2017年11月29日

ラ・ラ・ランド

『ラ・ラ・ランド』を劇場で2回見た。

↓ こんな映画です。

http://gaga.ne.jp/lalaland/

初回は、ふ〜ん。

2回目は、へえ、なるほどね〜。

どんな映画も、2度見ると理解が進む。

東京都内の二本立ての名画座しかいかないので、やや新しい映画となると、上映プログラムが重なってしまって、2本のうち1本は見ているというような、また、中には、日本とも既に見てしまったというようなことが、年末にはよくある・・・というか、足繁く映画を見に行くようになって、まだ、1年しか経っていないのだが。

『ラ・ラ・ランド』は、映画の中に、現実の部分をドラマ仕立てで、夢の部分をミュージカル風に構成して、現実と夢を行き来するようにできている今までになかったような映画であったことに、2回めを見たときに感心したのでした。

ジョナサン・デミ監督の『シェルブールの雨傘』のラストシーンのほろ苦さってありますが、これを、あり得たかもしれない夢物語の回想という形で、最後仕上げていく手腕は、さすなに、アカデミー賞受賞作ではあると思いました。

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2017年11月27日

久しぶりにトレイルラン

ガーミンのGPS心拍計630Jが激安価格で出ていたので、購入したのは、数ヶ月前。

買ってよかったなと思うのが、GPS捕捉時間が10秒位で終わること。連日走ると、数秒で終わってしまう。

あと、10年位前のとは、びっくりするほど軽量で、普通の腕時計みたいなのも好感が持てる。ブルートゥースで、情報をスマホに送信できるのもいいかもしれない。あまり、過去のデータは見ないけれど。

以前のものは、3日も使わないと、ときによっては、30分も衛星を補足しないことがあったので、これは、偉大な進歩だ。

心拍計もかなり正確で、右左の足の着地時間とか、走るときの体の上下の差を図ったり、歩幅とか、まあ、要らないことも計ってくれるのだが、その心拍計も含めて2万数千円だった。

というわけで、こういうものを買ったら走らないとねえ、というわけだが、足を故障して治らないので、調子を見ながら、土日と近所のトレイルを走っみた。

僕の中の優先順位は、ヨガ、呼吸法、瞑想>トレイルランニングという風に最近は変わっているので、まあ、付け足しのトレーニングということになるのだが、走れば、それは、めくるめく楽しい世界がそこにあり、一挙に欲望が花開いてしまうのが、ヨガ実践者としては、困ったなあ、ということにはなる。

トレイルランニングをカルマ・ヨーガ化して、欲望を放擲する修行に使えないかとも考えるのだが、なかなか難しい。よくよく考えてみよう。この世の中のありとあらゆる自分と自分以外のものとの関わりを修業の場として捉え、知らぬ間に、ある行為をしている内に、前人未到の高い頂に到達しているということもありうるではないか。

マフェトン理論信者である私の場合(というか、緩いのが好き!)、心拍数は、130を超えないようにして、心拍計にアラームセットをしている。130を超えるとアラームが鳴り、そこで、歩きながら、ガヤトリー・マントラを唱えて、心拍数が120くらいに落ちるまで歩くことにしている。

里山とは言え、この心拍数で山道を走る(時には歩く)のは、結構テクニックが必要で、走りに集中すれば、心拍数が知らない間に上昇し、心拍数を上げないように気をつけていると、走りに集中ができない。

集中と気配りの二律背反のテーゼをこなしながらのマフェトン理論の実行は、矛盾を克服するための偉大なるアウフヘーベンなのであるな。

ヨーガにとっては、欲望は敵なのであるのに、トレイルランをしていると、もっと速く楽に遠くまで走りたいという欲望が沸々と湧いてきてしまう。

それで、確かスコット・ジュレクのトレーニング方法が、EAT&RUNという本の中に書かれていたよなあ、と思い出し、電子本を検索してみたら、ありました。

手っ取り早く速く走る為のトレーニング方法は、5対1のインターバルトレーニングだと。

5分全力で走って1分流す。

10分で2分

15分で3分

そのうち、45分を全力で走りきれるようになるだろう・・・

なんて、一流の選手が言っているので、まあ、こういうのも間違ったトレーニング方法ではないはずだ。

ただ、僕は、5流の運動愛好家なので、頻度を落とせばよろしい。

この本を買った当時、3度ほどこのインターバルをやったことがあった。つらかった。3度しか続かなかった。

そして、走りながら、こんな計画を立ててみた。

5分と1分で、これを5回。〆て30分のトレーニング。

これを、週の半ばの水曜日に1回だけ実践する。

こうすると、体の中の生理が乱れて、健康からは程遠い状態になるので、他のすべての日は、マフェトン理論で、体を走りながら整えていったらどうかしらん?

マフェトン理論で走っても、僕の体験上は、奥武蔵をぐるりと55キロくらい走る平均的な力はつくけれど、まあ、速くはならないので、こういた要素を取り入れて、訓練したら、もうちょっと走りが楽しくなるかも。スポーツというのは、スピードとパワーに醍醐味があるからね。

というわけで、そんな欲望に身を焦がしながら、太陽光線をオデコに浴びながらのんびりと里山を走ったのでした。

足の調子も、却って運動をしないよりも、したほうが血液が痛み成分を散らすのかよくて、マフェトン理論で、着地に気をつけながら慎重に走れば、そのうち治るんじゃないかと思えるほどになってきた。

ところで、走っている途中、トレイルランナーに後ろについて来られて、バーっと抜いてくれればいいのに、なかなか抜かさないので、高麗峠からの下りで、スピードを上げて走ったら、見事、心拍数は、160を超えてしまったのね。

まだまだ、修行が足りない!

こういうときにこそ、自分を抑えて、心拍数を130で維持しなければ!

が、これがなかなか難しいのよね。

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2017年11月15日

『祇園の姉妹』と『裏窓』のリアリズム

山田五十鈴生誕百年特集を新文芸坐でやっていたので、溝口健二監督の『浪華悲歌(なにわエレジー)』『祇園の姉妹(きょうだい)』と、こちらは、無声映画の伊丹万作監督の『国士無双』の3本を観てきた。

『浪華悲歌』と『祇園の姉妹』は、ほぼ同じキャストで内容も似通った映画。

世間に反抗する妹と義理と人情の世界を住処とする姉妹が、世間の冷たい仕打ちを受けるという話であって、そこには、何も救いがなく、現実を目の前に、ほら、と提供して、解決策もなく唐突に終わってしまう。

なるほど、好いた惚れたの世界を描いた映画界に、こうしたリアリズムを透徹した映画が出れば、それは、センセーショナルな話題をさらったであろうなというのは、想像に難くない。

そして、そういう身も蓋もない話なのに、面白いのである。

映画というもの本質に、リアリズムというものがある。

世界最初の映画をリュミエール兄弟が撮った際の映画は、確か、動く機関車だったと記憶している。ただ動く機関車が映像で再現されるだけで、観客は喜ぶのである。これが、リアリズムの魅力である。現実そのものを映像で再現をこれは、映画の本質をついている。

となれば、こうした世間との軋轢によって生じた悲劇というものを淡々と映像に撮って提供するという方法も、人は、リアリズムに興味を示すという本能があるので、興味を示すのは至極当然である。

いかに、リアリズムを、肉眼でみているように生々しく描くかということは、監督の裁量である。

ところで、この前日、早稲田松竹で、ヒッチコック監督の『裏窓』を30年位ぶりに映画館で見た。

これも、不思議な映画で、すべて、ジェームズ・スチュアート扮する足を折って動けない写真家が、退屈しのぎに裏庭を挟んで対面するアパートの一室を盗み見する映画である。グレース・ケリーの類まれな美しさと華やかさがなければ、盗撮の変態映画になりそうな趣である。

ヒッチコックの映画は、綺麗な女優とショックとサスペンスの厚塗りで地肌が見えないよう隠蔽するが、その本質は、変態映画である。

この映画の筋道は、主人公のアパートの裏窓から覗いて得た状況証拠を積み立てながら、想像力を逞しくして、妻を殺害したのはその夫であるとの確信を得ていく。

困ったことに、そこには、何の確定した物証はない。血の付いたナイフも、死体も、殺す場面も、殺人者の告白も何もない。

最後まで、その犯人と目される夫が、実際に妻を殺したのかどうか、逮捕に向かった刑事のセリフも巧みに忌避される。

観客も、宙ぶらりんな状況に放おって置かれ、勝手に映画は唐突に終わってしまう。

なんだかわからないけれど、犯人が捕まってよかったね、と椅子から立ち上がる人は、ヒッチコックの本当の罠にハマっていない人だ。

なんだか、悪夢を見ているよう。

我々の知っている以上のことが、実際には起こっていたのかもしれないし、理不尽な対応をさせられて頭きたその犯人と目される男がジェームズ・スチュアートを懲らしめに来たのかもしれない。

『祇園の姉妹』も、『裏窓』も、観客に見ることのできる情報を提供しただけで、なんの感情移入もできないままに、映画が終わってしまうというところに、共通点がある。

『裏窓』がリアリズム映画なんて言う人はいない。しかしながら、極力、映画に解釈を入れずに、そのままを観客に映像を提供したというその効果は、その映画について、自分はどう思うかという反省の気持ちを起こさせる。

『裏窓』の場合、宙ぶらりんな状況に観客を置いておくことによって、映画にあったサスペンスが、見終わった後でも、長いこと継続するのだ。この映画の本当に隠されたヒッチコックのメッセージは、このようにして、観客に届く。

こうして、ああだこうだと考えているのも、このリアリズムの効果であるのは間違いない。

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2017年11月10日

カルマ・ヨーガは難しい

仕事というものを道具にして、自己の成長を促したいと思い、報酬の多寡を問わず、昔なら、断っていたであろう困難な仕事を二つ返事で請け負う勇気は得たのだが、やってみれば、やはり困難なことも多く遭遇し、夜に眠れず、私の心は、押しつぶされそうになってしまうことが多いのだ。

困難であればあるほど、自己を磨く道具としては最適なものであるには違いない。私の心が、そうした困難に心を動かさられなければ、まるで、他人事のように仕事ができるであろう。私は、そのとき、高度な存在に操られた人形のようになる。

人のために、社会のために、他の誰かのために仕事を行うわけではなく、インド哲学によれば、この仕事自体を、祭祀として行えという。神に捧げるのだと。

信仰心のない私にとっては、なかなか難しいやり方だろうけれど、心を虚しゅうして、仕事のすべてを天に捧げ、また、その仕事の結果のなにもかもを天に委ねるというような心意気だろうか。

目的と手段が同一になり、仕事の渦中に巻き込まれても、台風の目のように静かに心は抑制されている。

仕事がうまく行こうが、いかなくても、人に感謝されようが、憎まれようが、無関心で、自己は抑制され、心は、平安な状況にある。

私の心は、吟醸米のように磨かれ、迷いが拭われ、汚れてしまって見えなくなっていた本性が徐々に表れてくる。

こんな境地を得たいと思い、努力するものの、すぐに、仕事の目的と手段は分離してしまい、欲望が生じて、執着が生まれて、不満が出て、怒りが生じたり、心が千々に乱れてしまう。

剣道で正眼の構えというのでしょうか、こういう時には、まずは、最初の態度に戻って、深呼吸する必要がある。

 

スワーミー・ヴィヴェーカーナンダの『カルマ・ヨーガ』という本の中には、こんなことが書かれている。

理想的な人は、最も深い沈黙と孤独のさなかに最も強烈な活動を見出し、最も強烈な活動のさなかに砂漠の沈黙と孤独を見出す人です。その人は、抑制の秘訣を学んだのです。彼は、彼自身を支配したのです。彼は、往来頻繁な大都会の街中を歩きながら、しかもその心はまるで、物音一つ届かぬ洞窟の中にいるかのように静かです。そして彼は、常時最も活動的に働いています。それが、カルマ・ヨーガの理想です。

こうした態度で、仕事ができるように、一ミリでもこの境地に近づけるように、努力してみるつもりだ。

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2017年10月12日

理想の時間配分

老年期に差し掛かると、なかなか体が柔らかくならない。

ヨーガ体操を今年からはじめて、10ヶ月が経過したのに、アーサナ(ヨーガのポーズ)の完成形に向かっては、蝸牛の歩みである。

とりわけ、体の裏側の部分の筋肉が、酸っぱくなって固くなって、煮ても焼いても食えないようなものになっている。

無理して伸ばそうとして、この10ヶ月で、右側の仙腸関節を痛め悶え苦しむこと2ヶ月位、今は、左足の膝の裏の筋をピキッと痛めてしまって、開脚で体を前に倒すポーズをすることが怖くてできない(筋が切れてしまいそうで)。

昨晩、そのポーズをやってみたら、痛烈な痛みが走ったので、やめた。

その前は、2週間位苦しんだのだが、右側の肩甲骨のあたりに鈍痛が常にあって、これにも参った。病膏肓に入るの「膏肓」というツボのあたりである。

両肩の五十肩で苦しんだ後遺症で、とっても肩甲骨や上腕部の筋肉が、動かすととても痛いので、面白がって、動かしていたら、こんな風になってしまった。

というわけで、私の場合、右側がとてつもなく固い。あるところまで曲げると、そこから体がロックされて、靭帯は切れる寸前まで引っ張られ、動きが取れなくなる。そこを、無理して動かそうとして、何度か体を壊したとは、前に書いた。

それでも、正座してそのまま後ろに倒れるポーズは、以前は、頭頂とつま先の前面を地につけた太鼓橋のようになって、目は釣り上がり、床と接している指先と頭頂部はカクカクと震度5くらいに揺れて、どうやって元の仰向けの形を取ったらいいものかわからず、腰骨が折れそうになるのをこらえるものの3秒と保たなかったが、今は、太鼓橋状ではあるが、深い呼吸で20数えてまだ余力がある。随分ましになってきた。

得意なのは、バランス系のポーズ。

皆得手不得手があるものさ。

とにかく、時間をかけて、少しずつ、前進を続けていきたい。

体調不良も重なって、なかなか自分のリズムを作り出すことができなかった。ここに来て、徐々にマイペースを掴み取ることが出来るようになってきた。

連休の日月と、トレイルランニングを楽しんだ。

どうにも、ベジタリアンでも、運動量が少ないと腹の周りに肉がつく。

まずは、毎日1時間程度のジョギングはしてみたい。

といわけで、今朝は、4時過ぎに起きて、朝ランを久しぶりにした。暖かくて、半袖ランパンでOK。

新しく買ったGPSは、数秒で衛星の位置を捕捉。ストレスなし。

9キロを1時間程度で、軽く走った。

理想の平日のタイムテーブルは、朝夜に二度ヨーガ体操をやり、朝1時間ほどのランニング。通勤時間の2時間は、印度哲学の勉強をして、6時間位一所懸命働く。。。というのが習慣化出来るよいいのだが。

まずは、習慣を身に着けなくてはね。

というわけで、明日の朝も、ランニング行くべ。

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2017年10月11日

今年の収穫

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今年から、僕が本格的に参加して友人と二人で米作りを始めたが、先週末に稲架掛けして、今週の月曜日に脱穀、籾摺りをして、玄米にした。

いろいろあったけれど、初めて本格的に米作りをして、昨年はうまくできなかったのを挽回して、まずまずの収穫ができたのは嬉しい。

なにせ、自分たちで作った有機無農薬だもの。悦びもひとしお。

早速、玄米おにぎりにして、昼に事務所で頂いたんだけれど、みずみずしくて柔らかくてもちもちして、とても美味しい。

アマゾンで、精米機も購入して、食べる分だけ、白米にして食べたけれど、これも美味しい。

来年も、やるかどうかは、未定だが、やるからには、またがんばりますよ。

お手伝いというか、一緒にやってくれる僕のよく知っている人がいたら、声をかけてね。

大変なこともあるけれど、やったかいはあるよ。

また、いろいろなことが学べますよ。

posted by ロビオ at 16:23| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

仕事とは義務の遂行

僕が担当した被後見人には身寄りがないので、火葬で骨を拾ったのは、僕と葬儀社社員の二人で行った。

短い間ではあったが、いろいろと関わってきた方が亡くなると、やはり、平気ではいられない。感情が高ぶることもある。あれやこれやを思い出す。私がやれることはやっただろうかとも思う。

身寄りの無い方の後見人になるということで、死後事務は、どういうふうに執り行うのかとか、骨壷はどうやって保管したらいいのかとか、いろいろと想像したこともあったけれど、今は、葬儀屋さんが、骨壷の保管も行ってくれていて、事務作業はとても楽だった。

事務所に行き場を失った骨壷が二つ三つと増えていくのかしらん?と心配することはなかったのである。

もちろん、死後の事務は報酬にはならない。けれども、誰もする人がいないのならば、それは、僕がやらなければならないこと。義務の放棄はゆるされない。

まあ、そんなこんなで、多忙を極め、あれやらこれやがが、同時発生的に身に降り掛かってきて、あっという間に、時間が飛び去ってしまった。

残業はしないので、事務は、溜まるばかり。

こういう定形外で予想の付かない仕事をいろいろとこなしていく内に、仕事というのは、金を稼いだり、それで自己実現させたり、野心を満足させたり、社会と繋がりたいという要求を満たすためのものというよりも、自分がやらなければならないことを、ただやるためのもので、運が良ければ、その対価として金が後からやってくるものだという風に考えるようになってきた。

流しそうめんが流れてきたら、それを箸で摘まなければならないのだ。

こういう人は、お金を儲けることはできないだろう。

お金を稼ぐために一番必要なのは、お金を稼ぎたいと思うことが大切だからだ。

欲する者に欲する物は飛び込んでくる。

だから、その為には、低収入でもやっていけるように、経費を極力かけずに、生活費は縮めるかけ縮めることも必要であろう。

今年は、米が豊作で、1年間、食べるものに苦労することはないだけの収穫を得た。

玄米菜食で食費もほとんどかからない。

自分で作る料理より美味しいものはなさそうな気がするし、外食もする気がなくなった。

僕には、妻がいるし、友人がいるし、美味しい野菜や米がある。

そして、やらなければならない仕事がある。

他に何を望もうか?

当然、仕事に対する野心も、儲かるからその仕事に飛びつくということもない。取らぬ狸の皮算用とて、鼻の穴を広げて、興奮することもなくなった。

土地持ち、財産持ち、家族持ち。大変だなとおもうようになった。できるなら、そういうものは、自分には少しだけあればいいと思うようになった。

人生に必要なお金はわずかあればいいのではないか?

日本の国土さえあれば、豊かに食べるものはできるのだ。

お金で買えるもので欲しいものはほとんどなくなってきてしまった。

そういうことすべてが、自分にとってはいいことだと思っている。

どんな仕事も、ある種のしなければならないその人特有の義務なのである。

義務に報酬は伴わないものである。

その義務をその結果を考えずに真摯に行うカルマ・ヨーガは、仕事を霊的な世界に入るための修行に変えてしまう。

それこそが、仕事の持つ価値なんではないだろうか?

そうして、世界は回っている。

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2017年09月26日

カルマ・ヨーガ

心の平静を失わせるものは、その活動自体ではなく、行為の結果に対する願望である。

だから、行為の結果に対する願望を捨てて、活動をすれば、心は平静を得ることが出来る。

ところで、仕事や活動の強力な原動力は、この行為の結果に対する願望である。

これを断ち切ってしまったら、仕事や活動に従事する原動力を失い無気力になってしまうのではないかという疑問が起こるのは当然である。

しかし、結果に対していかなる執着を最新の注意を払って行為を遂行することは、霊的な成長を遂げるために必須のトレーニングなのである。

この成長を求める熱意が、仕事を進めていく上の原動力になる。

この大きな車輪が動いて、どんどんスピードを上げても、軸に座っている本人の心は、涼しく、常に平静である。

心、惑わされることはない。

かれは、一歩一歩、神の領域に近づいている。

ざっと、カルマ・ヨーガという悟りへの道の概略はこういうものだ。

なにも、出家して悟りのための専門職にならなくても、日常の生活の中で、このことをとりいれれば、その道は通じている。

ヨーガも瞑想も断食も不要である。ただ、ひたすら働けばいい。

この素晴らしいアイデアは、バガヴァッド・ギーターに書かれている。

願望を捨てた行為は、足跡を残さない。

いかなる感情もそこには生起しない。

いわば、足跡をつけずにカルマという道を歩くに等しい。

しかし、これをやってみると、ほとんど不可能だと思えるほど難しい。

しかし、何事も、少しずつ努力を積み重ねていると、ある日、はるか遠くまで見渡せる高みに到達するものである。

努力を続けよう。

ところで、時々、トレイルランニングをしていて、ふと気がつくと、走っている自分に驚くことがある。その間の走ってきた道を、走ってきたことは覚えているが、その間に見ていたものとかをすっかり忘れていることがある。

眠りながら走っているようなものだな。たしかに、心は平静で、瞑想しているようなものだ。

こういうのって、カルマ・ヨーガって呼ぶのか?

少しは、道を一歩でも進めたのか?それとも、ボケたのか?

難しい問題だな、これも。

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2017年09月25日

ひよこ豆の粉で天ぷら

ヨーガを心の支えにして、インド哲学を学び、森の中を走り、マントラを唱え、息を整えて、瞑想し、小さな人の輪を繋いで物々交換的に新鮮で美味しい野菜を頂いて、自らも、田んぼで稲を育てている。

高校時代に思い描いていたような生活が少しずつ実現できてきているのに驚くのだね。

ほんとうに、夢は常に描いていると実現します。

夢というのは、荒唐無稽な雲をつかむようなものではなく、日々の日常の積み重ねから、苦労することなく実現できるものなのだと思う。

自分の野心や感覚的な楽しみごとを満たすための目標は、欲望であって、それは夢と間違えられやすいが夢ではなく、実現したところで、人を不幸な世界におびき寄せるものでしかないのは、歴史書や文学や映画をみれば、海の水ほどありふれているのがわかるだろう。

夢は、常に自分に寄り添い、発見されることを望んでいるもので、いざ、発見されると、それが自分の夢だったとおもわれるようなものだと思いたい。気づいてみたら、ああ、これが夢だったんだと。

で、そういう生活に親しんで、ヨーガをやっているひとは、ベジタリアンに傾向的に向かうのは自然であって(なんでか?というのは長いので省くが)、この僕も、ベジタリアンである。動くものは、食べない。

酒も飲まないし、外食は難しいし、革製品は避けたいし、人と夜の会合なんかでは食べず飲まずではつまらないし、人とこうしたつきあいをするのが面倒になってしまうのだけれど、まあ、つきあって面倒と感じない場所だけ出向けばいいし、人と付き合えば自己嫌悪に陥るのが常だし、友達は一人もいなくても、出会う人がすべて友人だと最近では思うし、まったく痛痒を感じない。

ヨーガとともに生きるとは、こういう風に自由に生きることでもあるのね。

さて、ヨーガの生まれ故郷インドでは、ベジタリアンが多いので、インド料理には野菜を使ったレシピがたくさんある。

そんなわけで、僕の趣味の料理もベジタリアン料理になってしまうのだが、このところ、カレーばっかり作っていた。

実は、毎週土曜日にインド哲学を勉強に行くのだが、そこで休憩時間にいただくカレーがとっても美味い。このカレーと同じくらい美味しいカレーを作るには、どうすればいいのか?ということをテーマに、毎回作っているという次第。

土曜日は、ひよこ豆といんげん豆と茄子とオクラのカレーを作った。最近は、レシピをみないで、適当に作って、かなり美味しいカレーが作れるようになってきた。

日曜日は、野菜料理で、ちょっと前に、東京は蔵前のベジタリアン食材店アンビカショップで買ってきた「ひよこ豆の粉」を使った野菜天ぷらを作ってみた。

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ひよこ豆の粉とターメリック、胡椒、唐辛子の粉、塩、以上を少々混ぜて水で溶いて、油で揚げまする。

知り合いの農家からこのために取り寄せていたカリフラワーと、オクラ、茄子、インゲンを揚げたのがこれ。

サクサク感が強くてさっぱりしていて、かなりうまいスナック菓子みたいでかなりうまかった。

そして、こうした料理によく使われる調合済みスパイスを買ってきたのがあったので、味を見ながら、トマトと混ぜ混ぜして、ちょいと砂糖をいれて、ちょうど良い味に思えたものに、ディップして食べた。

ご飯は、ターメリックとクミンシードを小さじ半分と塩を少々いれて炊いたクミンご飯にして、おいしくいただきました。

ひよこ豆の粉で、かなりベジタリアン料理の範囲も拡がるね。パンに入れても良さそうだし。

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2017年09月24日

稲刈り間近

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稲の生育もすこぶる満足がいって、収穫は来週にすることになった。

無農薬でちゃんと素人が稲を育て上げることができるんだと驚くとともに、あの連日の早朝雑草取りの日々を思い起こして感慨深い。

世の中、絶望したくなるようなことばかりが起きているけれど、そして、日本は沈没寸前まで、来るところまできてしまった感がある。

自分が何者かを知らないという無知から派生するアイデンティティーの喪失。

そんなものが、作用して、この国全体が正気を失ってしまった。

正気を失っていない人も数が多いのだろうが、それは、常に少数だ。

悲しいが、いつの世もそういう風になっている。

僕は、常に少数派に与するようになってしまうので、こういうことも言いたくなる。

しかし、それでも、人生は続くよ。

僕は、自分の道を進むしかない。

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2017年09月17日

『マイビューテフルガーデン』と『未来よこんにちは』と『ダバ・インディア』

飯田橋ギンレイホールで、『マイビューテフルガーデン』と『未来よこんにちは』の二本を鑑賞する。妻と(笑)。

妻と映画館で映画を見るのは、ず〜っと昔の『レ・ミゼラブル』以来かも。

『マイビューテフルガーデン』は、『アメリ』から悪ふざけを抜いたようなおしゃれな映画。

『未来よこんにちは』は、イザベル・ユペール主演の「それでも人生は続くよ」という内容の映画。

英語圏の人たちは、よくLife goes on(人生は続くよ),というフレーズを良く使う。

オブラディ・オブラダというポール・マッカートニーのビートルズの歌の中にも、このフレーズが飛び出すし、映画だと、ショーン・ペン主演の映画『21グラム』という作品で、このフレーズが3度使われていたと記憶する。

人生山あり谷あり。生きてりゃいいことも悪いこともあるさ。ここでへこたれても、人生はそれでも続くんだよ。

そんな風に使われるんでしょうか?

『未来よ こんにちは』の主人公に降り掛かってくる災厄、苦悩、煩わしいこと、それから逃げることなく、受け止めて、しっかりと歩を緩めることなく、未来に向かって毅然と立ち向かっていく姿に、リアリティを感じました。

イザベル・ユペールという女優は、最近では、『アスファルト』という変な映画で、落ちぶれた女優の役で素晴らしい演技をしてましたが、この映画でも、淡々とした演技が光ってましたね。

映画が終わったら、京橋の南インド料理屋の「ダバ・インディア」へ。最終オーダーの14時30分に滑り込んだ。

この場所は、先週、印度哲学の勉強会のあと、インドのお坊さんと受講生でここで昼食をしに行ったのでした。僕は、仕事があり、不参加だったのだが、皆さんベジタリアンなので、ベジタリアン料理もあるはずというわけで、妻を誘って、行ってみたのでした。

僕は、ベジミールスという、野菜のカレーのランチを、妻は、ドーサというインド風のガレットのランチを。

台風到来の雨の中、それでも、ほぼ満席だったが、待たずに座れたのはよかった。

家で作るカレーもいいけれど、たまには、こういうところで、味の確認をするのも大切ですね。

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2017年09月16日

『転校生』と『さびしんぼう』

新文芸坐での大林宣彦監督特集のプログラムも残り僅かになってきた。

尾道三部作のうち2作、『転校生』と『さびしんぼう』を見る。

映画館は、初回なのに、満席。ここまで、新文芸坐で、満員だったのは・・・ちょっと記憶に無い。

とにかく、『転校生』と『さびしんぼう』は大傑作であることに間違いない。

尾道三部作というのは、大林宣彦監督が監督をした尾道を舞台にした『転校生』『時をかける少女』『さびしんぼう』のことをいう。

尾道を舞台にした映画と言えば、小津安二郎の『東京物語』がある。

そして映画フアンとしては、この尾道には、あのごみごみとした東京下町の路地に坂を多くしたような海の見える平家に、笠智衆と東山千栄子と娘の香川京子が未だに住んでいるんである。

お寺の階段。『時をかける少女』で火事を見に行った路地。それらが、この三部作でも、三作に渡って同じ景色が映し出されている。これらの映画のおかげで観光地になったようで、僕も行ってみたくなったね。

そんな映画フアンの心象風景を壊すことなく映像化しているのが嬉しくなってしまう。

『転校生』のヒロインは、小林聡美。『さびしんぼう』は、富田靖子。

どちらも、タイプはぜんぜん違うんだけれど、どちらも大好きだなあ。

とくに、小林聡美は、この映画だけで引退したとしても、映画史上に残る名演技だったのではないでしょうか?

『さびしんぼうの』ラストの雨の降る中のツーショットは、海外の映画の文法の教科書に載っているほどの名場面です。

とにかく、この2作は、大林宣彦監督の二つの大きな頂点であることは間違いない。

両作品とも複雑な哲学的な心理学的なテーマを扱っているので、これから、これを題材にして、あれやこれや考えたいと思っております。

みなさんも、是非、DVD等でご覧になってくださいませ。

映画が終わって、拍手が起きましたよ。こういうのも、久しぶり。

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2017年09月15日

さ、勉強しなくっちゃ

二日に一度、早朝にパンを焼くので、二日に一度、早朝ランニングに出発する。交互に、パン焼きとランニング。

リズムができると、そのリズムに合わせて生活が成り立つ。

習慣は第二の天性なり、というけれど、体という、いわば白紙の五線紙に、楽譜やリズムを書いては消していくほどに、確固たる自分の曲が出来上がっていく。できれば、そのリズムは、自分の心拍と同調したい。

新しいGPS心拍計Garmin forathlete630Jは、すぐにGPSを捕捉してくれてストレスなし。今までになかった機能として、左右の足のバランス(なにのバランスかは不明)とか、体の移動の上下差とか、着地時間とか、ケイデンスとかを計測してくれる。また、最大酸素吸収能力とか乳酸閾値も計測してくれる。シリアスなランナーにとっては、とても充実した機能が満載だが、僕にとっては、宝の持ち腐れかも。

ただ、1分間に繰り出す左右の足の歩数は、180から190だったり、走る際の上下動は意外に少なかったり、GPSの判定だと、上級者のランクになっている。

ヨーガの呼吸法でも最大酸素摂取量は増えていくのかも。

というわけで、こういう機能はあまり必要のないものかも。走り込んでいけば、無駄がなくなっていくのでしょう。

さてさて、忙しさにかまけて、大幅に勉強が遅れているサンスクリット語。なんとかしなくちゃ!

というわけで、これから、勉強の予定表を考えてみる。

これも、習慣にして、座ったらすぐに勉強モードという風にすれば、「第2の天性」にすることが出来るはずでしょう。

いろいろと反省すると、ほんとうに、無駄な時間ばかりを費やしておる。

さ、勉強勉強!!!

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2017年09月12日

草枕とインド哲学とフォーアスリート635J

インド哲学によると・・・肉体が滅んで来世に魂とともに運ばれるものは二つしかなくて、それは、智慧(ジュニャーナ)と今世で行った行為(カルマ)だけだと教わる。

これがあるからこそ、魂は個性をもち、その魂ごとに輪廻転生する原因となっているわけだ。

インド哲学では、個性というものは、あまりいいものではなく、魂は、永遠で、無限で、偏在するものであり、私という存在もそうした魂であるのであるから、自分自身を知って悟った暁には、私は私という個性を止めて、宇宙と合一してしまうらしい。

なにか、後生大事に大切なものだと考えていた個性というものが、実は、無知に彩られた幻影にすぎない、と、こういう風にインド哲学では、考えているようだ。

まあ、こういう風に言われれば、智慧を身に着けるべく、インドの聖典を勉強しつつ、善い行いを行っていきたいとも思うし、こういう勤勉で、倫理的な態度は、人生において役立っていくことであらうとも思うのだ。

そして、インド哲学を勉強していくと、独自の視点というのが生まれてきて、映画を見ても、小説を読んでも、人の話を聞いていても、最近では、「インド哲学的な見地からすると」という風に鑑賞したり判断したりすることが多い。

映画を見ているのも、印度哲学の事例応用的に利用している。

なかでも、夏目漱石の著作は、インド哲学的な見地から読むと、ふむふむなるほどと理解が深まるような気がするのである。

とりわけ、漱石が、若い頃、印度哲学の手ほどきを受けて、サーンキヤ学派の影響を受けているというのを、岩波書店の夏目漱石全集の注で初めて知ったのであって、『草枕』を読むと、その学派の主張するプルシャとプラクリティについて、夏目漱石風に小説に仕立てている。その「非人情」という概念がそれである。また、後日、修善寺での喀血後に言ったと言われる「則天去私」というのも、印度哲学の香りが濃厚である。

それは、物質界である心やモノを超えたところに魂があり、その魂が俗世間を覗いたときに生まれるある種の境地をいうのであろう。

というわけで、ちょいと前に読んだサリンジャーの『フラニーとゾーイー』と夏目漱石は、インド哲学風な小説を書く二大巨匠である!ということで、興味が尽きないのである。

そういえば、則天去私というのも、このインド哲学に触発されての境地であろうと思うのだが、そういう話を聞いたことがないのはなぜだろう?

数ヶ月前に漱石の『道草』を読んで、その人間の心の描写の的確さに驚いたのだが、『草枕』の語彙も壮絶という感がある。キンドルに入っている日本語辞典で分からない言葉を引くと、その出典としての例が、『草枕』だったり『三四郎』だったりする。

チビチビと線を引きながら(キンドルなのでハイライト)、現在、インド哲学という観点から『草枕』を研究中。

あ・れ・ま!

当初に書こうと思っていたことから、ぜんぜん違う方向へ話が向いてしまった。

そうそう、ランニング時のGPSガジェットについて書こうとしていたの。

もう相当長いこと利用してきたガーミンのオレンジ色したフォーアスリート310XTが、時々、スイッチが入らなくなることや、コンピューターにデータを送るとエラーが出るくらいならまだ我慢できるが、2,3日使わないでいると、GPSを捕捉するのに、下手すると20分も30分もかかるというところが気に入らなかったのだった。

まだ使えるので、利用していたが、そろそろ新たなGPS腕時計を買ってもいいころじゃないかしらと思っていたところ、アマゾンで、25,000円で、心拍計付のガーミン フォーアスリート635jというのが出ていたので、ポチッと。

なんでも、最新の心拍計は、ほとんど僕には必要と思われない機能であるが、体の上下動やらピッチ長やら足の設置時間を算定してくれるらしく、単独で購入すると16,000円もするという。

この心拍計に、本体も付属して、2万5000円ならいいのではないかと考えたのだった。

それで、これを使用してみたところ、家を出て、スイッチを入れるとたちどころに、GPSを補足してくれて、ストレスなし!

う〜ん、これだけでも、買ってよかったね。

最近では、腕から心拍数を測るものが多いようだけれど、誤作動も多いようで、これはこれでストレスがかかりそうだ。

そして、この心拍計は、かなり正確に心拍数を計測してくれるし、乳酸閾値という昔から知りたかった数値がこのガジェットで計れるのは素晴らしいと思いました。

というわけで、この乳酸閾値の心拍数を参考に、これからもね、運動をすこしずつやっていくわけでありました。

 

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2017年09月11日

『台北ストーリー』と『タレンタイム 優しい時間』

飯田橋のギンレイホールで、『台北ストーリー』と『タレンタイム 優しい時間』の2本を鑑賞。

最近余り見ることのない台湾映画とマレーシア映画である。

どちらも良くできていて、『台北ストーリー』は、舞台は台北なのだが、まさに1980年ころの東京のバブル時期の「嫌な匂い」が充満していてるものの、なんだか懐かしい。

そういえば、この間見た『横道世之介』は、ずばり、僕の母校の同じ時期の大学キャンパスが再現されていて、これもまた、その当時の「嫌な匂い」があって目を背けた。

『台北ストーリー』は、日本発バブルの波が台湾を襲い、その変わりゆく台北に生まれてからずっと育った今は同棲している幼馴染の周辺を描いた物語である。

原題は、「青梅竹馬」と出ていたので、調べると、おさななじみ、のことだという。

周りの世界はどんどん日本のバブル経済の破壊力を受け、人をどこかに連れ去っていってしまうのに、、おさななじみは、皆、そこから一歩も踏み出すことのできないでいる、その閉塞感を描いたと言ってもよかろう。

古い人間関係や場所に自分のアイデンティティの碇を下ろしてしまうと、居心地がいいはずのその場所が、いたたまれない、肌に刺すような哀しさ、怒りがこみ上げてくることがあるだろう。かといって、その碇を上げて、新天地に移動することのできない自分がいる。その閉塞感が見事に描かれている。

ショットとショットの繋ぎが芸術的で、例えば、父親と同棲相手と食事をするその娘の関係を、床に落ちたスープを飲む際のレンゲが落ちる音と映像で描き出している。

また、古き良き台北の夜の建物を描く映像は、ドイツ表現主義風に光が映像でしか表現できないものを写し取っている。

『タレンタイム』はマレーシアの映画で、多人種の中に生活している高校生の青春映画でもあるのだが、高校生がバイリンガルやらトリリンガルだったりして、日本人が10年近く英語を勉強してほとんど話せないのは、こういう直に交わる異文化との交流がないからなのだと考えた。

それにしても、宗教というものが人を縛るというのは解せないもので、本来の宗教は自由を与えてくれるものなのに、ああ、人間というものは、人を国土に、家族に、宗教に縛り付けるものなのだな、人が自由になることに恐怖を感じるのだなと思ったが、拙い感想ですみません。

イギリスは、ヨークシャ出身の夫と、現地のマレーシア生まれのモスリムである妻から生まれた娘(もちろん宗教はモスリムである)が、インド系マレーシア人の貧しい、耳の聞こえない青年と恋をするという入り組んだ状況がなかなか泣かせる。

宗教上の違いから生じる問題があぶり出されるものに、娘とその青年に問題解決を委ねる場面で、その妻に向かってイギリス人の夫が「僕達が直面した問題を彼らもぶつかっているんだ。静かに見守ってやろう」というのだが、これが、この映画のテーマでもありましょう。

乗り越えられない問題はないということ。一度嘘の人生を選べば、後悔しか残らないとか、そんなテーマがひしひしと感じられるいい映画でしたね。

posted by ロビオ at 12:07| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月04日

豊作といっていいんじゃないか?

咳喘息で10日ばかり静かにしておりました。

とにかく、空咳が出て眠れない、ツライ毎日でございましたが、昨日から復帰。

まあ、今年に入ってから、また来るか!っていう波がたくさんやってきては去りの日々が現在まで続いているわけで、また今日も!っていう具合に、もう日常が非日常化して、もう来る波と同化して、渦に巻き込まれるしかないという状況です。

体の疲れもきっとあっただろうとは思いました。

そうそう、夜にジョギングまでしてましたからね。やや走りすぎたのかも。

まあ、そんな中、印度哲学は勉強しておいてみるものの、成長しているのかしていないのか、がっかりすることも多いのだけれど、自分でも気づかずに、高みを毎日登っているのだと考えて、日々精進していきたいなとは思うのであります。

それにしても、健康のありがたさよ。

こういうツライ目に合わないと、なかなかこういう実感もわかないわけで。

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それでも、ゴホゴホさせながら、田圃の稲はどうじゃな?と気になるので、妻と二人で出かけていって、稲の中に足を踏み込み、稲と一体化したヒエやらアワの類を刈りつつ、地面では、コナギが紫色の可愛い花をつけておって、来年も、こいつと格闘するのは必至だなと決意を新たにしたのでした。

それでも、どうです、この稲穂。豊かな気分になりますね。

今年秋から1年の食料は確保できたような気がします。

ああ、豊か豊か!稔の季節。

あと、収穫までの数週間、天変地異がありませんように!と祈りながら、1時間30分ほど、雑草取りを楽しんだのでありました。

今年1年、というか、たかだか5月からの4ヶ月の稲との付き合いではありますが、自然とともに添い遂げるというか、どうしてほしいのかという稲のかぼそい声を聞きながら、雑草取りでしたがね、農作業って本当に素晴らしいものです。

自分で食べるものを自分で作るという至極アタリマエのことが当たり前ではなくなった瞬間に、人は孤独を感じるのではないでしょうかね。人は、自然とともに歩んでいる限り孤独ではないのかもしれませんね。

自然と直に触れ合いながら、命を繋いでいくこと、このことの大切さを身にしみた今年の夏でありました。

四季はめぐることの素晴らしさっていうのは、こうして時間が来ると収穫の時期が自然に訪れることですね。

ピート・シーガーの「ターン・ターン・ターン」という曲を、ザ・バーズがフォーク・ロックにしてヒットした曲があるけれど、それには、それに適した季節というものがあるのです。

今すべきことにフォーカスして、それに集中しなければならないことが、人にはたくさんありますが、あれもこれもと、一所懸命に生きていると、そのしていることの意味はわからずとも、知らず知らずのうちに、おおきな壁を乗り越えて、高みに立っている自分を見つけることもきっとあるでしょう。

そう考えて、今日も、目の前の難題をやり終えて、いつか気づくであろう収穫を待つことにしましょうか。

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2017年08月18日

夜ラン

このところの雨で、走る気持ちも失せてしまいがちだが、走ることの出来る時には走っている。

早朝は、田圃に行くことが多くなってきたので、早朝に勤しんでいたランニングは、夕食後に行うことにしている。

なんでも、慣れてしまえば、それが当たり前になってしまうもので、夜に走るのも悪くはない・・・が、それなりに注意しなければならないことがある。

飯能という田舎町で、車や人通りが少ないところを選んで走れば、それは、街路灯がないところを走るということになる。

時には、暗闇に吸い込まれて、足元が見えないところも何箇所かあり(足元に注意して歩くか、小走りにする)、これは危ないし、たまに走る車に引っ掛けられないかとヒヤヒヤすることもある。

というわけで、腕に巻いて光を放つランニング用のライトをポチッとした。

850円なり。ジェントス LEDセーフティバンド 桃 AX-950PK

足首に巻けば、多少とも路面の状況もわかるのではないかと期待している。

しかし、夕食後に走ると、横っ腹が痛くなりますね。

あんまり体にはよくなさそうだけれど、9時にはヨガをして寝たいので、そうも言っていられない。

昨晩は、13キロほど走ったが、体重もぐっと落ちたか、夜に食べすぎた分を運動で調整できそうで夕食後のランニングも悪くはない。

もちろん、心拍計をつけて、心拍数130あたりで走ることも忘れない。

このくらいの心拍数だと、疲労回復も早く、疲れが持ち越されることもないようだ。

最近、仕事のことを考えて、寝られない日々が続いたが、夜ランの後は、ぐっすりと眠ることができた。

習慣付けよう。

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2017年08月16日

ヴェジタリアン生活に至ったわけ

今年から本格的に無農薬で米作りをはじめた。

あっという間に、雑草が生えてしまい、毎朝、田圃に出かけて、鎌で刈り取り、手で根っこを引きちぎって、土の中に埋めた。

昨年は、雑草取りをあまり熱心にやらなかったために、米の収穫量が減ってしまったと思って、今年は、雑草取りを熱心に行ったのだ。

稲を残して雑草を刈るということは、つまり、米の収穫量を上げたいがためにそうするのである。

自分の利益のために、生き物を殺しているのだな。

なんと罪深いことだろう。

里山の宅地造成に反対をしていたことがあったけれど、自然を犠牲にして会社の利益のために宅地をつくるなと反対していた当の自分が、自分の利益のために、雑草を刈っているのではないかとふと思いついたら、もういけない、この雑草刈が、生き物を大量に殺戮しているかのように思えて、吐き気がした。

このように、人間が生きていくということは、罪深いことなのだ、無農薬で米を作るということでさえ。

こうした感性が僕の中に生まれたのは、宅地造成の反対をしていた頃に、あれやこれや、自然の権利とか、環境倫理学とか勉強していた素地があったのかもしれない。

さらに、ヒンズー教の中にあるアヒンサー(非暴力)という戒律があるということを本格的に学んだからではないかと思う。

このアヒンサーという考えを深めたのがガンディーで、『獄中からの手紙』という岩波文庫の本で確認できる。

生き物を殺すことは良くないことで、そうすることで悪い印象が心のなかに生まれて、修行の妨げになると、ヨーガの経典である『ヨーガ・スートラ』でも、ヨーギーが行うべき戒律として書かれているほど重要な概念なのだ。

ところで、僕がベジタリアンになったのは、ヨガを再開したずっと前で、一時的に肉を食べる時期もあったが、体の体調も良くなく、心が乱れる(多分、倫理的にだが)ので、きっぱりと肉喰をやめてしまった。

馬鹿のように運動をしていた頃、僕はヴィーガンという肉類を全く食べない主義で過ごした。

月に、1200キロを自転車で乗り、300キロのトレイルランニングの運動量をこなした時、僕は、そのヴィーガンだった。

これで、筋肉はしっかりと付いたし、体の体調もよかったから(ただ、運動のし過ぎで貧血ぎみだったかな?)植物だけの栄養でまったく体の機能的な問題はないと思っている。

現在は、ヨーギーの生活では、乳製品はOKらしいので、たまにチーズを摂ることもあるし、たまに卵を食べることもある。

ところで、ベジタリアンになった理由であるが、こんな風に考えている。

生きていたい、自由でありたいという要求を動物はもっているがゆえに、こちらが捕らえようとすると動物は逃げる。

動物を自分の手で捕まえ殺し解体して食べるのならば自分の行為に対する責任を取っているような気がするが、スーパーに並んだかつての動物の肉を自分の手で殺すことをせずに、それがかつて生き物だったという事実を隠蔽したパックされた形で購入することは、倫理的に無反省な行為ではないだろうか。

ああ、ここにも自然との直接性を絶たれた現代人の姿があるのだね。

想像しよう。如何に動物が断末魔の叫びを上げて殺されているのか。

雑草でさえ、引き抜かれ鎌で刈られるときにその叫びが聞こえるような気がする。

捕まえようとすれば逃げる動物を捕まえて食べることは、動物に食べてもらうために甘い実をつけるフルーツや、食べようとして捕まえても逃げはしない植物などを食べるほうが、ずっとましだと考える。

それ無しでやっていけるなら、断末魔の叫びを上げて殺される動物を食べるより、植物を食べて、この体を維持していくことは、幾分ましなのではないかと考えているのである。

ここは、丹念に考えなければならないところだが、いまのところは、そう考える。

自分の生を維持する為に、他の生物を食べなければいけないという悲しみを感じるようになったら、ヴェジタリアンに人は向かうのではないかと思う。

いろいろな反論もあるだろうけれど、僕はそう感じ、そう実践している。

それに、とても野菜は美味しいのだよ。

そんなわけで、ベジタリアンが多いインドの料理を毎週末に作って、食事を楽しんでもいるのだ。

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2017年08月14日

自然に米ができるという豊かさ

農作業をやっていると、このところの曇り空、日照時間の短さが気になってくる。

それでも、稲穂が伸びて白い花が咲いていて、この花の一つ一つが米になると考えると、とても豊かな気分になる。

毎朝のように田圃に通って雑草を鎌で切り取った日々は2,3ヶ月ではあったけれど、雑草に負けず太く大きく育った稲を見ると、悦びもひとしおである。

花が咲いて一週間程度は、田圃の中に入っては行けないらしく、今週末の連休は、稲の様子を見に行く程度で済ませた。

また、稲が伸びていて、その影が地面を遮蔽しているので、雑草もそんなには元気ではなく、雑草取りもしなくても済むかもしれない。

昔から、農民の等級を上中下に分けて、雑草が生えないうちに雑草を処理するのが上農と呼ばれ、生えてから雑草取りをするのを中農といい、何にもしないのが下農というのだそうだ。

今年は、コナギが小さな十字の芽を出したところから雑草取りに通い始めたので、私たちは、中農であったのだな。幾分、下農的なこともあったのだが。

越生に住む無農薬で米作りをしている達人に、コナギという雑草のことについて聞いたら、デッキブラシでまだ生え揃わない雑草をこそぎ落とした翌年はあまり生えなかったそうである。

というわけで、来年は、田植えが終わった3日位あとで、デッキブラシで土をこすって、今年のように頻繁に雑草取りをしなくても済むようにしたいと思っている。

田圃という人工的な場所にであるがゆえに、そのまま放おって置いて稲ができると言うほど自然は甘くない。人工的な場所であるがゆえに、不自然な自然は矯めておかなければならない。

さて、どうするか?

福岡正信先生の幾つかの本を寝る前に読んでいると、なるほどそうだね、と思うことが多く、次回は、クローバの緑肥を稲の刈り入れ後に蒔いておこうかなと思っている。

今年は、安全な鶏糞を混ぜたが、来年は、このマメ科の根粒に固定された窒素を栄養素として稲を育ててみたい。

あと、稲わら、籾、米ぬかを、田圃に蒔く。土から奪った栄養素で出来上がったものは、そのまま土にお返しする。刈った雑草も、何もかも。

カエサルの物はカエサルに!奪ったものは、自然に返して、再生産ができるように手を打っておく。

福岡正信さんの本では、これだけで、栄養分は十分だとのことである。

世の中に本当に必要なものがそう多くあるわけではない。

自然という目に見えないがたしかに存在するシステム、これをタオと名付けてもいいのなら、これを発見し、そのシステムにうまく組み込むことが出来るように、自然と一体化する目を養わなければならない。

永遠と無限なタオ。こいつのパワーは半端じゃない。このエネルギーを無駄にする手はない。

福岡正信さんの名言にこんなことがある。

うろ覚えだが、「何をしなければならなかったと考えないで、何をしなくてもよかったかと真剣に考える」のだと。

このタオという素晴らしい無為自然があるにも関わらず、人間の賢しらが、自然を歪めるのだと。

ところで、この世の中、必要のない需要を作り出して、その需要を満たすために商品が作られる。

数年前に買ったアイコンジャー炊飯器が壊れたので、原始的な安価な炊飯器を買ったら、こっちのほうが断然美味しい米が炊けた。

きちんと整備された田圃に、農薬やら化成肥料やら有機肥料が必要なんだろうか?

そういう需要を生み出す田圃にしてしまったから、それらの商品が必要になってきているのではないか?

根本的に考えることをラジカルというが、こうした問いが、非常に重要なのだ、田圃で稲を作るにも、人生を豊かに生きるにも。

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2017年08月07日

稲のハナガサイタヨ

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稲の花が咲いたよ。

3.11の地震と原発事故で、無反省にこの世界の仕掛がどんなものかを頭の隅にも置かずに生活していたことに気付かされた。

蛇口捻れば水。ガスストーブ捻れば火がつき、ボタンをプッシュすれば部屋は暖まり、涼しくなる世界。

SNSでの毎日連絡をとりあうことによって、なんとなく深い関係が築けているのではないかとの錯覚。

こちらの負担にならない程度で付き合える人間関係、例えば、サークル、クラブなどの共通の関心事に関するだけでという限定で付き合える「仲のいい友達」関係。

夜遅くまで演っているスーパーでは、電気じかけの野菜が煌々とした蛍光灯に照らされている。そうした野菜も、電気と化学肥料でできた人造物と言っていいようなものなのではないか。

すべてが、そこにあるものが如何に発生して、ここにあるのかという経過が省かれてしまって、実在感の乏しいものであるようだ。

何かをきっと、我々は失ってしまったのだ。

私達の世界を端的に捉えると、私自身と私以外の自然という関係に捉えられる。

しかし、この自然というものの対象が曖昧になってきてしまっている。

コンピュータの世界がリアルなもので、実際の手で触れることのできる世界が希薄になりつつあって、私の通勤靴に土が着くことは稀である。

自然と自己とは対象的にお互いを支え合っているような関係だから、他方が希薄になれば、他方も相対的に希薄になっていってしまう。

あるいは、自然にないものをあると確信することによって、自己もないものがあるように変容してしまうのではないか?

自然が確かにここにあると確信する実感は、生きていくうえの手応えとか、足場とかいった、基礎的な土台だ。

こうした確信に支えられて、自己はその上に立つことができる。

ところで、僕らは、無農薬で、稲を育てている。

稲を無農薬で育てるということは、色々な手作業が必要になってくるということだ。

田圃に入って、雑草と格闘するように鎌でもって切り倒し引っこ抜いたりする時、そこには、深い肉体哲学というべき倫理観が生まれるものだ。

身をもって体験するということは、知識をえるということで、知識を得るということは、記憶にあったそれを自分のものにすることだ。

国家や社会などというありもしない概念に振り回されている愚かさといものもある。

国家という自然に自己を投影すると、あたかも国家が自己であるという考えに到達してしまうのではないか?

国家など存在はしないのは、国家を逮捕監禁できないように殺すことも活かすこともできないおうに、これは、我々の概念にあるに過ぎない幻想である。

しかし、国家はないが、国土というものはある。田圃もある。

こうしたものは、リアルに存在するものだと考えていいのだろう。

こうして、自ら交わったものには、本物である威厳があるようだ。

たとえば、稲の花。

田圃で草取りを毎朝のようにやっていなければ、これは、単なる稲の花で、それ以上の意味合いはない。

しかし、こうして関わった稲の花は、僕にとっては実在する花なのだ。

実在するものは形を持つから、生きる上での基礎となっていくだろうと思うのだ。

非実在のたんなる観念に惑わされてはいけない。

そういうものを大切に、これからもやっていきたいなと思うのである。

posted by ロビオ at 15:26| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする