土曜日の伊豆が岳ハイキング後の筋肉痛が酷く、休息の日々が続く。
駅の階段は、薄氷を踏むように、体重を後ろに残したまま、そっと足を降ろして徐々に体重を降ろした足にかけていく。勿論、手すりは最重要の補助となる。平地を歩くにも魂が入る前のピノキオのような不自然な動きだ。
そんな風なので、文化の日は、清瀬の知り合いのギャラリー展示会へ、リハビリを兼ねて妻と出かける。行く道で、野菜の露店販売があって、大きなブロッコリー、キャベツ等々、一つ100円で色々買いながら歩いたら、鞄の中は野菜でパンパン状態。
玄米菜食中心の我が家では、新鮮で安い野菜には、目がない。矯めつ眇めつ野菜を吟味して最良なものを籠の中から選び出す。スロット部分の穴を開けた貯金箱のようなブリキ缶に、100円玉を買った野菜の個数だけ入れてその場を離れる。
妻が僕の大昔に買ったヨガの導師であるスワミ・サッチダーナンダのベジタリアン料理本を棚から取り出して読んでいる。この人の、インテグラル・ヨーガという著作に20年くらい前感銘を受けて、その当時売っていた他の洋書の著作を片っ端から購入したのだが、その時の1冊。
時々、その本に書いてある内容を話すので、遠い昔に読んだ時の記憶を思い起こさせてくれた。
その中の一文「ものを食べなくて不健康になった人はいない」
確かに!おおよそ、改めて色々とこの世にある病気の多くを考えていくと、慢性病と呼ばれる生活習慣病の多くが摂取過剰か、あるいは、害のある食物を食べることによってら引き起こされているように思える。
「習慣でものを食べることをせず、本当に必要なときに必要な量だけ食べること」
これも、納得だ。
この間の、伊豆が岳ハイキングでは、カロリーを3500キロカロリー消費したし、土日で本格的に運動すると、そのくらいは常に消費するのだけれど、たいてい梅干しのおにぎり2つだけで十分である。
この間のハイキングでは、根が無精で、リュックからおにぎりを取り出すのも面倒なので、腹が減って、気持ちが悪くなるような飢餓感が出てくるまで食べるのを後回しにしてのだけれど、こんな状態が、体が「本当に必要とするとき」にあたるのだろう。
1日3食決まった時間に食べるというのが推奨されているようだけれど、偽の食欲というのもあって、本当は「必要とするとき」ではないのに、習慣でお昼近くになると腹が鳴ったりする。
偽物と本物の食欲を選別するその尺度は、飢餓感が続くかどうかである、と、その本には書いてある。仕事で忙しいときなんかは、昼飯を取るのを忘れて夜まで働くということは多々あるので(最近はそんな忙しいときがないけれど(涙))、本当なら、一日2食くらいでも良いのかも知れないなとも思う。
だとすると、3500キロカロリーを消費する運動をしたときでも、おにぎり2つで十分であるのだから、普通のデスクワークで仕事をするのに、それほどの量の食事をする必要はないはずで、現在食べている半分くらいの量でも十分に帳尻を合わすことができるのではないかと思うのである。
実際、このスワミ・サッチダーナンダが毎日食べている3食のメニュウを見てみると、ほとんど食べていないというような量だ。朝は、スープのみか、果物のジュースとか、そんな軽いものばかり。昼は、多少しっかりしたものを食べるけれど、一汁一菜の域を超えず、夜も、ほんのちょっぴり。
現代栄養学のアスリートのための食事にかんする本や記事が多数あるけれど、たかだかここ数十年の歴史しかない、その手の本よりも、数千年の体験が積み重ねてきたヨガ風の食事のほうを、僕は信頼しているのだ。
先日、知り合いの所から届いた20キロの新米の玄米を今朝は茶碗に少しだけ少なくよそった。玄米菜食中心だといっても、偽の食欲に振り回されて野放図に食べ尽くしてきた結果、体重は、1グラムも減る気配がない。
食事の量が減れば、食費も浮くし、体重が減れば、それだけ、楽に運動ができる結果、さらに、運動中の消費カロリーが減るはずである。この連鎖作用がどんな他の効果を生み出すのか、それが楽しみである。
ここは、「本当に必要なときに、必要な量だけ」野菜を中心にした食事を摂る、というガイドラインに従って、食生活を楽しもうと思うのである。
ま、そんなことを決心するのも、何度目かなのだけれど。本当に、体重は減ってくれないなあ・・・。

