膝の痛みが再発しないように、ゆっくりとグリーンラインに登るものの、気がついたら、白石峠を2回登って、汗だくになった。
そうなると、今日も累積標高3000メートルを目指したくなり、正丸峠を登り、大仁田峠を登り、倉掛峠を2度登り直し調整して、山王峠を登り、クリーンセンター坂で、3030メートル。
ハンドルの位置を最高に高くして、サドルの位置を少し下げてみたけれど、下りでの首の痛みは軽減されず。フレームの大きさに問題があるのかしらん。下りで楽しめないのは、苦痛。
膝の痛みが再発しないように、ゆっくりとグリーンラインに登るものの、気がついたら、白石峠を2回登って、汗だくになった。
そうなると、今日も累積標高3000メートルを目指したくなり、正丸峠を登り、大仁田峠を登り、倉掛峠を2度登り直し調整して、山王峠を登り、クリーンセンター坂で、3030メートル。
ハンドルの位置を最高に高くして、サドルの位置を少し下げてみたけれど、下りでの首の痛みは軽減されず。フレームの大きさに問題があるのかしらん。下りで楽しめないのは、苦痛。
膝が腫れて痛むので、馴染みの整形外科に通院し、レントゲン写真を見ながら、骨に異常がないことを確認。まあ、これは打撲した記憶がないので、想定内のこと。
で、この膝の皿の下あたり、骨がぽこっと突き出た当たりの先端部部が痛むのだけれど、ここが痛むのは、小学生など体の成長が未熟な時に痛めることが多いらしく、大人になってここを痛めるのは珍しいらしい。
なんでも、足を持ち上げてぐっと下に踏み込むような動作をするときに痛めるのだそうで、これはまさしくペダリングのことかい、と、土曜日日曜日に重いギアをダンシングで踏み込む動作を何千回も行った事による障害だったのかと妙に腑に落ちたのだった。
「一個人が、現に自分がもち、またもちうるかも知れぬすべての関心や目的を無視して、自分に内在する意思の血潮のすべてをある対象にそそぎ込み、この目的に向かってすべての欲望と力を集中させるとき、個人の全重量に込められたこの関心を情熱と名付けることができる」
という文章に、ヘーゲルの「歴史哲学講義」の中で出会い、これって、一心不乱に坂道でダンシングペダリングしているときの様じゃないか、と驚き、あれって、「情熱」に近い感覚なんだと合点して、以後こうしたペダリングを「情熱」と呼ぶことにしたのだった。
「情熱」も度が過ぎると故障を引き起こすこと、歴史が物語る以前に、僕が体験してしまったわけだ。
というわけで、膝を壊して無理を重ねると、どれだけ長引くかは、登山初心者の頃大いに味わったので、運動は即中止。
朝5時前に起きて、ヨガを行い、ソファーでちっとも前に進まない岩波文庫の哲学書の文字の配列を縦に目を滑らせ、なんとか、単なる無意味に思える文字の配列が意味を持ち出して腑に落ちる事にはならないかと期待しながら、丹念に字を読むのだった。
しかし、ヘーゲルの「歴史哲学講義」は、読みやすい哲学書らしいが、ホントかね?確かに、とりつく島がないほどではないけれど、僕にとっては、麦草峠クラスの大きな峠に取りかかった様な気分で、体力を消耗しながら読み進めているのだ。
上下巻あるので、これで2ヶ月は、楽しめる(苦しめる)。今まで、現象学入門とか、ヘーゲル入門的な本を読むことが多かったけれど、やっぱり著作を読むにこしたことはない。
それらは、「入門」という名の本を隠れ蓑にして、解説者の学者的野望を満たすためといっていいほどの偏向した意見に基づいて書かれたものが多く、かえって難しくというか、訳がわからなくなるものだ。ぼく達は、前人未踏の地平に到達した天才の考えをなぞることが読書の妙味であって、一般人の大学教授の文章を読みたいわけではないのだから。
次は、二ーチェの「善悪の彼岸」だな。やはり、ニーチェは面白い。
というわけで、そんな日々を数日。痛みが完全に切れて無くなるまで我慢。自分でも驚くほど我慢した。
昨日は、少し痛みが残っていたのだが、今朝は、全く痛みがなかったので、10日ぶりにジョギングに出かけたのだった。
走り始めて、違和感は少しあるものの、痛みは無し。腫れは少しあるものの、まあ、ゆっくり走れば良いだろう、といことで、心拍数は、130に設定。
10キロを65分の超のんびりペースだった。
不思議なことに、この10日間ジョグしなかったのに、体重は、64キロ当たりで安定。
これに、ジョグが今日から始まったので、来週は、63キロ台で安定するように、積極的にダイエットに参加できる。
先週の雨の日にジョギングをしてから、膝に違和感を覚えて、自重してジョギングは休んでいたのだが、今朝ほど、妻に左右の膝の形が違う事を指摘されて、フニョフニョと膝下の更に皿の下の出っ張りを弄っていたら、痛くなってきた。
形が変わっていると言うことは、水が溜まっていると言うことなのかしらん。
自転車は、膝には負担がかからないので、OKなんだけれど、これじゃしばらくジョグはできませんなあ。残念です。
最近、坂道ばかりを走っているので、平地が詰まらなくなってきて、どうにもこうにも、名郷飯能なんか走る気が全く起きない。これも困ったものだ。なんか、そこに坂があれば、喜んでヒョイヒョイと登るのだけれど、平地は苦手だ。
と、平地ばかり走っていると、坂を避ける傾向もあり、なかなかロードの練習も難しいものがある。
読書もそうで、単なる暇つぶしのための読書というものは、できなくなってきて、自分の限界を超えたようだけれど、頑張れば読み通せそうな本に焦点を当てて読んでいるのだ。
先週は、炎天下に負けて、辛い坂道を登ることになったのだけれど、現在読んでいるニーチェの「道徳の系譜」も、これも炎天下の麦草峠を登っているように、辛い辛い。何度、途中で足を着いちゃおうかと思ったことか。そのたびに、なにくそっと、ダンシングでスイッチバック的激坂を乗り越えてきたのである。
言葉の意味の振幅が大きいのか小さいのか、これって日本語かよ?という文章が延々と続き、詩人の跳躍的表現に翻弄され、(多分)常識事項は省かれているので、直接に問題提起が現れるので、路頭に迷いつつも、時に頭にバチッと閃くものが通過するときもあり、数行わかったつもりで嬉々として読み進み、あっという間に、晦渋の海に突き落とされて、文字が目の中を滑って、なかなか意味が通らない。
悔しい、ニーチェの後ろ姿がどんどん遠くなるようで・・・。が、哲学書なるもの、相当な訓練が必要で、ニーチェの場合は、ワザとわかりにくくし牛のように反芻して咀嚼しないと下痢をするというような塩梅で文章を書いているようで、なかなか一筋縄ではいかないのだ。
天才と会話をするようになるには、それ相応の準備というものが必要で、実力不足の人には、面と向かって対話してくれないものである。いつになったら、目を合わせてくれるのか。
が、もうあと、20ページくらいでとにかく読み終わる。
一度読み終えたら、これが又、無二の知己を得たような気分になるのがこの手の本で、次回は、線を引きながら、更に深みに流れる思想に手を触れたいと思うのだ。
というわけで、やはり、読書は辛い辛い本を読み通すのが一番。
次は、ヘーゲルの「歴史哲学講義」をば。
と、そんな風に、辛い事じゃないと満足できないようになるということは、何事においても実力がついてきたということで、自分の取り巻く世界が、知らず知らずのうちに変化して、自分に取り巻いてくるということでもあるのだ。
だから、何事も、楽な道と辛そうな道があったら、辛そうな道を選ぶような、危機を選ぶような人生を選択したいと思うのでした。
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