今日もジョグ。
およそ2時間以内で20キロ毎朝走るというのがわかりやすくていいという理由でいいかなと思うのだけれど、毎朝15キロ走る終盤には、さすがに足に疲れが溜まっていて、あと5キロというところで躊躇する。
15キロを走っていても、二日走ると三日目は、体が重く感じられるので、20キロを疲れを溜め込まないで連日走れるようになるには、まだまだ体ができていないような気がする。
今のボクの疲れを溜め込まずに走れる最適な距離がこの15キロあたりのだろう。しばらく走り続けて、物足りなくなり始めたら、距離を伸ばしてみよう。
新訳光文社文庫のコンラッドの「闇の奥」を読み終える。
岩波文庫の「闇の奥」は、3回ほど学生時代に挑戦したのだけれど、ほんの数ページで嫌になって、あるいは、眠くなって、読み通すことのできなかった気になる1冊ではあったのだ。
この本は、言うまでもなく、コッポラ監督の「地獄の黙示録」の原作で、カーツ大佐がクルツという風に、配役の名前もよく似ている。
原作は、新訳ということで、とてもわかりやすい日本語にはなっているのだけれど、それでも、茫洋として焦点のぼけた物語で、クルツが連絡を絶って象牙を勝手に集めている村落まで、各箇所で何ヶ月も足止めをくらって、なかなかたどり着けない、というストーリーそのまま、読者の方も、なにがなんだか煙に巻かれたようで、物語の核心に到達できない感じなのだ。
そんな原作を映画化した「地獄の黙示録」も、主役のマーチン・シーンは、心臓発作で倒れ、マーロン・ブランドはだだをこねて途中アメリカに帰ってしまったり、フィリピンロケ最中に台風が襲来して、こっぴどい損害を受けて、当初の予算を遙かに超えてコッポラ自身破産寸前まで追い込まれて、まさに、狂気の世界を地でいくように完成させた映画なのだった(この映画を制作した時のメイキングムービーが単独で公開されたはず。この映画を作ったということが、グリフィス監督の「イントレランス」のように、一つの偉業なのだ)。
原作を初めて読み終えて、なるほど、この原作に呪われたかのような映画進行だったんだなあと思う。
立花隆の「解読「地獄の黙示録」」いう本は、それなりに面白かったのだけれど、エリオットの「荒地」やフレイザーの「金枝篇」も下敷きにしているという事だったので、そんな風にひねくれた脚本(ジョン・ミリアスとコッポラの共同作業)でストーリーが難解になったのかなと思っていたのだけれど、原作自体が難解というかわかりづらいので、この「闇の奥」を映像化し脚色するには、とことん苦労したと思われ、絶体絶命の窮地から迸った言の葉が、ミリアス・コッポラを根本から支えている英米文学の「教養」で、結果、評論すると、そうしたものが下敷きにされたと評されるのではないかと思う。
なにせ、あの天才、オーソン・ウェルズが映画化しようとしていたというから、かなり野心的な題材ではあったのだ。
こうして、原作を読むと、また映画が見たくなる。
この映画は、本当に素晴らしい。
最初見たのは、高校の「映画鑑賞会」で、全校生徒が有楽町のみゆき座だったか、に連れられて見たのだけれど、あのワルキューレの行進で、ロバート・デュバル扮するキルゴア中佐の狂気とナパーム弾の威力に圧倒されたものの、全編に流れるロックに感動した他は、何が何だかわからず、感動の爆発はなかったのだけれど、何故か気になる映画で、年に1度は必ず見る映画の一つなのだ。
キューブリックの「時計仕掛けのオレンジ」や「2001年宇宙の旅」なんていうのも、年に1回見たくなる映画だけれど、こういう未完成な振りをして、深遠な疑問が次から次へと浮かんできて、それを解明する度に、違った角度から「意味」を見いだせるようなな映画で、生まれた子供が、一人歩きして成長していくように、監督や製作者の当初の意図を遙かに超えて、不滅な生命を得ているというのが素晴らしい。
特別完全版は、エピソードが追加されていて、かなり物語をわかりやすくさせている。フランス領であるから、フランス人の植民地経営者が出てきたり、ここの奥さんとウィラード大尉が寝てしまったり、右往左往しながら物語が進行していく様は、まさに、「闇の奥」の原作さながら、何処にも行き着けない迷宮を船で進んでいるような印象を与える。をなるほど、こうやって物語は繋がるのか!と目から鱗が落ちることもあるだろう。
当初の劇場版とこの特別完全版の2つをもっていれば十分に「一生」楽しめる映画である。そして、鑑賞する側にもある程度の努力が必要で、この「闇の奥」を読んでおくとより一層深く映画を味わえる事になると思う。
ああ、映画の話になってしまった。




