2017年07月12日

映画『未来を花束にして』『わたしは、ダニエルブレイク』

「未来を花束にして」主演 キャリー・マリガン 監督:サラ・ガヴロン
「わたしは、ダニエル・ブレイク」主演 デイヴ・ジョーンズ 監督:ケン・ローチ

飯田橋ギンレイホールで上記の映画を観てきた。

『未来を花束にして』は、イギリスにおける女性の参政権獲得のための戦いについて、『わたしは、ダニエルブレイク』はイギリスにおける社会保障制度の欺瞞について描いた映画でした。

参政権は基本的人権です。が、この参政権が女性に与えられたのは、ごくごく最近のことです。

参政権が与えられない理由は、やはり差別以外の何物でもなく、当時の権力者が男社会であるため、男が社会の実権を握っているという既得権益を手放さなかったのがその理由でしょう。

人に人権を認めないということは、人間として認めないということです。

人間でないから、酷いことをしても心が痛みません。

それは、社会的通念となって、人を人として観ないということが平然と行われてしまいます。

主人公たちが、命をかけて婦人参政権を獲得しようとする運動を推進しているときに、大方の「婦人」たちは、彼女らの運動に無関心か、冷淡か、敵対している態度をとります。

社会の中に埋没してしまうと、目が曇ります。何が真実なのか見えてこないのです。

日本に女性の参政権が認められたのは、1945年。

新憲法でようやく認められました。

女性に、人権が認められてたかだか70年。

歴史は、前に進むだけではありません。後退することもあります。

主役は、『華麗なるギャツビー』で、ハイソでバカな女の代表のディジーを演ったキャリー・マリガン。あれじゃ、ギャッツビーが可愛そうだと思えるのほど適役だったので、この社会活動に身を捧げる役はどうかと思いましたが、実に決めの細かい演技で満足しました。

『わたしは、ダニエルブレイク』は、ケン・ローチ監督の社会告発の映画でした。

心臓発作のために、仕事をすることを医者に禁じられている主人公が、国家に社会保障制度による救済を求めたときに、国家が彼に仕向けた非道な手続きの告発です。

医者に仕事をすることを止められているのにかかわらず、役人が要求することは、3日以内に履歴書を書き、就職活動をした証拠を提出するというものでした。

人間の尊厳を国家権力が最も弱っている仕事のない律儀で真面目な大工の老人をいたぶり、窮地に追い込みます。

観ていてとても切ない映画でしたが、これが現実ならば、何のために国家を作ったのかわからなくなります。

かつて「ゆりかごから墓場まで」と標榜していた福祉国家イギリスの現在の姿がこうであるようです。

弱者は、好き好んで弱者になったのではなく、そうならざるを得ない事情が各人各様にあるはずです。

日本でも、わずか数%の社会保証制度の不正受給者のことを槍玉に挙げて、あたかもすべての社会保障の受給者が不正に受給していると誤認しているような風潮があるようです。

これは、弱者に対するルサンチマンなんでしょうか?

おれよりうまくやっているやつがいるぜ、という。

人が生活できないときに、そうした人に気前よく援助を与え、社会で生活できるように支援するような社会が望ましいのは言うまでもないのに、人は、想像力がなくなると硬直化して、自分もいつかそういう境遇に陥るということを忘れて、お山の天辺から、そういう制度を罵倒します。

社会保障を受けられず、二人の子供を育てなければならない母親は、生活をするために万引きします。そのガードマンに、娼婦の仕事を紹介されます。また、ボランティアで食料を与える場所に出向いたときに、この母親は、子どもたちに食事を与えることが精一杯で、あまりの空腹に耐えられず、その場で缶詰を空けて、素手で貪り食べてしまいます。恥ずかしさに耐えられなく泣き崩れるこの母親に、大丈夫、安心して、あなたは何も悪いわけではないんだと、主人公が慰めます。

困窮者になるのに誰もが悪くないのに、これを自己責任と呼ぶのは、なんと傲慢な意見なんだろうと思います。

この母親が、こういう状況になってしまったのは、ロンドンでの借家に雨漏りがしているのを大家に言ったところ、家から出されてしまったからです。たったこれだけの、本人に過失のない行為で、あっという間に、生活困窮者になってしまうのです。

主人公の大工は、心臓発作にかかったことです。

こうした人達を救済していくのは、国の大きな役目です。

国民の一人ひとりの生活を守らない国は、滅んでいきます。

なぜならば、国を維持していくのは、こうした国民の一人ひとりなのですから。

posted by ロビオ at 13:03| 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする