2018年06月26日

自転車とトレイルランニング本格的に再開す

最近、また、自転車に乗ったり、里山の中を走るようになった。

足の痛みが酷くなることもあるので、長距離は走る気にならないのだけれど、1時間強のトレイルランニングなら大丈夫なようだ。

ガーミンという心拍計を利用しているのだが、一番運動していた頃を探してみたら、自転車で月に1500キロ以上走っていたり、トレイルランは、かなり長い間月に300キロ程度走っていたことを発見した。

すっかり忘れていたが、毎週のように、一人で遠く秩父や山梨まで自転車で走って200キロ以上走っていたし、秩父まで山の中を50キロ以上毎週山の中を走っていたころもあった。

そんなに何故走っていたり、自転車に乗っていたかといえば、いろいろと本当に辛かったのね。だから、そうでもしなければ、うまく生きれれなかったのだと今の自分には、そう思える。

時に、運動は、身を助けてくれる支えにもなるのだ。

で、今の自分には、やりたいことがたくさんあるので、そんな運動量を(特に週末に)振り向ける時間がないのであるが、やはり、運動をしないと、背骨がきちんと立っていないような気がして、少しずつでも、できれば、毎日やり続けていきたい。

今朝は、5時前に家を出発した。

最初の30分位は、とても楽しく走れるのだが、1時間を過ぎた頃には、軽快にとは言えない走りになってしまう。

これを、どんどん伸ばして、2時間位は、楽しく走れるような体に戻していきたいと思っている。

早朝に2日に1回、パンを焼かなければならないし、田んぼの雑草取りもあるから、なかなか計画どうりには、物事は進まないが、朝の運動時間を1時間と2時間で隔日で運動できたらなと思う。

仕事帰りに仏教の勉強に週3日。土日は、インド哲学、サンスクリット語の勉強で家に帰るのが、11時過ぎと、ハードに生活を楽しんでいるのだが、そろそろ、運動も取り入れて、心身ともに鍛えたいものである。

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2018年06月04日

今年の田植え

今年は、場所を変えて、高麗の棚田で田植えを行った。

一反に満たない田なので、5人であっという間に終了した。

田植えに慣れてきたので、相当早く植えることができたようだ。

手作業で行ったので、列は乱れがちではあるのだけれど、機械で植えた直線で整頓された稲の配列よりも、脱力感があって、のびのびといている感じがある。

これでいいのだ。

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2018年04月24日

ロードバイクに久しぶりに乗ってみた。

4月なのに、30度を超えた日曜日、久しぶりにロードバイクで近所を走ってきた。

風を切って走るとまではいかないけれど、1年ぶりくらいに走るロードバイクは気分のいいもんだ。

小沢峠の登りはなんか辛かった。鍛えないと楽しめないですね。

ただ、走るたびに、トリプルクランクの一番大きいところにギアが入らなくなる。何度も、サイクルハウス三上で見てもらうも、だめだねえ、こりゃ。

52−46−30だったか、トリプルのクランク、いまじゃ誰も使わないけれど、僕も、これは、要らないなと思うのは、最近のカセットが11−34なんていうのがあるので、これなら、クランクのギアは2枚でじゅうぶんじゃないの。ほんとうなら、11−38くらいにして、前1枚なんていうのもその内主流になるかも。

というわけで、走るたびに壊れるデュラエースに愛想を尽かしたので、新しいコンポーネントに換えようかと思案中。

デュラエースは贅沢なので、一つ下のアルテグラでいいかな、と思うのだが・・・

フレームだってそうだ。なんか、小さい感じがする。もっともっと遠くにハンドルがあるといいのに!と思う。

下りで首が痛いのも、フレームが小さすぎるからなのか知らん?

ヨガをやって、身長も1センチ伸びてしまったので、ああ、こりゃ、自転車全部交換するしかないのか?

キャノンデールとか、トレックのアルミの安いフレームに交換しようかしら?

果たして、そうしてお金をつぎ込んで、自転車に乗るのかな〜という思いもある。

ああ、悩ましい。

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2018年04月13日

パタゴニアのウインドブレーカーを着込んでジョグ

早朝、おNEWのパタゴニアのウインドブレーカーを着込んでジョギング。

汗をかき始めた頃、脱いで、ズボンのポッケに丸めて入れられるので便利。

ウインドブレーカーなしで走ったら、だんだん肌寒くなってしまったが、面倒なので、そのまま走り続けた。

薄いので自転車にも使えるだろうし、普段着にも着られそうだ。

パタゴニアとモンベルは、ちょっとしたおしゃれ心の違いが、大きく値段に跳ね返ってくる。

パタゴニアは、自然環境に過激なほど肩入れをしているのが好きだ。自然より大切なものが他にあるか?クジラもイルカも食べなくて済むならそれでいい。モンベルも自然保護運動を頑張っている。だから、こちらも応援している。

けれど、機能性で優れているので何着も買ってはいるけれど、愛着が持てるものが少ないのが残念なところ。モンベルには、デザインをもっと勉強して欲しいと思っている。

そう思うから、両社を応援している。

また、応援するといえば、朝日新聞がスクープ出したので、これは、会社がなくなるかどうかの乾坤一擲の大勝負であったろうに、よく頑張ったと思い(社長が一緒に飯を食ったりしたのは敵を欺くための演技だったんだろうか?)、20年ぶりくらいに新聞をとった(1ヶ月だけ)。

そんな新聞を読んでいたら、人が新しい習慣を身につけるのに66日間かかるというのがあった。

日に1度ジョギングというのも、これで1週間続いている。

2ヶ月続いたら、きっと、俺も昔のようなランナーになれるかもしれない。

新聞を久しぶりに読むと、小一時間はかかる。

走って、シャワー浴びて、ご飯を食べて、身支度すると、新聞を読む時間がほとんどない。

20年ぶりに、新しい新聞を読むという習慣を作るのには、やはり、66日間かかるかのかも。

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2018年04月12日

ダイエットが成功すれば

毎日10キロを走るよりも、2日に一回20キロを走った方がトレーニング効果が高い、と、田中宏暁先生の『ランニングする前に読む本』でも書かれいた。リディアードの本の本でも確かそんなことが書かれていたと記憶する。

足の裏の痛みがあり、もうこれ以上走らないと、腹回りが宇宙的規模で大きくなってしまうから、二日に1度、ランニングを再開して1週間。

痩せません!

今朝は、400グラム体重増加しておった(前日比)。

まあ、こんな短期間で、効果が出るはずもないのだが、脂肪を燃焼させて1キロ痩せるのに、7200キロカロリーを消費必要があるから、まあ、一月で2キロ痩せることができれば御の字でありましょう。

この田中先生の本は、何冊か読んでいるこれど、この講談社のブルーバックスから出た本は、買っておいて損はなさそうだ。

学術的にしっかりしている。

緩いニコニコペースで走り、週に二度ほどインターバル(マラソン目標タイムで1キロ走り1キロ休むを5回から10回くらい繰り返す・・・かなりキツそう)をするとサブスリーも夢じゃないということらしい。

マフェトン心拍域でランニングしている俺にとっても、あと週に2度ほどインターバルをすればいいので、まあ、間違ったトレーニングはしていなかったのだな、というのが科学的に立証されたわけだ。

本来なら、毎日走りたいところなのだが、パン種の発酵がちょうど二日に1度で完了するので、仕事前にパンを焼かねばならない。

というわけで、ランニング→パン焼き→パン焼き→という風に1年365日、こんな順番で朝の活動は続いていくことになる。

足の様子を見ながら、1日休憩し、また、それが、トレーニング的にも優れているというのだから、こんなにいいことはないじゃないの。

ま、そんなわけで、二日に1度20キロ!というのを目標に(まだまだそんなに走る気がしない)、運動してみようと思っているんである。

運動するやる気は満々なので、新しいサイクルジャージを2着(シックスとかいうところの日本製のやつと、海外のもの、勿論セール品)買ってもいるのだ。ところが、痩せているときの感覚で、Sサイズを買ったら、あれま、小さい小さい!

というわけで、交換してもらって、これで、週末は自転車に乗ろうというわけだ。

パタゴニアでトレラン用のウエアもあれやこれやを購入した。

だが、考えてみると、ダイエットが成功して5キロも痩せると、これらのジャージはぶかぶかになってしまうのかしらん。

まあ、そうなったら、それを受け入れて、また新しいジャージを買うことにしよう。

(夏のスーツも買ってしまって、同じ問題が生じそうである。が、問題が生じないのもこれはとても深刻な問題である)

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2018年04月10日

漢文の勉強をやり直す

漢文で華厳経を読むという授業に参加してきた。

漢字がただ配列されている華厳経のテキストは圧巻。

大学の先生が書き下し文を高速で読み上げて、一二点、レ点等を加えたり、感じの読みや送り仮名を書き入れた。

こんなの当たり前!という感じで、説明もなく読み上げていくので、漢文の基礎が・・・というか、大学受験レベルじゃなくて、そのまた上のレベルじゃないとついていくのが厳しいかも、とも思った次第。

それと、仏教の基礎知識も、あって当然という風に進みそうなので、ここらあたりも、自分の中で常識にしておかないといけない。如来と如去の違いとか。

でも、新しい知識を得ることは、最大の喜びである。

ほんと、漢文好きだな。どこまでいけるかトレーニングしてみたい。

が、しかし、基礎力が落ちているので、大学受験時に使った洛陽社の『漢文研究法』を書庫から本棚あら掘り出して、電車の中で読み続ける。

学んで時にこれを習う、また楽しからずや、と聖人も言っているじゃないの。

ああ、楽し。

学生さんの中には、西洋の若い男の子もいて、ああいう人たちって、漢文もわかるのかしらん?と思ったが、きっと、僕よりもわかっているんだろう。

西洋人の先生に、英語で日本の仏典を英語で行うという面白い授業があるので、これも、取るつもりだ。

あれや、これやと漢文も英語も勉強しないといけないが、ああ、楽し。

授幸せだということか。

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2018年04月08日

体重増に驚愕

腹回りの肉がだぶついてるぞ!と思って、体重計にのってみたら、驚愕の数値!

父親が死に、その二日後に義母が亡くなり、加えて慣れない仕事が相重なってものすごいストレスを感じていたのだが、そんな状況も抜けきったら、腑抜けになった。

かてて加えて、足の裏が痛むので、なかなか長距離を走る訳にはいかない。

それではと、ヨーガを一所懸命やった。やればやるほど、体が柔らかくなって、アーサナという体位の完成形に向かっていった。嬉しくて、どこまで曲がるか根を詰めたら、ついに腰を痛めた(軽度だが)。

というわけで、どれもこれも痩せるための「運動」の方策はなくなり、他のことと同様、儘ならない。

が、しかし、自転車ならいいんじゃないの?と思ったのだが、随分前に、自転車乗りならご存知のとおり、ロードバイクとマウンテンバイクに乗るためには、それぞれ違う形態のクリートがついた靴を持っていなければならないところ、靴箱もいっぱいだし、ロードバイク用の靴を2足すべて捨ててしまったのだった。

これからは、SPDのマウンテンバイク用のシューズでロードもマウンテンバイクも乗る予定というわけだった。靴を捨てた代わりに、ロードバイクにシマノの SPDペダル「 PD-A600」というロードバイクでも使えそうなデザインのペダルを買っていたのだった。

しかし、今度は、ロードバイクの古いシマノのペダルが外れないじゃないの。六角レンチを差し込んで回すもレンチが撓んで折れそうな感じ。もっと剛性のあるレンチはないものか?

そして、去年は自転車に乗らなかったのね。面倒だから、そのままにして。

が、この宇宙的な規模で膨張し始めている腹回りの肉をなんとか押し留め、かつ縮小させることほど、現在の私に喫緊な課題は見当たらないので、専門のサイクルハウスミカミへ出向きペダルを取り外しにお願いに行った次第でありました。

店長でもこのペダルを外すのは苦労するはず!と思っていたら、あ・れ・ま、簡単に外し終わってしまったじゃないの。あっけない幕切れ。

というわけで、僕のクロモリPanasonicという電気屋の作った普通の人力バイクではあるが、ようやく乗れるようになったのであった。やっぱり、クロモリは細身で理想的な自転車の姿ではある。乗る気満々。

早朝、自転車に乗って、まあ、最初は名郷往復でいいじゃないのと思って起きてみれば、ああ、寒い。

日が昇れば暖かくなるかしら?と思ったら、風が冷たい。

これで、日和って、トレイルを走ったんだから、本当に自転車に乗りたいという欲求があるのかね?とも反省してみたが、まあ、長い目で自分を観察していこう。

というわけで、2日連続で、近所の山を走ってみた。

2日で1キロ減したが、あと5キロは痩せないといけない。

絶食して一気に体重減というのも必要かもしれないが、ライザップのリバウンドみたいな、痩身、デブとの永遠の繰り返しを回避すべく、食事と運動で健やかな肉体を維持していきたいと、こう思うのでありました。

体重計に乗るというのも、大切ではあるな。

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2018年04月02日

今度のデュラエースを買いそうになったが、やはりかっこ悪い?

何十年ぶりかで健康診断をしたら、身長が1センチほど伸びていた!

ヨガのおかげかしらん?背骨が伸びた?

そんなヨガも一所懸命やりだしたら、とたんに腰を痛めて、様子を見ながら軽めに行っている。

なんだか、年をとると、体は壊れ物ののように扱わないといけないらしい。

裸足系のシューズで走ったら、1週間続いたふくらはぎの酷い筋肉痛も、収まりかけていたので、さらに、同じシューズで10キロほどトレイルをかっ飛ばしたら、筋肉痛にはならなかった。

しかし、足の第二指の付け根の痛みは常にあって、なかなかトレイルランも毎日楽しむというわけにはいかないのだ。

毎日のように走らなければ、なかなか体力がつくまでには至らず、なかなか思うように体を鍛えることができない、昔のようには。

まあ、飯のタネにするならばしょうがないだろうけれど、一般人が1日2時間以上スポーツをするのは時間の無駄だと思う。あくまでも、これは気晴らしか、体力の増進に努める手段に過ぎないのだ。こういうことに気づいてよかったとは思うけれども、22時間すら運動することもできない体たらくから、一体どうしたら抜け出ることができるのか?

というわけで、暖かくなってきたし、趾の付け根は痛いから、そうだ!ロードバイクに乗ろう!と思ったものの、ロード用のシューズは3足とうの昔に捨ててしまい、マウンテンバイク用の靴しかないので、ロードもSPDしようにしようと思いついた。

というわけで、ペダルを交換しようと何十分も苦労したが、なかなか外れない。困ったので、サイクルハウスミカミさんに久しぶりにお邪魔して、ペダルを外してもらった。

ふむふむ。

これで、随分前に買っておいたPD-A600に変更して、いつでも走れるような状況になった。

が、ハンドルの幅が幾分狭く感じられて、これも交換しないと気持ちよく走れないよな。

今どき、トリプルのクランクはないので、新しいデュラエースに変えてしまおうか!など、色々考えてしまい、おいおい、お前は、以後ロードバイクに昔のように乗るようになるのかね?と自問自答してみれば、うん、走らないだろうな!というふうに意気消沈して、まあ、デュラエースはやめておくか!という風になったのであった。

それに、またまた黒色のデュラエースが、俺のクロモリに合うとはとても思えないぞ。

やっぱり止めておこう。

なかなか人生思うようにはならないものだ。

毎週末は、武甲山まで飯能から走りに行ったり、自転車で群馬県の方まで日帰りして帰ってきたりして、ああ、そんなこと本当に俺はやっていたのかよ?と信じられない気持ちが強くなっている。

もう一度、そんな体力を取り戻したいとも思うが、それでどうした?とも思う。

まずは、毎朝運動できるような習慣作りから始めないといけないが、田圃にパン作りというふうに、最近では、早朝他にやることが多く、なかなかうまくいかない。

思案のしどころだ。

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2018年03月27日

ふくらはぎの筋肉痛にやられておる

1ヶ月ぶりに裸足系のシューズで10キロほど走ってみれば、脹脛が尋常ではない筋肉痛で、歩行困難になっておる。

今朝は、早朝起きるときに、どうやって起きていいのかわからないくらい辛かった。

ほうほうの体で、四つん這いになって、手すりまで移動して、ヨイショと、手の力を使ってなんとか立つことができた。

足の裏の微細な小さな筋肉も筋肉痛があって、歩くたびに、ひそひそ話をするかのように、その声が痛みとして伝わってくる。

ああ、何度目の、ふくらはぎの筋肉痛なのだろうか?

走る→足の裏の痛みがひどくなる→数週間おやすみ→走る→筋肉痛というようなサイクルで、裸足系のシューズを履いて、たまに走るとふくらはぎの筋肉痛を避けることはできないのだ。

というわけで、この筋肉痛、全治1週間はかかるだろうと思われる。

足の裏の痛みも、このジョグではそれほど増さなかったので、週末くらいにはまた走れるであらう。

そうして、次に走った時には、軽めのふくらはぎ筋肉痛があり、その次には、ほとんどなくなっていく。そうして、鋼鉄の体は鍛えられていくのである。

しかし、しつこい足の裏の痛みが何年にも渡って退かないので、その分ヨガをやり、昔のように週末に何十キロも山の中を走ることもできないので、土日が空いて、田圃で農作業をしたり、映画を見に行ったり、美術館に行ったりできているのだから、それはそれでうまい具合に人生の舞台は移動しているのかもしれないが、やはり、走りたいのである。

走ればなんとかなる、という信仰をもっているかのように、今までの最悪の時も、走ることによってなんとか、耐えしのげたようなきがしているのだ。

ところが、走れないと、頼りにしている友人を一人なくしたが如く、なかなか、人生の壁を乗り越える勇気が湧いてこない。

走ることに頼りすぎるのも良くないことかもしれないけれど、代替できる何かを探さなければならないじゃろうて。

というわけで、その代替の習慣を得ようとして、ヨガも1時間30分位時間をかけて、本格的に毎夜行っている。いままで、5つくらいのアーサナしかやらなかったのを、12から15くらいに増やしたおかげで、少し腰を痛めたりして、これはこれで、熱心にやればいいというわけでもないのだ。

そして、何事もそうであるが、若い頃と違って進歩は遅々として進まない。時間は速く進むのに、進歩は蝸牛の歩みである。残された時間は短いので不公平である。1年3ヶ月ヨーガをやっても、本当にヨーガのアーサナの完成形に少しでも近づいているのであろうか?と思えるほどである。若い頃は、ちゃぶ台をひっくり返すかのごとく、さっさと止めて、違う青い鳥を探しに行っただろうが、おじさんになると、良いことはすぐにはやってこないということをよく知っているからそうはしない。そう信じられる確信があるのが、若いときと違ってあるのだ。

ところで、久しぶりに手にとってみた「資本論」の入門書が面白かったので、こいつは、是非読んでみたいと思い、数冊の入門書を図書館で借りて読んでみたら、なるほど!と思えるようになったので、さらに数冊、アマゾンで本を買って熱心に呼んでいる。

マルクスなんて、だれも見向きもしないこのご時世。現在熱心に勉強しているインド哲学もまた見向きもされないマイナーなものであり、かつインド哲学とは正反対の「唯物論」ではあるものの、また、そうであるがゆえに、二つの世界を行きつ戻りつしているのは、とても気持ちのいいものではないのだろうか?

ちなみに、最近の印度哲学の勉強の範囲は、仏教を中心で、親鸞上人すげえ!、「涅槃経」おもろい!と、月に1度の勉強会にも参加しつつ、静かに人生の謎を解明スべく、ああでもないこうでもないと学んでいるのであります。

4月からは、さらに、サンスクリット語を本格的に習い、仏典の勉強会にも参加する予定。

生きることは学ぶこと。さすれば、学ばざるものは生きる価値なし。

そう心に決めて、こっちの脳みそのトレーニングも同時並行で絶賛進行中!

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2018年03月08日

『女神の見えざる手』

なんだか、ずっと社会の渦に巻き込まれるようにして、仕事をして、ようやく小休止ができるようになった。

お金には全くならないのだけれども、やらなければならないことが多く、毎日が飛ぶように過ぎていってしまう。

そういえば、最近見た『女神の見えざる手』という映画は、変な映画だった。

大手ロビイスト事務所に勤務する主人公は、勝つためには手段を選ばないのが徹底していて、寝る間を惜しんで仕事をするために薬を飲みながら、命を縮めながら猛烈に仕事をしている。

彼女にとっては、仕事は彼女そのものであり、彼女の動静はすべて仕事に捧げられていいるようだ。

過労死しないのは、自分が、仕事を完全にコントロールしているからだろうが、しかし、なぜ、彼女がこうしてまで、仕事に傾斜してしまうかの理由説明が一切ないのである。

しかし、この映画は、印度哲学的に言うと、カルマ・ヨーガを彼女は実践していたのではないかと思ったりした。

カルマ・ヨーガは、在家で仕事を道具として悟りを得るというヨーガの実践である。

この中で、彼女は、セックスも、友情も、食事も、昇給や報酬にもほとんど興味がなさそうで、ただただ仕事に邁進する。

銃規制法を通すためのロビイスト活動をするのだけれど、彼女自身に、銃規制自体興味があるわけではない。

彼女が仕事を遂行する理由は、たったひとつ、あらゆる手段を通じて勝つという義務を遂行すること、彼女が仕事のために利用した同僚にそう告白する。

この義務の遂行というのが、『バガヴァッド・ギーター』で語られる、目の前にいる親類縁者と殺し合う戦いに躊躇しているアルジュナ王子に対し、クリシュナが言った「躊躇いを捨てクシャトリヤとしての義務遂行し殺せ」というセリフと同じように思えたのだ。

誰もが皆、生きるための義務を持っている。

人がその義務を果たさなくなったとき、現在の政治状況をみても明らかなように、腐敗し、臭ってくる。

義務を、義務と感じず、日常的に果たすことができるようになったとき、そこには、自由が生まれるのではないか。

ほんとうの自由とは、自分を滅却し、すべてのことを仕事に捧げてしまうというところに生まれてくるのではないか。

そこにエゴが存在するとき、それは、軋みとなって、自分を仕事の中に滅却することはできないだろう。

自営業者には過労死はないという。

働くことの秘訣がここにあるような気がしてならない。

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2018年01月22日

ヴェーダンタも仏教も

私の生まれた家では、浄土真宗のお寺に先祖の墓があり、その檀家である・・・というには、檀家らしいことはほとんどしておらず、家族で、南無阿弥陀仏と唱えたことももちろんない。

父が死んで、お通夜、告別式、仏壇の処理のための魂抜きとか、四十九日法要、納骨式等々、お寺と交渉する機会を持つにつけ、これを機会にと浄土真宗について少し学んでみたら、これが、すごくモダンな宗派であることがわかり、自分の中では、随分と評価が上がったのだった。

詳しくは、ネットで調べてもらいたいけれど、位牌を作らないというのも特色があるところだ。

というわけで、位牌もお寺に納めていただいた。このシンプルさが素敵だ。

浄土真宗といえば、慈円の『歎異抄』は気になっていて、大学生の頃一度読んで、何がいいのかさっぱりわからず、その後何度か読んだものの、しっくりと感じいるまでには至らなかったのを、数年前に、詩人の伊藤比呂美が『たどたどしく読む親鸞』という本をだして、フアンの私は飛びついて読んだのだった。それで、初めて、なるほど!と思い直して、いろいろな人の訳した歎異抄を読んでいる。

やはり、こういう宗教書というのは、死の世界に親しみだした年齢にならないとしっくり来ないのかもしれない。

歎異抄を読むにつけ、阿彌陀佛の請願力を信じるというが、これを信じるということの難しさ、困難さがひしひしと感じられ、南無阿弥陀仏と唱えれば成仏できるとは到底考えられず、いかに、大乗といえども、彼岸に立つのは難しいのではないかという思いが強まっていく。疑念を退け、信じることに徹するためには如何にしたら良いのか?

インドで言えば、バクティ・ヨーガという信心によって悟りに達する方法があるけれど、これもなかなかに難しい。

ではどうすればいいのさ?

毎日毎日少しずつ努力するしかないのだろうけれど、ちゃぶ台返しにならんように、焦る心を抑えつつ、一歩一歩進もう。

といわけで、五木寛之とか、梅原猛とか、吉本隆明とか、真継伸彦とか、著名人が惹かれている親鸞に親近感を覚えだして、今、勉強したいのは、仏教の中でも浄土真宗ではないかしらん、と、まだまだ、インド哲学を勉強して1年足らず、履修もぜんぜん終わらないのだけれど、ここに来て、仏教も勉強したくなってしたのでした、それも、激しく。

そんなわけで、今年は、仏教にも手を伸ばして、あちらこちらの大学の授業にも顔を出して、しっかりと勉強していくつもりなのである。

で、早速、「大般涅槃経」という「一切衆生悉有仏性」を説いた長い長いお経は、これは、私の力で独習では決してできないと悟りまして、早速大学のセンセイの教えを請いにこれから1年間の授業に参加して来たのでした。

それから、『歎異抄」の勉強会も来月から出席することにして、なにやら、学生のような1年になりそうだ。

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2018年01月14日

ALTRAシューズで飯能三名山

多峯主山と龍崖山と柏木山を飯能三名山と呼ぶのだそうだ。

本当かな?

というわけで、いつもの美杉台の住宅地を美杉台交差点からクリーンセンターまで走ってから、飯能三名山の頂上を踏んできた。

実際は、茜台広場から柏木山ピストン、赤根が峠から龍崖山、吾妻峡から多峯主山というコース。

マフェトン心拍数130でも、トレイルを走ることが出来るようになったので、これを維持しつつ、急斜面は歩いて心拍数を調整したりしながら、楽しく3時間弱走った。

僕の新しい心拍計では、運動終了後に疲労回復時間がでてくるのだが、だいたい24時間以内に収まっている。

マフェトン理論は素晴らしいね。

飯能三名山とはいうだけあって、どの山も、たしかに頂上の眺望はよろしい。

風を遮るものがない住宅地は寒いのだが、山の中へ入れば、風は止む。しかし、谷の日の当たらないところは、深々と冷え込む。

茜台自然公園の谷地を走る小川は完全凍結していて寒い。早朝の気温はマイナス何度くらいになるのだろうか?

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アルトラというゼロドロップ(踵とつま先の高さが同じ作り)の靴を、さかいやスポーツの50%オフバーゲンで買ったのだが、ちょっとソールが柔らかいのが難点だが、のんびりと山を走るには、いいのではないかと思う。

ぎりぎり約束時間までには家に戻って、お昼には、今年の田圃作戦会議。

うまくいきますように!

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2018年01月08日

久須美陶房・天目指窯の猫三匹

新年は、友人の佐々木浩章さん宅で食事をしたのでした。

もう30年以上のお付き合いで、飯能に私が住むようになった理由が佐々木さんとの付き合いがあったからだと思います。

というわけで、以前、BINTAのメンバーにご馳走したひよこ豆と鶏肉のカレーが評判だったので、レシピを思い出しながら・・・というか適当に4人前を作って、あと、いちじくとくるみの入ったロデブパンも焼いて、佐々木さん夫婦と久須美陶房・天目指窯兼自宅にお邪魔して昼食(夜まで)一緒に楽しんだのでした。

今年の田圃の作戦会議もそこそこに、ワイン日本酒であれやこれやの話で宴も酣のころ、妻がこっそりと、佐々木さん宅の1階のギャラリースペースで、気に入った陶器をあれやこれや物色したいたのですが、いい片口の椀を見つけていたのね。

佐々木さんの描く三匹の猫が秀逸です。

写真が下手なので、色がよくわからないでしょうが、色は濃紺なんですね。片口の造形もガッチリとしていて、この日から我が家では、毎日使って楽しんでおります。

 

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2017年11月29日

ラ・ラ・ランド

『ラ・ラ・ランド』を劇場で2回見た。

↓ こんな映画です。

http://gaga.ne.jp/lalaland/

初回は、ふ〜ん。

2回目は、へえ、なるほどね〜。

どんな映画も、2度見ると理解が進む。

東京都内の二本立ての名画座しかいかないので、やや新しい映画となると、上映プログラムが重なってしまって、2本のうち1本は見ているというような、また、中には、日本とも既に見てしまったというようなことが、年末にはよくある・・・というか、足繁く映画を見に行くようになって、まだ、1年しか経っていないのだが。

『ラ・ラ・ランド』は、映画の中に、現実の部分をドラマ仕立てで、夢の部分をミュージカル風に構成して、現実と夢を行き来するようにできている今までになかったような映画であったことに、2回めを見たときに感心したのでした。

ジョナサン・デミ監督の『シェルブールの雨傘』のラストシーンのほろ苦さってありますが、これを、あり得たかもしれない夢物語の回想という形で、最後仕上げていく手腕は、さすなに、アカデミー賞受賞作ではあると思いました。

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2017年11月27日

久しぶりにトレイルラン

ガーミンのGPS心拍計630Jが激安価格で出ていたので、購入したのは、数ヶ月前。

買ってよかったなと思うのが、GPS捕捉時間が10秒位で終わること。連日走ると、数秒で終わってしまう。

あと、10年位前のとは、びっくりするほど軽量で、普通の腕時計みたいなのも好感が持てる。ブルートゥースで、情報をスマホに送信できるのもいいかもしれない。あまり、過去のデータは見ないけれど。

以前のものは、3日も使わないと、ときによっては、30分も衛星を補足しないことがあったので、これは、偉大な進歩だ。

心拍計もかなり正確で、右左の足の着地時間とか、走るときの体の上下の差を図ったり、歩幅とか、まあ、要らないことも計ってくれるのだが、その心拍計も含めて2万数千円だった。

というわけで、こういうものを買ったら走らないとねえ、というわけだが、足を故障して治らないので、調子を見ながら、土日と近所のトレイルを走っみた。

僕の中の優先順位は、ヨガ、呼吸法、瞑想>トレイルランニングという風に最近は変わっているので、まあ、付け足しのトレーニングということになるのだが、走れば、それは、めくるめく楽しい世界がそこにあり、一挙に欲望が花開いてしまうのが、ヨガ実践者としては、困ったなあ、ということにはなる。

トレイルランニングをカルマ・ヨーガ化して、欲望を放擲する修行に使えないかとも考えるのだが、なかなか難しい。よくよく考えてみよう。この世の中のありとあらゆる自分と自分以外のものとの関わりを修業の場として捉え、知らぬ間に、ある行為をしている内に、前人未到の高い頂に到達しているということもありうるではないか。

マフェトン理論信者である私の場合(というか、緩いのが好き!)、心拍数は、130を超えないようにして、心拍計にアラームセットをしている。130を超えるとアラームが鳴り、そこで、歩きながら、ガヤトリー・マントラを唱えて、心拍数が120くらいに落ちるまで歩くことにしている。

里山とは言え、この心拍数で山道を走る(時には歩く)のは、結構テクニックが必要で、走りに集中すれば、心拍数が知らない間に上昇し、心拍数を上げないように気をつけていると、走りに集中ができない。

集中と気配りの二律背反のテーゼをこなしながらのマフェトン理論の実行は、矛盾を克服するための偉大なるアウフヘーベンなのであるな。

ヨーガにとっては、欲望は敵なのであるのに、トレイルランをしていると、もっと速く楽に遠くまで走りたいという欲望が沸々と湧いてきてしまう。

それで、確かスコット・ジュレクのトレーニング方法が、EAT&RUNという本の中に書かれていたよなあ、と思い出し、電子本を検索してみたら、ありました。

手っ取り早く速く走る為のトレーニング方法は、5対1のインターバルトレーニングだと。

5分全力で走って1分流す。

10分で2分

15分で3分

そのうち、45分を全力で走りきれるようになるだろう・・・

なんて、一流の選手が言っているので、まあ、こういうのも間違ったトレーニング方法ではないはずだ。

ただ、僕は、5流の運動愛好家なので、頻度を落とせばよろしい。

この本を買った当時、3度ほどこのインターバルをやったことがあった。つらかった。3度しか続かなかった。

そして、走りながら、こんな計画を立ててみた。

5分と1分で、これを5回。〆て30分のトレーニング。

これを、週の半ばの水曜日に1回だけ実践する。

こうすると、体の中の生理が乱れて、健康からは程遠い状態になるので、他のすべての日は、マフェトン理論で、体を走りながら整えていったらどうかしらん?

マフェトン理論で走っても、僕の体験上は、奥武蔵をぐるりと55キロくらい走る平均的な力はつくけれど、まあ、速くはならないので、こういた要素を取り入れて、訓練したら、もうちょっと走りが楽しくなるかも。スポーツというのは、スピードとパワーに醍醐味があるからね。

というわけで、そんな欲望に身を焦がしながら、太陽光線をオデコに浴びながらのんびりと里山を走ったのでした。

足の調子も、却って運動をしないよりも、したほうが血液が痛み成分を散らすのかよくて、マフェトン理論で、着地に気をつけながら慎重に走れば、そのうち治るんじゃないかと思えるほどになってきた。

ところで、走っている途中、トレイルランナーに後ろについて来られて、バーっと抜いてくれればいいのに、なかなか抜かさないので、高麗峠からの下りで、スピードを上げて走ったら、見事、心拍数は、160を超えてしまったのね。

まだまだ、修行が足りない!

こういうときにこそ、自分を抑えて、心拍数を130で維持しなければ!

が、これがなかなか難しいのよね。

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2017年11月15日

『祇園の姉妹』と『裏窓』のリアリズム

山田五十鈴生誕百年特集を新文芸坐でやっていたので、溝口健二監督の『浪華悲歌(なにわエレジー)』『祇園の姉妹(きょうだい)』と、こちらは、無声映画の伊丹万作監督の『国士無双』の3本を観てきた。

『浪華悲歌』と『祇園の姉妹』は、ほぼ同じキャストで内容も似通った映画。

世間に反抗する妹と義理と人情の世界を住処とする姉妹が、世間の冷たい仕打ちを受けるという話であって、そこには、何も救いがなく、現実を目の前に、ほら、と提供して、解決策もなく唐突に終わってしまう。

なるほど、好いた惚れたの世界を描いた映画界に、こうしたリアリズムを透徹した映画が出れば、それは、センセーショナルな話題をさらったであろうなというのは、想像に難くない。

そして、そういう身も蓋もない話なのに、面白いのである。

映画というもの本質に、リアリズムというものがある。

世界最初の映画をリュミエール兄弟が撮った際の映画は、確か、動く機関車だったと記憶している。ただ動く機関車が映像で再現されるだけで、観客は喜ぶのである。これが、リアリズムの魅力である。現実そのものを映像で再現をこれは、映画の本質をついている。

となれば、こうした世間との軋轢によって生じた悲劇というものを淡々と映像に撮って提供するという方法も、人は、リアリズムに興味を示すという本能があるので、興味を示すのは至極当然である。

いかに、リアリズムを、肉眼でみているように生々しく描くかということは、監督の裁量である。

ところで、この前日、早稲田松竹で、ヒッチコック監督の『裏窓』を30年位ぶりに映画館で見た。

これも、不思議な映画で、すべて、ジェームズ・スチュアート扮する足を折って動けない写真家が、退屈しのぎに裏庭を挟んで対面するアパートの一室を盗み見する映画である。グレース・ケリーの類まれな美しさと華やかさがなければ、盗撮の変態映画になりそうな趣である。

ヒッチコックの映画は、綺麗な女優とショックとサスペンスの厚塗りで地肌が見えないよう隠蔽するが、その本質は、変態映画である。

この映画の筋道は、主人公のアパートの裏窓から覗いて得た状況証拠を積み立てながら、想像力を逞しくして、妻を殺害したのはその夫であるとの確信を得ていく。

困ったことに、そこには、何の確定した物証はない。血の付いたナイフも、死体も、殺す場面も、殺人者の告白も何もない。

最後まで、その犯人と目される夫が、実際に妻を殺したのかどうか、逮捕に向かった刑事のセリフも巧みに忌避される。

観客も、宙ぶらりんな状況に放おって置かれ、勝手に映画は唐突に終わってしまう。

なんだかわからないけれど、犯人が捕まってよかったね、と椅子から立ち上がる人は、ヒッチコックの本当の罠にハマっていない人だ。

なんだか、悪夢を見ているよう。

我々の知っている以上のことが、実際には起こっていたのかもしれないし、理不尽な対応をさせられて頭きたその犯人と目される男がジェームズ・スチュアートを懲らしめに来たのかもしれない。

『祇園の姉妹』も、『裏窓』も、観客に見ることのできる情報を提供しただけで、なんの感情移入もできないままに、映画が終わってしまうというところに、共通点がある。

『裏窓』がリアリズム映画なんて言う人はいない。しかしながら、極力、映画に解釈を入れずに、そのままを観客に映像を提供したというその効果は、その映画について、自分はどう思うかという反省の気持ちを起こさせる。

『裏窓』の場合、宙ぶらりんな状況に観客を置いておくことによって、映画にあったサスペンスが、見終わった後でも、長いこと継続するのだ。この映画の本当に隠されたヒッチコックのメッセージは、このようにして、観客に届く。

こうして、ああだこうだと考えているのも、このリアリズムの効果であるのは間違いない。

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2017年11月10日

カルマ・ヨーガは難しい

仕事というものを道具にして、自己の成長を促したいと思い、報酬の多寡を問わず、昔なら、断っていたであろう困難な仕事を二つ返事で請け負う勇気は得たのだが、やってみれば、やはり困難なことも多く遭遇し、夜に眠れず、私の心は、押しつぶされそうになってしまうことが多いのだ。

困難であればあるほど、自己を磨く道具としては最適なものであるには違いない。私の心が、そうした困難に心を動かさられなければ、まるで、他人事のように仕事ができるであろう。私は、そのとき、高度な存在に操られた人形のようになる。

人のために、社会のために、他の誰かのために仕事を行うわけではなく、インド哲学によれば、この仕事自体を、祭祀として行えという。神に捧げるのだと。

信仰心のない私にとっては、なかなか難しいやり方だろうけれど、心を虚しゅうして、仕事のすべてを天に捧げ、また、その仕事の結果のなにもかもを天に委ねるというような心意気だろうか。

目的と手段が同一になり、仕事の渦中に巻き込まれても、台風の目のように静かに心は抑制されている。

仕事がうまく行こうが、いかなくても、人に感謝されようが、憎まれようが、無関心で、自己は抑制され、心は、平安な状況にある。

私の心は、吟醸米のように磨かれ、迷いが拭われ、汚れてしまって見えなくなっていた本性が徐々に表れてくる。

こんな境地を得たいと思い、努力するものの、すぐに、仕事の目的と手段は分離してしまい、欲望が生じて、執着が生まれて、不満が出て、怒りが生じたり、心が千々に乱れてしまう。

剣道で正眼の構えというのでしょうか、こういう時には、まずは、最初の態度に戻って、深呼吸する必要がある。

 

スワーミー・ヴィヴェーカーナンダの『カルマ・ヨーガ』という本の中には、こんなことが書かれている。

理想的な人は、最も深い沈黙と孤独のさなかに最も強烈な活動を見出し、最も強烈な活動のさなかに砂漠の沈黙と孤独を見出す人です。その人は、抑制の秘訣を学んだのです。彼は、彼自身を支配したのです。彼は、往来頻繁な大都会の街中を歩きながら、しかもその心はまるで、物音一つ届かぬ洞窟の中にいるかのように静かです。そして彼は、常時最も活動的に働いています。それが、カルマ・ヨーガの理想です。

こうした態度で、仕事ができるように、一ミリでもこの境地に近づけるように、努力してみるつもりだ。

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2017年10月12日

理想の時間配分

老年期に差し掛かると、なかなか体が柔らかくならない。

ヨーガ体操を今年からはじめて、10ヶ月が経過したのに、アーサナ(ヨーガのポーズ)の完成形に向かっては、蝸牛の歩みである。

とりわけ、体の裏側の部分の筋肉が、酸っぱくなって固くなって、煮ても焼いても食えないようなものになっている。

無理して伸ばそうとして、この10ヶ月で、右側の仙腸関節を痛め悶え苦しむこと2ヶ月位、今は、左足の膝の裏の筋をピキッと痛めてしまって、開脚で体を前に倒すポーズをすることが怖くてできない(筋が切れてしまいそうで)。

昨晩、そのポーズをやってみたら、痛烈な痛みが走ったので、やめた。

その前は、2週間位苦しんだのだが、右側の肩甲骨のあたりに鈍痛が常にあって、これにも参った。病膏肓に入るの「膏肓」というツボのあたりである。

両肩の五十肩で苦しんだ後遺症で、とっても肩甲骨や上腕部の筋肉が、動かすととても痛いので、面白がって、動かしていたら、こんな風になってしまった。

というわけで、私の場合、右側がとてつもなく固い。あるところまで曲げると、そこから体がロックされて、靭帯は切れる寸前まで引っ張られ、動きが取れなくなる。そこを、無理して動かそうとして、何度か体を壊したとは、前に書いた。

それでも、正座してそのまま後ろに倒れるポーズは、以前は、頭頂とつま先の前面を地につけた太鼓橋のようになって、目は釣り上がり、床と接している指先と頭頂部はカクカクと震度5くらいに揺れて、どうやって元の仰向けの形を取ったらいいものかわからず、腰骨が折れそうになるのをこらえるものの3秒と保たなかったが、今は、太鼓橋状ではあるが、深い呼吸で20数えてまだ余力がある。随分ましになってきた。

得意なのは、バランス系のポーズ。

皆得手不得手があるものさ。

とにかく、時間をかけて、少しずつ、前進を続けていきたい。

体調不良も重なって、なかなか自分のリズムを作り出すことができなかった。ここに来て、徐々にマイペースを掴み取ることが出来るようになってきた。

連休の日月と、トレイルランニングを楽しんだ。

どうにも、ベジタリアンでも、運動量が少ないと腹の周りに肉がつく。

まずは、毎日1時間程度のジョギングはしてみたい。

といわけで、今朝は、4時過ぎに起きて、朝ランを久しぶりにした。暖かくて、半袖ランパンでOK。

新しく買ったGPSは、数秒で衛星の位置を捕捉。ストレスなし。

9キロを1時間程度で、軽く走った。

理想の平日のタイムテーブルは、朝夜に二度ヨーガ体操をやり、朝1時間ほどのランニング。通勤時間の2時間は、印度哲学の勉強をして、6時間位一所懸命働く。。。というのが習慣化出来るよいいのだが。

まずは、習慣を身に着けなくてはね。

というわけで、明日の朝も、ランニング行くべ。

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2017年10月11日

今年の収穫

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今年から、僕が本格的に参加して友人と二人で米作りを始めたが、先週末に稲架掛けして、今週の月曜日に脱穀、籾摺りをして、玄米にした。

いろいろあったけれど、初めて本格的に米作りをして、昨年はうまくできなかったのを挽回して、まずまずの収穫ができたのは嬉しい。

なにせ、自分たちで作った有機無農薬だもの。悦びもひとしお。

早速、玄米おにぎりにして、昼に事務所で頂いたんだけれど、みずみずしくて柔らかくてもちもちして、とても美味しい。

アマゾンで、精米機も購入して、食べる分だけ、白米にして食べたけれど、これも美味しい。

来年も、やるかどうかは、未定だが、やるからには、またがんばりますよ。

お手伝いというか、一緒にやってくれる僕のよく知っている人がいたら、声をかけてね。

大変なこともあるけれど、やったかいはあるよ。

また、いろいろなことが学べますよ。

posted by ロビオ at 16:23| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

仕事とは義務の遂行

僕が担当した被後見人には身寄りがないので、火葬で骨を拾ったのは、僕と葬儀社社員の二人で行った。

短い間ではあったが、いろいろと関わってきた方が亡くなると、やはり、平気ではいられない。感情が高ぶることもある。あれやこれやを思い出す。私がやれることはやっただろうかとも思う。

身寄りの無い方の後見人になるということで、死後事務は、どういうふうに執り行うのかとか、骨壷はどうやって保管したらいいのかとか、いろいろと想像したこともあったけれど、今は、葬儀屋さんが、骨壷の保管も行ってくれていて、事務作業はとても楽だった。

事務所に行き場を失った骨壷が二つ三つと増えていくのかしらん?と心配することはなかったのである。

もちろん、死後の事務は報酬にはならない。けれども、誰もする人がいないのならば、それは、僕がやらなければならないこと。義務の放棄はゆるされない。

まあ、そんなこんなで、多忙を極め、あれやらこれやがが、同時発生的に身に降り掛かってきて、あっという間に、時間が飛び去ってしまった。

残業はしないので、事務は、溜まるばかり。

こういう定形外で予想の付かない仕事をいろいろとこなしていく内に、仕事というのは、金を稼いだり、それで自己実現させたり、野心を満足させたり、社会と繋がりたいという要求を満たすためのものというよりも、自分がやらなければならないことを、ただやるためのもので、運が良ければ、その対価として金が後からやってくるものだという風に考えるようになってきた。

流しそうめんが流れてきたら、それを箸で摘まなければならないのだ。

こういう人は、お金を儲けることはできないだろう。

お金を稼ぐために一番必要なのは、お金を稼ぎたいと思うことが大切だからだ。

欲する者に欲する物は飛び込んでくる。

だから、その為には、低収入でもやっていけるように、経費を極力かけずに、生活費は縮めるかけ縮めることも必要であろう。

今年は、米が豊作で、1年間、食べるものに苦労することはないだけの収穫を得た。

玄米菜食で食費もほとんどかからない。

自分で作る料理より美味しいものはなさそうな気がするし、外食もする気がなくなった。

僕には、妻がいるし、友人がいるし、美味しい野菜や米がある。

そして、やらなければならない仕事がある。

他に何を望もうか?

当然、仕事に対する野心も、儲かるからその仕事に飛びつくということもない。取らぬ狸の皮算用とて、鼻の穴を広げて、興奮することもなくなった。

土地持ち、財産持ち、家族持ち。大変だなとおもうようになった。できるなら、そういうものは、自分には少しだけあればいいと思うようになった。

人生に必要なお金はわずかあればいいのではないか?

日本の国土さえあれば、豊かに食べるものはできるのだ。

お金で買えるもので欲しいものはほとんどなくなってきてしまった。

そういうことすべてが、自分にとってはいいことだと思っている。

どんな仕事も、ある種のしなければならないその人特有の義務なのである。

義務に報酬は伴わないものである。

その義務をその結果を考えずに真摯に行うカルマ・ヨーガは、仕事を霊的な世界に入るための修行に変えてしまう。

それこそが、仕事の持つ価値なんではないだろうか?

そうして、世界は回っている。

posted by ロビオ at 15:54| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする