クリスティの作品、「ABC殺人事件」「エンドハウス殺人事件」を読み終えて、なんか、もう飽きてきたのは、あまり熱心な推理小説フアンではないからかも。
かつて、「オリエント急行殺人事件」やら「そして誰もいなくなった」を読んで、こんなのありかよ!と仰天し、というか、呆れたりもしたけれど、こういう推理小説フアンというのは、本を読みながら、真犯人を当てるために、一喜一憂したり、脳みそを使ったりしているのでしょうかね。
こういう楽しみというのは、ボクの能力を超えているね。だいたい、もっとも快活で犯人らしくない奴が犯人という当てずっぽうで読んではいるけれど、ヒントになる些細な描写なんかすっかり読み飛ばしているし。
文系のボクは、つじつまが合わなく絶って、そもそも人間というのは、矛盾だらけの存在なので、そこから生じる犯罪だって、矛盾があるよ、と思っているので、誰が犯人だって、文章が上手で退屈せずに「読ませてくれれば」何でも良いのである。
だから、こういう謎解きが好きな人というのは、人間の行動はこうであらねばならないという「潔癖症」な人か、登場人物の主張やら性格やら行動を緻密に分解分析して、模範解答を除くように、最終ページを楽しむような人と、邪推するんだけれど、そうでもないのか。
ボクの場合は、情緒的に読んでいて、誰が犯人であっても、一向にかまわず、ただ、ベルギー人であるポワロとイギリス人であるヘイスティングの文化の違いに、微笑んだり、古い紳士階級の世界というか雰囲気を楽しみながら読んでいるので、その点がちょっと、推理小説フアンとは違うところなのかもね。
この手の本では、ハードボイルド小説、ロス・マクドナルドや、チャンドラー、ハメットなんかは、推理小説と言うよりも、上質の文学として読んでいるし。
どうなんでしょう、例えば、「刑事コロンボ」のように、最初に犯人がわかっていて、そのアリバイをしつこい猟犬のようなコロンボが、ひとつひとつ不審な点を追求して、大団円となる・・・なんていうのは。
ひょっとすると、この刑事コロンボは、今までの推理小説を180度違ったものにした貴重な作品なのかも。このテレビドラマは大好きで、今でも、DVD借りて見ています。日本語で聞いて、字幕に英語を選ぶことができるので、英語学習にも最適だし。
というわけで、推理小説の黄金時代に出された古典になっているクリスティとか、ヴァン・ダインだとかは、ちょっとボクには向いていないのかも。
まあ、随分クリスティは、ブックオフの105円コーナーで買い込んだから、読み続けますが。
そんな風に、推理小説を久しぶりに読んでいて、かつて、我が家での二つの怪事件が勃発したことを思い出した。
最初のは、「神棚お供えご飯消失事件」というやつ。
ワトソン風の妻が、「変なんだよお、神棚に供えたご飯が消えているの」
「そんな馬鹿なことが論理的にあり得るはずはない」とホームズ風にボク。
が、実際、寝る前に備えたご飯だけが、朝起きてみると全くなくなっているのがわかったのだった。まさか、神様が食べたものではないだろうし。
そんな不審の夜を何日か過ごした後、頭にピット閃いたホームズの化身の俺。
ゴキブリホイホイを買って仕掛けること数日。
小さな子供の野ねずみがつかまりましたとさ。
2番目は、つい先日のもので、「電線コキコキ事件」というのもあった。
我が家には、電線だかテレビ線だかを外の電柱から引っ張ってきて止めている環状の輪っかがあって、以前、風の吹く日、その電線が揺れて、輪っかに軋みの音がするのを発見して、そこに、自転車用の油を拭きかけて、音を消した事があった。
今回も、まさに、同じような「コ〜キコ〜キ」という軋む音が聞こえる。耳の良い妻でも、その音の在処がわからない。
時に微妙に鳴る音の方向が変わっていったりする。
家が建って早7,8年。色々なガタが来ているのかと、耳を澄まして1週間。
どうやら無風状態でもその音が聞こえるのを不審に思って、家の柱を叩いてみた。そしたら、しばし、音が止む。家の軋みが、この一撃であるべき所に落ち着いて、無くなったかと安心したら、しばらくしてまた音が。
もう一度音の鳴る方へ行き、椅子の上に乗って天井の梁を平手で思いっきりひっぱたいてみた。又、音が止んで、注視する梁にひょこんと出てきましたのは、平べったい形のコオロギもどき。
原因がわかれば、楽しいもので、鳴き出すと、その当たりを叩いてみて、泣きやむのを面白がって、まるで、イビキをかき始めた奴をちょこんと蹴飛ばすと、その時は止むけれど、また徐々に安心して、ボリューム1から少しずつ大きな音に移行するようだ!と妻と笑ったのだった。
思わぬ方向へ行ってしまった。ハハハ。

