2012年02月16日

時計じかけのオレンジ

「時計じかけのオレンジ」を原作で読んでみた。

今回は、ハヤカワ文庫の最終章を加えた訳で、字が大きくて昔の版よりかなり読みやすい。

ソビエト語と英語の造語がタップリと入っていて、ハラショー?な文体が魅力な一冊だ。

映画で相当有名な本だけれど、本を読み終えて、大抵が本のほうが映画よりも感銘を受ける度合いが高いのだが、これは、引き分け。

どちらも素晴らしいのよ。

原作では、主人公のアレックスは15歳。映画のマルコム・マクドウェルは、どう見ても18歳以上。

15歳のガキがレコード屋へ行って、10歳の二人の女の子を自宅に引き入れて、「入れたり出したり」しちゃうのは、やっぱりまずいので、その点、映画のほうは、同じ年代の女の子で、「インアンドアウト」しているから、原作のほうが過激だろう。

刑罰理論の新派・旧派の対立。犯罪観の相違。刑罰は、目には目をの応報ではなくて、教育して社会に有益な人材として社会に送り返すことなのだという教育系論等々、刑法理論を学んだものとしては、甚だ面白い議論があって、それが、この小説の大きなテーマになっているのに違いないと思うし、刑法を専攻した学生はぜひ見るべしということになるのだが、それよりも何よりも、スタイリッシュな文体が魅力だ。

少年ギャング団4人のリーダーであるアレックスは、麻薬入りミルクを飲みながら、どんなウルトラ暴力を犯すか思考中。かっぱらったスポーツカーで、次々人を襲って、暴力のしたい邦題。人を殺しても全くもって反省なし。14年の刑期を宣されて、刑務所へいれられが、新たに開発されたルドビコ療法という洗脳を受けることを条件に刑期を短縮される。

このルドビコ療法というのは、薬と残忍な映画を見させることによって(目が閉じられないように、瞼を強制的に開かせる装置が秀逸)、暴力の要求が体に芽生えると猛烈な吐き気に襲われてしまうという洗脳方法で、この処置を受けた主人公のアレックスは、二度と暴力をすることのできない体となってしまった。

この小説の素晴らしいところは、この暴力を楽しむ主人公の頭の良さと感受性豊かなところ、またベートーベンを始めとするクラシカル音楽に対する造詣の深さ、そして、これが一番気に入るところなのだが、自己告白の率直さ、誠実さといった特性に主人公に惹かれてしまっていくことだ。

生来の犯罪者で、どう考えても酷い人間だが、裏表はなく、まして、偽善的なところが一切ないところが、主人公を魅力的にさせて、いつのまにか、主人公がルドビコ療法によって反撃できないことをいいことに、かつての仲間にリンチされてしまったりすることに激しい憤りさえ感じてしまう。いい気味だとか、同害報復だ、といった感情は、あまり浮かんでこない。

この小説のテーマは、善より悪を選ぶ自由を否定するのは、その悪よりも更に悪いことではないかということで、人間の自由意志の中に神の意志もまた存するといった価値判断が入っている。

このルドビコ療法は、現政権の政治に利用されるが、反対勢力の政治団体にも利用されて、飛び降り自殺を企てることになる。

洗脳と、政治利用という「不自然な」力に翻弄された主人公に、読者は、哀れみすら感じるので、この飛び降り自殺で九死に一生を得た病院で洗脳を解かれて元の隙あらば暴力を楽しもうとする主人公に、我々は、ほっと溜息をつき、今後の主人公の「活躍」に期待する自分を発見するのだ。

と、ここまでが、旧版の小説で、新しい版では、このあとに1章付け加えられていて、刑務所にいた間に時代は移り、昔の仲間は、結婚相手をみつけ、新たな「言葉遊び」をするグループに入って、落ち着いた生活をしているのに感銘を受けて、自分も、そろそろ落ち着いた生活をしようかという気分で終わっている。

この章の存在は、僕には蛇足に思えるし、文体もくすんで重たい感じがするし、取ってつけたような感じがしないでもない。暴力というボールを転がし続けて、「倫理的」な落とし所として、「クリスチャン」の参加であるアンソニー・パージェスがこの章で終えたい気持ちはわかるけれど、やはり、パワーが削がれる感じがする。

キューブリック監督の映画も、この最終章は無視しているが、これは正当だと思う。

飛び降りで体中石膏に固められて、洗脳を解かれて、元に戻ったアレックスが、現政権の内務大臣に食事の世話をさせて、ナイフとフォークで肉の切れ端を口に運ばさせる際のふてぶてしい態度を愉快に思うところで終わるのがやはり正しいこの小説の映画のあり方だと思える。

映画も、再度見たけれど、近未来的なポップな家具や建築に目を見張るところがあり、色の配置とかカメラアングルの素晴らしさは言うまでもなく、クラシカル音楽が随所に現れて、音響効果と暴力シーンのアンバランスさが見事。

人は笑いながら怒ることができないように、「ウイリアム・テル序曲」を聞きながら乱痴気騒ぎが滑稽に映るので、正当な価値判断で評価を下しながら見ることができない。

同じように、現代美術の権化のようなペニスの置物で、殺人が行われ、最後の一突きに、芸術作品のような絵でその結末を暗示させることによって、一連の暴力に対する判断停止、あるいは、映画の愉悦というものを感じるように巧みに作られている。

またモダンバレエのように、「雨に唄えば」を歌って踊りながらの暴力シーンは、アレックスの暴力に対するヨロコビを表現するとともに、我々を倫理的に宙ぶらりんの状況にする手腕でもある。

今シーンを取るのに3日間かけたというけれど、作家の本棚を倒すシーンのマクドウェルの運動神経が素晴らしい。

スローモーションと高速度撮影。これが、ポップな様式美を支えている。

というふうに、小説では、ロシア語と英語の混じり合った造語で綴られたポップな文体を、キューブリック監督は、こうした手腕で「映画の文体」を見事に映像の中に刻み込んだという点で、やはりこの映画は、素晴らしい。

 

 

「非情の罠」「現金に体を張れ」「突撃」「スパルタカス」

「ロリータ」「博士の異常な愛情」

「2001年宇宙の旅」「時計じかけのオレンジ」「バリー・リンドン」「シャイニング」「フルメタルジャケット」

そして「アイズ・ワイド・シャット」。

長編は、このわずか12作。そして、そのどれもが基準を超えて、ため息の出るような映画ばかり。

年代順に、もう一度見てみようと思って、現在取組中。

 

 

  • 冒頭に出てくる「コロバ・ミルクバー」の裸の女性の形をしたテーブルは、この映画のために「2001年」でスターチャイルドの彫刻をしたリズ・ムーアが担当した。
  • 作家夫婦の家に掛けられていた絵は、娘のクリスティアーヌ・キューブリックが描いた「シード・ボックス」で、撮影の終了後は、キューブリック家のダイニングの壁に飾られた。
  • アレックスの「矯正」が終わったことを観客に示すシーンで、ステージ上に現れた男が、アレックスを床に倒して踏みつけるのだが、この時に、アレックス役のマルコム・マクドウェルは、肋骨を折ってしまった。
  • 元仲間が警察官になって、矯正後のアレックスに偶然遭遇し、リンチされるシーンで、水の中に首を突っ込まれるシーンは、あわや溺死するんじゃないかというほど長くて、窒息寸前だった。
posted by ロビオ at 10:06| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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