2017年06月28日

『満潮の時刻』 遠藤周作著

遠藤周作の『満潮の時刻』を読んだ。

先週見た映画『沈黙』の原作を見る前に2度読んだ。

実に優れた小説だと思った。遠藤周作以外に作ることのできない小説だと思った。

遠藤周作の描く基督は、汎神的で、人格的なものではなく、偏在する優しいまなざしのような存在であるかのようだ。

まさに、当初この小説につけようと思っていた題「日向の匂い」というべき、そういう存在。

『沈黙』という小説は、神の沈黙を描いたもので、どうして神は信者が危機に陥っているのに奇跡を起こさないのだという疑問がテーマだと思われている。しかし、実際は、神は、微細な世界からすべての者に語りかけており、奇跡は、苦境に晒された司祭の心のなかで起こったのであり、森羅万象が語りかけるその声を聴くことのできるものに起こりうるものなのだ。

これが、この小説のテーマでしょう。

この『満潮の時刻』という小説は、『沈黙』と同時期に並行されて執筆されたもので、同じテーマを違うアングルから書かれており、両者を読むとよりこれらの小説の理解がより深まるようだ。

遠藤周作は、文壇にデビューし、さあこれからというときに、結核が再発し、3度の命を削るような手術を経て、生還した。

この小説は、3度の結核のための肺の摘出手術のため、入院から退院までの2年を描いたもので、主人公の明石は、遠藤周作自身だと考えて良く、半私小説的なものになっている。

病室という世界から隔離された場所での生活で、人生というものを考える。

その病室という場で、ある人は死に、ある人は快癒して退院していく。

古来、傑作は、病室で生まれた。

梶井基次郎、志賀直哉の『城の崎にて」とか。

戦争からも生まれるだろう。

『野火』とか『ビルマの竪琴』とか『笹まくら』とか『桜島』とか

生活という喧騒に囲まれていると、人生について考えることはとても難しい。

しかしながら、永遠や無限なものを考えるということは人間の性であって、条件でもある。でなけれが、知性や理性が人に与えられたはずがない。

そう考えると、生活の喧騒を離れた時、あるいは、否応もなく自分が生きるか死ぬかの状況に追い込まれたときに、人は、その特質を十二分に発揮して、人生を深く考え始めるのである。

人生について考える時、その素材は今まで自分が経験してきたものを基礎とするしかない。生活にかまけて、人生の実相を貫く眼差しがかけて入るものの、経験はすべて人に何か大切なものを語りかけているのだ。

快癒するのかしないのか、そうした不安の中で、妻が買ってきてくれた九官鳥の哀しそうに見開かれた目を病室で見ていたら、少年時代に遭遇した自殺した主人の周りで前足に顎をじっと乗せたまま主人を見上げている犬の目を思い出した。そして、この目の哀しさはどこかで見たことがあると記憶を辿っていくと、かつて長崎で見た銅板でできた哀しい目をした基督の踏絵を思い出したのだった。

この小説は、この3つの目の哀しさに共通するものとは何か?、それを探し求めて、それの意味を獲得するまでの過程が描かれているのである。

俺は一寸だけこの生活の騒音のする外界に出た。するとどうだ。もう樹は単に一本の木にしか見えず、果物屋はたんに一軒の果物屋にしか見えなくなった。自分の目はこんなに弱い。それは、生活の騒音によってすぐ曇り、その汚れですぐ覆われてしまうのだ。俺の目は今、あの九官鳥の目から遥かに遠くにある。林の縁でじっとうずくまっていた犬の目ではなくなってしまった。

逆に言うと、病室という隔離された場所に閉じ込められたからこそ、こうした貴重なものを手に入れる為の手がかりを掴んだとも言える。経験は、饒舌に人生について語りかけているのだと。

人生に無駄なものは何一つない。その経験した一つ一つが高みに登るための足がかりとなるのだと。

印度哲学風に言うと、自分の本体であるプルシャに、自分の本性がそれであるということを理解させるために、自然であるプラクリティが様々にプルシャに働きかけるという風に。

退院して、検査のため、元の自分が2年間を暮らした病室に行ってみると、部屋の大きさや天井の高さが思っていたよりも随分と違う違和感を明石は覚えた。そして、屋上に登り外界を眺める。

明石はそれらを俯瞰している自分の目にあの九官鳥の眼差しを重ね合わした。九官鳥の眼差しにあの踏絵の基督の目を重ね合わした。そして今、彼の病院生活という経験の円環がやっと閉じようとするのを感じた・・・。

この現実的な世界とは別に、霊的な世界というものがあって、そこは微細な世界でなかなか人の目で見ることはできないし感じることはできない。しかし、現実的な世界の裂け目からそういう世界が溢れ出しているということに気づく人もいるだろう。それが、九官鳥の目や踏絵の基督の眼差しから垣間見ることができて、しかも、それが、自分の心の中にも存在するのだということを実感として感じ取ったということなのだろうか。

ところで、この小説には、退院して自宅まで帰る道すがら、渋谷の駅で上映中の『沈黙』という映画についての記載がある。もちろん、イングマル・ベルイマン監督の名作で、これも神の沈黙を描いた作品。幼少の頃見て、衝撃的な理知的な女性のオナニーシーンだったことだけは覚えているのだが。

遠藤周作の『沈黙』という小説は、この映画に触発されて書かれたことは間違いなさそうである。映画で描かれた「神の沈黙」に対して、いや、神は森羅万象を通じてあなたに語りかけているのだというアンチテーマとして。

posted by ロビオ at 10:37| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする