2016年04月10日

マフェトン理論でランしたりサイクリングしたり

土曜日と日曜日、マフェトン心拍域でトレーニングした。

180マイナス年齢+5ということで、最大心拍域を131に設定する。

最初の15分は、徐々に心拍域を最大心拍域に上げていき、終わりの15分は、徐々に走り出す前の心拍域に戻していく。

とてもシンプル。

人間の体は、自然の権化といっていいほど、自分では制御出来ないシステムから成り立っている。

食事して、分子生物学的に栄養素を分解して取り入れるのを「自然に」体がやり通してくれている。この栄養素を取り入れないで、これだけを取り入れるなんてことは不可能だ。

しかし、呼吸と心拍数は、人間が制御できる数少ない機能である。

運動量が増えれば、呼吸も増え心拍数も上がっていく。

運動量を減らせば、平時の心拍数に戻っていく。

明滅するココロの動きを制御するのも呼吸と心拍数にかかっている。

こころと体が自分だと勘違いしている人は多いが、その心と体が自分であると認識する本当の自分には気が付かない。

その存在を人は神と呼んでいる。

そんな神の立場から心拍数を制御する。

自然に手を加える行為は、神の領域に近い。

心拍数や呼吸を制御するのは、神の園に近づくことだ。

だから、禅やヨガでは呼吸法を学ぶ。

自分のハードビートで走ること。

他人のリズムではなく、自分だけのリズムで、トレーニングをやり通すこと。

ここに、このマフェトン心拍域で運動する素晴らしさがあると思う。

他人のリズムで踊らされている人が多い中、自分のリズムを取り戻すのにも、このマフェトン理論は一役買っている。

それよりも、なによりも楽しいのがよい。

土曜日、心拍数130以内で賄いながら!ジョギングをする。

余裕な心拍数で、スマホから流れるロックの懐メロを歌いながら走ることが出来る心拍域である。

フォームを考え続けながら走る余裕もあるし、ふと夢のなかに入り込んで我を忘れる一時もある。

それでいて、20キロ走ったのだが、じわりと筋力が疲れる感覚もあり、それは、筋肉を程よくマッサージしながらよく使ったという感じで、実に気持ちの良いものだった。

日曜日、自転車で60キロ。

山伏峠という山岳道路があって、ここを心拍130で登る。

峠道なので、ちょっと油断すると、心拍がずんずんと上がっていってしまう。

坂の傾斜が上がるところでは、腹式呼吸で大量に息を吸い込んでおくと、ある程度心拍数が上がることを防ぐことが出来るようだ。

ぜいはあと息も絶え絶えな太った自転車乗りの3人抜かされてしまう。当たり前だが。

こちらは、時々、漕ぐことを止めながら、スタンドスティルといって、自転車に乗りながらそのままじっとして心拍数を下げたりしている。

何やっているんだろう?この人、的な視線を感じながら、抜かされていく。

君は、君の道を行き、僕は僕の道を行く。

僕は、またかつてのように、このマフェトン理論を今後何年か楽しんでいけるはずだ。

同じ道を同じ心拍数で走っていく。

僕の体の生理的反応が変わると、僕はそれだけ速く走ることができるようになるはずだ。

筋持久力のある筋肉を鍛え、細胞の中のミトコンドリアを大きくさせ、心肺機能を改善して、骨格筋を鍛え直す。

時間をかけてゆっくりとね。

この理論が一番僕にあっている。

運動するのが実にたのしいからね。

目標は、心拍数130で、平地ならキロ5分切る程度で走れるようになりたいね。そうなったら、きっと、サブスリーも夢じゃないだろう。

やれそうな気がする。

posted by ロビオ at 01:17| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月29日

こんな時は、ヨガしかないでしょ

手首の痛みが激しくなっている。これでは、自転車に乗る気分ではなく、足の裏の痛みも、朝起きた時限定だが、痛いので、走ることもままならない。

ならば、水泳・・・といきたいところだが、目の負傷があるし、行けば必ず、鼻風邪をひくので、プールで泳ぐのはやめたのだった。

運動的八方塞がり。何にもできん。

最近、はやりのアドラー心理学でいうと、現在の自分を規定するのは、過去におけるトラウマではなくて、目的であるという。

なんらかの行動には目的があり、その目的を達成するためなら、過去のトラウマ的な事実でも、体の不調でも、なにもかも援用するのであると。

現在の私に当てはめてみれば、運動したくないという目的のために、からだの不調を訴えていると解釈できようか?

本当か?

ハックルベリー・フィンの口癖で言えば、「そうかもしれないし、そうでないかもしれない。」

今朝、朝にトレーニングに出発するのをためらったのは、外壁のペンキの臭いで寝た気がしないし、喉は痛くなるわ、息苦しくなるわで、朝起きた時は、不機嫌そのものだったからであるのだが、あれ、これも、運動をしないことの理由に列挙しているんだろうか?

昨日のブログにも書いたけれど、もう一度、初心に帰ってみよう。

自転車に乗る理由は、何だったのだろうかと。

そうだ、禁煙をして、その頃、禁煙をすることによって、いくらお金をセイブ出来たかというソフトがあって、例えば、1日タバコを3箱買ったとして、1箱200円(当時)のハイライトを吸っていたので、1日600円が浮いたということで、その累積を表示してくれるのだった。

それで、2年間貯まったお金で、最初のロードバイクを買ったのだった。タバコで浮いたお金は『健康』の為に使おうと思ったから。

そうだ、これが原点なのに、とても、健康的ではない状態があるわけで、昨日の決心もあるが、そうだ、健康のために運動をしよう。

というわけで、体調は不良なのだが、iPod shuffleで、ドノバンの『サンシャイン・スーパーマン』を聞きながら、ヨガを丹念に施したのだった。これ、結構、楽しい。

posted by ロビオ at 10:21| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月23日

PanasonicのFRC

クロモリのバイクで初めて100キロ走ってみれば、のんびり走るには最高のものであることに気がついた。

トレックのマドンは、バイクに踏み込むことを命令されているみたいで、友達とだべりながら低速で走るなんてとてもだるくて出来そうにもなかった。勤勉さを要求され、セコセコとペダルを踏ませるバイクであった。のんびりと走るもんなら、体の接合部分のすべての関節が痛くなりそうで、踏み込みつづけることで、体とバイクとの友好関係が成り立つような、そんなバイクだった。


猛スピードで踏み込んだりすると、バイクがとても喜んでいるのがわかるし、長いツーリングに出て、足が終わってしまったら、とりつくしまもなく、フレームの不機嫌さが感じられてしまう、そんなアルバイトを要求されるレースバイクだった。

というわけで、僕のバイクの使い方には、あまり合わなかったんだろうね。抜きつ抜かれつのレースの遊びみたいなときは、ビューンと発射されたように前に進んだけれど。この快感は高性能のスポーツカーの快感とでもいうべきものでしょうか?
パナソニックの鉄のフレームは、スピードに乗るまではもたつくけれど、一度スピードに乗ってしまえば、スイスイ。リズムに乗れば気持ちよく走れるから、ツーリングにはピッタンコ。

スポーツの道具としても十分使えるが、人を楽しく目的地まで運ぶ為にはどんなものが要求されるのかといったところにも配慮のある、車で言えばルノーのような哲学を持った長い歴史を持つバイクなのでしょう。
アタックごっこみたいに、ズバッと瞬発力を活かして進むなんというのは、不得手であることは確かである。一拍遅れ続けて前に進む感じだから。だけれど、ブレーキ、アンド、ゴーみたいな走り方って普通はしないわけで、どちらを優先するかといえば、同じスピードで巡回する能力というのが普通は喜ばれるものでしょう。

一拍遅れて・・・というのは、ブラックミュージックのビートって、バックビートといって、ワン・ツウとツウのところに強調があるのね。
ブルーグラスとか演歌とかは、ワンに強調がある。
クロモリのフレームは、バックビートなのね。一拍遅れて不思議な所で自転車が前に進む。
クロモリレースバイクは、もういきなりワンで前に進む。
そんな感じでしょうか。

ところで、このクロモリの細めのフォークはブレーキかけると撓ってますね。ブレーキをかけると手元に曲がります。で、コワイかといえば、全然怖くなくて、フレーム全体と柔らかなハンドルでグニャグニャと全体で吸収しあってお釣りなしの処理をしている感じ。先端が寝ている形状なので、バネ状に跳ね上がってもいるのかしら?こりゃ、楽しいわ。

これで、13万円くらいなんで、割りと安めのフレームで、これだけ満足できるんだから、やはりクロモリはおすすめですよ。


ところで、5年前のタイヤは溶けていて、プラスチック消しゴムのように柔らかく、あっという間に摩耗していく。これじゃ、剣呑である。

というわけで、のんびり派、時々、スピードを上げてダウンヒルを楽しむ為には、最近流行っている700✕25Cの太めのタイヤを所望したい。

パナレーサーのグラベルとかいうのが良さそうなんだけれど、評判はどうなのかしら?

新たなLogicoolの無線キーボードの練習で長めの文章でした。あんまりタッチが良くないな。配線はすっきりするけれど。

posted by ロビオ at 14:27| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月11日

黒のニットタイ

青と黒の細いタッターソールのボタンダウンシャツに、臙脂のヴイネックのセーター、そして、ヘリンボーンのハリス・ツイードを着こんだのはいつもの仕事スタイルだけれど、クリケットの黒いニットタイを締めたのは、今日が3月11日だからだ。

あれから5年。

僕の中で何かが失われてしまったあの日の後の原発事故。

巧妙にそして清潔に焼却されてしまったか、瞬間冷凍されてしまったかして、その失われてしまったものが一体何なのか、その正体すら見つからないのだけれど。

今日は、その弔いの日にふさわしい。

テレビは見ないので、ラジオを聞いている。経済評論家が日々様々なコメントを出している。

経済対策も大切だろうが、それはあまりにも白々しいのは、ジェイムズ・クラムリーの『ファイナルカントリー』という優れた小説の中の引用、

政治は富める者が貧しい者たちを相手に演ずる残酷な詐術に似ている

というように、一体全体誰のための経済政策なんだろう?

あの原発事故の日、炙りだされてきた日本を牛耳るエスタブリッシュメントの面々、マスコミを含む甘い汁を吸うために群がる人たちが明らかになった。

誰もが民主主義という全員参加のゲームの中で、ボールは彼らのサークルの中だけで回されて、自分らには永遠にボールは回ってこないという確信を得たのではないか。

そういうことを忘れたかのように、株価の上下に翻弄されて、将来の不安を感じさせられながら、世界は動いている。

人は一人では生きていけないのは事実だろう。

しかし、電力会社に生殺与奪権を明け渡して、いつ輪番停電のような脅迫に満ちた暴力に晒されないとも限らないだろう。

自給自足的生活。

脅しに屈せず生きていくためには砦としての自分の家、食料の確保としての畑、エネルギー源としての自然材があれば安心である。

そして、そうした半ば自足できている人たちが、小さな共同体の中で融通し合い、地産地消的に消費していけば支えになるだろうし、そうした小さなコミュニティから生み出されたものは、どこにだって受け入れられる可能性があるのではないか。

いわゆるグローバリズムというのも、もともとはローカリズムに過ぎなかったのだから。

改めて、ヘンリー・デイヴィッド・ソローの『森の生活』に書かれているように、小さな共同体で豊かな生活を送れるように、身近な環境にどれだけ素晴らしい鉱脈が走っているのか、自然と直接的な関係を取り戻すことの重要性を再確認したいと思う。

posted by ロビオ at 09:27| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月09日

英語長文問題精講は読み物としてもとても有益だ。例えば、

The bright child is curious about life and reality, eager to get in touch with it, ebmbrace it, unite himself with it.

利発な子供は人生と現実に対する好奇心に富み、熱心にそれと接触し、それを抱きしめ、それと一つになろうとする。

これは、John Holt という人のHow children failという本の中の一文である。

これまた、原仙作の『英文標準問題精講』に匹敵するような素晴らしい英文の宝庫である問題集『英語長文問題精講』中原道喜著のなか課題文からの引用である。

この一文はなにかとても重要な人生におけるヒントが隠されているような気がしている。

自分の現実や人生しか生きられないはずなのに、そいつから逃れる態度は、もはや、自分の人生や現実をつかみとっているとは言えないはずだ。

アップルの創設者が愛読したオリゲン・ヘリゲルの『日本の弓術』の中では次のような文章がある。

「私は的が次第にぼやけてくるほど目を閉じる。すると的は私の方へ近づいてくるように思われる。そして、それは私と一体になる。・・・

的が私と一体になるならば、それは私が仏陀と一体になることを意味する。

そして、私ば仏陀と一体になれば、矢は有と非有の不動の中心に従ってまた的の中心にあることになる。矢が中心にある・・・矢は中心から出て中心から出て中心に入るのである。

それゆえ、あなたは、的を狙わずに自分自身を狙いなさい。」

人生や現実というもの自分と対極にあるものと考えているうちは、それは人生や現実と呼べるものではなく、それは存在しないもので、それと一体化することにより、自己は自己として自己回復できる。なぜならば、人生や現実を包摂していない自己というのは、本当の自己とは呼べないから。

こうした態度で過ごしている人は、多分、傍から見ると、困難な状況にあっても、その困難を困難な状況とは思わず克服してしまう人なんだろう。

僕の中のタオのイメージもこんな感じである。

タオに一体化することによって、主観も客観も超えたリアリティを獲得して、自然の流れの中に紛れ込んでいる自分を発見するというような。

まだまだ、語り尽くせないけれども、こんなことを考えるきっかけになる名文が満載のこの大学受験用の問題集は優れている。

posted by ロビオ at 13:49| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月04日

アドラー心理学『嫌われる勇気』の続編『幸せになる勇気』も素晴らしい本でした。

昨晩は、夜遅くまで某所で会社法について喧々諤々議論をして会議終了。

久しぶりに勉強の世界の中で、半ば忘れていた会社法の定義とかを、脳味噌の奥の奥から取り出した。

不思議な事に、こういう場になると、定義がちゃんと出てくるんだねえ。自分でも驚いたわ。

これも、基本ができているから、新たに生じた問題をあれこれ知識を総動員して、解決策を講じることが出来るんだね。

東大首席卒業生の勉強法の本を読んで、ああ、なるほど、勉強はし続けないと・・・というか、目的意識をもって、身につく勉強しないとなあ、と感じいったので、今日からココロを入れ替えてまた勉強してみよう。

ベストセラーになった『嫌われる勇気』という本は素晴らしかった。

メモを取りながら、1年ほど前ふむふむと2度ほど読んだ。ニーチェが本当の姿の世界を痛烈な言葉で露呈させるのと似て、めくるめく新たな世界が眼前に現れてワクワクした。

けれども、どんなことが書かれていたかと思い起こせば、まったく心もとない。

というのは、その続編『幸せになる勇気』という本を手に取り、躊躇なく新刊を久しぶりに買って、その中で、前作で触れた箇所が何回か出てきたのだが、その記憶は曖昧なのであった。

アドラー心理学、素晴らしいです。

心理学というより哲学に近い。

ソクラテスが、問答形式で、我々が知っていると思っていることが、実は、全くわかっていないことを明らかにするように、はっとすることがかかれてある。

ところで、僕が唯一楽しく読める哲学書がプラトンとニーチェ。

プラトンは文学書みたいだし、ニーチェは、自分が3歳から幼稚園くらいに大人に感じていたことを思い起こせば、そのとおりと納得できる。

どちらも、わかりやすい日本語で書かれている。時に読み返し読んでいるけれども、その場その場で、なるほどと、頭の中でソクラテスやニーチェの言葉を理解しているのだが、読み終えてどういうことを本当は言っていたのか、ということを反芻すれば、ほとんど頭に残っていないんだな。

まずは、きちんとその理論を、理由を理解しよう。そして、反芻しよう。

読書というのは、その作者の考えを自分の頭で再現させる作業で、決して自分で考えることではない。作者の考えを自由に自分の頭の中から取り出すことが可能になって初めて、その考えが自分にとって役立つことになる。そうなってこそ、有益な読書になるのであって、振り返ってみると、そういう本というのは、何冊あるだろうかと数えると心もとない。

この歳になると、広く浅く読むよりも、狭く浅く徹底的に精読することが大切になってくる。

一事が万事。こういう態度で、知識を吸収し、それを基礎に自分の意見が言えるくらいに勉強しないとね。

というわけで、何度も読みますよ、自分の言葉でアドラー心理学というものをうまく説明できるぐらいに。

こういう態度が今年の課題。基本は繰り返し繰り返し練習するということだね。

posted by ロビオ at 09:24| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月03日

東大首席弁護士が教える超速「7回読み」勉強法

東大首席弁護士が教える超速「7回読み」勉強法

という本を読んだ。

作者は、猛勉の挙句、国立の高校に受かって、東大に現役合格し、在学中に司法試験に合格し、主席で東大を卒業し、子供の頃からの夢であった大蔵省の官僚になるものの、2年で退職し、会社法務の弁護士事務所で弁護士登録し、今に至るという経歴である。

勉強法については、これが王道でしょう。とやかくいうことはない。

とにかく、参考書等を7回は読めということ。

僕が書いても、全く説得力がない。

こういう輝かしい経歴があるからこそ、この本はよく売れた?に違いない。書かれていることは、本当に勉強法の王道であるにすぎないのだから。

ぼくも、資格試験を受けた時は、7回と言わず20回以上、分厚い過去問を馬鹿のように解き続けたし、条文も受験科目は暗記するほど読み込んでいた。

だから、この勉強方法が最適であるということは自信をもって言える。

勉強は繰り返しである。読むごとに、読解力を掘り下げていく。そうこうするうちに、その本は、自分の血となり肉となり、その本に書かれていたことからの応用も効くようになっていき、その本に関する議論も人と出来るようになる。

この本は「勉強法」としての本の役割は200%果たしていると思う。皆、勉強を始めたいと思っている人は、一度読んでみるべきであると思う。

感銘をうけたのは、この作者の人生である。

なにゆえ、夢だった大蔵官僚を2年で辞めたのか・・・というところが少し気になるが、一点の曇もないわかりやすいエリートである。

また、高校試験、大学試験、司法試験、国家公務員試験と、勉強して合格すれば手に入る地位にそのまま着いているというのが味噌。

これほどまでに、わかりやすい経歴はありますまいて。

すなわちそれ故、人生は勉強次第でどうにでもなりそうであるという感覚がこの本の通奏低音に響いている。

ふ〜ん、こういう人がいるんだ・・・。ある意味とってもわかりやすい漫画のキャラクターのようなもので、それが実際に、現実にいるということに本を読んで驚いたのだった。

官僚やら、大手の(多分)法律事務所でのサラリーマン弁護士とか、東大首席で卒業するとか、ほとんど、その立場にいることさえ、ぼくは御免被りたいけれど、こうして、前へ前へと進む原動力はいったいどこにあるのだろうと、ふと考えてみたのだった。

人生は、試験に合格すれば道が開かれる・・・ということもあるだろうが、そうでもないこともきっと多いだろう。実際、大学に受かってから、資格試験に合格してからの人生のほうが、長いだろう。

個々で思い出したのが、森鴎外の『青年』からの一節。

一体日本人は生きるということを知っているだろうか。小学校の門を潜ってからというものは、一しょう懸命にこの学校時代を駈け抜けようとする。その先きには生活があると思うのである。学校というものを離れて職業にあり附くと、その職業を為し遂げてしまおうとする。その先きには生活があると思うのである。そしてその先には生活はないのである。

この本を読んで、寒々しいと感じたのは、こういう、生活の在というものを感じたからにほかならない。

試験に合格することによって切り開かれたと思う人生、試験に合格すれば手に入ると思わるる人生、そういう人生が試験に合格することによって予定されていると考える人生、そんな風に著者は考えているのだろうか?

生活が不在しているから、合格して手に入れた地位というのは、不毛としか言いようのないものだ。

不毛な人生は、また、新たな目標を見つけることを要求するから、試験というものが、人生そのものだと考えていくしかない。

試験に受かるということは、それまでチャレンジしていた立場がなくなって、人生が平板になるということだ。

自分に一体化した人生というものがない人は、何らかの形で人生を作り出さなければならない。

通常、人は、人生と一体化し、それを酸いも甘いも味わい楽しんで、付け加えるものは必要ないはずだ。

人生とは試験に合格することだというふうに考えてしまう人生は、その過程よりも結果だけを求めるから、自分自身の存在理由が欲しければ、また、何かのチャレンジをして、人生に彩りを加える必要がある。

新たに何かをチャレンジする。そして、いつしか、手段が目的となってしまう。

大蔵官僚時代に、上司からの質問とか、上司が要求するものに応える技量というものも、試験と捉えて、シノギを削っていく姿は痛ましい感じがしたのだね。

勉強は楽しくないと彼女は言う。

試験に合格するためには我慢しなければならないもの、それが、勉強だという(多分)。

その試験に合格するという結果だけを求めるというのは、これつまり、サラリーマン社会の競争みたいで興ざめしたんだけれど、僕の受験時代でも、早めに受かった人というのは、こんなふうに効率よく、理解できなくても、点数が取れればいいじゃないのと勉強を進められる人が多かったような気が。

僕は、初めて、試験勉強を本格的に一生のうち一度だけやったんだけれど、効率的に勉強するにはしたけれど、法律という勉強も楽しかったから、あまり他の受験生が読まない学者の本をウンウン唸りながら読んでいた。

そうこうするうちに、法律というものの面白さがわかってきたのは事実であって、未だに、法律の体系書を読むのは好きである。ああ、法律を嫌いにならなくてよかった。

調べたところによると、この方は、テレビの出演も多く、有名人にもおなりになったようだけれど、この方のこれからの人生、先が危ういなあ、と感じたりしたのでした。

というわけで、この本は、あらゆる受験生を対象にした本で、作者自身の人生論ではないので、こういう驚き呆れたという負の印象を書くのはどうかと思うのに加えて、私、この本、1度しか読んでおらず、表題のごとく7回読んでおりませんので、私がこの本で感銘を受けた店に関しては、大いに勘違い等がありますゆえ、その点、ご勘弁を。

 

posted by ロビオ at 16:35| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月24日

クロッカスが咲きました

昨晩、寝床で俵万智の『サラダ記念日』を読んでいて

「クロッカスが咲きました」という書きだしでふいに手紙を書きたくなりぬ

というのに感心していたから、畑と道路の境界に植えられた一列のクロッカスが芽吹いるのに目が惹きつけられたのに違いない。

朝のジョギングコースの家庭菜園に近いような小さな畑にそれは芽吹いていた。

ちょうど首と肩を両手で持ち上げながら穴からようやく出てきたかのように芽を地上にもたげた姿が春到来の目印のようだった。

こういう短歌を知らないでいるときは、クロッカスの芽吹きはクロッカスの芽吹きであるにすぎないのだけれど、知っていると、この歌に共感したココロがクロッカスを包み込んで、なんらかの意味をクロッカスに投影している自分に気がついてしまう。

僕がクロッカスを見つけたのではなく、クロッカスに僕が見つけられたのだという感覚がある。

クロッカスが咲いているのを見て、言葉にして「クロッカスが咲きました」と心のなかで唱えた時に出来上がった、花が咲いたという春の高揚した気分が「クロッカスが咲きました」という言葉に取り付いた言霊となってしまった以上、それは、どこかへ送り届けなければならない。

ところで、この歌の作者は誰に手紙を書きたくなったんでせうね?

「ふいに」っていうから、恋人とかいう熱い関係の人ではないでしょうね。

遠くに引っ越して最近音信が途絶えがちの親友とか、少しだけ好意を持っていることにふと今手紙を書きたいなと初めて気がついた異性なのかしらん。

クロッカスが咲くというのは春の始めの淡い季節であるから、ジャンパーのチャックを少し開いて散歩するような開かれた感じがとても良く出ているよね。

また、電話でもメールでもなくて手紙というところもいいね。改まった距離感があって。

まだまだ風は冷たいのだけれど、走りながら取り入れる空気の中に鼻孔を微かになめらかに濡らす湿気が感じられる。僕が体感する春の感覚とはこういうものだ。

けれども、体は、冬にまだまだ武装解除しておらず、走り始めてすぐに、全腓骨筋が固まり、次いで、脹脛が張ってしまって、体が重いのなんの。久しぶりのダメダメの走り。

体の動きは精密で、ちょっとした狂いで、修復ができないほど動きが乱れてしまう。

昨日は軽快に走れたのが、翌日にはこのありまさだ。

今の日本の状況のようにちぐはぐな体を持て余して、走っては歩き、歩いては走って、小一時間の運動にもならないジョギングをしてきたのでありました。

まあ、こういう日もあるだろう。

明日はきっと軽快に走れるさ。

posted by ロビオ at 10:48| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月22日

蔵で麹菌採集とはこれ如何に?

午前中は、ロードを30キロ走って、午後は借りてきたDVDで映画鑑賞しようと思っていたら、所沢の知り合いのファームで行われる味噌作りのワークショップのスタッフの数に入れられていたことが判明して、急遽、車を飛ばして出かけていく。

妻だけがスタッフに勘定されていたと思ったら、夫婦で入っていたというわけ。

味噌作り・・・簡単である、ちょっとした事前準備の手間はかかるけれど。

けれども、一人では味噌作りに不安を覚える人も多いらしく、30名ほどの参加者である。

味噌の素材である大豆、それに、麹を付着させる玄米も、この農園で無農薬無化学肥料で作られたもので、さらに、その玄米に麹菌を吹き付けて、米麹も自前のもので、味噌作りをするので、なんとも贅沢な味噌なのである。

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大豆は、煮るのより蒸すほうが味がいいね。しかし、大豆と麹を混ぜ込んだ時に調整する大豆の煮汁が蒸かした時にはでないから、悩むところではある。

というわけで、今日の味噌のワークショップでは、大豆を蒸かしたのと煮たのとを半々にして混ぜて作ったのでありました。

日本の麹食文化は素晴らしい。

日本酒、酢、味醂、醤油、味噌。日本食の中枢部分を占める調味料の殆どは麹から出来上がる。

麹とはカビの一種であるのだけれど、じゃあ、どこに存在するのかといえば、そこら中に存在するのだから、これまた素晴らしい。

僕も、先日、市販の麹菌の粉を蒸かしたうるち米に混ぜ込み、ヨーグルトメーカーで麹米を作ることに成功し、今、そいつは、黒酢になるべく酢酸菌を吸収しながら玄関の隅で順調に育っている。

市販の麹のたね菌を振りかけて麹米を作るのは、手間ひまかければ、誰でもできることなのだが、世の中には変わった人がいて、そこら中の空気中にさまよっている菌を採取培養して、麹をつくる輩もいて、これは、実に素晴らしいことなのではないかと感心したので、僕も作ってみようと思ってしまった。

椎木に椎茸の胞子が入っている栓を打ち込んで椎茸をつくるのではなく、椎木を椎茸の菌が舞ってそうな場所に置いて自然に椎茸を育てようというような・・・といったらわかりやすいだろうか。

ものの本によると、蒸かしたご飯を竹のザルにいれて、そこら辺においておくのだそうで、うまく行けば、麹菌の白カビが生えるのだそうだ。

そして、その麹菌が生息し繁茂しやすい場所は、木や土で出来た昔ながらの古民家などがいいらしい。

あの湿ったカビ臭いような醤油や味噌の臭いの染み込んでいるようなウエットな日本家屋の香りですよ。

わが家も木と漆喰だけで出来ている家だから、たぶんたくさん麹菌が飛び交っているような気がするが、古民家と書いてあるのを見てピンときたね。

妻の実家の蔵ですよ。湿った香りのするやや重ったるいとろみの付いた空気感がなんとも、麹菌が潜んでいる感じがするじゃないの。

というわけで、近日、麹を培養する作業をする予定。

う〜ん、ディープな趣味だこと。

好きなことやっていると知らぬ間に自分一人が高みに立っていた・・・そんな気がする。

そんな、本当の天然の麹でパンを作ったら、これまた、オリジナルなパンが出来ることでしょうよ。

高みを目指して頑張るのだね。頂上は、すぐそこまで見えている、今が一番傾斜のきつい辛いところ・・・てなもんで。

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2016年02月20日

雨の降らぬ間に

雨の降らぬ間に毎週恒例のトレイルを走ってきた。
春めいてきたのか、ジョウビタキ、ホオジロ、キクイタダキ、シジュウカラ、メジロなどのお馴染みさんとご挨拶。
シングルトレイルでは、今日も、イタチが横切った。
先週は、目の前にいたヤマバトに何かが乗しかかったと思ったら、小型の猛禽類で、引きずりながら見えないところまで引きずっていった。
かなりワイルドな世界にいるのだな。
久しぶりに裸足系のMERRELLのシューズを履く。軽さは命。この裸足系シューズの軽さというのは、他に替えられないものがある。
走り方には、二通りあって、着地の瞬間に膝が曲がって、ショックを吸収して、地面を押した反動で体を前に進めるのと、着地の瞬間に体を伸ばすようにして膝を曲げずに骨盤で乗り越えるような走り方がある。
そんな走り方を本で読んだりすると試さずにはいられない。
今日は、後者で練習する。
毎週末のこのトレイルランでは、平地では、キロ5キロ以上のスピードで、心拍数は160を下回らないように調整して走っている。
リディア−ドの「鍛えよ、しかし、無理はするな」ということの実践だ。
だから、結構辛い。辛いから、楽な走り方はないのか色々試すのだ。
ランナーは皆、速く楽に走れる走り方を探し求めているのだが、速く走れる走り方というのは、速く走れる間だけ有効だということは真実であるということ結論としてを書いておこう。
走り終えて、雨にも降られず、うん、楽しい2時間だった。
2時間というのが、集中できる運動時間の最長ではないだろうか?
そのうち、8時間以上の運動も加えていくつもりだけれど、今は、こんなところで、十分満足している。
家について、シャワーを浴びたら、猛烈な空腹感が。
何を食べようか?
小島農園さんからいただいた自家製の納豆があるじゃないの。これに決めた。久しぶりの白米にこれは合うはずだね。
デザートには、自家製の豆乳ヨーグルトに、妻が昨日作った八朔だの夏みかんだのネーブルだのレモンだのの皮で作ったMarmaladeを載せて食べよう。
最高の贅沢だなあ。トレイルランとその後の昼食。
炊飯器は今湯気を吹き出して白米をタイている所。早くご飯できないかなあ。
写真は、そのMarmalade。
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2016年02月18日

ショコラ

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フランスから届いたカズナーブルというチョコレート。

いかにもフランス的なのは、そのパッケージの色使い。

赤色裸電球の下で撮影したから、色がくどくなっているけれど、実にあっさりとした爽やかな色なのだ。

映画の『アメリ』的な色彩と言おうか。

10種類の味が楽しめるのだけれど、基本は、70%カカオ成分のほろ苦い味がベースとなって、そこに自然の香料が混じってる。カカオ成分100%なんているものもある。

銀紙に包まれたチョコレートを取り出すと、いかにも手作りで型に入れましたといった風情の磨かれた褐色のチョコレート板が現れる。

昨晩、食後に二かけら食べたのが黄色のもので、黒シナモン味だという。

微かにシナモンの香りがする。

高級なチョコレートで、1枚の値段で明治チョコレートが20枚買うことが出来る。

このクラスのチョコレートは、少し食べただけで、満足できる味わいがあるから、普通のチョコの20倍の時間をかけて食べればいいのだ。

だから、家では、二かけらほどを、食後のデザートとしてコーヒーと一緒に食べる予定である。

最近、代々木上原を散歩していたら、新しく出来たチョコレート屋があった。

高級チョコレートが小さな店の中に置いてある。どれも、高級で、今日することのテーマの一つとしてチョコレートを食べることが優先順位の上位にあるという時か、チョコ好きでこれらのチョコの価値がわかる友人知人に贈り物をするという場合でないとなかなか買う気にはならない。

ところで、チョコレートの原料であるカカオの産地は、赤道のベルト地帯のアフリカ、東南アジア、南米である。コーヒーの産地と似ているのかもしれない。

カカオの味も、コーヒーと同様、苦味をベースとして、酸味、甘みというものが強くその味に彩りを加えている。

コーヒーとカカオはとても似ている。

コーヒー好きは、きっと、チョコレートが気に入るはずだ。

コーヒー好きの日本人には、きっと、ショコラも同様、高級チョコレートに関して潜在的な需要があるはずだ。

口の中に少量のチョコレートを入れて、体温で溶けていくチョコの複雑な味を感じ取り、記憶にとどめておくということが、これからの「チョコレート人生」の楽しみを深めてくれるだろう。

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2016年02月13日

小島農園産の全粒粉パン

小島農園さんの全粒粉と北海道と九州の国産小麦をブレンドしてこれから焼かれようとするボクのパン。
3日前に庭の松の葉(放射能測定済み)で酵母をおこして、今朝はそのできたてのフレッシュなパン種でパンを焼こうとしているのです。
これは、贅沢なパンですよ。
小島農園さんの畑で籾を撒いた時からを考えると、ここでパンができるまでに、丸一年はかかっているのだから。
そんな手間隙をかけたパンがこれから焼かれようとしているのですよ。言うなれば。
水を十分に蓄える性質が小島農園の全粒粉にはあるようで、パン・ド・ロデヴとフランスパンの中間くらいの過水状況なので、フランスパンを焼くようにクープを入れて焼く予定です。
う〜ん楽しみだ・・・といっても、すべて行き先が決まっているから、ボクが食べることはできないんだけれど。
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2016年02月11日

初IKEA








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初めて、IKEAに行って、その大きさに唖然とした。
開始時刻30分前に到着して、サービスのコーヒーを飲みながら、シナモンロールをパクリ。
北欧風コストコ。
暴力的な商品の氾濫にびっくりした。
昨晩に新たに作り始めた松の葉のパン酵母は、順調に生育して、明日から、フレッシュなパンが焼けそう。



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2016年02月05日

ささやかだけれど役にたつこと

ブラックコーヒーと焼きたてのシナモンロール。
数あるコーヒーとの組み合わせで、これを超えるものはないのではないだろうか。
一連のシナモンロールの動きも、ここから始まったわけだし。
そういえば、レイモンド・カーヴァーの『ささやかだけれど、役にたつこと』という小説で、シナモンロールが子供を失って悲嘆にくれている夫婦が、人生に対する前向きさというものを取り返すための、ささやかだけれど役に立つものとして描かれていた。
おいしいものを、たべること。これは、実に、ささやかだけれど、役に立つことだということを忘れまい。
そういうささやかな楽しみ事に支えられながら、日々をなんとか乗り越えていっていることを忘れまい。


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Be on the cutting edge

周りのことに気をかけず、ただひたすらに好きなことをやり続けて、ふと立ち止まってみたら、だれも到達していない高みにたどり着いてる自分に気がついた。
そんなことを夢見て、今日も、走り続けるのだよ。
たしかに、時代の最先端、あるいは、最後尾にいるのかと、こんな雑誌を読んでいて思った。
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2016年02月04日

Agrifood-wise

Nigel  slater(ナイジェル・スレーター)というイギリスの料理人のBBC製作の料理番組のDVDを、すこしづつ妻と見ているのだけれど、フランス料理ともイタリア料理とも少しずつずれている個性的な料理がとても美味しそうなので、今週末は、ナイジェル・スレーターのレシピで料理を作ってみよう。

このDVDの中では、ナイジェル・スレーターのキチンと庭が舞台で、時々ハーブや野菜を庭に出て行って、ナイジェル自身が摘み取って料理の具材にしている。

わが家でも、ローズマリーやミントやレモンバームやローレルなんかは、庭にあるので、そのまま摘みとって料理にしているけれど、ナイジェルの庭では、葉物野菜や人参なんかも調達しているのに好感が持てる。

野菜は、自宅で育てたいもの。スーパーの野菜とは、一味違うのは確かだから。

NHKラジオの素晴らしい番組の一つ「実践ビジネス英語」は、トピックが面白くて、英語の勉強にも、アメリカで起きている最新情報を入手するにもいい。

そのなかで、agrihoodという単語を勉強した。

英辞郎にも乗っていない単語で、ググるとヒット数は、15000件足らずだから最新の英単語の一つであろう。

それは、農園密着型住宅地のことで、それは、なんのこっちゃといえば、家のすぐ近くに農園があって、そこの住民が農作業をすることが出来るようなそんな住宅地のことであるようだ。

日本で言うと、畑付きの宅地っていうものも、ずっと機能的に整理された住宅地で、リタイアした富裕層が買いたがる裕福な感じの写真がグーグルで検索すると見つけることが出来る。

最近友人が、田舎の母親を引き取って東京近郊で住まいを探しているのだが、母親と農作業は離れられないほど密着な関係があるので、できれば、近所で畑が借りられる場所を探しているという。

というわけで、こうしたagrifood住宅地というのは、かなり潜在的な需要があるように思えるのだがね。

巨大な休耕畑を中心に、そのまわりに宅地が取り囲むようにし、その世帯に一定割合の畑を分譲して、各自畑作業をして、物々交換をしながら生活をしていくような共同体にはそれがうまく機能するならば住んでみたいかなとも思う。

わが家でも、本当に狭くて日の当たらない庭なのだが、昨年は、ナス、きゅうり、トマトを植えてみて、時々収穫をしては食べていたんだが、今年は、もう少し違った野菜も育ててみたい。

バラが咲き、その足元には、人参が芽を出していて、花と野菜がもつれるように育つカオスな庭に少しでも近づくといいと思っている。

ナイジェル・スレーターのDVDの中では、レシピの説明は殆ど無い代わりに、詳しいレシピは、ここBBCのホームページで見ることが出来る。

http://www.bbc.co.uk/food/chefs/nigel_slater

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2016年02月02日

笑って答えず

山中問答 李白

余に問う何の意あってか碧山に棲むと

笑って答えず心自ずから閑なり

桃花流水は窅然として去る

別に天地の人間に非らざる有り

漢詩が好きだ。

とくに、この李白の詩は好きだな。

なんで、こんなに山深いところに住んでいるのと問われたらので

そんな質問には笑って答えないでいる。わからないかな?この、のどかな気分ったらないよ。

川に落ちた桃の花びらがゆったり流れ去っていくじゃないの

見てご覧、俗世間にゃない味わえないそんな風情がここには確かにあるでしょう

いい加減な訳ですが、ついつい、田舎暮らしなんかしていると、田舎暮らしの良さとか、不便さとか、いいも悪いもつい力説したくなるもんだけれど、ほんとうは、伸びやかな気分で笑って答えないというのが、一番いい回答だとおもうよね。

物事がわかる、わからないというのは、その人の持ちあわせた能力とか努力とか、時間の経過とかが必要で、ある意味、偶然に物事はわかってしまうもので、力説して、わからせようとしても、物事をわからせることは不毛な結果になるのかもしれない。

村上春樹の「1Q84 」でも、「説明されないと分からないなら、説明しても分からない」っていうセリフがあったけれど、人に説明してわかるものなら、誰も苦労しない。

そうだとすると、わからない人に、とうとうと物の見方考え方をとうとうと力説しても、それは、迷惑というもんだ。

だから、そういう人には、笑って答えない。

饒舌よりも、笑って答えない。こちらのほうが、真意が伝わるかもしれない場合も、きっとあるだろう。

だから、ついつい力説してしまう話になったら、笑って答えないようにしよう。

posted by ロビオ at 16:14| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月01日

Moomin

歯の詰め物が取れてしまったので、それをくっつけてもらうために地元飯能の歯医者さんに行った。

その待合室に、ムーミンの置物が置いてあった。

ここ飯能では、ムーミンがブームなのかもしれない。というのは、宮沢湖という飯能の貯水池のようなところの湖畔にムーミンのテーマパークができるという噂を超えて、新聞の発表もあったくらいだからだ。

それでも、ここかしこで、ムーミンの製品を目にするし、僕の日用使いしているARABIA(フィンランド製)のムーミンのマグカップがわが家には4つ以上あるし、これは、20年位前に買ったものだけれど、今でも店に置いてあるんだから、相当人気のある商品ーなんでしょう、きっと。

昨日は、両親と水道橋で食事会のあと、そういえば、後楽園ゆうえんち近くにムーミンのレストランがあるというので、そこも訪れてみた。

ムーミンといえば、フィンランド。フィンランドといえば、シナモンロールということを知らない人が多い。

僕も、知らなかった。

知ったのは、「かもめ食堂」という映画を見て、日本のソウルフードがおにぎりなら、フィンランドのそれは、シナモンロールというようなセリフがあったから。

そういえば、主人公の小林聡美が、ガッチャマンの歌の歌詞がわからなくて、本屋の中の喫茶室で本を読んでいた日本人観光客である片桐はいりにいきなり、ガッチャマンの歌詞を教えてもらうシーンで、手にしていた本は、「ムーミン谷の夏まつり」だったっけねえ。

というふうに、「かもめ食堂」って、発信する情報が多くて、僕なんかは、どんな料理が出てくるかメモりながら見ましたよ。

店の中では、パンも売っていて、前に知り合いにここのシナモンロールを買ってきてもらって食べたことがあったけれど、今回は、両親にシナモンロールとムーミンとノンノの姿を形どったいちごクリームとなんたらかが入っているパンをプレゼントしておいた。

僕らの世代では、ムーミンは、日曜日の7時30分から毎週カルピス名作劇場で放映されていたんだが、なんか暗いトーンで、少年の冒険心を充たすというよりは、取り残されてしまった寂しさを味合わされたり、学校の世界の論理とは一風変わったルールで成り立っている世界に馴染めなかったり、今いち、乗り気にならなかった。

トーベ・ヤンソンが描くムーミンの絵とTVアニメのムーミンとは、線の粗さとかタッチが違っているのは、モンキー・パンチのルパン三世とアニメが違うのとよく似ている。

本来は、ムーミンの内容がトーベ・ヤンソン描く絵のように厳しい自然と荒々しくも性質が一致しているのかもしれないが、それは、原作を読んでいるときでも味合う感触なので、通底に流れる基調は、こうした不可解な違和感のようなものがあるに違いない。

それにもかかわらず、今でも、繁華街を歩けば、ムーミンのグッズが売られているし、一体どの世代が、これらのものを買っているんでしょうかね。

多分、40代から50代が、ムーミンに親しい関係を持っていると思われるので、オジサン、オバサンがこれらのものを買っているんでしょう。

ということは、やはりね、ムーミン関連のグッズはホンモノの質の良い物がいいでしょうね。

というわけで、ムーミンの食事処へ行ってみれば、う〜ん、子供が列を作って並んでた・・・。

ちなみに、僕の好きなキャラは、ミイですね。ガミガミうるさいんだけれど、根は正直で、正義感が強い。僕にはない性格だからでしょうね、きっと。

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posted by ロビオ at 13:05| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

Fuefuki wine

基本的にお酒はあまり飲まないのだけれど、知り合いの友人が山梨県でワイナリーを初めて、今年最初の一本を譲ってくれたというわけで、赤白ワインを3本くらいずつ購入して飲んでみた。

あまりワインに詳しくなくて、お菓子のような甘いおこちゃまワインが好きな僕だけれど、それでも、このワインが若すぎるというのはわかった。

味に深みがなくて、まだまだ単純なワインの味。もっと発酵して、腐爛して、土の香がするようにならなければ、赤ワインではないよね、というのがこういう若いワインを飲むとよく分かる。

とはいえ、この若いワインは、それなりに、気軽に楽しく飲むことが出来て、二晩続けて、カレーと一緒に、そして昨晩は、ピッツアと一緒に食べたのであるが、悪いどころか、こういう軽食にはピッタリなのであった。

まあ、妻と二人で、夕食にコップ軽めの一杯ずつしか飲まないので、1本で3日楽しめるんだけれど。

ぶどう畑を所有して、丹念にワインを作るなんて、夢の様な世界だけれど、こうして、夢を実現してしまう人もいるわけで、この若いワインを飲みながら、今度は、このワイナリーを訪れて、ワインの薀蓄を聞きに行ってみましょうかねえ。

夢というのは、正しい道を努力して歩んでいけば必ず叶うもので、叶わないものは夢と呼ばず、叶ったものは夢とはもう呼ばれないという困った存在でもあるんだね。

それでも、夢を追いかけるのは、辛いこともあるだろうけれど、楽しいこと。

叶えたい夢がある人は、そのまま努力を、夢が見つからない人は、朝早起きして近所をランニングするといいことがあるかもしれない。

というわけで、今度わが家でこのワインを飲むパーテイやりましょうね。もう少し時間が立って熟成した頃がよろしいでしょうか?

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posted by ロビオ at 12:32| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月29日

Farm to table

何時の頃からか、スーパーで購入する野菜がほとんど味がしないのに気が付き始めた。

とにかく、スーパーの野菜はおいしくない。

僕が、農作業をして2年が経つけれど、毎年牛糞をたっぷりと鋤きこんだ畑で出来た野菜は、形は悪いかもしれないが、とにかくおいしいのだ。

最初、畑からとれた野菜をその日に食べるという新鮮さが味となって出てきているのかと思ったのだが、一月以上保管して皺がよってきたような白菜だって、スーパーのものとは違ってとてもおいしい。

ということは、スーパーで売っている野菜が根本的な問題を抱え込んでいるということなのか。

野菜は主に土で育てているはずなのに、それは、土のようなもので育てられた野菜で、化成肥料だけを生長の糧とした野菜という名の別もののものなのかもしれない。

経済効率優先で科学的に育てられた野菜は、野菜の形をした別の食べ物なのかもしれない。

そんな人間も、30代40代にはいくらでもいるけれどもね。

今年の夏、畑でとれたレタスが素晴らしく美味かった。

歯ごたえと、ちょっとした苦味とえぐ味。しんなりとせずに、僕に食べられるその瞬間まで背筋が伸びていた。

しかも、収穫後数日は経っていても、そんな元気があるのだ。

それが、外食等で食べる野菜は、まったく生気がなく、しおれて、疲労困憊して立ち上がる素振りもせず、しなだれかかるレタスの如何に多いことか。

僕の収穫したレタスは、空を飛ぶスーパーマンのようにまっすぐに体を伸ばして、他の食材とは別個の存在感を示していた。

前歯で噛み砕かれるレタスは小気味良い音を立てて、幾分抵抗しながら裂けていく。奥歯で噛み締められても、その存在感は続いて、飲み込まれるまで、消滅することはない。

オリーブオイルとアップルビネガーと塩と少々の砂糖で作ったドレッシングだけで、これは、十分に味を堪能できるレタスだった。

白菜にしろ、人参にしろ、里芋にしろ、何にしろ、スーパーで大量消費用に大量生産された食物というのは、こういう薄味で野性味のないものを作り出しているのではないか。

Farm to tableという言葉がある。農場から食卓へといった意味だ。地産地消ともいう。

自然食品店で売られている野菜は、スーパーの野菜とは一線を画していて、少々効果だけれど、美味しいものが多いようだ。少々値段が張るので、特売品になったものしか買わないけれど。

日本の農家の大方は、スーパーのような巨大な販売網に乗せるような農業をやっているわけではない。

自宅用に、余れば、農協に持っていくというような農業が多いはずだ。

そうした野菜は、多分、スーパーの野菜よりも味はいいことが多いようだ。

田舎暮らしは、まず、おいしい野菜をいかに手に入れるかが大切なポイントになる。

近所の農家と知り合いになるだけで、おいしい野菜が手に入る可能性はずっと高くなる。

中間者が入らず、農家と直に取引できるということで、様々な情報が取り交わされることにもなるだろうし、絆のようなものが生まれることもあるだろう。

食べ物は大切だということはアタリマエのことなのに、疎かにしてしまうことが如何に多いかは、ファストフードやコンビニで食事をするために列を作っている人を見れば明らかだ。

そこでは、どこの誰が(あるいは機械が作っているかもしれない)作ったか、どこでどういう風に栽培されているかわからない食材で、安価に提供できるというかなり危なっかしい経済の上に成り立っている食事をとることになる。

食べ物というものが大切だからこそ、顔の知っている知り合いの農家から手に入る食材は、信頼も置けるだろうし、そういう経済上の立場を超えた絆のようなものができはじめたら、それは、一つの宝物のようになっていくだろう。

こういうことをしないで、田舎に住むのは、不便なだけで何もいいことはない。

とくに、通勤するだけのサラリーマンは多くの利点を捨ててしまっていることだけは確かだろう。

posted by ロビオ at 15:34| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする