2009年06月30日

膝の痛みを抱えながら、辛い読書をする

先週の雨の日にジョギングをしてから、膝に違和感を覚えて、自重してジョギングは休んでいたのだが、今朝ほど、妻に左右の膝の形が違う事を指摘されて、フニョフニョと膝下の更に皿の下の出っ張りを弄っていたら、痛くなってきた。

形が変わっていると言うことは、水が溜まっていると言うことなのかしらん。

自転車は、膝には負担がかからないので、OKなんだけれど、これじゃしばらくジョグはできませんなあ。残念です。

最近、坂道ばかりを走っているので、平地が詰まらなくなってきて、どうにもこうにも、名郷飯能なんか走る気が全く起きない。これも困ったものだ。なんか、そこに坂があれば、喜んでヒョイヒョイと登るのだけれど、平地は苦手だ。

と、平地ばかり走っていると、坂を避ける傾向もあり、なかなかロードの練習も難しいものがある。

読書もそうで、単なる暇つぶしのための読書というものは、できなくなってきて、自分の限界を超えたようだけれど、頑張れば読み通せそうな本に焦点を当てて読んでいるのだ。

先週は、炎天下に負けて、辛い坂道を登ることになったのだけれど、現在読んでいるニーチェの「道徳の系譜」も、これも炎天下の麦草峠を登っているように、辛い辛い。何度、途中で足を着いちゃおうかと思ったことか。そのたびに、なにくそっと、ダンシングでスイッチバック的激坂を乗り越えてきたのである。

言葉の意味の振幅が大きいのか小さいのか、これって日本語かよ?という文章が延々と続き、詩人の跳躍的表現に翻弄され、(多分)常識事項は省かれているので、直接に問題提起が現れるので、路頭に迷いつつも、時に頭にバチッと閃くものが通過するときもあり、数行わかったつもりで嬉々として読み進み、あっという間に、晦渋の海に突き落とされて、文字が目の中を滑って、なかなか意味が通らない。

悔しい、ニーチェの後ろ姿がどんどん遠くなるようで・・・。が、哲学書なるもの、相当な訓練が必要で、ニーチェの場合は、ワザとわかりにくくし牛のように反芻して咀嚼しないと下痢をするというような塩梅で文章を書いているようで、なかなか一筋縄ではいかないのだ。

天才と会話をするようになるには、それ相応の準備というものが必要で、実力不足の人には、面と向かって対話してくれないものである。いつになったら、目を合わせてくれるのか。

が、もうあと、20ページくらいでとにかく読み終わる。

一度読み終えたら、これが又、無二の知己を得たような気分になるのがこの手の本で、次回は、線を引きながら、更に深みに流れる思想に手を触れたいと思うのだ。

というわけで、やはり、読書は辛い辛い本を読み通すのが一番。

次は、ヘーゲルの「歴史哲学講義」をば。

と、そんな風に、辛い事じゃないと満足できないようになるということは、何事においても実力がついてきたということで、自分の取り巻く世界が、知らず知らずのうちに変化して、自分に取り巻いてくるということでもあるのだ。

だから、何事も、楽な道と辛そうな道があったら、辛そうな道を選ぶような、危機を選ぶような人生を選択したいと思うのでした。

posted by ロビオ at 09:38| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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