議な不思議な感覚を持った小説群で、翻訳ここに至れりといった風情の文体で書かれた21歳のカリフォルニアを仕事場とする私立探偵が引き受けた事件についての物語。

人工的な文体で、人工的な登場人物、舞台をここまで徹底的に書かれると、人工的な絵空事が、角が取れて、リアリズムの香りが強く漂ってくる。

「探偵アムステルダム、最後の事件」の味わいといったらどうだ。

ほとんど無視されている作家だけれど、ボクは、常々凄い文章を書く作家だと思っているのだ。

ああ、今日は、本の話ばっかり。

posted by ロビオ at 10:43| Comment(2) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月08日

キャッチャー・イン・ザ・ライ

村上春樹訳の「キャッチャー」を読み終えて2週間くらいが経つけれど、心の片隅に幽霊が住み着いたように、時々その幻影が現れてくる・・・なんて言うと、ジョン・レノンを射殺した後に、警官が現れるまで座って、この本を読んでいたマーク・チャップマン(たしか、ホールデン・コールフィールドと姓名を変えていたはず)のようで気味が悪いのだけれど、やはり、この本は、「特別」な本だ。

予防接種のようなもので、中学から高校へと入る思春期にこの本に巡り会った人は、幸福なのか不幸なのか、それは、その人によるのだろうけれど、若い頃読んでまさに邂逅というのにふさわしいと思った人は、ボクの友人だ。

予防接種の副作用がでると、ヤバイ状況になりかねないというのが、この本にはあって、やはり優れた文学という毒のなせる技。そう感じなかった人は、残念ながら、この世界の住人にはなれずに、ノックをしてハローといい、戻ってくる人なのだと思う。文学芸術とは、悪なのだよ、本来は。

野崎孝訳にほとほと感心して、当時、翻訳と言うことはこういうことかと感心したのだけれど、村上役を読んで、またまたそういう感想を持った。

素晴らしい2つの「キャッチャー」「ライ麦畑」の邦訳がある日本人は幸せ者だ。

しかし、スゴイ人がいたもんだ。一筆書きで一気に書き上げたかのような本なのに、完成度は抜群。そもそも完成させるというか、心に浮かぶよしなしごとを書き進めることによって、ストーリーができあがり、最後の方では、かなり暴力的なシーンが現れてきて、「こいつ、ホントに狂いかかっている!」と読者は嫌な感じがするのだけれど、はっきりと狂うところまではいかずに、なんとか、その場で留まっているという危うさだ。

この物語の後半で、ふとピストルを手にするという流れがあれば、ごく自然に物語は、ジョン・レノンの悲劇的な場面まで、すんなりと繋がっていくはずだ。あるいは、「バナナフィッシュ」的最後かな?

その危うさの中に、とことん入り込んじゃうと、おかしな世界から足が抜けなくなり、その世界では、コンパスが歪んでいるので、正当な地図で真っ当な道を歩こうとしても、ついつい道を踏む外しちゃうと言うギリギリの世界の中に入り込んじゃうわけだ。

ヤバイ本だよ。マジで。

例えば、ある種の得体の知れないグループが、掲示板に貼られている「この猫を探しています」といったポスターとか、道に蝋燭で書かれている「ケンケンパ」の子供の遊びの落書きとかで、連絡を取り合っていると信じている人間とかは、スティーブン・キング的に、この本を読んで、何でもない箇所からメッセージを読み取って、反社会的な行動に陥る可能性があるということ。

そういう人間の持っている危うさ、スリル、狂気というものがわからないと、多分、この本を身近に近づけて読むことはできず、ただ、イノセンスを失わない少年の社会的な反抗とか、管理社会に踏みつぶされそうな無垢な魂の彷徨とか、そういう紋切り型の鑑賞しかできなくなってしまう。

ホールデン・コールフィールドが、歩道を渡っている最中、あちら側に行くまでに自分が消えてしまうんじゃないか焦るという感覚は、馬鹿げているけれどね、感覚的にその焦りの息遣いが感じ取れるは、やはり、この本の良き鑑賞者だと思う。そんな風に、あやういバランス感覚を「感じる」小説だ。

ホールデン・コールフィールドは、世の中の多くの部分をインチキといって否定するけれども、今回読んでみて、これは、近親憎悪と自己愛という言葉で括ってみる。

AからBが生まれて、BからCが生まれる。Aは、そのことを知らずに、BやCをインチキ偽物とののしるけれど、実は、自分の分身が相手の存在の中に含まれているんだな。すべての事象は、自分の投影なんだな。つまり、自己が投影された鏡を憎んでいるわけだ。そして、同時に、愛してもいるわけだ。ナーバスな精神は、そういった偽善やら破廉恥をかぎ分ける鋭敏さがある。それって、僕らがかつて少年少女だったときに誰しも持っていた感覚だ。

そして、Aがどこから生まれたかというと、実はCから生まれたというように、何処まで行っても、自己がBC...XYZまで投影されているから、どんな物や人を見ても憎んだり、愛したりしてしまう。

そんな視点でこの本を読むと、理解できるというか、言葉で説明できる部分が少なくないと思う。しかし、理解できる小説なんて、まあ、たいした小説ではないし、理解できない部分、定義して定義からはみ出す部分に鉱脈は存在しているわけで、僕らの感性は、そういう所にツルハシで打ち当てることができるかどうかにかかっている。こんな分析的な読み方はつまらない。知己と飲み会の席でこの本について語るときにふと浮かぶアイデアみたいなものだ。

今回再読してみて、狂気とも言える世界、例えば、山小屋に住んで口のきけない振りをして誰とも話すことはせずに、子供ができたら学校へ行かせず、自分で教育するとか、ファック・ユーと小学校に落書きした相手を、階段に叩き付けて殺してやりたいとかいう心に怒りが沸々と湧いてくる所とか、いじめられて、学校の窓から飛び降りて路面に叩き付けられて飛び散った歯と血の描写とか、悪夢のような、サリンジャーの暴力性というか、真っ当にずれている感覚というか、そういうのに出会ったときには戦慄する気分だった。キングのホラーよりも、ずっと感覚的にコワイ。

まあ、この本が、アメリカで禁書になったというのも納得したよ。やはり、この本はスゴイ。あと、100年は生き残るでしょうよ。

というわけで、このコールフィールドは、「バナナフィッシュ」という短編で、エレベーターの中でピストルで頭を撃ち抜いて死んでしまうのだけれど(多分)、どんな話だったっけ?「コネチカットのひょこひょこおじさん」にも会いたいよ!

ちなみに、今読んでいるジャック・ロンドンの新訳の「野生の呼び声」もやっぱり素晴らしい本でした。こちらも、30年ぶりくらいに読み返しているのだけれど、久しぶりに文学に接したような感動を覚えました。こちらもお勧めです。

ジョギングで、こんなことを考えながら走るのも、とても楽しいものです。

posted by ロビオ at 11:42| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月17日

「地獄の黙示録」の原作を遂に読み終える。

今日もジョグ。

およそ2時間以内で20キロ毎朝走るというのがわかりやすくていいという理由でいいかなと思うのだけれど、毎朝15キロ走る終盤には、さすがに足に疲れが溜まっていて、あと5キロというところで躊躇する。

15キロを走っていても、二日走ると三日目は、体が重く感じられるので、20キロを疲れを溜め込まないで連日走れるようになるには、まだまだ体ができていないような気がする。

今のボクの疲れを溜め込まずに走れる最適な距離がこの15キロあたりのだろう。しばらく走り続けて、物足りなくなり始めたら、距離を伸ばしてみよう。

新訳光文社文庫のコンラッドの「闇の奥」を読み終える。

岩波文庫の「闇の奥」は、3回ほど学生時代に挑戦したのだけれど、ほんの数ページで嫌になって、あるいは、眠くなって、読み通すことのできなかった気になる1冊ではあったのだ。

この本は、言うまでもなく、コッポラ監督の「地獄の黙示録」の原作で、カーツ大佐がクルツという風に、配役の名前もよく似ている。

原作は、新訳ということで、とてもわかりやすい日本語にはなっているのだけれど、それでも、茫洋として焦点のぼけた物語で、クルツが連絡を絶って象牙を勝手に集めている村落まで、各箇所で何ヶ月も足止めをくらって、なかなかたどり着けない、というストーリーそのまま、読者の方も、なにがなんだか煙に巻かれたようで、物語の核心に到達できない感じなのだ。

そんな原作を映画化した「地獄の黙示録」も、主役のマーチン・シーンは、心臓発作で倒れ、マーロン・ブランドはだだをこねて途中アメリカに帰ってしまったり、フィリピンロケ最中に台風が襲来して、こっぴどい損害を受けて、当初の予算を遙かに超えてコッポラ自身破産寸前まで追い込まれて、まさに、狂気の世界を地でいくように完成させた映画なのだった(この映画を制作した時のメイキングムービーが単独で公開されたはず。この映画を作ったということが、グリフィス監督の「イントレランス」のように、一つの偉業なのだ)。

原作を初めて読み終えて、なるほど、この原作に呪われたかのような映画進行だったんだなあと思う。

立花隆の「解読「地獄の黙示録」」いう本は、それなりに面白かったのだけれど、エリオットの「荒地」やフレイザーの「金枝篇」も下敷きにしているという事だったので、そんな風にひねくれた脚本(ジョン・ミリアスとコッポラの共同作業)でストーリーが難解になったのかなと思っていたのだけれど、原作自体が難解というかわかりづらいので、この「闇の奥」を映像化し脚色するには、とことん苦労したと思われ、絶体絶命の窮地から迸った言の葉が、ミリアス・コッポラを根本から支えている英米文学の「教養」で、結果、評論すると、そうしたものが下敷きにされたと評されるのではないかと思う。

なにせ、あの天才、オーソン・ウェルズが映画化しようとしていたというから、かなり野心的な題材ではあったのだ。

こうして、原作を読むと、また映画が見たくなる。

この映画は、本当に素晴らしい。

最初見たのは、高校の「映画鑑賞会」で、全校生徒が有楽町のみゆき座だったか、に連れられて見たのだけれど、あのワルキューレの行進で、ロバート・デュバル扮するキルゴア中佐の狂気とナパーム弾の威力に圧倒されたものの、全編に流れるロックに感動した他は、何が何だかわからず、感動の爆発はなかったのだけれど、何故か気になる映画で、年に1度は必ず見る映画の一つなのだ。

キューブリックの「時計仕掛けのオレンジ」や「2001年宇宙の旅」なんていうのも、年に1回見たくなる映画だけれど、こういう未完成な振りをして、深遠な疑問が次から次へと浮かんできて、それを解明する度に、違った角度から「意味」を見いだせるようなな映画で、生まれた子供が、一人歩きして成長していくように、監督や製作者の当初の意図を遙かに超えて、不滅な生命を得ているというのが素晴らしい。

特別完全版は、エピソードが追加されていて、かなり物語をわかりやすくさせている。フランス領であるから、フランス人の植民地経営者が出てきたり、ここの奥さんとウィラード大尉が寝てしまったり、右往左往しながら物語が進行していく様は、まさに、「闇の奥」の原作さながら、何処にも行き着けない迷宮を船で進んでいるような印象を与える。をなるほど、こうやって物語は繋がるのか!と目から鱗が落ちることもあるだろう。

当初の劇場版とこの特別完全版の2つをもっていれば十分に「一生」楽しめる映画である。そして、鑑賞する側にもある程度の努力が必要で、この「闇の奥」を読んでおくとより一層深く映画を味わえる事になると思う。

ああ、映画の話になってしまった。

posted by ロビオ at 09:14| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月18日

チャンドラーとサムピック

図書館から連絡があり、ようやく予約していた村上春樹訳の「さよなら、愛しい人」を借りることができた。例のベストセラーは、1年くらい経たないと読めなさそう。

実は、この本、早川文庫で、4回くらいは読んでいるのに、毎度話の筋がバラバラになってしまい、「長いお別れ」と「かわいい女」と「プレイバック」とかの筋とごっちゃになっていて、読み進むまで思い出せなかったな。

いまだに、すべての筋書きが頭に入ったわけではなく、どうしてへらじかマロイが、かくまわれていたのか、よくわからない。

が、やはり、読ませるのは、きりりとしまったドライ・マティーニのように文章が美しいから。

ボクの場合、推理小説でもハードボイルド小説でも、誰が犯人か?なんてどうでもいいことで、ただただ、プロフェッショナルな文章に酔うことができればそれでいいのだ。

村上春樹訳の「ロンググッドバイ」が一つの事件のように思えるほど、素晴らしい訳だと感じたけれど、こちらは、まあまあ、という感じかな。

使ってみたい台詞は数々あれど、とても恥ずかしくて使えない。

金持ちの依頼者に対して、マーロウが言う台詞。

「私は貧しい人間だが、自分のことは自分で好きなようにやっている。そして私のやり方は、あなたのお気に入るほどやわではない」

なんて、一度啖呵を切ってみたいもの。

難渋な哲学書をチミチミ読んでいるので、こういう本は、最高に楽しい。

村上春樹が後書きで、「チャンドラーの小説のある人生と、チャンドラーの小説のない人生とでは、確実にいろんな物事が変わってくるはずだ。」と書いているけれど、ボクもチャンドラーの愛読者じゃなければ、今の職業には就いていないような気がする。

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歌舞伎町でお仕事。外国人ばかりで日本語が通じない。ここは、本当に日本かよ?

帰りに、昔良く通った新大久保の黒澤楽器へ寄ってみた。

オベーション、マーチン、ギルド、ギブソン。自分が買える範囲の値段よりも一桁大きい。

今日は、ギブソンの「ハミングバード」を買ったつもりで、店を出る前に、サムピックを一つ買ってみる。105円也。

事務所に帰って、このサムピックで、ブルーマウンテンラグを弾いてみる。なかなか良い感じ。

もう一度、一からギター勉強し直してみたい気もするけれど、これ以上趣味の領域を広げるのは、ちょっと無理か?無理でないにしろ、負担に感じられるだろうな。

たまにつま弾くぐらいがちょうど良いかも。

posted by ロビオ at 15:33| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月23日

快適自転車塾

快適自転車塾 長尾藤三著

という本を読んでいたら、自転車乗りの特徴について、

マイペースで自己中心的

一人でいても平気

アマノジャク

苦労を乗り越えるのが好き

上昇志向出世指向なし

素顔でいて飾らない

ははは、ボクの場合も、ほとんど当てはまりそう。

著者は、1941年生まれと言うから、御年68歳。が、ロードに乗っている姿は、とてもそんな年には思えずに、骨盤が立っているし、背骨がテントのように張っていて、見事なフォーム。ボクも、こんなフォームで走るのが、自転車に乗る為の唯一の目標だ。

副題に、「速くはなくともカッコよく疲れず楽しく走る法」とあるように、それらのことを指南してくれているのだけれど、これが、適切なアドバイスだし、いちいち肯ける内容。

自転車雑誌を見れば、速く走る方法とか、フレームの剛性がどうのこうの、要らぬ特集が組まれているけれど、まあ、こういう雑誌を買うのは、ホルモン分泌が豊富な若者が読むから、まあしょうがないやね。

が、枯れて酸っぱくなった中年は、こういうのは、ほとんど意味がない。

明らかに、こうした雑誌を読んで、年齢のギャップを感じるのは、欲しい自転車が全く誌面に現れてこないこと。

あんな妙竹林なフレームは要らないし、カーボン・ディープリムのホィールや、10速が11速になったところで、手動が電動になったところで、ロックのリズムで揺れながら坂道を登ったり下りたりするボクにとって、必要な類のものだとは思えないわけだ。

自転車は、速ければいいと言うわけではないし、年取って頑張る姿は、悲壮でもあるし、第一危ない。競争する姿もみっともない。やはり、ニコニコと、自己中心的にマイペースで走りたい

遅いけれど上手=格好いい・・・。これだ!

だから、カッコウからはいる。

が、カッコよく走るには、腹を引っ込ませる為の日々の鍛錬が必要だし、フォームを考えないといけないし、自転車だって、太い筋肉質のフレームは、似つかわしくないだろうし、なにより、楽しみながら自転車に乗る姿が格好いいと思うので、それ相応の努力が必要。

だから、こういう「格好よく疲れず楽しく走る」うちに、自然と、速く走れるようになるというのが、中年のあるべき姿だと思うのだ。

そんな内容の本(だと思う)。

この著者は、マウンテンバイクも、嗜むのだけれど、リジッドフォーク使用しているみたい。話が合いそうだなあ。サムシフターだし。

ロードは、クロモリ(vogueとDe rosa)で、ダブルレバーを愛用しているみたい。ますます、話が合いそうだなあ。

一事が万事。こういう人は、他の世界でも、こうした世界をもっていると思うからだ。

便利なものは、敬遠して、少しずつ、不便なものだが、実際は、必要にして十分な機能を持つ部品へと換えていくと、なかなか良い自転車になるんじゃないか。一手間を楽しむ、あるいは、楽しめるような状況で自転車を乗り続けていきたいと思うのだ。

posted by ロビオ at 10:35| Comment(2) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月30日

膝の痛みを抱えながら、辛い読書をする

先週の雨の日にジョギングをしてから、膝に違和感を覚えて、自重してジョギングは休んでいたのだが、今朝ほど、妻に左右の膝の形が違う事を指摘されて、フニョフニョと膝下の更に皿の下の出っ張りを弄っていたら、痛くなってきた。

形が変わっていると言うことは、水が溜まっていると言うことなのかしらん。

自転車は、膝には負担がかからないので、OKなんだけれど、これじゃしばらくジョグはできませんなあ。残念です。

最近、坂道ばかりを走っているので、平地が詰まらなくなってきて、どうにもこうにも、名郷飯能なんか走る気が全く起きない。これも困ったものだ。なんか、そこに坂があれば、喜んでヒョイヒョイと登るのだけれど、平地は苦手だ。

と、平地ばかり走っていると、坂を避ける傾向もあり、なかなかロードの練習も難しいものがある。

読書もそうで、単なる暇つぶしのための読書というものは、できなくなってきて、自分の限界を超えたようだけれど、頑張れば読み通せそうな本に焦点を当てて読んでいるのだ。

先週は、炎天下に負けて、辛い坂道を登ることになったのだけれど、現在読んでいるニーチェの「道徳の系譜」も、これも炎天下の麦草峠を登っているように、辛い辛い。何度、途中で足を着いちゃおうかと思ったことか。そのたびに、なにくそっと、ダンシングでスイッチバック的激坂を乗り越えてきたのである。

言葉の意味の振幅が大きいのか小さいのか、これって日本語かよ?という文章が延々と続き、詩人の跳躍的表現に翻弄され、(多分)常識事項は省かれているので、直接に問題提起が現れるので、路頭に迷いつつも、時に頭にバチッと閃くものが通過するときもあり、数行わかったつもりで嬉々として読み進み、あっという間に、晦渋の海に突き落とされて、文字が目の中を滑って、なかなか意味が通らない。

悔しい、ニーチェの後ろ姿がどんどん遠くなるようで・・・。が、哲学書なるもの、相当な訓練が必要で、ニーチェの場合は、ワザとわかりにくくし牛のように反芻して咀嚼しないと下痢をするというような塩梅で文章を書いているようで、なかなか一筋縄ではいかないのだ。

天才と会話をするようになるには、それ相応の準備というものが必要で、実力不足の人には、面と向かって対話してくれないものである。いつになったら、目を合わせてくれるのか。

が、もうあと、20ページくらいでとにかく読み終わる。

一度読み終えたら、これが又、無二の知己を得たような気分になるのがこの手の本で、次回は、線を引きながら、更に深みに流れる思想に手を触れたいと思うのだ。

というわけで、やはり、読書は辛い辛い本を読み通すのが一番。

次は、ヘーゲルの「歴史哲学講義」をば。

と、そんな風に、辛い事じゃないと満足できないようになるということは、何事においても実力がついてきたということで、自分の取り巻く世界が、知らず知らずのうちに変化して、自分に取り巻いてくるということでもあるのだ。

だから、何事も、楽な道と辛そうな道があったら、辛そうな道を選ぶような、危機を選ぶような人生を選択したいと思うのでした。

posted by ロビオ at 09:38| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする