2017年08月18日

夜ラン

このところの雨で、走る気持ちも失せてしまいがちだが、走ることの出来る時には走っている。

早朝は、田圃に行くことが多くなってきたので、早朝に勤しんでいたランニングは、夕食後に行うことにしている。

なんでも、慣れてしまえば、それが当たり前になってしまうもので、夜に走るのも悪くはない・・・が、それなりに注意しなければならないことがある。

飯能という田舎町で、車や人通りが少ないところを選んで走れば、それは、街路灯がないところを走るということになる。

時には、暗闇に吸い込まれて、足元が見えないところも何箇所かあり(足元に注意して歩くか、小走りにする)、これは危ないし、たまに走る車に引っ掛けられないかとヒヤヒヤすることもある。

というわけで、腕に巻いて光を放つランニング用のライトをポチッとした。

850円なり。ジェントス LEDセーフティバンド 桃 AX-950PK

足首に巻けば、多少とも路面の状況もわかるのではないかと期待している。

しかし、夕食後に走ると、横っ腹が痛くなりますね。

あんまり体にはよくなさそうだけれど、9時にはヨガをして寝たいので、そうも言っていられない。

昨晩は、13キロほど走ったが、体重もぐっと落ちたか、夜に食べすぎた分を運動で調整できそうで夕食後のランニングも悪くはない。

もちろん、心拍計をつけて、心拍数130あたりで走ることも忘れない。

このくらいの心拍数だと、疲労回復も早く、疲れが持ち越されることもないようだ。

最近、仕事のことを考えて、寝られない日々が続いたが、夜ランの後は、ぐっすりと眠ることができた。

習慣付けよう。

posted by ロビオ at 10:08| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月17日

欲望は火、満足は油

E.Mフォスターというイギリスの作家がいて、その人のエッセイで深く感銘したものがある。

作家は、ある日土地を手に入れた。手に入れた時にはその土地の広さに満足していたが、その土地の境界を眺めていたら、さらに隣の土地も欲しくなってしまったというような内容のエッセイだった。

ものを持てば持つほど欲しくなるということはよく言われるけれど、なぜ、そうなるんだろうと考える切っ掛けになった。

世の中にコレクターという人がいて、何かを一所懸命に集めている。そのことに興味がないものにとって、なんでそんなに集めたいのかとも思うのだけれど、人は、常に、ものを持てば持つほど欲しくなるものなのだ。

お腹がすいたから、食べるものが欲しくなる。裸では恥ずかしいから、服を買わなくちゃ。バカだと思われたくないから、勉強する。人は、何か、それがなくては済ませられないから、ものが欲しいと思うのかと思えば、そうでもないことに驚く。

フェラーリのコレクターとある仕事をしたことがあるけれど、十数台のフェラーリを集めて、まだ集め足りない顔をしていた。

僕も、モンブランやらペリカンやらモンテグラッパとか高級万年筆を使い切れないほど持っているし、一頃は、ランニング用のシューズが靴箱からあふれていた。

なんで、それがなくては済ますことができないわけではないのに、似たような運動靴を、通勤鞄を次から次へと買うんだろう?と自問自答してみると、こういうことなのかなと思いつく。

趣味の自転車でも、トレイルランのシューズでも、リュックでもいいのだけれど、買ったときには大満足しているのだけれど、だんだん使っている内に不満が出てくるものなのだね。

このリュックは、もうすこし容量が大きければ、かさばらずに食料が入るのに!

この自転車がもう少し軽ければ、快適に坂道が上れるし、ステムの角度がもう少し緩ければ体にフィットするのに!

などなど、買った当時には満足していたことがどんどん不満に思えてくる。

と同時に、他人の持っているものが素晴らしい者のように思えたり、新製品が魅力的なものに思えたりしてくる。

この連鎖は永遠に続き、僕らは、満足のいく製品を求めて、リア王のように荒野をさまよい歩くことになる。

言ってしまえば簡単なこと。人は、なにか自分の対象物に対して、完全に満足することはできないのだ。

こんなところなのかなと思う。

マハーバーラタというインドの聖典では、こんなことが書かれている。

欲望は火、満足は油。

火に油を注げばさらに燃えさかるのに似て、欲望に満足という油を注げば、さらなる欲望が生じるのだと。

実に見事に、この欲望が生じるプロセスを説明しているじゃありませんか。

コレクターとは、なにか欲しかったものが手に入ったとしてその場では満足していたのだが、すぐに、その満足が、次の違うものが欲しいという欲望に火がつき、さらに、ものが欲しくなってしまうという連鎖から逃れられない人のことを言う。

このことって、モノを集めるだけではなく、人間関係でも、仕事でも、なににでも当てはまるのではないかと思われる。よくよく考えてみないといけない。

欲望を満足させると枯渇感がやってきて、この枯渇感を埋めるためにあらたな大きな欲望を満たすようになってしまう。さらに悪いことに、この欲望を満たすことの邪魔をするものや状況を憎むようになる。

ことほどさように、欲望は不幸の始まりというわけです。

だがしかし、この欲望は、人が生きていく上でのエネルギーにもなるので、賢く制御することが必要なのだろうけれど、うまく話がまとまらないので、このへんで。

posted by ロビオ at 16:09| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月16日

ヴェジタリアン生活に至ったわけ

今年から本格的に無農薬で米作りをはじめた。

あっという間に、雑草が生えてしまい、毎朝、田圃に出かけて、鎌で刈り取り、手で根っこを引きちぎって、土の中に埋めた。

昨年は、雑草取りをあまり熱心にやらなかったために、米の収穫量が減ってしまったと思って、今年は、雑草取りを熱心に行ったのだ。

稲を残して雑草を刈るということは、つまり、米の収穫量を上げたいがためにそうするのである。

自分の利益のために、生き物を殺しているのだな。

なんと罪深いことだろう。

里山の宅地造成に反対をしていたことがあったけれど、自然を犠牲にして会社の利益のために宅地をつくるなと反対していた当の自分が、自分の利益のために、雑草を刈っているのではないかとふと思いついたら、もういけない、この雑草刈が、生き物を大量に殺戮しているかのように思えて、吐き気がした。

このように、人間が生きていくということは、罪深いことなのだ、無農薬で米を作るということでさえ。

こうした感性が僕の中に生まれたのは、宅地造成の反対をしていた頃に、あれやこれや、自然の権利とか、環境倫理学とか勉強していた素地があったのかもしれない。

さらに、ヒンズー教の中にあるアヒンサー(非暴力)という戒律があるということを本格的に学んだからではないかと思う。

このアヒンサーという考えを深めたのがガンディーで、『獄中からの手紙』という岩波文庫の本で確認できる。

生き物を殺すことは良くないことで、そうすることで悪い印象が心のなかに生まれて、修行の妨げになると、ヨーガの経典である『ヨーガ・スートラ』でも、ヨーギーが行うべき戒律として書かれているほど重要な概念なのだ。

ところで、僕がベジタリアンになったのは、ヨガを再開したずっと前で、一時的に肉を食べる時期もあったが、体の体調も良くなく、心が乱れる(多分、倫理的にだが)ので、きっぱりと肉喰をやめてしまった。

馬鹿のように運動をしていた頃、僕はヴィーガンという肉類を全く食べない主義で過ごした。

月に、1200キロを自転車で乗り、300キロのトレイルランニングの運動量をこなした時、僕は、そのヴィーガンだった。

これで、筋肉はしっかりと付いたし、体の体調もよかったから(ただ、運動のし過ぎで貧血ぎみだったかな?)植物だけの栄養でまったく体の機能的な問題はないと思っている。

現在は、ヨーギーの生活では、乳製品はOKらしいので、たまにチーズを摂ることもあるし、たまに卵を食べることもある。

ところで、ベジタリアンになった理由であるが、こんな風に考えている。

生きていたい、自由でありたいという要求を動物はもっているがゆえに、こちらが捕らえようとすると動物は逃げる。

動物を自分の手で捕まえ殺し解体して食べるのならば自分の行為に対する責任を取っているような気がするが、スーパーに並んだかつての動物の肉を自分の手で殺すことをせずに、それがかつて生き物だったという事実を隠蔽したパックされた形で購入することは、倫理的に無反省な行為ではないだろうか。

ああ、ここにも自然との直接性を絶たれた現代人の姿があるのだね。

想像しよう。如何に動物が断末魔の叫びを上げて殺されているのか。

雑草でさえ、引き抜かれ鎌で刈られるときにその叫びが聞こえるような気がする。

捕まえようとすれば逃げる動物を捕まえて食べることは、動物に食べてもらうために甘い実をつけるフルーツや、食べようとして捕まえても逃げはしない植物などを食べるほうが、ずっとましだと考える。

それ無しでやっていけるなら、断末魔の叫びを上げて殺される動物を食べるより、植物を食べて、この体を維持していくことは、幾分ましなのではないかと考えているのである。

ここは、丹念に考えなければならないところだが、いまのところは、そう考える。

自分の生を維持する為に、他の生物を食べなければいけないという悲しみを感じるようになったら、ヴェジタリアンに人は向かうのではないかと思う。

いろいろな反論もあるだろうけれど、僕はそう感じ、そう実践している。

それに、とても野菜は美味しいのだよ。

そんなわけで、ベジタリアンが多いインドの料理を毎週末に作って、食事を楽しんでもいるのだ。

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2017年08月15日

生きていく目的っていうのは

この3連休は・・・

印度哲学の勉強会に参加したり、3日連続で、トレイルランニングを楽しんだり、高速道路を久しぶりに走って我孫子駅まで行って用を足したり、もちろん、仕事もして、勉強もして、インド料理作ったりして、まあ、慌ただしくもしっかりと地に足をつけた生活をしておったのです。

昨年までは、せいぜい、トレイルランニングやらジョギングを早朝行って、週末に長めのトレイルランを楽しみ、2日に1度、フランスパンを焼き、週末に料理を作ることを楽しんでいる程度だった。

今年からそれに加えて、本格的に週1回ヨーガ教室に通い、ほぼ毎日ヨーガ、呼吸法、瞑想をやって、かつ、週末には、インド哲学を勉強するために教室に通うようになって、稲作りという農作業も新たに加わって、さらに、映画やら美術館やら博物館に土日の仕事や印度哲学の勉強会の合間に見に行ったりして、土日に家にいる時間があまりなくなった。

土日の定期券の有効活用という観点から、週末は東京へ出かけて、身のなることをやろう!という発想から生じて、こうしてみると相当な時間を自分のために割いているなあと思うのであります。

これ以上、仕事も、勉強も、運動も無理かもしれない。。。と思うものの、サンスクリット語の勉強も始めた(習いに行こうかどうか迷っている)。

ところで、こうして日々の興味あることなどを行っているのだが、それらの共通項は何かと言えば、私自身が成長することに資するというただ一点に集約されるような気がする。

こうした目的に適っているかどうかを吟味して、それに沿うように計画を立て、実行している。

こうしたことに気を向けたのは、酔生夢死という言葉がある日、目に突き刺ささったからでしたただ酔ったようにこの世に生まれて、夢を見るように死んでしまうという、おそらく、殆どの人の生はこうして終わってしまう。苦痛を避け、感覚的な快楽を追求して、ついにこの世を去っていくだけの人生の線路を驀進していた自分に、虚しさと、なんともいえない軽さを感じ、このままでは、必ず取り返しの付かないことになると確信したのでした。

尊敬する松尾芭蕉は、永遠で無限なものに憧れ、一体化しようとする努力をしながらみ、道半ばで去っていきました。

すべての人は、ほんの少しの例外を除いて、道半ばでこの世を去っていく。

しかし、道を完成しようと努力することなしに、なんとなく生きていけば、必ず後悔が生まれるだろう。

印度哲学の勉強をしていると、人生の目的というのは、自己の完成だというのがいたるところで出てきます。

これは、人生の最終目標は悟りを開くことという意味でしょうが、そう大きく捉えなくても、人生を学び、今の自分より少しはましな自分に少しずつ成長していくこと、これが、人生の目的としてもっともふさわしいものなのではないかと考えました。

目的が定まれば、自分の周りにあるものは全て森羅万象がその目的を達するための手段になってまいります。仕事、農作業、人間関係、トレイルランニング、映画、芸術、その他すべたのものが、自分の目的を満たすための手段となってくる。そういう視点で考え、そこに向かって、自分の努力を集中させていけばいい。

かように、自分の生きる目的が定まれば、太陽の光をレンズが集中させ枯れ葉に火を発せしめるがごとく、強力に作用していくのではないかと考えます。

こうしたことを考えながら努力を繰り返しても、まったく思うようには行かないことに歯ぎしりする思い、がっかりすること、すべてを放棄してしまおうかと思うことが多々あるけれど、良いことは蝸牛のスピードでやってくるというガンディーの言葉を味わいながら、日々精進していきたいなと思うのでありました。

posted by ロビオ at 11:53| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月14日

自然に米ができるという豊かさ

農作業をやっていると、このところの曇り空、日照時間の短さが気になってくる。

それでも、稲穂が伸びて白い花が咲いていて、この花の一つ一つが米になると考えると、とても豊かな気分になる。

毎朝のように田圃に通って雑草を鎌で切り取った日々は2,3ヶ月ではあったけれど、雑草に負けず太く大きく育った稲を見ると、悦びもひとしおである。

花が咲いて一週間程度は、田圃の中に入っては行けないらしく、今週末の連休は、稲の様子を見に行く程度で済ませた。

また、稲が伸びていて、その影が地面を遮蔽しているので、雑草もそんなには元気ではなく、雑草取りもしなくても済むかもしれない。

昔から、農民の等級を上中下に分けて、雑草が生えないうちに雑草を処理するのが上農と呼ばれ、生えてから雑草取りをするのを中農といい、何にもしないのが下農というのだそうだ。

今年は、コナギが小さな十字の芽を出したところから雑草取りに通い始めたので、私たちは、中農であったのだな。幾分、下農的なこともあったのだが。

越生に住む無農薬で米作りをしている達人に、コナギという雑草のことについて聞いたら、デッキブラシでまだ生え揃わない雑草をこそぎ落とした翌年はあまり生えなかったそうである。

というわけで、来年は、田植えが終わった3日位あとで、デッキブラシで土をこすって、今年のように頻繁に雑草取りをしなくても済むようにしたいと思っている。

田圃という人工的な場所にであるがゆえに、そのまま放おって置いて稲ができると言うほど自然は甘くない。人工的な場所であるがゆえに、不自然な自然は矯めておかなければならない。

さて、どうするか?

福岡正信先生の幾つかの本を寝る前に読んでいると、なるほどそうだね、と思うことが多く、次回は、クローバの緑肥を稲の刈り入れ後に蒔いておこうかなと思っている。

今年は、安全な鶏糞を混ぜたが、来年は、このマメ科の根粒に固定された窒素を栄養素として稲を育ててみたい。

あと、稲わら、籾、米ぬかを、田圃に蒔く。土から奪った栄養素で出来上がったものは、そのまま土にお返しする。刈った雑草も、何もかも。

カエサルの物はカエサルに!奪ったものは、自然に返して、再生産ができるように手を打っておく。

福岡正信さんの本では、これだけで、栄養分は十分だとのことである。

世の中に本当に必要なものがそう多くあるわけではない。

自然という目に見えないがたしかに存在するシステム、これをタオと名付けてもいいのなら、これを発見し、そのシステムにうまく組み込むことが出来るように、自然と一体化する目を養わなければならない。

永遠と無限なタオ。こいつのパワーは半端じゃない。このエネルギーを無駄にする手はない。

福岡正信さんの名言にこんなことがある。

うろ覚えだが、「何をしなければならなかったと考えないで、何をしなくてもよかったかと真剣に考える」のだと。

このタオという素晴らしい無為自然があるにも関わらず、人間の賢しらが、自然を歪めるのだと。

ところで、この世の中、必要のない需要を作り出して、その需要を満たすために商品が作られる。

数年前に買ったアイコンジャー炊飯器が壊れたので、原始的な安価な炊飯器を買ったら、こっちのほうが断然美味しい米が炊けた。

きちんと整備された田圃に、農薬やら化成肥料やら有機肥料が必要なんだろうか?

そういう需要を生み出す田圃にしてしまったから、それらの商品が必要になってきているのではないか?

根本的に考えることをラジカルというが、こうした問いが、非常に重要なのだ、田圃で稲を作るにも、人生を豊かに生きるにも。

posted by ロビオ at 10:21| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月07日

稲のハナガサイタヨ

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稲の花が咲いたよ。

3.11の地震と原発事故で、無反省にこの世界の仕掛がどんなものかを頭の隅にも置かずに生活していたことに気付かされた。

蛇口捻れば水。ガスストーブ捻れば火がつき、ボタンをプッシュすれば部屋は暖まり、涼しくなる世界。

SNSでの毎日連絡をとりあうことによって、なんとなく深い関係が築けているのではないかとの錯覚。

こちらの負担にならない程度で付き合える人間関係、例えば、サークル、クラブなどの共通の関心事に関するだけでという限定で付き合える「仲のいい友達」関係。

夜遅くまで演っているスーパーでは、電気じかけの野菜が煌々とした蛍光灯に照らされている。そうした野菜も、電気と化学肥料でできた人造物と言っていいようなものなのではないか。

すべてが、そこにあるものが如何に発生して、ここにあるのかという経過が省かれてしまって、実在感の乏しいものであるようだ。

何かをきっと、我々は失ってしまったのだ。

私達の世界を端的に捉えると、私自身と私以外の自然という関係に捉えられる。

しかし、この自然というものの対象が曖昧になってきてしまっている。

コンピュータの世界がリアルなもので、実際の手で触れることのできる世界が希薄になりつつあって、私の通勤靴に土が着くことは稀である。

自然と自己とは対象的にお互いを支え合っているような関係だから、他方が希薄になれば、他方も相対的に希薄になっていってしまう。

あるいは、自然にないものをあると確信することによって、自己もないものがあるように変容してしまうのではないか?

自然が確かにここにあると確信する実感は、生きていくうえの手応えとか、足場とかいった、基礎的な土台だ。

こうした確信に支えられて、自己はその上に立つことができる。

ところで、僕らは、無農薬で、稲を育てている。

稲を無農薬で育てるということは、色々な手作業が必要になってくるということだ。

田圃に入って、雑草と格闘するように鎌でもって切り倒し引っこ抜いたりする時、そこには、深い肉体哲学というべき倫理観が生まれるものだ。

身をもって体験するということは、知識をえるということで、知識を得るということは、記憶にあったそれを自分のものにすることだ。

国家や社会などというありもしない概念に振り回されている愚かさといものもある。

国家という自然に自己を投影すると、あたかも国家が自己であるという考えに到達してしまうのではないか?

国家など存在はしないのは、国家を逮捕監禁できないように殺すことも活かすこともできないおうに、これは、我々の概念にあるに過ぎない幻想である。

しかし、国家はないが、国土というものはある。田圃もある。

こうしたものは、リアルに存在するものだと考えていいのだろう。

こうして、自ら交わったものには、本物である威厳があるようだ。

たとえば、稲の花。

田圃で草取りを毎朝のようにやっていなければ、これは、単なる稲の花で、それ以上の意味合いはない。

しかし、こうして関わった稲の花は、僕にとっては実在する花なのだ。

実在するものは形を持つから、生きる上での基礎となっていくだろうと思うのだ。

非実在のたんなる観念に惑わされてはいけない。

そういうものを大切に、これからもやっていきたいなと思うのである。

posted by ロビオ at 15:26| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする