2017年06月15日

カルマ・ヨーガ

国民の代表が、国民の不利益になることばかりを決めている。

国会が政府の悪事を隠す手助けをしている。

また、その政府を国民が支持していると言う。国民が支持している限り、この地獄は続く。

いつかかならずこのツケを、国民は、払うことになるのだろう。

いい気味だといいたいところだが、私もその国民であるので、そのツケを払わないといけない。困ったことである。

立憲主義も民主主義も根付かないこの極東の地、日本。

最初から、この国に民主主義などなかったのかもしれない。

ところで、ヴィヴェカーナンダによれば、この世の善と悪はコインの裏表のように分離不可能なものになっている。

悪がはびこれば、善もまたどこかには存在している。

同様に、悪を滅ぼすことはできない。善も滅ぼすことはできない。

そんな絶妙なバランスのうちに善と悪の量は均衡しているのである。

嫌なことがあれば、いいことだって必ず起こるだろう。

何が善で何が悪か、なんて、神様しかわからない。ただ、その目に見えぬ秤でもって世界は維持されている。

そんなふうに考えて、どこかで良いこともきっと起こりうるだとうと思いつつ、少なくても「自分さえ善ければ」とまず、自分が正しいと善いと思うことをやっていこう。

インド哲学を勉強していると、この世にカルマを残さない生き方、カルマヨーガというのがある。

インドの伝統的な修行者は、出家をして、行方不明になる必要がある。それを出家と言う。

しかし、そうでない人には、修行はできないかというとそうではなく、只ひたすらに、自分の仕事をその結果や報酬や影響を考えず、没頭するというもので、これをカルマ・ヨーガと言う。仕事と隙間なく一体化して、我を滅却して打ち込むのだ。そうすることによって、業というカルマを来世に残さない。

大変難しいことではあるのだけれど、これは、素晴らしいアイデアで、『バガヴァット・ギーター』を読んで、一番感銘したことでもある。

仕事で、つい、この仕事が自分に与える影響なんかを考える。失敗したら自分のプライドが傷つくなとか、報酬を目当てにいやいや仕事をしたり、仕事をして喜ばれたら嬉しく思ったり、喜ばれなかったら気分を害したり、普通の事をやっているのに、なんでここまで言われなければならないんだろうと思ったり。

そうしたことにがんじがらめになって、仕事が手につかないということも経験する。

そうではなくて、この仕事をこなすこと、行為の結果を考えずに仕事に没頭することが修行につながる道、幸せになるためのトレーニングなのだと考えれば、辛いインターバルトレーニングをするように、仕事に違った視点で勤しむことが可能になるのではないか?

たしかに、こうして仕事をすれば、報酬などのインセンティブを考えずに仕事をするので、妙なプレッシャーも考えずに集中力は増すし、仕事をしていて知らぬ間に誰もが到達できないような地点に知らぬ間に到達していたということも、きっとあるだろう。

そのうち、自分の仕事の上に、あぐらをかいて、悠々と過ごしている自分を想像してみる。仕事に巻き込まれていた自分が、仕事を自分に巻き込んでいるという風に、考えられなくもないではないか。

仕事を、自分の成長のための教材として使うこと。そこに、未練や後悔や傲慢や満足や達成感など、一切の積極的な感情や消極的な感情も何も残さないこと。

同じように、トレイルランニングでも、梅雨のぬかるんだ土に足跡を残さないような走り方が理想なのではないか。猫のように音を立てず、地面のゾウムシを足音で驚かさず、水の上をさえ走れるような、そんな走り方を目指している。

走って、大汗をかいて、シャワーを浴びて、自家製のパンと自家製の味噌から作ったスープ、豆乳ヨーグルトを食べれば、少しは気分も良くなった。

この世界は、自分の修業の場であると。この世界のすべての出来事は、この訓練のために提出された課題である。そんなふうに考えて、修行していこう。

実生活も、トレイルも、幸せになるためのトレーニングなのである。

posted by ロビオ at 11:45| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする