2016年02月24日

クロッカスが咲きました

昨晩、寝床で俵万智の『サラダ記念日』を読んでいて

「クロッカスが咲きました」という書きだしでふいに手紙を書きたくなりぬ

というのに感心していたから、畑と道路の境界に植えられた一列のクロッカスが芽吹いるのに目が惹きつけられたのに違いない。

朝のジョギングコースの家庭菜園に近いような小さな畑にそれは芽吹いていた。

ちょうど首と肩を両手で持ち上げながら穴からようやく出てきたかのように芽を地上にもたげた姿が春到来の目印のようだった。

こういう短歌を知らないでいるときは、クロッカスの芽吹きはクロッカスの芽吹きであるにすぎないのだけれど、知っていると、この歌に共感したココロがクロッカスを包み込んで、なんらかの意味をクロッカスに投影している自分に気がついてしまう。

僕がクロッカスを見つけたのではなく、クロッカスに僕が見つけられたのだという感覚がある。

クロッカスが咲いているのを見て、言葉にして「クロッカスが咲きました」と心のなかで唱えた時に出来上がった、花が咲いたという春の高揚した気分が「クロッカスが咲きました」という言葉に取り付いた言霊となってしまった以上、それは、どこかへ送り届けなければならない。

ところで、この歌の作者は誰に手紙を書きたくなったんでせうね?

「ふいに」っていうから、恋人とかいう熱い関係の人ではないでしょうね。

遠くに引っ越して最近音信が途絶えがちの親友とか、少しだけ好意を持っていることにふと今手紙を書きたいなと初めて気がついた異性なのかしらん。

クロッカスが咲くというのは春の始めの淡い季節であるから、ジャンパーのチャックを少し開いて散歩するような開かれた感じがとても良く出ているよね。

また、電話でもメールでもなくて手紙というところもいいね。改まった距離感があって。

まだまだ風は冷たいのだけれど、走りながら取り入れる空気の中に鼻孔を微かになめらかに濡らす湿気が感じられる。僕が体感する春の感覚とはこういうものだ。

けれども、体は、冬にまだまだ武装解除しておらず、走り始めてすぐに、全腓骨筋が固まり、次いで、脹脛が張ってしまって、体が重いのなんの。久しぶりのダメダメの走り。

体の動きは精密で、ちょっとした狂いで、修復ができないほど動きが乱れてしまう。

昨日は軽快に走れたのが、翌日にはこのありまさだ。

今の日本の状況のようにちぐはぐな体を持て余して、走っては歩き、歩いては走って、小一時間の運動にもならないジョギングをしてきたのでありました。

まあ、こういう日もあるだろう。

明日はきっと軽快に走れるさ。

posted by ロビオ at 10:48| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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