2016年03月11日

黒のニットタイ

青と黒の細いタッターソールのボタンダウンシャツに、臙脂のヴイネックのセーター、そして、ヘリンボーンのハリス・ツイードを着こんだのはいつもの仕事スタイルだけれど、クリケットの黒いニットタイを締めたのは、今日が3月11日だからだ。

あれから5年。

僕の中で何かが失われてしまったあの日の後の原発事故。

巧妙にそして清潔に焼却されてしまったか、瞬間冷凍されてしまったかして、その失われてしまったものが一体何なのか、その正体すら見つからないのだけれど。

今日は、その弔いの日にふさわしい。

テレビは見ないので、ラジオを聞いている。経済評論家が日々様々なコメントを出している。

経済対策も大切だろうが、それはあまりにも白々しいのは、ジェイムズ・クラムリーの『ファイナルカントリー』という優れた小説の中の引用、

政治は富める者が貧しい者たちを相手に演ずる残酷な詐術に似ている

というように、一体全体誰のための経済政策なんだろう?

あの原発事故の日、炙りだされてきた日本を牛耳るエスタブリッシュメントの面々、マスコミを含む甘い汁を吸うために群がる人たちが明らかになった。

誰もが民主主義という全員参加のゲームの中で、ボールは彼らのサークルの中だけで回されて、自分らには永遠にボールは回ってこないという確信を得たのではないか。

そういうことを忘れたかのように、株価の上下に翻弄されて、将来の不安を感じさせられながら、世界は動いている。

人は一人では生きていけないのは事実だろう。

しかし、電力会社に生殺与奪権を明け渡して、いつ輪番停電のような脅迫に満ちた暴力に晒されないとも限らないだろう。

自給自足的生活。

脅しに屈せず生きていくためには砦としての自分の家、食料の確保としての畑、エネルギー源としての自然材があれば安心である。

そして、そうした半ば自足できている人たちが、小さな共同体の中で融通し合い、地産地消的に消費していけば支えになるだろうし、そうした小さなコミュニティから生み出されたものは、どこにだって受け入れられる可能性があるのではないか。

いわゆるグローバリズムというのも、もともとはローカリズムに過ぎなかったのだから。

改めて、ヘンリー・デイヴィッド・ソローの『森の生活』に書かれているように、小さな共同体で豊かな生活を送れるように、身近な環境にどれだけ素晴らしい鉱脈が走っているのか、自然と直接的な関係を取り戻すことの重要性を再確認したいと思う。

posted by ロビオ at 09:27| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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