2017年08月07日

稲のハナガサイタヨ

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稲の花が咲いたよ。

3.11の地震と原発事故で、無反省にこの世界の仕掛がどんなものかを頭の隅にも置かずに生活していたことに気付かされた。

蛇口捻れば水。ガスストーブ捻れば火がつき、ボタンをプッシュすれば部屋は暖まり、涼しくなる世界。

SNSでの毎日連絡をとりあうことによって、なんとなく深い関係が築けているのではないかとの錯覚。

こちらの負担にならない程度で付き合える人間関係、例えば、サークル、クラブなどの共通の関心事に関するだけでという限定で付き合える「仲のいい友達」関係。

夜遅くまで演っているスーパーでは、電気じかけの野菜が煌々とした蛍光灯に照らされている。そうした野菜も、電気と化学肥料でできた人造物と言っていいようなものなのではないか。

すべてが、そこにあるものが如何に発生して、ここにあるのかという経過が省かれてしまって、実在感の乏しいものであるようだ。

何かをきっと、我々は失ってしまったのだ。

私達の世界を端的に捉えると、私自身と私以外の自然という関係に捉えられる。

しかし、この自然というものの対象が曖昧になってきてしまっている。

コンピュータの世界がリアルなもので、実際の手で触れることのできる世界が希薄になりつつあって、私の通勤靴に土が着くことは稀である。

自然と自己とは対象的にお互いを支え合っているような関係だから、他方が希薄になれば、他方も相対的に希薄になっていってしまう。

あるいは、自然にないものをあると確信することによって、自己もないものがあるように変容してしまうのではないか?

自然が確かにここにあると確信する実感は、生きていくうえの手応えとか、足場とかいった、基礎的な土台だ。

こうした確信に支えられて、自己はその上に立つことができる。

ところで、僕らは、無農薬で、稲を育てている。

稲を無農薬で育てるということは、色々な手作業が必要になってくるということだ。

田圃に入って、雑草と格闘するように鎌でもって切り倒し引っこ抜いたりする時、そこには、深い肉体哲学というべき倫理観が生まれるものだ。

身をもって体験するということは、知識をえるということで、知識を得るということは、記憶にあったそれを自分のものにすることだ。

国家や社会などというありもしない概念に振り回されている愚かさといものもある。

国家という自然に自己を投影すると、あたかも国家が自己であるという考えに到達してしまうのではないか?

国家など存在はしないのは、国家を逮捕監禁できないように殺すことも活かすこともできないおうに、これは、我々の概念にあるに過ぎない幻想である。

しかし、国家はないが、国土というものはある。田圃もある。

こうしたものは、リアルに存在するものだと考えていいのだろう。

こうして、自ら交わったものには、本物である威厳があるようだ。

たとえば、稲の花。

田圃で草取りを毎朝のようにやっていなければ、これは、単なる稲の花で、それ以上の意味合いはない。

しかし、こうして関わった稲の花は、僕にとっては実在する花なのだ。

実在するものは形を持つから、生きる上での基礎となっていくだろうと思うのだ。

非実在のたんなる観念に惑わされてはいけない。

そういうものを大切に、これからもやっていきたいなと思うのである。

posted by ロビオ at 15:26| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする