2016年03月29日

こんな時は、ヨガしかないでしょ

手首の痛みが激しくなっている。これでは、自転車に乗る気分ではなく、足の裏の痛みも、朝起きた時限定だが、痛いので、走ることもままならない。

ならば、水泳・・・といきたいところだが、目の負傷があるし、行けば必ず、鼻風邪をひくので、プールで泳ぐのはやめたのだった。

運動的八方塞がり。何にもできん。

最近、はやりのアドラー心理学でいうと、現在の自分を規定するのは、過去におけるトラウマではなくて、目的であるという。

なんらかの行動には目的があり、その目的を達成するためなら、過去のトラウマ的な事実でも、体の不調でも、なにもかも援用するのであると。

現在の私に当てはめてみれば、運動したくないという目的のために、からだの不調を訴えていると解釈できようか?

本当か?

ハックルベリー・フィンの口癖で言えば、「そうかもしれないし、そうでないかもしれない。」

今朝、朝にトレーニングに出発するのをためらったのは、外壁のペンキの臭いで寝た気がしないし、喉は痛くなるわ、息苦しくなるわで、朝起きた時は、不機嫌そのものだったからであるのだが、あれ、これも、運動をしないことの理由に列挙しているんだろうか?

昨日のブログにも書いたけれど、もう一度、初心に帰ってみよう。

自転車に乗る理由は、何だったのだろうかと。

そうだ、禁煙をして、その頃、禁煙をすることによって、いくらお金をセイブ出来たかというソフトがあって、例えば、1日タバコを3箱買ったとして、1箱200円(当時)のハイライトを吸っていたので、1日600円が浮いたということで、その累積を表示してくれるのだった。

それで、2年間貯まったお金で、最初のロードバイクを買ったのだった。タバコで浮いたお金は『健康』の為に使おうと思ったから。

そうだ、これが原点なのに、とても、健康的ではない状態があるわけで、昨日の決心もあるが、そうだ、健康のために運動をしよう。

というわけで、体調は不良なのだが、iPod shuffleで、ドノバンの『サンシャイン・スーパーマン』を聞きながら、ヨガを丹念に施したのだった。これ、結構、楽しい。

posted by ロビオ at 10:21| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月28日

マフェトン理論でいこう!

体の故障が甚だしいのは歳のせいばかりではないだろう。

まず、手首。

これは、自転車に5時間ほど乗ってみたら、手首が痛くなっていた。まあ、5年ぶりの自転車だから、姿勢も悪かったろうし、新調のハンドルは体に合わないのは気がついていた。痛くなったのはいい。けれども、それが、一週間以上も痛いのは問題だ。回復が非常に遅い。

あと、足の裏の痛みである。

走れば、痛みは軽減されて、無くなってしまうので、そのまま走っていたが、朝起きた時など、足の裏の痛みが酷くて、手を使って自宅の階段を降りることになる。そして、しばらく部屋の中を歩いているうちに痛みは無くなってしまうのだが。

裸足系の靴がいけないのかしら?と思って、普段履きのスニーカーで走ったら、その底の柔らかさがいけないようで、痛みが集中して、さらに悪化した。

前に一番長引いた痛みは、アキレス腱の付け根辺り、踵の上のあたりがズキズキとするのがあった。けれど、知らず知らずのうちに、解消してしまうものだったのだね。2年位かかったけれど。

今回の痛みは同じくらい長い。そして、走るたびに足裏は酷使されるから、走るわけにもいかない。

というわけで、痛みがまったくなくなるまでは、ランニングはお預けということにして、自転車に乗ろうと思ったら、手首が痛くなったわけで、これは、困った。

そして、これは、不注意の事故だが、土曜日薔薇の手入れをしていたら、目に枝がばちんとぶつかって、左目の左側の白目が切れて出血し腫れている。眼鏡のガラスを避けるように、下から枝が入って目に直撃したという不運もあった。

最初、血が目の中に溢れて、何も見えなくなったんで、あれま、失明かと心配したが、そうにはならず、目は痛いけれど、動かさなければ痛みは現在なくなったが、不快である。

そんなわけで、日曜日に久しぶりに、またまた自転車に乗ろうかと思ったのであるが、目を動かすたびに痛いので、こりゃたまらんと、またまた自転車に乗れずじまい。

その代わりに、家の壁の漆喰を塗る作業をしたのだが、これまた、不自然な体勢で作業したので、上半身の体が筋肉痛。僧帽筋右の肩腕、そして、自転車で痛めた手首がまたまた痛み出す・・・

という風に、体力的四面楚歌状態で、その原因を何かと探ってみれば、やはりね、運動は強度を上げてはいけないということ。

そういえば、一番運動して楽しく怪我もなかった頃、しっかりと心拍計で、心拍数管理をして運動していたもんだ。

今現在は、心拍計で管理をしているが、かなり高めの状態をキープするような運動になってしまっている。

その結果、体の不調が出始めてきているのだね、きっと。

というわけで、初心に戻って、心拍数は体を痛みないための道具として、また、マフェトン理論で、毎日毎日、時間をゆっくりかけて、運動しようと決めたのであった。

心拍数140以上には、今年は上げないことにしよう。

そうそう、自転車でも、この心拍数だとたとえば、よく行く山伏峠の傾斜の強いところなんか、外側の傾斜の弱いところに逃げて、止まるようなスピードで休みながら登ったもんであった。

そうだ、明日から、マフェトン理論再開である。運動生理学の本を随分読んだけれど、また、図書館で借りて読んでみよう。

食事も最近は、肉を食べることもあるのだけれど、やはり、肉を食べるのはよくなさそうだ。ビーガンで行こう。

ヨガも中途半端にやったりやらなかったり。しっかりと、やって、こころとからだをとりもどすのだ。

低心拍で、歳の割には、あんがい、走りが速い、そんなランナー、ローディになろうと決心したのだった、たった、今。

posted by ロビオ at 10:10| Comment(0) | トレーニング | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月25日

自転車でも骨盤は前傾で

なかなか自転車に乗る機会に恵まれないのは、朝の寒さと仕事と雑事が入り組んでいるから。

それでも、タイヤは、パナレーサーのグラベル700✕25というのを調達し、ロードのペダルもSPDにしてしまえば、靴1足で済んでしまうので、ロード用なのにSPDが使えて、ちょいと格好のいいシマノPD A600というのに替えるてしまおうかなどと考えている。

なんだかロードの世界では、理屈にならない理屈がまかり通っていて、例えば、DE ROSAというバイクがあるけれど、このコンポーネントはカンパーニョロじゃなきゃ駄目だとか、コルナゴならシマノでいいよとか、プロチームの真似なんでしょうか、意味がわからない事が多く、既存の概念を打ち破るようなものに対して激しく拒否反応を示す者が多いようだ。

カーブを曲がるときに、外側の足ピーンと張って曲がるというけれど、MTBで曲がるときそんなことやったら、ズルリと滑るし、状況を見て、抜重したりしているのに、なぜか、ロードでは、これが推奨されている。なんで?と常々思っていたわけですよ。

堂城賢(たかぎまさると読む)という人の『自転車の教科書』というのを読むのは2度めだが、その内容を一見ユニークだが、理にかなっている自転車の乗り方全般に関して目から鱗が落ちる思いをして体得できる本なのだ。

この人の話がよく分かるのは、マウンテンバイクを楽しんでいる人ならよりわかるだろうし、ランニングの愛好家なら、それよりずっとよくわかるはず。

著者の堂城賢氏は、マウンテンバイクの選手であったそうだから、自転車に関する視点がロードバイクの常識を常識で終わらせないところが頼もしいところ。

この本を読んで、この著者の勧める乗り方は、信頼できるとおもうのは、そういうところにもある。

この本の中で言いたいことを端的に言えば、イチローが守備隊形をしている際の姿勢、あれが自転車の乗っている時にでもできれば、それが理想なのだ、という簡単だが、なかなか難しいことを言っている。

体重は両足の拇指球にかかり、骨盤を股関節前傾させて背中は丸めないで真っ直ぐな状態に保つ。あの格好のまんま自転車にまたがり、漕げば良い。以上。。。。。

たったこれだけ。これが出来る姿勢が、理想的なポジションニングになるであろうし、省エネ的にペダリングが出来る姿勢でもある。

自転車もランニングも同じで、骨盤を後傾させながらのランニングは背中が曲がったへっぴり腰で、やってはいけないこととされている。重心は、前に前に送り出すことによって、楽に走れるという常識がある。

それなのに、自転車では、骨盤を前傾させるのではなく立てて、背中を丸めるやり方が励行された時代が長いことあった。

これは、やはり間違いでしょう。

スポーツの姿勢は、背筋をのばすこと。すべてが、ここに尽きるのではないか?

剣道、柔道、合気道はもとより、ランニング、スキー、ボクシング、卓球、テニス、背中を丸めてやるスポーツってないよね。

姿勢が悪ければ、腰を痛めるだろうし、見た目も悪い。なのに、自転車では、背中を丸めて骨盤を立てろというのは、筋の違う話ではないだろうかね?

というわけで、だらんと背中を丸めて、骨盤が立てばまだいいけれど、骨盤が後傾したりして、ダメダメな姿勢で自転車に乗っていたのね、私。反省。これじゃ、自転車が前に進まないわけさ。

それだから、今回は、この『自転車の教科書』をよく理解して、勉強したいと思っている。ランニングと自転車を同じように捉えて、相互の理解に役立つようにしたいと思っている。

その為には、この硬い体を本当になんとかしなくっちゃ。

自転車に乗るより前に、これが先決。知らぬ知らぬ間に楽な姿勢を人は取るので、そのあたりで筋肉や腱が固まっちゃうんだろうな。

posted by ロビオ at 09:57| Comment(0) | 自転車(ロード) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月23日

PanasonicのFRC

クロモリのバイクで初めて100キロ走ってみれば、のんびり走るには最高のものであることに気がついた。

トレックのマドンは、バイクに踏み込むことを命令されているみたいで、友達とだべりながら低速で走るなんてとてもだるくて出来そうにもなかった。勤勉さを要求され、セコセコとペダルを踏ませるバイクであった。のんびりと走るもんなら、体の接合部分のすべての関節が痛くなりそうで、踏み込みつづけることで、体とバイクとの友好関係が成り立つような、そんなバイクだった。


猛スピードで踏み込んだりすると、バイクがとても喜んでいるのがわかるし、長いツーリングに出て、足が終わってしまったら、とりつくしまもなく、フレームの不機嫌さが感じられてしまう、そんなアルバイトを要求されるレースバイクだった。

というわけで、僕のバイクの使い方には、あまり合わなかったんだろうね。抜きつ抜かれつのレースの遊びみたいなときは、ビューンと発射されたように前に進んだけれど。この快感は高性能のスポーツカーの快感とでもいうべきものでしょうか?
パナソニックの鉄のフレームは、スピードに乗るまではもたつくけれど、一度スピードに乗ってしまえば、スイスイ。リズムに乗れば気持ちよく走れるから、ツーリングにはピッタンコ。

スポーツの道具としても十分使えるが、人を楽しく目的地まで運ぶ為にはどんなものが要求されるのかといったところにも配慮のある、車で言えばルノーのような哲学を持った長い歴史を持つバイクなのでしょう。
アタックごっこみたいに、ズバッと瞬発力を活かして進むなんというのは、不得手であることは確かである。一拍遅れ続けて前に進む感じだから。だけれど、ブレーキ、アンド、ゴーみたいな走り方って普通はしないわけで、どちらを優先するかといえば、同じスピードで巡回する能力というのが普通は喜ばれるものでしょう。

一拍遅れて・・・というのは、ブラックミュージックのビートって、バックビートといって、ワン・ツウとツウのところに強調があるのね。
ブルーグラスとか演歌とかは、ワンに強調がある。
クロモリのフレームは、バックビートなのね。一拍遅れて不思議な所で自転車が前に進む。
クロモリレースバイクは、もういきなりワンで前に進む。
そんな感じでしょうか。

ところで、このクロモリの細めのフォークはブレーキかけると撓ってますね。ブレーキをかけると手元に曲がります。で、コワイかといえば、全然怖くなくて、フレーム全体と柔らかなハンドルでグニャグニャと全体で吸収しあってお釣りなしの処理をしている感じ。先端が寝ている形状なので、バネ状に跳ね上がってもいるのかしら?こりゃ、楽しいわ。

これで、13万円くらいなんで、割りと安めのフレームで、これだけ満足できるんだから、やはりクロモリはおすすめですよ。


ところで、5年前のタイヤは溶けていて、プラスチック消しゴムのように柔らかく、あっという間に摩耗していく。これじゃ、剣呑である。

というわけで、のんびり派、時々、スピードを上げてダウンヒルを楽しむ為には、最近流行っている700✕25Cの太めのタイヤを所望したい。

パナレーサーのグラベルとかいうのが良さそうなんだけれど、評判はどうなのかしら?

新たなLogicoolの無線キーボードの練習で長めの文章でした。あんまりタッチが良くないな。配線はすっきりするけれど。

posted by ロビオ at 14:27| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月11日

黒のニットタイ

青と黒の細いタッターソールのボタンダウンシャツに、臙脂のヴイネックのセーター、そして、ヘリンボーンのハリス・ツイードを着こんだのはいつもの仕事スタイルだけれど、クリケットの黒いニットタイを締めたのは、今日が3月11日だからだ。

あれから5年。

僕の中で何かが失われてしまったあの日の後の原発事故。

巧妙にそして清潔に焼却されてしまったか、瞬間冷凍されてしまったかして、その失われてしまったものが一体何なのか、その正体すら見つからないのだけれど。

今日は、その弔いの日にふさわしい。

テレビは見ないので、ラジオを聞いている。経済評論家が日々様々なコメントを出している。

経済対策も大切だろうが、それはあまりにも白々しいのは、ジェイムズ・クラムリーの『ファイナルカントリー』という優れた小説の中の引用、

政治は富める者が貧しい者たちを相手に演ずる残酷な詐術に似ている

というように、一体全体誰のための経済政策なんだろう?

あの原発事故の日、炙りだされてきた日本を牛耳るエスタブリッシュメントの面々、マスコミを含む甘い汁を吸うために群がる人たちが明らかになった。

誰もが民主主義という全員参加のゲームの中で、ボールは彼らのサークルの中だけで回されて、自分らには永遠にボールは回ってこないという確信を得たのではないか。

そういうことを忘れたかのように、株価の上下に翻弄されて、将来の不安を感じさせられながら、世界は動いている。

人は一人では生きていけないのは事実だろう。

しかし、電力会社に生殺与奪権を明け渡して、いつ輪番停電のような脅迫に満ちた暴力に晒されないとも限らないだろう。

自給自足的生活。

脅しに屈せず生きていくためには砦としての自分の家、食料の確保としての畑、エネルギー源としての自然材があれば安心である。

そして、そうした半ば自足できている人たちが、小さな共同体の中で融通し合い、地産地消的に消費していけば支えになるだろうし、そうした小さなコミュニティから生み出されたものは、どこにだって受け入れられる可能性があるのではないか。

いわゆるグローバリズムというのも、もともとはローカリズムに過ぎなかったのだから。

改めて、ヘンリー・デイヴィッド・ソローの『森の生活』に書かれているように、小さな共同体で豊かな生活を送れるように、身近な環境にどれだけ素晴らしい鉱脈が走っているのか、自然と直接的な関係を取り戻すことの重要性を再確認したいと思う。

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2016年03月10日

やらないというペダリングの方法

自転車の前輪にレンガくらいの大きさの障害物を置いて、ペダリングしてその障害物を乗り越えようとする場合、ペダリングを時計に例えると0時から3時までの間は、僅かな力をかけるだけでペダルは回り、当然、前輪はその障害物を楽々と乗り越える。

これが、3時になると、ちょっと引っかかる感じがあり、5時になるとペダルを動かそうとすれば、多大な力が必要で、真下の6時になるとどんなに力を入れても、自転車は前に進まない。当たり前だけれど。

これは、ヤマメの学校の貴重なユーチューブの映像だったかな?2冊出ている本だったかな?それで知ったことだが、経験的にそれが本当だということはわかっていたはずだ。

が、それを、薄々気づいていたものの、それを活かせていなかったのは、言語化していなかったからで、追求が足りなかったと反省するが、多分、月に1000キロも乗っていると学ぶより慣れろというわけで、どうでも良くなってしまったかしていたのである。

このペダリングの方法を具体的に知って、これこそがペダリングのポイントだなと、感じ入るものがあったのだった。

そして、ペダリングというのは、この技術のことであって、引き足だの足を持ち上げるだのというのは、足に力が入っていなければ、ペダリングの勢い、惰性で回ってしまうから、必要ないのである。目から鱗が落ちるよね。

この高城先生の本は、本当に有益だ。自転車乗りでもランナーでも。

僕のように下手くそなペダリングだと、引き足とか意識すると多分要らない力が入ってしまって、ペダリングの邪魔になるだけだなと思うからだ。それに、ケイデンス90から100でね、ココでペダルを押し込んで、ココで脱力して、そして、ここで、引き足を使って・・・なんて器用なマネができるものか?

というわけで、効率的にペダリングをして自転車を前に進ませるには、この0時から3時に力を入力して、その他は脱力して放出された力が惰性で6時まで流れればそれが一番効率がいいというわけである。

自転車には、3.11があった年の8月以降載っていないので、ブランクの時期はおよそ4年半。そんな中でも、ヤマメの学校の本を図書館で何度も借りて読みなおしていたんだから、ロードバイクの興味は続いていたんだろう。

一番体力があった頃、月間ラン300キロ、自転車1000キロ以上を走っていたんだから、どうかしていたと思うが、その頃は、悲しかったし、疲れていたし、病んでいたし、こんなことでもしないと正常を保てなかったのだが、今は、それも昔の話。こういう時も必要なのだ。

そして、そのころよりも4つ年をとってしまった今となってみれば、体力よりも技術でカバーするしか無い。

ペダリングの技術と食事と休養だな、これに、クロストレーニングを加えた効率のよい鍛え方をしなければ。

ところで、、ママチャリでお買い物に出かける時とか、20キロ位の遠出するときとか、この0時から3時までのペダリングというのは意識して練習していた。

結果、ペダリング一回転の360度の4分の1だけ力を投入して残りの4分の3は休息に当てられるのだから、理論上、これより楽で効率的なペダリングは無いと思われるのだよね。

パイオニアという会社が開発した無駄なペダリングの力がどれだけ加わっているかとうのを測定する機械があって、これまたユーチューブで拝見したのだけれど、日本人でツール・ド・フランスに出場している選手でも、その効率は7割だそうで、これは、特筆すべき効率の良さで、相当乗り込んでいる人でも50%程度だそうである。

ヘボな自分はじゃあどうするか?

もう、引き足とか足を上げるとか、そういう面倒なことはやらない。やらないことに精力を傾けて、ただ、0時から3時のこの一点だけに力が加わるようにすることより他にいい方法があるだろうか?

トレイルランニングで、足が地面に着く前に足を上げる・・・なんて禅問答のようなことを、裸足王子から学んだのだけれど、この間、走っていて、なんとなくわかったのは、上げる意識が最初にあって、そして、その瞬間に足が着いて、その意識が足に到達して足が上がっていく・・・というような感覚が掴めたからである。時々、その感覚を掴み損ねてしまうのだけれど、特に、激坂の上りで顕著に意識できていたような気がする。

さすれば、0時にペダリングを開始するなら、時計で言うと11時か12時くらいに踏み込む意識をして、1時か2時位に脱力する。脳と体の意識の伝達する時間というのはそのくらい多分時間がかかるのだろうね。

うん、この練習、自転車に乗れるような陽気になったら練習するつもり。

今から、楽しみだ。

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2016年03月09日

英語長文問題精講は読み物としてもとても有益だ。例えば、

The bright child is curious about life and reality, eager to get in touch with it, ebmbrace it, unite himself with it.

利発な子供は人生と現実に対する好奇心に富み、熱心にそれと接触し、それを抱きしめ、それと一つになろうとする。

これは、John Holt という人のHow children failという本の中の一文である。

これまた、原仙作の『英文標準問題精講』に匹敵するような素晴らしい英文の宝庫である問題集『英語長文問題精講』中原道喜著のなか課題文からの引用である。

この一文はなにかとても重要な人生におけるヒントが隠されているような気がしている。

自分の現実や人生しか生きられないはずなのに、そいつから逃れる態度は、もはや、自分の人生や現実をつかみとっているとは言えないはずだ。

アップルの創設者が愛読したオリゲン・ヘリゲルの『日本の弓術』の中では次のような文章がある。

「私は的が次第にぼやけてくるほど目を閉じる。すると的は私の方へ近づいてくるように思われる。そして、それは私と一体になる。・・・

的が私と一体になるならば、それは私が仏陀と一体になることを意味する。

そして、私ば仏陀と一体になれば、矢は有と非有の不動の中心に従ってまた的の中心にあることになる。矢が中心にある・・・矢は中心から出て中心から出て中心に入るのである。

それゆえ、あなたは、的を狙わずに自分自身を狙いなさい。」

人生や現実というもの自分と対極にあるものと考えているうちは、それは人生や現実と呼べるものではなく、それは存在しないもので、それと一体化することにより、自己は自己として自己回復できる。なぜならば、人生や現実を包摂していない自己というのは、本当の自己とは呼べないから。

こうした態度で過ごしている人は、多分、傍から見ると、困難な状況にあっても、その困難を困難な状況とは思わず克服してしまう人なんだろう。

僕の中のタオのイメージもこんな感じである。

タオに一体化することによって、主観も客観も超えたリアリティを獲得して、自然の流れの中に紛れ込んでいる自分を発見するというような。

まだまだ、語り尽くせないけれども、こんなことを考えるきっかけになる名文が満載のこの大学受験用の問題集は優れている。

posted by ロビオ at 13:49| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月04日

アドラー心理学『嫌われる勇気』の続編『幸せになる勇気』も素晴らしい本でした。

昨晩は、夜遅くまで某所で会社法について喧々諤々議論をして会議終了。

久しぶりに勉強の世界の中で、半ば忘れていた会社法の定義とかを、脳味噌の奥の奥から取り出した。

不思議な事に、こういう場になると、定義がちゃんと出てくるんだねえ。自分でも驚いたわ。

これも、基本ができているから、新たに生じた問題をあれこれ知識を総動員して、解決策を講じることが出来るんだね。

東大首席卒業生の勉強法の本を読んで、ああ、なるほど、勉強はし続けないと・・・というか、目的意識をもって、身につく勉強しないとなあ、と感じいったので、今日からココロを入れ替えてまた勉強してみよう。

ベストセラーになった『嫌われる勇気』という本は素晴らしかった。

メモを取りながら、1年ほど前ふむふむと2度ほど読んだ。ニーチェが本当の姿の世界を痛烈な言葉で露呈させるのと似て、めくるめく新たな世界が眼前に現れてワクワクした。

けれども、どんなことが書かれていたかと思い起こせば、まったく心もとない。

というのは、その続編『幸せになる勇気』という本を手に取り、躊躇なく新刊を久しぶりに買って、その中で、前作で触れた箇所が何回か出てきたのだが、その記憶は曖昧なのであった。

アドラー心理学、素晴らしいです。

心理学というより哲学に近い。

ソクラテスが、問答形式で、我々が知っていると思っていることが、実は、全くわかっていないことを明らかにするように、はっとすることがかかれてある。

ところで、僕が唯一楽しく読める哲学書がプラトンとニーチェ。

プラトンは文学書みたいだし、ニーチェは、自分が3歳から幼稚園くらいに大人に感じていたことを思い起こせば、そのとおりと納得できる。

どちらも、わかりやすい日本語で書かれている。時に読み返し読んでいるけれども、その場その場で、なるほどと、頭の中でソクラテスやニーチェの言葉を理解しているのだが、読み終えてどういうことを本当は言っていたのか、ということを反芻すれば、ほとんど頭に残っていないんだな。

まずは、きちんとその理論を、理由を理解しよう。そして、反芻しよう。

読書というのは、その作者の考えを自分の頭で再現させる作業で、決して自分で考えることではない。作者の考えを自由に自分の頭の中から取り出すことが可能になって初めて、その考えが自分にとって役立つことになる。そうなってこそ、有益な読書になるのであって、振り返ってみると、そういう本というのは、何冊あるだろうかと数えると心もとない。

この歳になると、広く浅く読むよりも、狭く浅く徹底的に精読することが大切になってくる。

一事が万事。こういう態度で、知識を吸収し、それを基礎に自分の意見が言えるくらいに勉強しないとね。

というわけで、何度も読みますよ、自分の言葉でアドラー心理学というものをうまく説明できるぐらいに。

こういう態度が今年の課題。基本は繰り返し繰り返し練習するということだね。

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2016年03月03日

東大首席弁護士が教える超速「7回読み」勉強法

東大首席弁護士が教える超速「7回読み」勉強法

という本を読んだ。

作者は、猛勉の挙句、国立の高校に受かって、東大に現役合格し、在学中に司法試験に合格し、主席で東大を卒業し、子供の頃からの夢であった大蔵省の官僚になるものの、2年で退職し、会社法務の弁護士事務所で弁護士登録し、今に至るという経歴である。

勉強法については、これが王道でしょう。とやかくいうことはない。

とにかく、参考書等を7回は読めということ。

僕が書いても、全く説得力がない。

こういう輝かしい経歴があるからこそ、この本はよく売れた?に違いない。書かれていることは、本当に勉強法の王道であるにすぎないのだから。

ぼくも、資格試験を受けた時は、7回と言わず20回以上、分厚い過去問を馬鹿のように解き続けたし、条文も受験科目は暗記するほど読み込んでいた。

だから、この勉強方法が最適であるということは自信をもって言える。

勉強は繰り返しである。読むごとに、読解力を掘り下げていく。そうこうするうちに、その本は、自分の血となり肉となり、その本に書かれていたことからの応用も効くようになっていき、その本に関する議論も人と出来るようになる。

この本は「勉強法」としての本の役割は200%果たしていると思う。皆、勉強を始めたいと思っている人は、一度読んでみるべきであると思う。

感銘をうけたのは、この作者の人生である。

なにゆえ、夢だった大蔵官僚を2年で辞めたのか・・・というところが少し気になるが、一点の曇もないわかりやすいエリートである。

また、高校試験、大学試験、司法試験、国家公務員試験と、勉強して合格すれば手に入る地位にそのまま着いているというのが味噌。

これほどまでに、わかりやすい経歴はありますまいて。

すなわちそれ故、人生は勉強次第でどうにでもなりそうであるという感覚がこの本の通奏低音に響いている。

ふ〜ん、こういう人がいるんだ・・・。ある意味とってもわかりやすい漫画のキャラクターのようなもので、それが実際に、現実にいるということに本を読んで驚いたのだった。

官僚やら、大手の(多分)法律事務所でのサラリーマン弁護士とか、東大首席で卒業するとか、ほとんど、その立場にいることさえ、ぼくは御免被りたいけれど、こうして、前へ前へと進む原動力はいったいどこにあるのだろうと、ふと考えてみたのだった。

人生は、試験に合格すれば道が開かれる・・・ということもあるだろうが、そうでもないこともきっと多いだろう。実際、大学に受かってから、資格試験に合格してからの人生のほうが、長いだろう。

個々で思い出したのが、森鴎外の『青年』からの一節。

一体日本人は生きるということを知っているだろうか。小学校の門を潜ってからというものは、一しょう懸命にこの学校時代を駈け抜けようとする。その先きには生活があると思うのである。学校というものを離れて職業にあり附くと、その職業を為し遂げてしまおうとする。その先きには生活があると思うのである。そしてその先には生活はないのである。

この本を読んで、寒々しいと感じたのは、こういう、生活の在というものを感じたからにほかならない。

試験に合格することによって切り開かれたと思う人生、試験に合格すれば手に入ると思わるる人生、そういう人生が試験に合格することによって予定されていると考える人生、そんな風に著者は考えているのだろうか?

生活が不在しているから、合格して手に入れた地位というのは、不毛としか言いようのないものだ。

不毛な人生は、また、新たな目標を見つけることを要求するから、試験というものが、人生そのものだと考えていくしかない。

試験に受かるということは、それまでチャレンジしていた立場がなくなって、人生が平板になるということだ。

自分に一体化した人生というものがない人は、何らかの形で人生を作り出さなければならない。

通常、人は、人生と一体化し、それを酸いも甘いも味わい楽しんで、付け加えるものは必要ないはずだ。

人生とは試験に合格することだというふうに考えてしまう人生は、その過程よりも結果だけを求めるから、自分自身の存在理由が欲しければ、また、何かのチャレンジをして、人生に彩りを加える必要がある。

新たに何かをチャレンジする。そして、いつしか、手段が目的となってしまう。

大蔵官僚時代に、上司からの質問とか、上司が要求するものに応える技量というものも、試験と捉えて、シノギを削っていく姿は痛ましい感じがしたのだね。

勉強は楽しくないと彼女は言う。

試験に合格するためには我慢しなければならないもの、それが、勉強だという(多分)。

その試験に合格するという結果だけを求めるというのは、これつまり、サラリーマン社会の競争みたいで興ざめしたんだけれど、僕の受験時代でも、早めに受かった人というのは、こんなふうに効率よく、理解できなくても、点数が取れればいいじゃないのと勉強を進められる人が多かったような気が。

僕は、初めて、試験勉強を本格的に一生のうち一度だけやったんだけれど、効率的に勉強するにはしたけれど、法律という勉強も楽しかったから、あまり他の受験生が読まない学者の本をウンウン唸りながら読んでいた。

そうこうするうちに、法律というものの面白さがわかってきたのは事実であって、未だに、法律の体系書を読むのは好きである。ああ、法律を嫌いにならなくてよかった。

調べたところによると、この方は、テレビの出演も多く、有名人にもおなりになったようだけれど、この方のこれからの人生、先が危ういなあ、と感じたりしたのでした。

というわけで、この本は、あらゆる受験生を対象にした本で、作者自身の人生論ではないので、こういう驚き呆れたという負の印象を書くのはどうかと思うのに加えて、私、この本、1度しか読んでおらず、表題のごとく7回読んでおりませんので、私がこの本で感銘を受けた店に関しては、大いに勘違い等がありますゆえ、その点、ご勘弁を。

 

posted by ロビオ at 16:35| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする