2012年03月06日

3.11以降のハイパー倹約な日常

3.11からまもなく1年がたつ。

便利さと技術の行き着く先が前代未聞の損害を生ぜしめた原発だったという事実と地震予知に莫大な国家予算をかけたにもかかわらず全く役立たなかったという不信感から、我々が取るべき態度は、便利さや技術というものに一定の距離を置いた一種の謙虚さというものが大切であろうに、懲りない面々は、原発再稼働に向けての動きを見せているというのだから、開いた口がふさがらない。

所詮、科学技術の行き着く先には、荒涼とした野原で、そこには、幸せのカケラもないのがよ〜くわかった1年ではあった。

何のためにこんなことをしたかといえば、そこに良き価値があると信じたからなのだが、実際のところ、それは、良き価値と言えるものじゃなかったのだろう。善いものなら絶対的で、相対的に善いということはありえないのだから。

脱原発の次の発電になにを選択するかという問題よりも、それは、新たな寄生虫どもの利権を生むだけだから、それよりも、もっと大切なことは、脱電力とでもいうべきか、電力消費を極力下げる生活を我々が営むことが大切なように思える。

一度便利さを味わってしまうと二度と後には戻れなくなるというが、それは本当か。

原発事故で輪番停電なるものが開始され、通勤しなければならないあたしは、自転車で都心まで走ったのだが、これが不便などころか、とても楽しかった。また、電車が動き始めた頃、小手指止まりだったから、カバンを片手に小手指から家まで走ったものだ。これも、楽しかった。食事中にバチッという音と共に、電気の供給が絶たれた際の、蝋燭の火で食べる夕食は美味かった。

強制的に、電車が動かなくなったら、ボクは喜んで自転車で通勤するだろうし、走って家まで帰るだろう。

かえって、不便さは、体や魂にとって有益な栄養なのかもしれない。ぼくらは、大切な体と魂を便利さに売り渡して、かつ、お金を払って、堕落し、疑問もなく追従しているのかもしれない。

便利というものは、目ざとい野郎が発見したもので、実際のところ、便利さは、本質的な必要性から派生したもので、あってもなくてもいいものなんじゃなかろうか。

未だに、思い出すと怒りで心臓がバクバクとするのは、あの輪番停電開始のバチッという電気の切れる音だ。

「お前らの生活便宜のすべてをオレが握っている。」という脅しの文句に聞こえたのだ。

選択肢が2つしか無いやり方。電力を回すか回さないか。民主主義的におかしな制度だ。せめて、色々な選択肢があっていいと思う。

だから、僕の目指す方向は、省電力。

少しずつ、少しずつ、電気を使わない方向へ向かっていく。ダウンサイジング。それは、反資本主義的態度かも知れないけれど。

早朝の天覧山に登れば、煌々と灯る街の明かりは眩しいと感じるほど。あれだけの電力を誰が必要としているのか?

我々じゃないだろう。電力を使えば使うほど、そうした施設を作れば作るほど、ポッポが暖かくなる人達がいるからだ。

母親が子供に、「電気を消して寝なさい!」というように、そうする役目の人が必要だ。

東電が7月以降10%の電気料金を値上げするというらしいから、10%どころか、20%くらい節電するのがいいのではないか。

ということを考えていたら、要するにエコノミーとエコロジーというのが同じ語源から派生しているということで、エコノミーな生活を指針に生活するというのも大切だと気がついたのだった。脱電力というより、つまり節約した分お金を節約できるという点で、これは、全てに当てはめられるんじゃないかと。

お金を消費するような生活は、反エコロジーな生活でもある。エコノミーとエコロジーは、しっかりと手を繋いでデモ行進している。

最近、ボクは生活上の防衛という意味もあって、節約生活をしているのだけれど、ボクの場合は、ハイパーがつくほどの倹約だ。

例えば、今日は、池袋から白金台まで電車に乗ったけれど、一駅手前の白金高輪駅で降りると160円なのに、白金台まで行くと250円だっかな(営団線から都営線に乗り換えるからか?)。なので、一駅分歩いた。

というふうに、この数年、電車は乗るが、最寄り駅からバスは乗らずタクシーも乗らず、片道歩いて30分くらいなら、また、時間が許せば、片道1時間くらいなら、歩いたり走ったりしているのだよ。

本も買わず、CDも買わない。図書館で借りて、あとは、膨大なわが家の積読本を取り出して読んでいる。

服もこの数年買っていない。妻がアンティークの生地屋なので、自分でシャツを作れないものか?

パンづくりの天然酵母は買わず、自分で作り、高価で薬漬けの肉は食べるのをやめて、野菜と玄米で露命をつないでいる。味噌も石鹸も手作りだ。

ハイキングにいけば、奥武蔵方面へ、バスに乗ると高価なので、一山超えて、電車の駅までたどり着いたり、片道だけ電車を使って、片道は家まで歩くとか・・・そんな風に吝嗇な生活をしているのでアール。

そうこうしていると、昔は1万円以上の買い物をすることに気が重くなったりしたのだが、徐々に、1000円を使うことが心理的な障害となり、最近では、120円の缶コーヒーを買おうにも、100円とか80円で同じ缶コーヒーを売っている自動販売機があるので、その20円、40円を惜しんで、買うことすらできなくなってしまった。

財布からお金を反射神経的に取り出して物を買うのではなく、考えて納得してから財布を開くというスタイルに変わりつつある。

だから、もう、1万円くらいの買い物をすることは、清水の舞台から難度Dのウルトラ技で飛び降りるのに近い。

自転車や、トレイルランの道具は、道具より体力!と、体力でカバーできるように敢えて新しいものを買わない。それでも、たまにポチっとしてしまうのは、まだまだ修行が足りないからか?

外食も極力避ける。外で食べるより自分で作ったもののほうがうまい!ということもあるが、外で食べられるものは、肉ばかり。食べられるものがないし、菜食系の料理は、我が家のもののほうがずっと美味しく、量も多いのでな。

また、カネを払うには、その根拠を確かめる癖がつく。

先日の抜釘手術の請求書が送られてきたのだけれど、差額ベッド代が2日しか利用していないのに、4日分ついていることを明細書を手に入れて、調べて、その差額6000円を取り戻したり、なかなか手抜かりなく生きているのである。

なので、トレランレースも、登山道という貴重な公共財を、他の利用者の迷惑を顧みず、半ば強制的に排除しながら、ボクには法外と思える高額な料金を請求して、しかも、自然に対する配慮もなく、鳥や草花や樹木の名前も知らないアスリートと呼ばれる者の体力の捨て場所に選ばれているようなのには、どうしても参加する気がおきない。

タバコよりも害のある酒はほとんど飲まない。あれは、タバコと同じように、大部分が癖だから、常習性を帯びない程度に嗜んでいる。その常習性は、タバコの比ではなく、精神を病むほどなので、注意している。

タバコで人生を棒に振った奴はいないが酒はゴマンといるし、その中毒性はタバコを凌駕する。タバコを吸って運転しても罪にはならないが、飲酒運転は犯罪だ。

どうも、タバコに厳しく、酒にやさしいという悪しき習慣が日本にはあるようだ。

また、付き合いの為にしぶしぶと飲み会に参加することは、自分の魂にも良くない。きっぱりと理由を添えて断らないといけない。また、酒を飲まないと本音を語れないような連中と酒を飲んだって面白くはなく、一切が時間の無駄である。その飲んでいる時間だけが無駄ではなくて、翌日まで無駄になってしまうことがあるのも、酒の嫌なところ。おまけに、金もなくなるので、二重三重に害悪だ。

まあ、そういうハイパー倹約生活の基本となるのは、わが家にテレビが無いということと、新聞を取っていないということも大きい。ほんと、モノがあまり欲しくならないもの。

病院の待合室で久しぶりに朝日新聞を読んだが、半分位が宣伝。また、同じ待合室でテレビを見たが、テレビの番組の内容よりコマーシャルのほうが出来がいい。つまり、マスコミの媒体は、商品を買え買え!と常に言っているわけで、こういうのにつかっていると、反射的にものが買いたくなるよなあ、と、改めて納得したのであった。

というわけで、今までの生活を続けていけば、まあ脱電力ということになりましょうや。

posted by ロビオ at 15:13| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
良い文章をありがとうございます。
脱電力、良い言葉です。
僕らのエネルギーの無駄遣いを減らすことが、原発への依存度を減らす最もわかりやすい方法なんだと思います。

ロビオさんの書く飯能が気に入って、飯能に越してきて早一年。
いつかこのブログのような痛快なお話を伺う機会があればなあと思っております。
Posted by ほりうち at 2012年03月06日 22:25
コメント有難うございます。
あらら、私の書く飯能ってそんなに良かったですか?責任感じちゃうなあ。
最近は、MTBにもあまり乗っていないのですが、そのうち乗るつもりです。
その時は、よろしくお願いします。
Posted by ロビオ at 2012年03月07日 10:41
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