2017年06月29日

雑草取り

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今朝も、日の出と同時に田んぼの雑草取り。

この雑草は何でしょうか?

昨年、芝生のように水面を覆っていたコナギではなさそう。

調べてみたら、コナギの五葉期の姿であるようです。

鎌で根っこから切り落とすのは簡単なのだが、一度鎌を引くと水が濁って、手元の視界がまったくわからなくなるので、的確には除去できない状況だ。

水面から少しでも出ている土のところは、根っこを張った雑草がビッシリと。

なかなか大変である。

雑草を取って、ふと目を上げると、まだまだ雑草取りをしなければならない広大な田んぼが遠くの方まで見えてくる。

藻が生えているところは、たしかに、雑草は少ない。

美しいとは言えないけれど(ヘドロみたいで)、稲の生育にとってはどうなのか?

稲とアオミドロがうまく共生できれば言うことないのだが・・・

ブヨに体液を舐め舐めされてあゝ痒し。

小一時間で今日は終了。毎日少しずつコツコツと。

しかし、全然終りが見えないし、このペースだと雑草の成長に負けてしまいそう。

農作業の後の朝飯がうまい!

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2017年06月28日

『満潮の時刻』 遠藤周作著

遠藤周作の『満潮の時刻』を読んだ。

先週見た映画『沈黙』の原作を見る前に2度読んだ。

実に優れた小説だと思った。遠藤周作以外に作ることのできない小説だと思った。

遠藤周作の描く基督は、汎神的で、人格的なものではなく、偏在する優しいまなざしのような存在であるかのようだ。

まさに、当初この小説につけようと思っていた題「日向の匂い」というべき、そういう存在。

『沈黙』という小説は、神の沈黙を描いたもので、どうして神は信者が危機に陥っているのに奇跡を起こさないのだという疑問がテーマだと思われている。しかし、実際は、神は、微細な世界からすべての者に語りかけており、奇跡は、苦境に晒された司祭の心のなかで起こったのであり、森羅万象が語りかけるその声を聴くことのできるものに起こりうるものなのだ。

これが、この小説のテーマでしょう。

この『満潮の時刻』という小説は、『沈黙』と同時期に並行されて執筆されたもので、同じテーマを違うアングルから書かれており、両者を読むとよりこれらの小説の理解がより深まるようだ。

遠藤周作は、文壇にデビューし、さあこれからというときに、結核が再発し、3度の命を削るような手術を経て、生還した。

この小説は、3度の結核のための肺の摘出手術のため、入院から退院までの2年を描いたもので、主人公の明石は、遠藤周作自身だと考えて良く、半私小説的なものになっている。

病室という世界から隔離された場所での生活で、人生というものを考える。

その病室という場で、ある人は死に、ある人は快癒して退院していく。

古来、傑作は、病室で生まれた。

梶井基次郎、志賀直哉の『城の崎にて」とか。

戦争からも生まれるだろう。

『野火』とか『ビルマの竪琴』とか『笹まくら』とか『桜島』とか

生活という喧騒に囲まれていると、人生について考えることはとても難しい。

しかしながら、永遠や無限なものを考えるということは人間の性であって、条件でもある。でなけれが、知性や理性が人に与えられたはずがない。

そう考えると、生活の喧騒を離れた時、あるいは、否応もなく自分が生きるか死ぬかの状況に追い込まれたときに、人は、その特質を十二分に発揮して、人生を深く考え始めるのである。

人生について考える時、その素材は今まで自分が経験してきたものを基礎とするしかない。生活にかまけて、人生の実相を貫く眼差しがかけて入るものの、経験はすべて人に何か大切なものを語りかけているのだ。

快癒するのかしないのか、そうした不安の中で、妻が買ってきてくれた九官鳥の哀しそうに見開かれた目を病室で見ていたら、少年時代に遭遇した自殺した主人の周りで前足に顎をじっと乗せたまま主人を見上げている犬の目を思い出した。そして、この目の哀しさはどこかで見たことがあると記憶を辿っていくと、かつて長崎で見た銅板でできた哀しい目をした基督の踏絵を思い出したのだった。

この小説は、この3つの目の哀しさに共通するものとは何か?、それを探し求めて、それの意味を獲得するまでの過程が描かれているのである。

俺は一寸だけこの生活の騒音のする外界に出た。するとどうだ。もう樹は単に一本の木にしか見えず、果物屋はたんに一軒の果物屋にしか見えなくなった。自分の目はこんなに弱い。それは、生活の騒音によってすぐ曇り、その汚れですぐ覆われてしまうのだ。俺の目は今、あの九官鳥の目から遥かに遠くにある。林の縁でじっとうずくまっていた犬の目ではなくなってしまった。

逆に言うと、病室という隔離された場所に閉じ込められたからこそ、こうした貴重なものを手に入れる為の手がかりを掴んだとも言える。経験は、饒舌に人生について語りかけているのだと。

人生に無駄なものは何一つない。その経験した一つ一つが高みに登るための足がかりとなるのだと。

印度哲学風に言うと、自分の本体であるプルシャに、自分の本性がそれであるということを理解させるために、自然であるプラクリティが様々にプルシャに働きかけるという風に。

退院して、検査のため、元の自分が2年間を暮らした病室に行ってみると、部屋の大きさや天井の高さが思っていたよりも随分と違う違和感を明石は覚えた。そして、屋上に登り外界を眺める。

明石はそれらを俯瞰している自分の目にあの九官鳥の眼差しを重ね合わした。九官鳥の眼差しにあの踏絵の基督の目を重ね合わした。そして今、彼の病院生活という経験の円環がやっと閉じようとするのを感じた・・・。

この現実的な世界とは別に、霊的な世界というものがあって、そこは微細な世界でなかなか人の目で見ることはできないし感じることはできない。しかし、現実的な世界の裂け目からそういう世界が溢れ出しているということに気づく人もいるだろう。それが、九官鳥の目や踏絵の基督の眼差しから垣間見ることができて、しかも、それが、自分の心の中にも存在するのだということを実感として感じ取ったということなのだろうか。

ところで、この小説には、退院して自宅まで帰る道すがら、渋谷の駅で上映中の『沈黙』という映画についての記載がある。もちろん、イングマル・ベルイマン監督の名作で、これも神の沈黙を描いた作品。幼少の頃見て、衝撃的な理知的な女性のオナニーシーンだったことだけは覚えているのだが。

遠藤周作の『沈黙』という小説は、この映画に触発されて書かれたことは間違いなさそうである。映画で描かれた「神の沈黙」に対して、いや、神は森羅万象を通じてあなたに語りかけているのだというアンチテーマとして。

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2017年06月26日

沈黙−サイレンス−

マーチン・スコセッシ監督の『沈黙ーサイレンスー』を飯田橋ギンレイホールで観てきた。

冒頭、真っ暗の画面に、川の流れや蝉の声が鳴り響いて、突然に音がなくなります。そして、Silenceという映画の題名が・・・。

日本人なら、芭蕉の名句

閑さや岩にしみ入る蝉の声 芭蕉

というのを思い起こさせる仕掛けであると思った。

ちなみに、この芭蕉の名句の英語訳を調べてみると、

Deep silence, the shrill of cicadas, seeps into rocks

となっている。

ほう、そうくるか!と冒頭から感心しましたが。

遠藤周作原作の『沈黙』というタイトルは、「神の沈黙」ではなく、「神は沈黙しているのではない、語っている」という「沈黙の声」の意味を込めたの「沈黙」だったとエッセイで語っているそうである(『沈黙』の同年に連載された『満潮の時刻』の文庫本の解説より)。

キリシタンの村人たちを救うために司祭が踏絵に足をおいた時、神は語りかける。

踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番良く知っている、踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつために十字架を背負ったのだ。

その時、司祭に何が起こったのかと言えば、

その時彼は踏絵に血と埃とで汚れた足をおろした。五本の足指は愛するものの顔の真上を覆った。この激しい悦びと感情とをキチジローに説明することはできなかった。

と、原作には書いてある。

逆説的にだが、踏絵を踏むという教会から見たら棄教とみなされる行為を行うことによって、神の本質を掴んだことになるのだろうか。

聖職者として教会から破門されている主人公は、キチジローに告解の秘蹟をおこなう。

聖職者たちはこの冒涜の行為を激しく責めるだろうが、自分は彼らを裏切ってもあの人を裏切ってはいない。今までとはもっと違った形であの人を愛している。

と確信犯的でさえある。

映画では、キチジローの裏切りにより、官に捕まる前に、川面に映る自分の顔がキリストに見えたり、上記の「踏むがいい・・」のナレーションが入る。

決して神は「沈黙」しているわけではない。

となると、ますます、この棄教した司祭は、神を愛しているはずなのに、何度でも、踏絵を踏み、自分がキリスト教徒ではないことを証明し、かつ、幕府のためにキリスト教関連の禁制品をチェックするための仕事に従事していたりする。

このあたり、神を愛していさえすれば、形式的なものなの無視してかまわないという信念に基づいているのだろうと思うのだけれど、神が常に自分とともにあるという確信があるからこそなのであろう。

「閑さや岩にしみ入る蝉の声」

芭蕉は、やかましく鳴く蝉しぐれのその彼方に、永遠に繋がる静かさを聞いたのだと思う。

沈黙の音は、誰でも聞くことの出来る音ではなく、耳を澄ますもののみに聞こえてくるものなのだ。それは、私達の心の奥底に潜んでいる。

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2017年06月23日

今期2度目の雑草取り

ヨーガ、インド哲学、トレイルラン、サンスクリット語、インド料理・・・くらいが今、力を入れてやっていること。

それぞれ、同時並行的に、少しずつ前に進んでいる気がしますが、さらに、もう一つ、田んぼの雑草取り!が加わって、大忙しではあるのです。

昨年は、雑草取りをあまりせずに放置したところ、収穫量ががた落ち。残念な結果と相成ったのでありました。

今年は、まずは、しっかりと雑草取り。

無農薬の田んぼには、藻が張り、オタマジャクシが泳ぎ回り、タニシがあちこちで藻を食べている。

素晴らしいのですが、雑草も、ものすごい勢いで伸びている。

そういうわけで、早朝、出勤前の1時間を、農作業にあてることにした。

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だあれも、助けちゃくれないので、ひたすら雑草取り。

ヨガのおかげで、体が柔らかくなったか、変な腰のこわばりや筋肉痛も減ってきたような。

それにしても、まだまだ、水面下に双葉状態のヒエとかがたくさん蔓延っておる。

妻と二人で、小一時間。

全体の数パーセント程度が終了。

ほとんどが手つかずで、これから先が思いやられる。

ところで、藻(調べたところ アミミドロというやつらしい)がずいぶんと田んぼに生育していて、その拡大の範囲はぐんぐん増えている。

見た目汚いし、日光を遮って、水温を上げないのが、稲の分蘖を阻害するなどの理由で、農薬で駆除する対象にもなっているという。

しかしながら、いろいろな微生物を成育させる環境を提供してくれているような気がするし、タニシは喜ぶだろうし、水に酸素を溶け込ませて、いろいろな酵素を分解してくれるかもしれない。

また、藻に覆われれば、今年の田んぼの敵となるであろうコナギもその葉を水の外に出すことはできないかもしれない。

稲の生育にとって、この藻は、吉とでるか凶と出るか?

しばらく、様子を見守りたいと思う。

人手だけでは、とうてい追いつきそうもない雑草取りですが、自然の力を借りながら、秋の収穫を楽しみにするとしましょう。

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2017年06月19日

スモーク 、イン ザ スープ 、マギーズプラン、 はじまりへの旅

『スモーク』という映画は、大昔にヴィデオで見て、とてもいい印象を持っていた。

ハーヴェイ・カイテル、ウイリアム・ハートは、その頃飛ぶ鳥を落とす勢いだったし、なんといっても、製作、脚本がポール・オースター。見ない手はない。

というわけで、早稲田松竹で鑑賞。

1度目に見たときのほうがよかったのは、何故かしらん。

ウィリアム・ハートは、銀行強盗に妊娠中の妻を亡くしてしまう。

ハーヴェイ・カイテルは、かつての女に子供がいたことを知る。

ウィリアム・ハートは、車に轢かれるところを危うく助けてもらった黒人の男の子と共同生活を始めるが、その男の子は、蒸発した父親を探している。

三者の親子関係が縦の軸で、この三者が横の線。この関係性が物語を動かす。

少年は、ウィリアム・ハートの命を助け、ウィリアム・ハートは、少年を友人であるハーヴェイ・カイテルのところで働くように斡旋し、少年の失敗により、ハーヴェイ・カイテルが禁制品の葉巻の儲けを台無しにされたのを、少年が犯罪から得た金で償い、その金で、かつての女と娘を助け、ハーヴェイとウイリアム・ハートは、少年と父親との関係回復を手助けし、ハーヴェイは、書けなかった作家であるウイリアム・ハートにとっておきのクリスマスの話のネタをプレゼントする。

この三者がそれぞれに、プレゼントを与えっこをして、話が終わるという文学的な作品である。

ま、こんな心温まる話が、ニューヨークにあるはずはない。しかし、ありそうだと思わせるのが、上手な嘘。

最後の、ハーヴェイ・カイテルの「作り話」は、ポール・オースターの小説の作法に通じるのかもしれない。

併映は、スティーブ・ブシェミ主演の『イン・ザ・スープ』。

印度哲学の勉強会の合間に見たのと、朝、10キロトレイルを走ったので、最初の20分位完全に寝てしまった・・・

ジェニファー・ビールスいいですね。笑うと犬歯あたりの歯茎も見えて、笑ったチワワみたいに思えました。

とても、綺麗なのですが。

翌日は、ギンレイホールで、『マギーズ・プラン 幸せのあとしまつ』と『はじまりへの旅』の日本。

早朝、田で雑草取りをやった跡で映画を見たので、『マギーズプラン』の方は、ちょっと集中力が続かない感じで、見ておりました。

イーサン・ホークの出る映画で、面白かったのは・・・『ガタカ』くらい、あと、『今を生きる』はいい映画だった、あのシェークスピア劇やる少年が嫌だったけれど、それに出ていた?ということで、調べてみたら、ああ、あの、「オーキャプテン」とリンカーンのことを詠んだホイットマンの詩を口ずさみながら最初に勉強机の上に土足で立ち上がる少年だったのか。。。。

この間見た、『ブルーに生まれついて』も、イマイチな気がしたので。

『ジュリアン・ムーア』も嫌いな女優ではないけれど、年を取ったか腰が落ちちゃって、歩く姿がおばあさんっぽかったかな。

というわけで、特別な感慨なし。

子供が欲しいだけで、結婚生活はいらない、という女の人は多いのだろうか?

複雑そうな三角関係ではあるのだが、主人公は、

 

 

『はじまりへの旅』は、文明を否定し、山の中で野生動物の猟をしながら暮らしている元ヒッピーの家族の話。

最初は、これは、やりすぎだよ・・・と、この家族に距離を置き始めて、いわゆる物質的なものを楽しみ、隣の人がやるようなことを自分もすることを推奨されるような社会に埋没していく生活の倫理というものがいいのではないかと思わせるあたりが、監督のうまい所で、そこからのどんでん返しが、胸のつかえを一気に吹き飛ばしてくれるいい映画ではありました。

一家の家長として、父権的な独裁者を演じていた父が、自分の非を認め、息子たちの人格を認めたときに、取り巻く世界が変わっていく。子どもたちも父親をリーダーとしてではなく、傷つく同じ家族の一員であると認めながら。

父は、髭をそり、息子は長髪を切る。

子は、父親を超え、父親は、子にすべてを信頼して彼らの未来を託す。

ラスト、この親子は、ヒッピー生活を行っているものの、山の中の狩猟生活ではなく、どうやら、農業のような生活を始めている模様。角々しい生活が丸くなって、穏やかに子どもたちも父親もなっているのが良かったですね。

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2017年06月15日

カルマ・ヨーガ

国民の代表が、国民の不利益になることばかりを決めている。

国会が政府の悪事を隠す手助けをしている。

また、その政府を国民が支持していると言う。国民が支持している限り、この地獄は続く。

いつかかならずこのツケを、国民は、払うことになるのだろう。

いい気味だといいたいところだが、私もその国民であるので、そのツケを払わないといけない。困ったことである。

立憲主義も民主主義も根付かないこの極東の地、日本。

最初から、この国に民主主義などなかったのかもしれない。

ところで、ヴィヴェカーナンダによれば、この世の善と悪はコインの裏表のように分離不可能なものになっている。

悪がはびこれば、善もまたどこかには存在している。

同様に、悪を滅ぼすことはできない。善も滅ぼすことはできない。

そんな絶妙なバランスのうちに善と悪の量は均衡しているのである。

嫌なことがあれば、いいことだって必ず起こるだろう。

何が善で何が悪か、なんて、神様しかわからない。ただ、その目に見えぬ秤でもって世界は維持されている。

そんなふうに考えて、どこかで良いこともきっと起こりうるだとうと思いつつ、少なくても「自分さえ善ければ」とまず、自分が正しいと善いと思うことをやっていこう。

インド哲学を勉強していると、この世にカルマを残さない生き方、カルマヨーガというのがある。

インドの伝統的な修行者は、出家をして、行方不明になる必要がある。それを出家と言う。

しかし、そうでない人には、修行はできないかというとそうではなく、只ひたすらに、自分の仕事をその結果や報酬や影響を考えず、没頭するというもので、これをカルマ・ヨーガと言う。仕事と隙間なく一体化して、我を滅却して打ち込むのだ。そうすることによって、業というカルマを来世に残さない。

大変難しいことではあるのだけれど、これは、素晴らしいアイデアで、『バガヴァット・ギーター』を読んで、一番感銘したことでもある。

仕事で、つい、この仕事が自分に与える影響なんかを考える。失敗したら自分のプライドが傷つくなとか、報酬を目当てにいやいや仕事をしたり、仕事をして喜ばれたら嬉しく思ったり、喜ばれなかったら気分を害したり、普通の事をやっているのに、なんでここまで言われなければならないんだろうと思ったり。

そうしたことにがんじがらめになって、仕事が手につかないということも経験する。

そうではなくて、この仕事をこなすこと、行為の結果を考えずに仕事に没頭することが修行につながる道、幸せになるためのトレーニングなのだと考えれば、辛いインターバルトレーニングをするように、仕事に違った視点で勤しむことが可能になるのではないか?

たしかに、こうして仕事をすれば、報酬などのインセンティブを考えずに仕事をするので、妙なプレッシャーも考えずに集中力は増すし、仕事をしていて知らぬ間に誰もが到達できないような地点に知らぬ間に到達していたということも、きっとあるだろう。

そのうち、自分の仕事の上に、あぐらをかいて、悠々と過ごしている自分を想像してみる。仕事に巻き込まれていた自分が、仕事を自分に巻き込んでいるという風に、考えられなくもないではないか。

仕事を、自分の成長のための教材として使うこと。そこに、未練や後悔や傲慢や満足や達成感など、一切の積極的な感情や消極的な感情も何も残さないこと。

同じように、トレイルランニングでも、梅雨のぬかるんだ土に足跡を残さないような走り方が理想なのではないか。猫のように音を立てず、地面のゾウムシを足音で驚かさず、水の上をさえ走れるような、そんな走り方を目指している。

走って、大汗をかいて、シャワーを浴びて、自家製のパンと自家製の味噌から作ったスープ、豆乳ヨーグルトを食べれば、少しは気分も良くなった。

この世界は、自分の修業の場であると。この世界のすべての出来事は、この訓練のために提出された課題である。そんなふうに考えて、修行していこう。

実生活も、トレイルも、幸せになるためのトレーニングなのである。

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2017年06月10日

トレラン 本格的に再開!?

1959年2月3日。飛行機事故で、バディ・ホリーとリッチー・ヴァレンスが死んだ。

その日のことに触れたドン・マクリーンの『アメリカンパイ』という曲で、その日を「音楽が死んだ日」と歌っている。僕はまだ生まれていなかったけれど、iPod shuffleでこの歌を聞きながら山を走れば、偉大なるロックンローラーが死んでしまったその日のことを追体験できるような気がする。

音楽が死んだ日。

可哀想なウェイロン・ジェニングス。同じクリケットの一員としてバディ・ホリーと道中をともにしていたのだが、この日、バスで移動することになった。バディ・ホリーに、「バスでのろのろついてこい」とからかわれて、冗談で返した言葉「飛行機で墜落しちゃえ」。この会話にその後苦しめられることになってしまった。

ヨガスートラでは、「正直」の行を行うと、言ったことが実現すると言う。きっと、ウェイロン・ジェニングスは、正直者だったのだろう。

ジョージ・ルーカスの『アメリカン・グラフィティ』でも、「バディ・ホリーが死んでロックンロールは終わった」なんていうセリフがあったけ。

どっちが先かと言えば、アメリカンパイが1971年、アメリカン・グラフィティが1973年だから、ジョージ・ルーカスが引用したことになるのか。

まあ、とにかく、早朝のトレイルランが出来るお陰で、こうした機会でないと(ジョギングということだが)古い懐メロロックは聞かないから、貴重な音楽鑑賞時間となります。

先日、10キロばかり、スイスイと力を込めて走ったのはいいものの、脱水症なのか、頭が酷く痛くなり、1日を苦痛で過ごしたから、今日から、ちゃんと心拍計をつけて、マフェトン心拍域(130)以上上がったら歩くように、アラームをセットして慎重に走ったのでした。ボトルも片手に手放せません。

走る前日の夜は、iPod shuffleにどんな曲を入れようかしらんと、アイチューンを弄って、曲を入れるのに、30分は費やしているのだが、これがやめられない。

もう耳にタコが出来るほど聞いたと思えるロッド・スチュワートの「マギーメイ」なんて、普通は入れないのだけれど、今朝これ聞いたら、感動した。ロン・ウッドでしょうか、ベースは。ザ・バンドの「ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク」みたいに、わざとしょぼいスタジオで録音している風が素敵でした。

サムアンドデイブの「ソウル・マン」は、ブッカーTとMGsの演奏に痺れ、足をXに交差させて踊りながら走るしあわせよ。早朝だから人がいないから走り、かつ踊れる。楽しい。

ときに、この間見たゴダールの映画『離ればなれに』の中のマジソンダンスを取り入れたりして。

とにかく、懐メロロックを聞きながら走るのは楽しい。それも、マフェトン心拍域で歌が歌えるくらいの低出力で走るのがとても、心地よいのでありました。

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2017年06月09日

村上春樹訳の『フラニーとズーイ』

サリンジャーの村上春樹訳の『フラニーとズーイ』を読んでみた(野崎孝訳は『フラニーとゾーイ』)

そしたら、シャンカラ、ラーマクリシュナやら、バガヴァッド・ギーターとか印度哲学のスター選手、聖典の名が現れてきて、こういう小説だったんだと、思いを新たにした次第でありました。

高校時代に、『ライ麦畑でつかまえて』に感動して、次に読んだのがこの本だったはず。少なくとも、印度哲学の基礎がわからないと、内容を把捉することが難しいような気がするので、10代でこれを読んだときには、この内容について何もわからなかっただろうと、今になって思う。退屈して、全部読み終えなかったような気もする。

この本は、フラニーとズーイという二つの中編が合わさった長編小説ではあるのだが、この中で、ズーイの部分がやや難解で、それは、このグラス家の思想の拠り所が、通常人とはかなり違っており、この違った地平から放たれる言葉であるからだと推察する。

とはいうものの、魅力的なグラース家の兄弟の登場がなにやら嬉しくなってしまう。

『ナイン・ストーリーズ』というサリンジャーの短編集の中で、『バナナフィッシュにうってつけの日』でこみかみを撃ち抜いて自殺した長兄シーモアは、ここでも、大きな役割を果たしている。『コネティカットのひょこひょこおじさん』には双子の兄弟。『バディ』っていうのがあったっけ、それは、次兄バディの幼少期の話。グラース家の面々がこの短編でも活躍中。その他、『シーモア序章』とか『ハプワース16,1924』という作品でも、グラース家の記録が永遠保管されている。

なんだか、さっぱり的を得ない感じで、『ライ麦』以外を読み飛ばしたが、イン哲を学んだ後だと、また違った趣が出て、今月は、サリンジャー全部読んでしまおうと思う。

この『フラニーとゾーイ』の中で、印度哲学の学習者にとっては、あっ、これは、バガヴァット・ギーターの「カルマ・ヨーガ」のことだよね!、これって、平等のヨーガだよね、とか、インド哲学を齧っている人には、一見謎めいたゾーイの言葉の深い意味がわかったりするので楽しい。

サリンジャーは、東洋思想に傾倒していったらしいけれど、その中で、印度哲学のアイデアを、グラース家の面々に当てはめて、小説というファンタジーの世界を作り上げたと言っていいのではないか。僕も時々、印度哲学のことを夢想すると、あんなこともこんなことも、みんなつながっているんだよね、と、不思議に心が高揚することがある。

印度哲学が説く真実というものは、我々が真実だと思っていることの正反対であって、こうしたことを話しても、その意味内容は普通は通じないわけで、周りを見れば、人生の真実に気づいていない俗物ばっかと、グレてしまうフラニーの気持ちは少しは分かる。

例によって線を引きながら本を読んでいたら、至る所に線が引かれているので、この本は、現在の自分にとって、かなり重要な小説なのだなと思う。

最後の大団円に向かって、ゾーイとフラニーが突き進む最後の数ページは手に汗握る感じがある。

自殺したシーモアの残した「太ったオバサンのために靴を磨く事」って、深く考えると、バクティ・ヨーガっていう感じがしないでもない。結局、太ったオバサンというのはキリストだったり、クリシュナだったりする。一見無意味なことかもしれないが、こうした小さな自意識を超えたサクリファイスが、究極のところ彼岸に至る道なのかも。

こんな難しい会話をしているのに、最後は、パシッと話を決めてしまうところが、うまいなあ、読ませてしまうなあと感嘆したのでありました。

何十年前か読んだときは縁がなかったが、時を経て、僕にとっては大切な小説になった。
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2016年11月16日

嫌われる勇気

ちょっと前に再読した「嫌われる勇気」の最後の数ページは、今を生きること、その場でダンスを踊り続けること、円が閉じるように螺旋状に自己充実しながらも成長していくこと等々、私の中で共感の嵐が吹き荒れて実に充足した読書体験でした。

 
目的的に人生を生きるのではなく、今ここでの瞬間瞬間を充足して生きることによって、知らぬ間に誰も到達できない場所に立ってる自分にふと気づくということは、よく体験することだけれど、この本に背中を押されて、このまま自分の道を切り開いていこうという気分にさせてくれました。
目的を達成するであろう未来は、まだ存在しないし、刻々と瞬時に霧消する過去はすでに失われてしまっている。たった、この今ここというこの瞬間に生は存在するのだから、その瞬間瞬間を味わい抜くことが大切だということです。

20年で生を終えた者も、80まで生きた者も、その生きたという充足は同じであるというようなことが書かれていました。

これは、ローマの皇帝マルクス・アウレリウスが自省録の中で「たとえ、君が三千年生きるとしても、 いや三万年生きるとしても、 記憶すべきは何人も現在生きている生涯以外の何物をも失うことはないということ、 また何人も今失おうとしている生涯以外の何物をも生きることはない、ということである。

従って、最も長い一生も最も短い一生と同じ事になる。 なぜなら現在は万人にとって同じ物であり、故に失われるときは瞬時に過ぎぬように見える。何人も過去や未来を失うことはできない。 自分の持っていないものをどうして奪われることがあり得ようか。 」と書かれていることと同じで、本当に、そうだと思います。

また、いきなりダンスを踊り続けるということが書かれていて驚きましたが、たぶん、これは、村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』の中で羊男が言う台詞、「踊るんだよ、音楽の鳴っている間はとにかく踊り続けるんだ。おいらの言っていることはわかるかい?踊るんだ。踊り続けるんだ何故踊るかなんて考えちゃいけない。意味なんてことは考えちゃいけない。意味なんてもともとないんだ。」 ということに触発されて著者が書いたのかもしれません。

人生は無意味であり、その人生に意味を与えるのはあなた自身であるというのも至極もっともなこと。『ダンス・ダンス・ダンス』の羊男の助言に従って、今ここでダンスを踊り続けよう。

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2016年08月03日

大江健三郎月間 大江健三郎月間

大江健三郎が素晴らしくて、ガンガン読み進められる予感。いままで感じていた共感を一気に冷めさせるような生理的に嫌な表現が突然出てきて、調子が狂うことが多いのだけれど。
これも、意図された表現なんだろう。
数10年前に大学の図書館で『同時代ゲーム』を最初の10ページ位で放り投げだした記憶もあるけれど、今なら、読了できるかしら?
『万延元年のフットボール』『個人的な体験』は、今まで読んできた小説の中でもとても感動した小説ではあったものの、他のすべての小説を読みきりたいとは思うまでには至らなかった。寓話的で、核時代の黙示録的なのが、どうも苦手で。ノーベル賞受賞作家というのも鬱陶しかったし。
同じような作家に安部公房がいて、『砂の女』は、何度読んだかわからないけれど、その他の小説にはあまり熱くなれない。古井由吉もそう。小島信夫もそう。
村上春樹、遠藤周作の主だった作品を一月二月かけて読んでみて、毎回同じことを同じように品を変え形を変えて物語っているわけで、その人の本を集中的に読むと、理解力は進むし、こちらの意識が広がるような気がするのは、読書の醍醐味の一つではあります。
50過ぎたら、広く浅くよりも、狭く深く井戸を掘って、水脈を探してみるほうがいいのかもね。そのための勘を今まで養ってきたのだから。さて、8月もバシバシ行きましょう。
町田康は、怖いもの見たさで、今日、文庫を1冊買ってみた。文学全集の宇治拾遺物語の訳が素晴らしかったので。

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2016年07月20日

遠藤周作『侍』

遠藤周作の『侍』は、ヘビー級の重い後味を残した小説でした。いろいろと考えさせられました。小説じゃなければ、書けないテーマで、物語と自身が一体化することで、重い体験を得ることが出来ます。
自身や家族単位では仏教を、小さな共同体や日々の習俗では神道を、クリスマスを祝って、現世利益を頼みに神仏にお金をその対価として賽銭箱に投げ入れるなんて、神を神とも思わない暴挙だと思うのですが、そんな無茶苦茶な宗教的日本の状況は、その精神生活を良くも悪しくも軽いものにさせてますね。その場その場の都合で、宗教さえ、あちこちのものを継ぎ接ぎで利用するというわけです。
この小説は、17世紀のお話ですが、封建的領主関係、家制度が崩壊し、年功序列型の会社組織も影を潜め、核家族を通り越して、お一人様が主役になりつつあるこの社会、もう、自由すぎて、その重みに絶えられず行き場を失っているというのが、今日の政治的状況でしょうか?
行きが詰まりそうなのが、世間的に恥をかかなければなにをやっても許してしまう自分、だから、3.11の経験だって無反省。絶対的なものとの対話をしないための思考力の弱さが、老若男女皆子供から大人になれない世界を形作っていることが、よくわかりました。
今月は、遠藤周作月間なので、軽めの幾つかの小説も読みましたが、『海と毒薬』『キリストの誕生』『イエスの生涯』『留学』『侍』『沈黙』は、ためになりましたよ。
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2012年11月24日

虚空遍歴 上・下 山本周五郎著

『虚空遍歴』を読んでみた。

敬愛する松岡正剛の「千夜千冊」にも選ばれているから期待して読んだが、全然感情移入できず。

映画で言えば、ロードムービー。

江戸、大阪、金沢の旅の中で物語が進行する。

一言で結論を言えば、人はいくら努力しても未完のまま終わる、ということ。

そうだね、どんな偉い人でも、未完でおわる。ガンジーしかり、キリストしかり、夏目漱石しかり。

悲しいね、寂しいね。

読後感はそんな感じ。

人生50年も生きていると、ちょっと主人公の言葉が青臭く感じられる。

高校生くらいなら、ひょっとして、のめり込むように物語の中に入っていけたかも。

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2012年02月16日

時計じかけのオレンジ

「時計じかけのオレンジ」を原作で読んでみた。

今回は、ハヤカワ文庫の最終章を加えた訳で、字が大きくて昔の版よりかなり読みやすい。

ソビエト語と英語の造語がタップリと入っていて、ハラショー?な文体が魅力な一冊だ。

映画で相当有名な本だけれど、本を読み終えて、大抵が本のほうが映画よりも感銘を受ける度合いが高いのだが、これは、引き分け。

どちらも素晴らしいのよ。

原作では、主人公のアレックスは15歳。映画のマルコム・マクドウェルは、どう見ても18歳以上。

15歳のガキがレコード屋へ行って、10歳の二人の女の子を自宅に引き入れて、「入れたり出したり」しちゃうのは、やっぱりまずいので、その点、映画のほうは、同じ年代の女の子で、「インアンドアウト」しているから、原作のほうが過激だろう。

刑罰理論の新派・旧派の対立。犯罪観の相違。刑罰は、目には目をの応報ではなくて、教育して社会に有益な人材として社会に送り返すことなのだという教育系論等々、刑法理論を学んだものとしては、甚だ面白い議論があって、それが、この小説の大きなテーマになっているのに違いないと思うし、刑法を専攻した学生はぜひ見るべしということになるのだが、それよりも何よりも、スタイリッシュな文体が魅力だ。

少年ギャング団4人のリーダーであるアレックスは、麻薬入りミルクを飲みながら、どんなウルトラ暴力を犯すか思考中。かっぱらったスポーツカーで、次々人を襲って、暴力のしたい邦題。人を殺しても全くもって反省なし。14年の刑期を宣されて、刑務所へいれられが、新たに開発されたルドビコ療法という洗脳を受けることを条件に刑期を短縮される。

このルドビコ療法というのは、薬と残忍な映画を見させることによって(目が閉じられないように、瞼を強制的に開かせる装置が秀逸)、暴力の要求が体に芽生えると猛烈な吐き気に襲われてしまうという洗脳方法で、この処置を受けた主人公のアレックスは、二度と暴力をすることのできない体となってしまった。

この小説の素晴らしいところは、この暴力を楽しむ主人公の頭の良さと感受性豊かなところ、またベートーベンを始めとするクラシカル音楽に対する造詣の深さ、そして、これが一番気に入るところなのだが、自己告白の率直さ、誠実さといった特性に主人公に惹かれてしまっていくことだ。

生来の犯罪者で、どう考えても酷い人間だが、裏表はなく、まして、偽善的なところが一切ないところが、主人公を魅力的にさせて、いつのまにか、主人公がルドビコ療法によって反撃できないことをいいことに、かつての仲間にリンチされてしまったりすることに激しい憤りさえ感じてしまう。いい気味だとか、同害報復だ、といった感情は、あまり浮かんでこない。

この小説のテーマは、善より悪を選ぶ自由を否定するのは、その悪よりも更に悪いことではないかということで、人間の自由意志の中に神の意志もまた存するといった価値判断が入っている。

このルドビコ療法は、現政権の政治に利用されるが、反対勢力の政治団体にも利用されて、飛び降り自殺を企てることになる。

洗脳と、政治利用という「不自然な」力に翻弄された主人公に、読者は、哀れみすら感じるので、この飛び降り自殺で九死に一生を得た病院で洗脳を解かれて元の隙あらば暴力を楽しもうとする主人公に、我々は、ほっと溜息をつき、今後の主人公の「活躍」に期待する自分を発見するのだ。

と、ここまでが、旧版の小説で、新しい版では、このあとに1章付け加えられていて、刑務所にいた間に時代は移り、昔の仲間は、結婚相手をみつけ、新たな「言葉遊び」をするグループに入って、落ち着いた生活をしているのに感銘を受けて、自分も、そろそろ落ち着いた生活をしようかという気分で終わっている。

この章の存在は、僕には蛇足に思えるし、文体もくすんで重たい感じがするし、取ってつけたような感じがしないでもない。暴力というボールを転がし続けて、「倫理的」な落とし所として、「クリスチャン」の参加であるアンソニー・パージェスがこの章で終えたい気持ちはわかるけれど、やはり、パワーが削がれる感じがする。

キューブリック監督の映画も、この最終章は無視しているが、これは正当だと思う。

飛び降りで体中石膏に固められて、洗脳を解かれて、元に戻ったアレックスが、現政権の内務大臣に食事の世話をさせて、ナイフとフォークで肉の切れ端を口に運ばさせる際のふてぶてしい態度を愉快に思うところで終わるのがやはり正しいこの小説の映画のあり方だと思える。

映画も、再度見たけれど、近未来的なポップな家具や建築に目を見張るところがあり、色の配置とかカメラアングルの素晴らしさは言うまでもなく、クラシカル音楽が随所に現れて、音響効果と暴力シーンのアンバランスさが見事。

人は笑いながら怒ることができないように、「ウイリアム・テル序曲」を聞きながら乱痴気騒ぎが滑稽に映るので、正当な価値判断で評価を下しながら見ることができない。

同じように、現代美術の権化のようなペニスの置物で、殺人が行われ、最後の一突きに、芸術作品のような絵でその結末を暗示させることによって、一連の暴力に対する判断停止、あるいは、映画の愉悦というものを感じるように巧みに作られている。

またモダンバレエのように、「雨に唄えば」を歌って踊りながらの暴力シーンは、アレックスの暴力に対するヨロコビを表現するとともに、我々を倫理的に宙ぶらりんの状況にする手腕でもある。

今シーンを取るのに3日間かけたというけれど、作家の本棚を倒すシーンのマクドウェルの運動神経が素晴らしい。

スローモーションと高速度撮影。これが、ポップな様式美を支えている。

というふうに、小説では、ロシア語と英語の混じり合った造語で綴られたポップな文体を、キューブリック監督は、こうした手腕で「映画の文体」を見事に映像の中に刻み込んだという点で、やはりこの映画は、素晴らしい。

 

 

「非情の罠」「現金に体を張れ」「突撃」「スパルタカス」

「ロリータ」「博士の異常な愛情」

「2001年宇宙の旅」「時計じかけのオレンジ」「バリー・リンドン」「シャイニング」「フルメタルジャケット」

そして「アイズ・ワイド・シャット」。

長編は、このわずか12作。そして、そのどれもが基準を超えて、ため息の出るような映画ばかり。

年代順に、もう一度見てみようと思って、現在取組中。

 

 

  • 冒頭に出てくる「コロバ・ミルクバー」の裸の女性の形をしたテーブルは、この映画のために「2001年」でスターチャイルドの彫刻をしたリズ・ムーアが担当した。
  • 作家夫婦の家に掛けられていた絵は、娘のクリスティアーヌ・キューブリックが描いた「シード・ボックス」で、撮影の終了後は、キューブリック家のダイニングの壁に飾られた。
  • アレックスの「矯正」が終わったことを観客に示すシーンで、ステージ上に現れた男が、アレックスを床に倒して踏みつけるのだが、この時に、アレックス役のマルコム・マクドウェルは、肋骨を折ってしまった。
  • 元仲間が警察官になって、矯正後のアレックスに偶然遭遇し、リンチされるシーンで、水の中に首を突っ込まれるシーンは、あわや溺死するんじゃないかというほど長くて、窒息寸前だった。
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2012年01月31日

月と六ペンス

「月と六ペンス」読了。

楽しい読書時間だった。

こういう味のある小説を書ける日本人というのはいなかったし、これからも、いないだろうな。

どこをとっても、英文和訳の素晴らしいテキストになりそう。

次は「劇場」を読むか、もう一度「人間の絆」を読むか?

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2010年12月08日

やはり古文漢文を読まなきゃね

昨日、帰りにジュンク堂によってみたら、文庫本の売れ筋の3位の棚にこの「漢文法基礎」という本が置かれていた。

誰かが、悪戯に置いた手の込んだ悪い冗談なのかなという気がしないでもないけれど、突発的に、どこかの大学か高校で、参考図書に指定されて、多くの注文が入ったのかなとも思う。

今、漢文ブームなの?漢詩ブームというのと関係があるのか?

以前ブログにも書いたけれど(大学受験の際にZ会から出版されていたこの本を読んで勉強したというようなこと)、とにかく、この本、2週間くらい前に珍しく私買いました。

最近は、古文漢文がマイブームで、我が家にある少ない古文漢文の書かれている本を読み散らかしているのだけれど、文章のアンソロジーとして、また、忘れてしまった文法や基礎知識を整理するのに、読んでいる。

この本の特色は、「之」「乎」「者」「也」「矣」「焉」「哉」などの助字(読まない漢字)に詳しく説明がなされていて、まあ、受験時代には、こういう文字の重要性についてわからなかったから、読み飛ばしていたと思うのだけれど、ちゃんと、こういう助字にも当然意味があって、そんなことを勉強していると、漢文というものがより一層わかるようになってくる。

というわけで、私立文系でかつ漢文が大好きだった人じゃないと読み通すのは簡単じゃないと思うけれど、一度、基礎が出来れば、読む本の範囲が広がって、そこには、素晴らしい世界が待っている。

古文漢文と呼ばれる文章を最近集中的に読んでいて、とにかく、昔の人は、文章が短い。そして、多くの事を伝えることができた。すばらしい。書く為の文章として完成されていたんだね。

それが、言文一致となって、現代日本語の文章になるのだけれど、これは、まだまだ不完全で、だらだらとつかみ所が無く、おそらく、今後も、それ以前の完成された文書の域まで到達することは無いような気がする。

この言文一致体の完成と共に、江戸時代まで続いた我々の伝統や思考回路などなど、とっても大切なものが分断されてしまったような気がする。

ここには、綿々と続いてきた日本人の思想や感性の源泉が詰まっているのに、ああ、それなのに、古文漢文というのは、最近はやらないようで、大学の受験でもあまり配点が少ないのか、あるいは、選択して現代文だけで受験できるのかわからないが、ジュンク堂の受験参考書売場に言ってみると、あれっ?というほど参考書の数が少ないわけだ。

とにかく、日本人の感性や考え方を支えたのは、中国の書物に多くを負っているわけで、枕草子でも源氏物語でも、奥の細道でも、中国の古典がパロディとして、あるいは話の前提として、言及されていることに驚くのだ。

夏目漱石は、幼少の頃より漢文に親しみ、終生中国に対する敬意を失わなかった。

確か、漱石の日記に、中国人と間違えられることを日本人が嫌がるというのは、おかしな話で、中国人は、日本人より名誉な国民である、なんて事が書かれてあったと記憶する。

インターネットで検索してみると、ありました。

「日本人を観て支那人と云はれると厭(いや)がるは如何、支那人は日本人よりも遥かに名誉ある国民なり、只不幸にして目下不振の有様に沈淪せるなり、心ある人は日本人と呼ばるるよりも支那人と云はるるを名誉とすべきなり、仮令(たとい)然らざるにもせよ日本は今迄どれ程、支那の厄介になりしか、少しは考へて見るがよかろう、西洋人はややともすると御世辞に支那人は嫌いだが日本人は好きだと云ふ、之を聞き嬉しがるは世話になった隣の悪口を面白いと思って自分の方が景気がよいと云ふ御世辞を有難がる軽薄な根性なり」

読み返して、本当にそうだと思う。昨今の中国に対する憤りや、アメリカに対するお追従などを考えると、感慨が深い。

思うに、とにかく、拝金主義で、金にならないもの、ビジネスに将来結びつかないものというのが、高校や中学で排除されるという悪しき風潮が蔓延していて、古文、漢文を始め、無くてもいいモノとして排斥されてしまっているのかも知れない。

高校で、金融やら株式やらの勉強をやって何になる。英会話をして何になる。

勉強の基本は、面白いと思い、面白いと思ったら、もっともっと知りたいと思う。その指向性が大切なのであって、将来為になるからとか、将来の仕事で役立つからとか、そういう実践的なものではないだろう。

まあ、そういう人物が、たとえば、英語なんぞをぺらぺら喋っていても、多分、そこには、軽薄な内容しか無く、重みが感じられないのは、日本語を話しているのと全く同じで、端で見ていて笑止千万な気がする。

というわけで、話が大きくなってしまったが、言葉というのは、文化そのもので、日本の文化を知る最適な方法は、古文漢文に代表されるような文章を読んで、感動することに尽きるので、興味のある方は、是非、古文漢文を読んで貰いたいと思い、冒頭の本など、まずは手始めに受験参考書などを読むことを推薦したい。

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2010年12月03日

古文の基礎を勉強してみた

長い本を読む気力が全く起きないので、古本で買った「古文の読解」や「Word power made easy」や「徹底例解ロイヤル英文法」や「高校生のための現代思想エッセンスちくま評論選」やら日栄社の「方丈記」などを、ぱらぱらと捲って電車の中で楽しんでいる。

昔から定評のある大学受験の参考書というのは、下手な新書で発売されているその手の本よりも、内容が深く、そして、値段が安い。

未成年者が買うからそれなりの値段設定なのだろうけれど、さらに、ボクはアマゾンの古本かブックオフの100円コーナーで見つけてくるから、さらに、経済的ではある。

中学、高校と国語の教科書が配られると、楽しい読み物としてそれらを読んだのは、短い文章で、中身の濃い部分を選んで掲載しているから飽きずに読めるんだなと思う。

そういう意味で、受験参考書に載っかっているような問題文は、良い文章が選ばれているようで、読んでいて飽きないし、文章を精読するという意味で勉強になる。

その中でも、久しぶりに「古文」の勉強というか、解説付きで日本の古典を読んだというところなのだが、実に、昔の日本人というのは、文章が上手だったということに驚くわけで、特に中世の文章には、ハッとするほど感動する所があった。

平家物語の木曾義仲の最期のところの文章なんか、読んでいて目頭が熱くなるほど。方丈記の天災の記述なんか、それこそ、手に汗を握るほどの臨場感が、ただならぬ感じでこちらに伝わり、800年くらい前の人である鴨長明の息遣いがリアルに伝わってくる心地がして驚いた。

徒然草も、いままで何回か通読はしたけれど、こうやって、受験用の書物に出てくる例文を子細に分析してみると、上っ面だけでいかに読み飛ばしているかがわかって、たまには、こういう精読も心の滋養になるなと感慨深い。

本当に少ない語彙で、ぽつんぽつんと単語を並べて文章が構成されているように思えるのだけれど、その言葉の広がりや配置の絶妙さ、比喩の確かさ、対比の面白さという面で、現代日本語が失ったものを、再発見させてくれると共に、言葉の省略が却って、文章に深みを増すということを学ぶには、模範的な文章のカタログにもなっている。

というわけで、この小西甚一という学者の書いた「古文の読解」「古文研究法」「国文法ちかみち」という本は、一般教養で古文を知りたいという人にとっては、是非とも一度は目を通した方が良いと思われる本だ。

日本人に生まれて、日本の素晴らしい古典の世界に浸らずに死んでしまうのはとてももったいないと思うのだ。

この3冊の本で、みっちりと古文の基礎、常識を身につけたら、後は、無限に広がる日本の古典文学の世界に飛び込めばいい。

例えば、これは基礎の基礎なのかも知れないが、俳句鑑賞の際の「象徴」ということをこれらの本で初めて知ったのだ。

病む雁の夜寒に落ちて旅寝かな 芭蕉

という句があって、意味はよくわかるし、そのままその俳句を鑑賞していたのだけれど、

夜寒の旅愁と病む雁のわびしさという「深い共通性」を味わうことが俳句を鑑賞することだということを教わって目から鱗が落ちた思いがした。

「たがいに異なりながら、しかもどこか深い共通性があって、両者を対照することにより、それぞれの一番本質的な性格が同時に捕らえられるような表現」を著者は、「象徴性」ということの定義としてさらりと書いてあるけれど、これは、とても役立つ重要な定義だと思う。

句を詠む際には、この「深い共通性」を捉えることが鑑賞の要になる重要なポイントだ・・・なんて、誰にも教わったことがないし、読んだことも無かったので、受験用の参考書といって馬鹿にしてはいけないのだ。

しかし、問題を解きながら読み進めるので、ちくま文庫で500ページあるこの本を読み通すのに2週間かかった。が、得る物は大きかったので、次は、「古文研究法」に進もうと思う。

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2010年09月15日

ノルウェイの森

『ノルウェイの森』が映画化されて、公開は12月だとのこと。公開は随分先なんだね。

昨晩妻が映画版のホームページを見つけた。

妻が、珍しくこの映画を見に行きたいというので、久しぶりにロードショー公開で見に行くことになりそうである。

http://www.norway-mori.com/

映画の予告編が公開されていて、みてみると、ワタナベ君役は???。キヅキはいいんじゃないの。直子役は、なかなか良い線いっていると思う。小林緑役はイメージからほど遠い。もっともっと元気で、線の太い女優はいないものか。永沢さん、ハツミは、ちょっと困るくらいに若い感じがする。直子と緑は、生と死を糾う縄のような物語の中心だから、強弱のある女優がいいよなあ。なんて、勝手に今の段階では思っている。まあ、この予告編だけじゃ、何とも言えないけれど。 

舞台は1969年らしいのだけれど、この本が発売されたのは、僕らが大学3年の頃だったと思う。村上春樹の登場人物が遂に我々と同年代を書いたので、喜び勇んで生協に並べられていたのを買ったと思う。当時生協割引で1割引で買えたから。

浅田彰の『構造と力』なんか、ぽ〜んと放り出して、英語の先生だった柄谷行人の「隠喩としての建築」なんかも、ぽ〜んと放り出して、熱中して読んだ記憶がある。

ボクの入っていたサークルでも二三の村上春樹が好きな友人がいたのだけれど、そんな話はした覚えは全くない。けれど、妻とは、ボクは、この本の中の登場人物で唯一現実的な緑が好きで、「緑って、元気で良いよな。」と話したことは覚えている。

酷い高校時代と長い浪人生活と心身ともにくたくたで大学生となった4年間は、モラトリアムそのもので、極楽トンボだったのだが、なにせ、就職しないでやっていく!ことだけは決めていたので、大学3、4年にもなると、どうしようかそわそわしてくるんだね。

そんな状況で読んだ「ノルウェイの森」のワタナベ君は、おい、こいつ俺じゃねえかよ!と思えるほど、自分のことが書かれているような気がしたのだけれど、まあ、優れた小説というのは、そういう部分があり、「ライ麦畑」を読んだチャップマンがジョンレノンを射殺したときに、コールフィールドと名前を変えていたくらいだからね。

とにかく、ボクの大学時代で一番の思いで深い本と言えば、この本が挙げられる。

この本が洒落ているのは、主人公が、ハンブルグ空港へ降り立つ(「やれやれ、またドイツか」と主人公が呟くのだから、成功した社会人なんだろう)、まさにその瞬間に過去を振り返るという設定で話が流れていく事なんだろうね。

その過去を思い出す切っ掛けがイージーリスニングで流れる『ノルウェイの森』だったんだね。その音楽に目眩を伴って巻き込まれるように過去を思い出していく・・・というのが、優れて映画的で、感心したことを覚えている。

この『ノルウェイの森』というのは、京都の精神病院で直子と同室のレイコさんが、ギターで弾くんだね。この人のつま弾くギターの曲も、ボクが当時良く弾いていたものも多かったので、どうして、俺のギターで弾ける曲を知っているんだ!と、これも不思議に思った。S&G(スカボロフェアとか)だったり、ビートルズ(ヒア・カムズ・ザ・サンとか、ミッシェルとか)だったり。

そして、結末が、直子を失い旅行に出かけて傷が癒えたかに思えたとき、緑に公衆電話をかけるのだが、緑の「今どこにいるの?」という問いかけに、自分がどこにいるのか見失うというバランスの欠いた終わり方をしているわけだ。

この結末と最初の飛行機の中は語られていないけれど、それは、僕らが大学を卒業して、橋の下を大量の水が流れて、なんとか現在の時点で踏みとどまって生きているというところに至る変化は、だれでも経験していることだから、ごく自然にその最初のプロローグに戻ることが出来る。そうして、物語は、円環運動を始める。完結した物語なんだ。

ボブ・ディランの「All along the wachtower」とか、ヘミングウェイのニック・アダムス登場の短編とか、そういう最初と最後が輪で繋がっているものって結構あるのだけれど、それが、効果的に使われていて感心してしまう。

というわけで、原作のある映画はほとんどが、原作を超えないことが多いから、この映画をみれば、十中八九失望するんだろうなあと思いながらも、そのギャップを楽しむのも映画を見る楽しみ方でもある。

高校生の頃「風の歌を聴け」の映画版を見に行って、ずっこけたことを思い出した。まあ、実験映画みたいで、嫌いじゃないけれど、ちょっと、イメージからはほど遠かったな。村上龍監督の「限りなき透明に誓いブルー」のほうが面白かった(特に映画音楽がよかった)。

と、こうした話を書き連ねると、話が終わらないので、このくらいで。

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2010年07月27日

高山植物ポケット図鑑を買う

『北岳・甲斐駒』の登山地図を買ってきた。

南アルプスは勿論、3000メートルを超える体験も初めて。初めてづくしで心が躍る。

南アルプスは、行けそうで行けない微妙な位置にあり高度もあるので、一人では行こうとも思いつかなかった山だ。

地図を見て、北岳の周りの山が、これまた『日本百名山』ばかり。お隣の間ノ岳は、日帰りで北岳ピストン往復する人もいるようだ。

思えば、いままで、奥秩父限定で、薄暗い地味な山を何度も何度も登ってきた。

ひょっとしたら、南アルプスの山に登って、いままでの山登りとは違う次元で、山登りの楽しさを体験できるかも知れない。そうなると、病みつきになってしまうかもな。まあ、それも良いでしょう。

高山植物に出会える少ないチャンスなので、しっかりと準備しておきたい。里山の植物は少しはわかるが、高山植物は全くわからない。

花の名前を覚えると、それが一つ二つであっても、完全に分別ができるようになると、不思議なことに、どんどん覚えていけるようになる。彼の心に植物と言葉による結びつきが生まれ、もっと知りたいという要求が生まれてくるはずだ。

一つ固有名詞を覚えるということは、その人の世界が少しずつ広がっていくということだ。そうして、一つ一つ自然を征服していく。ひとは、言葉無しに、世界を理解することはできないのだから。

そのためには図鑑が必要だ。大きな図鑑は持っているのだけれど、持ち運びができるコンパクトな図鑑はないかしらんと、そういえば、前に文庫本で高山植物の図鑑が売りに出されていたなと、ひょいと思い出して、ジュンク堂で探して貰った。620円。

花の色で検索できるから、便利かも知れない。

北岳の花畑には希少な植物がたくさん見られるという。

キタダケソウ、キタダケキンポウゲ、タカネマンテマ、チョウノスケソウ、キンロバイなどなど。

あちこちの高山へ出向いて、花の名前を覚えていきたいな。

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2010年07月13日

言語表現法講義

心拍計をにらめっこして我慢に我慢を重ねたLSDと、思いっきり走りたいように走るトレーニングというのを一日おきにするのが、合っているのか、体の調子はまずまず。

踵の痛みは、走ると無くなるが、朝起きたときには、本当に走れるかしらんと思えるほど痛い。

が、しばらく歩いていると痛みは消え去る。へんなの。

本当は、@LSDAキツイトレーニングB軽めの運動という3日一サイクルの運動が良いらしいのだけれど、やはりAのキツイトレーニングは、ボクのノリじゃないんだよね。

今朝は、美杉台周回コースの大河原・クリーンセンター・下畑を登りダッシュ・下りLSDを3回くらい繰り返そうかと思ったが、辛そうでちょっと考えたら行く気が失せた。

というわけで、やはり心和むのは、山の中。今日は、M湖周回コースに行ってみる。1周6キロくらい?2周回る。

1周目は、上り坂をダッシュで頑張って走り、2周目もそうしたいのだけれど、頑張る気力も失せてしまい、負荷のかかったジョギングといった感じ。

寝汗をかいた土の表面は、苔が生えてツルツルで、下りは、慎重にならざるを得ない。腰を引けば、ズルリと後転し尻餅つきそうだから、足の裏で斜面をひっぱたくようにして普通に走って下りるのが良いことに気がついた。また、技術が身についた。

先週の土曜日に、ここを走って泥だらけになった靴を久しぶりに洗ったのに、また熊のぬいぐるみみたいに泥で茶色になっちまった。

ところで、この厳めしいタイトルの『言語表現法講義』は著者の大学における講義録を元にして書かれた本で、普通は、このデザインと題名と「岩波書店」ということで実際に手に取ることさえしないような本だ。

けれども、これが、面白い。

言っている内容は、高度だけれど、それほど、理解するのには難しくはない。

新書版でちがう題名で出れば、たくさんの人が手に取るだろうになあ。

とにかく、文章を書くためのハウトウものではなくて、書かれた文章が何故我々に一定の感銘を与えているのか?といった視点で、学生の書いた文章を通してそれらを伝えるという内容の本である。

テニヲハの使い方とか、こうすればわかりやすい文章になるとか、といった本では全くない。

面白いのは、不完全な文章が、それゆえに、あるいは、誤植によるミスが、たまたま文章に感動とか躍動感を与えているのはどうしてだろうかということを具体的な例を挙げて解説している。

それはまさに神妙なもので、言霊という言葉があるほど、それは筆舌に尽くしがたいのであるけれど、それを筆者の言葉でもって解説しているというのがこの本の最大の魅力だと僕は思う。

著者は有名な文芸評論家なんだけれど、その文章が巧いんだねえ。この本の内容を理解し、文章を書くときに利用しようという以前に、この著者のこの本を読む事自体、文章の力が一目盛り上がる様な気がする。

比喩の使い方も独特かつ適切で、感服いたしました。さすが、文章のプロです。

ちょこっと、僕の大好きな作家、片岡義男について言及してあったのも、嬉しい。この人を評価している人は、ボクの読んだ限りでは、他に小林信彦、高橋源一郎くらいのものだからね。

久しぶりに、読書の愉悦を味わさせていただきました。

これは、図書館で借りたのだけれど、是非とも本棚に置いておいて、5年に1度くらいパラパラと捲りたい本だ。

この本の参考図書として『高校生のための文章読本』『高校生のための批評入門』以上筑摩書房、が挙げられているのだけれど、帰りに本屋で立ち読みしたら、これが楽しいアンソロジーになっているんだよね。

高校でも中学でも国語の教科書ってさ、大好きで、貰ったその日に、読み始めちゃったものだけれど、そんなワクワクする本なんだね。

というわけで、アマゾンの中古本で、1冊1円と23円でそれぞれ売っていたから、久しぶりに本を買ってしまった。

というわけで、M湖一周だいたい35分くらいで廻って、本日のトレーニングは終了。

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2010年06月30日

ほら、これ、ちょっと試してみなよ。

先日、「スイング・ジャーナル」誌の休刊についてちょっと書いたのだけれど、その編集長であった中山康樹氏は、ボクのお気に入りの音楽評論家で、怒濤のように新刊を出し続けている。

ボクがそのホームページで新刊の情報を得て、その発刊を楽しみにしている作家の一人で、そのほとんどの著作を読んでいる。

何が素晴らしいのか?中山節というか、文章が、リズムが好きなのね。

ジャズ・ロックに関する評論文が多いのだけれど、マイルス・コルトレーン・ディラン・ビートルズ、ビーチボーイズと、滔滔と流れる音楽の本流を相手にしていて、興味が尽きない。

それぞれ、恐ろしい数のアマチュア研究家が存在しており、トリビアな知識は、ネットで探せば、簡単に出てくるこのご時世で、音楽評論家として食べていくのは、とても大変なのだろうけれど、なにも、僕らは、細かな知識や新たな説を知りたくて本を読んでいるのではなくて、文は人なり、中山先生と共に、お喋りをしているような感覚で、肯きながら、そうじゃないだろうと反論しながら、その著作を読むのを楽しみにしているのだ。

というわけで、新刊の一つである「ビートルズとボブ・ディラン」を読み終える。

1964年8月28日にディランは、ビートルズと、マンハッタンのデルモニコ・ホテルで始めて出会う。

ポールの証言:そして、ディランが現れた。彼は、僕らのホテルにやってきて、「ほら、これ、ちょっと試してみなよ」と言ったんだ。

ディランに勧められたマリファナを定説では、ジョンの後、煙草のように吸い続けたリンゴが最初にラリったらしい。

ディランがビートルズにマリワナを教えたというのは、誰でもが知っていることだけれど、新たな本で、様々な証言が得られてきて肉付けされていくと、ラバーソウル・リヴォルヴァー・サージェント・ペッパーで頂点を極めたドラッグカルチャーの影響の渦中にある傑作が生まれたのも、この出会いが象徴的に暗示しているのがよくわかる。

それにしても1965年に発売された両者のアルバムのリストを見て溜息が出る。

3月 ディラン「ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム」

8月 ビートルズ「ヘルプ」

8月 ディラン「追憶のハイウエイ61」

12月 ビートルズ「ラバー・ソウル」

うっへえ、メガトン級のアルバムの数々。

ディランが、ビートルズに出会って、ロックを志向したのは、ブリンギング・イット・オール・バック・ホームのB面に始めて電化楽器を使っているし、「追憶のハイウェイ61」では、はっきりしたバンド志向を持ち始めているのがよくわかる。

ヘルプ・ラバーソウルのジョンは、ディランの影響を強く受けた作品を作っている。

この1964年がロックが誕生し、以後ビートルズが解散する70年までがロックが最盛期を迎えた時期だったというのがよくわかる。

この両者の相互の関係性をエピソードや、証言によって読み解いたのが本書。

今回面白かったエピソードが、バングラディッシュのコンサートにおけるディランだ。

このコンサートは、ジョージ・ハリソンが友人のラビ・シャンカールのところに遊びに行ったとき、母国のバングラディシュの為に力になって欲しいと依頼されたのを切っ掛けに、ジョージがしきって、開催したチャリィティ演奏会である。

出演交渉は難航したが、レオン・ラッセル、ビリー・プレストン、ジェシ・エド・ディヴィス、クラス・フォアマン、ジム・ケルトナー、ジム・ホーン、それに、バッドフィンガーズの面々。広くジョージの人脈から選ばれた。

目玉は、元ビートルズの参加だ。リンゴは快諾。ポールは解散後すぐにビートルズが結成されるのは馬鹿げていると断った、ジョンは、「ヨーコと一緒なら」という条件に、ジョージは一方的に交渉を打ち切った。

ミック・ジャガーは、フランスから出国できず、司会のピーター・セラーズは、映画出演中で無理。

そして、ドラッグの海に溺れていたエリック・クラプトンは、「ブツの供給を保証してくれるならば」との条件で参加。ニューヨークに着いた時には、「切れかかっていて」用意された「ブツ」は、薄められたもので、コールド・ターキーに悩まされてリハーサルには出られなかったという。

そして、ディランだ。

ジョージは、ディランに出演交渉したときに「風に吹かれて」を歌って欲しいと要望したそうだ。ディランは、「君は、<抱きしめたい>を歌うのか」と返したという。

舞台に上がるまで、やる気がなかったみたいだよ。<コンサートの前日、マディソン・スクエア・ガーデンの回りを見渡して、<あのさ、やっぱり、これって、俺のノリじゃないんだよね>って言うんだ。

とは、ジョージの証言。いかにも、ディランらしい発言だ。

それでも、本番にディランが参加するかどうか確信が持てなかったのだけれど、当日、舞台の袖にディランが立っていたので、司会を兼ねるジョージは、「古い友人、ボブ・ディランです!」と叫んだ。

これらのエピソードは、知っていたけれど、こうやって、確かな証言とともに、読むと、あのコンサートの舞台裏までわかっておもしろい。

感動的なレオン・ラッセル(ベース)ジョージ・ハリソン(リードギター)リンゴ・スター(タンバリン!)を従えた

なんか、ぶっつけ本番のコンサートだったんだね。クラプトンのギターも精彩を欠くし、ディランがのって何曲も歌うものだから、バッドフィンガーの出番が無くなったというのは、本当だろうか?

この本を読むまでは、バンドリーダーとしてのジョージ・ハリソンというのは思いつかなかったのだけれど、人脈にはアメリカ・イギリスに腕利きのミュージシャンがたくさんいるし、これだけの人をチャリティで集めることができるのは、人望が厚いんだろうな。

かてて加えて、特に人付き合いの悪い年上のディランにたいしては、「頼りがいのある弟」として、トラベリング・ウィルベリーズでも、よく癖のあるメンバーを纏めていた。偉いもんです。

ま、とにかく、この手の本を書いて、「読ましてくれる」作家は、中山康樹氏しかいない。次は、どんな本で楽しませてくれるのか楽しみだ。

posted by ロビオ at 10:11| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする