2017年09月17日

『マイビューテフルガーデン』と『未来よこんにちは』と『ダバ・インディア』

飯田橋ギンレイホールで、『マイビューテフルガーデン』と『未来よこんにちは』の二本を鑑賞する。妻と(笑)。

妻と映画館で映画を見るのは、ず〜っと昔の『レ・ミゼラブル』以来かも。

『マイビューテフルガーデン』は、『アメリ』から悪ふざけを抜いたようなおしゃれな映画。

『未来よこんにちは』は、イザベル・ユペール主演の「それでも人生は続くよ」という内容の映画。

英語圏の人たちは、よくLife goes on(人生は続くよ),というフレーズを良く使う。

オブラディ・オブラダというポール・マッカートニーのビートルズの歌の中にも、このフレーズが飛び出すし、映画だと、ショーン・ペン主演の映画『21グラム』という作品で、このフレーズが3度使われていたと記憶する。

人生山あり谷あり。生きてりゃいいことも悪いこともあるさ。ここでへこたれても、人生はそれでも続くんだよ。

そんな風に使われるんでしょうか?

『未来よ こんにちは』の主人公に降り掛かってくる災厄、苦悩、煩わしいこと、それから逃げることなく、受け止めて、しっかりと歩を緩めることなく、未来に向かって毅然と立ち向かっていく姿に、リアリティを感じました。

イザベル・ユペールという女優は、最近では、『アスファルト』という変な映画で、落ちぶれた女優の役で素晴らしい演技をしてましたが、この映画でも、淡々とした演技が光ってましたね。

映画が終わったら、京橋の南インド料理屋の「ダバ・インディア」へ。最終オーダーの14時30分に滑り込んだ。

この場所は、先週、印度哲学の勉強会のあと、インドのお坊さんと受講生でここで昼食をしに行ったのでした。僕は、仕事があり、不参加だったのだが、皆さんベジタリアンなので、ベジタリアン料理もあるはずというわけで、妻を誘って、行ってみたのでした。

僕は、ベジミールスという、野菜のカレーのランチを、妻は、ドーサというインド風のガレットのランチを。

台風到来の雨の中、それでも、ほぼ満席だったが、待たずに座れたのはよかった。

家で作るカレーもいいけれど、たまには、こういうところで、味の確認をするのも大切ですね。

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2017年09月16日

『転校生』と『さびしんぼう』

新文芸坐での大林宣彦監督特集のプログラムも残り僅かになってきた。

尾道三部作のうち2作、『転校生』と『さびしんぼう』を見る。

映画館は、初回なのに、満席。ここまで、新文芸坐で、満員だったのは・・・ちょっと記憶に無い。

とにかく、『転校生』と『さびしんぼう』は大傑作であることに間違いない。

尾道三部作というのは、大林宣彦監督が監督をした尾道を舞台にした『転校生』『時をかける少女』『さびしんぼう』のことをいう。

尾道を舞台にした映画と言えば、小津安二郎の『東京物語』がある。

そして映画フアンとしては、この尾道には、あのごみごみとした東京下町の路地に坂を多くしたような海の見える平家に、笠智衆と東山千栄子と娘の香川京子が未だに住んでいるんである。

お寺の階段。『時をかける少女』で火事を見に行った路地。それらが、この三部作でも、三作に渡って同じ景色が映し出されている。これらの映画のおかげで観光地になったようで、僕も行ってみたくなったね。

そんな映画フアンの心象風景を壊すことなく映像化しているのが嬉しくなってしまう。

『転校生』のヒロインは、小林聡美。『さびしんぼう』は、富田靖子。

どちらも、タイプはぜんぜん違うんだけれど、どちらも大好きだなあ。

とくに、小林聡美は、この映画だけで引退したとしても、映画史上に残る名演技だったのではないでしょうか?

『さびしんぼうの』ラストの雨の降る中のツーショットは、海外の映画の文法の教科書に載っているほどの名場面です。

とにかく、この2作は、大林宣彦監督の二つの大きな頂点であることは間違いない。

両作品とも複雑な哲学的な心理学的なテーマを扱っているので、これから、これを題材にして、あれやこれや考えたいと思っております。

みなさんも、是非、DVD等でご覧になってくださいませ。

映画が終わって、拍手が起きましたよ。こういうのも、久しぶり。

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2017年09月15日

さ、勉強しなくっちゃ

二日に一度、早朝にパンを焼くので、二日に一度、早朝ランニングに出発する。交互に、パン焼きとランニング。

リズムができると、そのリズムに合わせて生活が成り立つ。

習慣は第二の天性なり、というけれど、体という、いわば白紙の五線紙に、楽譜やリズムを書いては消していくほどに、確固たる自分の曲が出来上がっていく。できれば、そのリズムは、自分の心拍と同調したい。

新しいGPS心拍計Garmin forathlete630Jは、すぐにGPSを捕捉してくれてストレスなし。今までになかった機能として、左右の足のバランス(なにのバランスかは不明)とか、体の移動の上下差とか、着地時間とか、ケイデンスとかを計測してくれる。また、最大酸素吸収能力とか乳酸閾値も計測してくれる。シリアスなランナーにとっては、とても充実した機能が満載だが、僕にとっては、宝の持ち腐れかも。

ただ、1分間に繰り出す左右の足の歩数は、180から190だったり、走る際の上下動は意外に少なかったり、GPSの判定だと、上級者のランクになっている。

ヨーガの呼吸法でも最大酸素摂取量は増えていくのかも。

というわけで、こういう機能はあまり必要のないものかも。走り込んでいけば、無駄がなくなっていくのでしょう。

さてさて、忙しさにかまけて、大幅に勉強が遅れているサンスクリット語。なんとかしなくちゃ!

というわけで、これから、勉強の予定表を考えてみる。

これも、習慣にして、座ったらすぐに勉強モードという風にすれば、「第2の天性」にすることが出来るはずでしょう。

いろいろと反省すると、ほんとうに、無駄な時間ばかりを費やしておる。

さ、勉強勉強!!!

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2017年09月12日

草枕とインド哲学とフォーアスリート635J

インド哲学によると・・・肉体が滅んで来世に魂とともに運ばれるものは二つしかなくて、それは、智慧(ジュニャーナ)と今世で行った行為(カルマ)だけだと教わる。

これがあるからこそ、魂は個性をもち、その魂ごとに輪廻転生する原因となっているわけだ。

インド哲学では、個性というものは、あまりいいものではなく、魂は、永遠で、無限で、偏在するものであり、私という存在もそうした魂であるのであるから、自分自身を知って悟った暁には、私は私という個性を止めて、宇宙と合一してしまうらしい。

なにか、後生大事に大切なものだと考えていた個性というものが、実は、無知に彩られた幻影にすぎない、と、こういう風にインド哲学では、考えているようだ。

まあ、こういう風に言われれば、智慧を身に着けるべく、インドの聖典を勉強しつつ、善い行いを行っていきたいとも思うし、こういう勤勉で、倫理的な態度は、人生において役立っていくことであらうとも思うのだ。

そして、インド哲学を勉強していくと、独自の視点というのが生まれてきて、映画を見ても、小説を読んでも、人の話を聞いていても、最近では、「インド哲学的な見地からすると」という風に鑑賞したり判断したりすることが多い。

映画を見ているのも、印度哲学の事例応用的に利用している。

なかでも、夏目漱石の著作は、インド哲学的な見地から読むと、ふむふむなるほどと理解が深まるような気がするのである。

とりわけ、漱石が、若い頃、印度哲学の手ほどきを受けて、サーンキヤ学派の影響を受けているというのを、岩波書店の夏目漱石全集の注で初めて知ったのであって、『草枕』を読むと、その学派の主張するプルシャとプラクリティについて、夏目漱石風に小説に仕立てている。その「非人情」という概念がそれである。また、後日、修善寺での喀血後に言ったと言われる「則天去私」というのも、印度哲学の香りが濃厚である。

それは、物質界である心やモノを超えたところに魂があり、その魂が俗世間を覗いたときに生まれるある種の境地をいうのであろう。

というわけで、ちょいと前に読んだサリンジャーの『フラニーとゾーイー』と夏目漱石は、インド哲学風な小説を書く二大巨匠である!ということで、興味が尽きないのである。

そういえば、則天去私というのも、このインド哲学に触発されての境地であろうと思うのだが、そういう話を聞いたことがないのはなぜだろう?

数ヶ月前に漱石の『道草』を読んで、その人間の心の描写の的確さに驚いたのだが、『草枕』の語彙も壮絶という感がある。キンドルに入っている日本語辞典で分からない言葉を引くと、その出典としての例が、『草枕』だったり『三四郎』だったりする。

チビチビと線を引きながら(キンドルなのでハイライト)、現在、インド哲学という観点から『草枕』を研究中。

あ・れ・ま!

当初に書こうと思っていたことから、ぜんぜん違う方向へ話が向いてしまった。

そうそう、ランニング時のGPSガジェットについて書こうとしていたの。

もう相当長いこと利用してきたガーミンのオレンジ色したフォーアスリート310XTが、時々、スイッチが入らなくなることや、コンピューターにデータを送るとエラーが出るくらいならまだ我慢できるが、2,3日使わないでいると、GPSを捕捉するのに、下手すると20分も30分もかかるというところが気に入らなかったのだった。

まだ使えるので、利用していたが、そろそろ新たなGPS腕時計を買ってもいいころじゃないかしらと思っていたところ、アマゾンで、25,000円で、心拍計付のガーミン フォーアスリート635jというのが出ていたので、ポチッと。

なんでも、最新の心拍計は、ほとんど僕には必要と思われない機能であるが、体の上下動やらピッチ長やら足の設置時間を算定してくれるらしく、単独で購入すると16,000円もするという。

この心拍計に、本体も付属して、2万5000円ならいいのではないかと考えたのだった。

それで、これを使用してみたところ、家を出て、スイッチを入れるとたちどころに、GPSを補足してくれて、ストレスなし!

う〜ん、これだけでも、買ってよかったね。

最近では、腕から心拍数を測るものが多いようだけれど、誤作動も多いようで、これはこれでストレスがかかりそうだ。

そして、この心拍計は、かなり正確に心拍数を計測してくれるし、乳酸閾値という昔から知りたかった数値がこのガジェットで計れるのは素晴らしいと思いました。

というわけで、この乳酸閾値の心拍数を参考に、これからもね、運動をすこしずつやっていくわけでありました。

 

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2017年09月11日

『台北ストーリー』と『タレンタイム 優しい時間』

飯田橋のギンレイホールで、『台北ストーリー』と『タレンタイム 優しい時間』の2本を鑑賞。

最近余り見ることのない台湾映画とマレーシア映画である。

どちらも良くできていて、『台北ストーリー』は、舞台は台北なのだが、まさに1980年ころの東京のバブル時期の「嫌な匂い」が充満していてるものの、なんだか懐かしい。

そういえば、この間見た『横道世之介』は、ずばり、僕の母校の同じ時期の大学キャンパスが再現されていて、これもまた、その当時の「嫌な匂い」があって目を背けた。

『台北ストーリー』は、日本発バブルの波が台湾を襲い、その変わりゆく台北に生まれてからずっと育った今は同棲している幼馴染の周辺を描いた物語である。

原題は、「青梅竹馬」と出ていたので、調べると、おさななじみ、のことだという。

周りの世界はどんどん日本のバブル経済の破壊力を受け、人をどこかに連れ去っていってしまうのに、、おさななじみは、皆、そこから一歩も踏み出すことのできないでいる、その閉塞感を描いたと言ってもよかろう。

古い人間関係や場所に自分のアイデンティティの碇を下ろしてしまうと、居心地がいいはずのその場所が、いたたまれない、肌に刺すような哀しさ、怒りがこみ上げてくることがあるだろう。かといって、その碇を上げて、新天地に移動することのできない自分がいる。その閉塞感が見事に描かれている。

ショットとショットの繋ぎが芸術的で、例えば、父親と同棲相手と食事をするその娘の関係を、床に落ちたスープを飲む際のレンゲが落ちる音と映像で描き出している。

また、古き良き台北の夜の建物を描く映像は、ドイツ表現主義風に光が映像でしか表現できないものを写し取っている。

『タレンタイム』はマレーシアの映画で、多人種の中に生活している高校生の青春映画でもあるのだが、高校生がバイリンガルやらトリリンガルだったりして、日本人が10年近く英語を勉強してほとんど話せないのは、こういう直に交わる異文化との交流がないからなのだと考えた。

それにしても、宗教というものが人を縛るというのは解せないもので、本来の宗教は自由を与えてくれるものなのに、ああ、人間というものは、人を国土に、家族に、宗教に縛り付けるものなのだな、人が自由になることに恐怖を感じるのだなと思ったが、拙い感想ですみません。

イギリスは、ヨークシャ出身の夫と、現地のマレーシア生まれのモスリムである妻から生まれた娘(もちろん宗教はモスリムである)が、インド系マレーシア人の貧しい、耳の聞こえない青年と恋をするという入り組んだ状況がなかなか泣かせる。

宗教上の違いから生じる問題があぶり出されるものに、娘とその青年に問題解決を委ねる場面で、その妻に向かってイギリス人の夫が「僕達が直面した問題を彼らもぶつかっているんだ。静かに見守ってやろう」というのだが、これが、この映画のテーマでもありましょう。

乗り越えられない問題はないということ。一度嘘の人生を選べば、後悔しか残らないとか、そんなテーマがひしひしと感じられるいい映画でしたね。

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2017年09月04日

豊作といっていいんじゃないか?

咳喘息で10日ばかり静かにしておりました。

とにかく、空咳が出て眠れない、ツライ毎日でございましたが、昨日から復帰。

まあ、今年に入ってから、また来るか!っていう波がたくさんやってきては去りの日々が現在まで続いているわけで、また今日も!っていう具合に、もう日常が非日常化して、もう来る波と同化して、渦に巻き込まれるしかないという状況です。

体の疲れもきっとあっただろうとは思いました。

そうそう、夜にジョギングまでしてましたからね。やや走りすぎたのかも。

まあ、そんな中、印度哲学は勉強しておいてみるものの、成長しているのかしていないのか、がっかりすることも多いのだけれど、自分でも気づかずに、高みを毎日登っているのだと考えて、日々精進していきたいなとは思うのであります。

それにしても、健康のありがたさよ。

こういうツライ目に合わないと、なかなかこういう実感もわかないわけで。

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それでも、ゴホゴホさせながら、田圃の稲はどうじゃな?と気になるので、妻と二人で出かけていって、稲の中に足を踏み込み、稲と一体化したヒエやらアワの類を刈りつつ、地面では、コナギが紫色の可愛い花をつけておって、来年も、こいつと格闘するのは必至だなと決意を新たにしたのでした。

それでも、どうです、この稲穂。豊かな気分になりますね。

今年秋から1年の食料は確保できたような気がします。

ああ、豊か豊か!稔の季節。

あと、収穫までの数週間、天変地異がありませんように!と祈りながら、1時間30分ほど、雑草取りを楽しんだのでありました。

今年1年、というか、たかだか5月からの4ヶ月の稲との付き合いではありますが、自然とともに添い遂げるというか、どうしてほしいのかという稲のかぼそい声を聞きながら、雑草取りでしたがね、農作業って本当に素晴らしいものです。

自分で食べるものを自分で作るという至極アタリマエのことが当たり前ではなくなった瞬間に、人は孤独を感じるのではないでしょうかね。人は、自然とともに歩んでいる限り孤独ではないのかもしれませんね。

自然と直に触れ合いながら、命を繋いでいくこと、このことの大切さを身にしみた今年の夏でありました。

四季はめぐることの素晴らしさっていうのは、こうして時間が来ると収穫の時期が自然に訪れることですね。

ピート・シーガーの「ターン・ターン・ターン」という曲を、ザ・バーズがフォーク・ロックにしてヒットした曲があるけれど、それには、それに適した季節というものがあるのです。

今すべきことにフォーカスして、それに集中しなければならないことが、人にはたくさんありますが、あれもこれもと、一所懸命に生きていると、そのしていることの意味はわからずとも、知らず知らずのうちに、おおきな壁を乗り越えて、高みに立っている自分を見つけることもきっとあるでしょう。

そう考えて、今日も、目の前の難題をやり終えて、いつか気づくであろう収穫を待つことにしましょうか。

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2017年08月18日

夜ラン

このところの雨で、走る気持ちも失せてしまいがちだが、走ることの出来る時には走っている。

早朝は、田圃に行くことが多くなってきたので、早朝に勤しんでいたランニングは、夕食後に行うことにしている。

なんでも、慣れてしまえば、それが当たり前になってしまうもので、夜に走るのも悪くはない・・・が、それなりに注意しなければならないことがある。

飯能という田舎町で、車や人通りが少ないところを選んで走れば、それは、街路灯がないところを走るということになる。

時には、暗闇に吸い込まれて、足元が見えないところも何箇所かあり(足元に注意して歩くか、小走りにする)、これは危ないし、たまに走る車に引っ掛けられないかとヒヤヒヤすることもある。

というわけで、腕に巻いて光を放つランニング用のライトをポチッとした。

850円なり。ジェントス LEDセーフティバンド 桃 AX-950PK

足首に巻けば、多少とも路面の状況もわかるのではないかと期待している。

しかし、夕食後に走ると、横っ腹が痛くなりますね。

あんまり体にはよくなさそうだけれど、9時にはヨガをして寝たいので、そうも言っていられない。

昨晩は、13キロほど走ったが、体重もぐっと落ちたか、夜に食べすぎた分を運動で調整できそうで夕食後のランニングも悪くはない。

もちろん、心拍計をつけて、心拍数130あたりで走ることも忘れない。

このくらいの心拍数だと、疲労回復も早く、疲れが持ち越されることもないようだ。

最近、仕事のことを考えて、寝られない日々が続いたが、夜ランの後は、ぐっすりと眠ることができた。

習慣付けよう。

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2017年08月17日

欲望は火、満足は油

E.Mフォスターというイギリスの作家がいて、その人のエッセイで深く感銘したものがある。

作家は、ある日土地を手に入れた。手に入れた時にはその土地の広さに満足していたが、その土地の境界を眺めていたら、さらに隣の土地も欲しくなってしまったというような内容のエッセイだった。

ものを持てば持つほど欲しくなるということはよく言われるけれど、なぜ、そうなるんだろうと考える切っ掛けになった。

世の中にコレクターという人がいて、何かを一所懸命に集めている。そのことに興味がないものにとって、なんでそんなに集めたいのかとも思うのだけれど、人は、常に、ものを持てば持つほど欲しくなるものなのだ。

お腹がすいたから、食べるものが欲しくなる。裸では恥ずかしいから、服を買わなくちゃ。バカだと思われたくないから、勉強する。人は、何か、それがなくては済ませられないから、ものが欲しいと思うのかと思えば、そうでもないことに驚く。

フェラーリのコレクターとある仕事をしたことがあるけれど、十数台のフェラーリを集めて、まだ集め足りない顔をしていた。

僕も、モンブランやらペリカンやらモンテグラッパとか高級万年筆を使い切れないほど持っているし、一頃は、ランニング用のシューズが靴箱からあふれていた。

なんで、それがなくては済ますことができないわけではないのに、似たような運動靴を、通勤鞄を次から次へと買うんだろう?と自問自答してみると、こういうことなのかなと思いつく。

趣味の自転車でも、トレイルランのシューズでも、リュックでもいいのだけれど、買ったときには大満足しているのだけれど、だんだん使っている内に不満が出てくるものなのだね。

このリュックは、もうすこし容量が大きければ、かさばらずに食料が入るのに!

この自転車がもう少し軽ければ、快適に坂道が上れるし、ステムの角度がもう少し緩ければ体にフィットするのに!

などなど、買った当時には満足していたことがどんどん不満に思えてくる。

と同時に、他人の持っているものが素晴らしい者のように思えたり、新製品が魅力的なものに思えたりしてくる。

この連鎖は永遠に続き、僕らは、満足のいく製品を求めて、リア王のように荒野をさまよい歩くことになる。

言ってしまえば簡単なこと。人は、なにか自分の対象物に対して、完全に満足することはできないのだ。

こんなところなのかなと思う。

マハーバーラタというインドの聖典では、こんなことが書かれている。

欲望は火、満足は油。

火に油を注げばさらに燃えさかるのに似て、欲望に満足という油を注げば、さらなる欲望が生じるのだと。

実に見事に、この欲望が生じるプロセスを説明しているじゃありませんか。

コレクターとは、なにか欲しかったものが手に入ったとしてその場では満足していたのだが、すぐに、その満足が、次の違うものが欲しいという欲望に火がつき、さらに、ものが欲しくなってしまうという連鎖から逃れられない人のことを言う。

このことって、モノを集めるだけではなく、人間関係でも、仕事でも、なににでも当てはまるのではないかと思われる。よくよく考えてみないといけない。

欲望を満足させると枯渇感がやってきて、この枯渇感を埋めるためにあらたな大きな欲望を満たすようになってしまう。さらに悪いことに、この欲望を満たすことの邪魔をするものや状況を憎むようになる。

ことほどさように、欲望は不幸の始まりというわけです。

だがしかし、この欲望は、人が生きていく上でのエネルギーにもなるので、賢く制御することが必要なのだろうけれど、うまく話がまとまらないので、このへんで。

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2017年08月16日

ヴェジタリアン生活に至ったわけ

今年から本格的に無農薬で米作りをはじめた。

あっという間に、雑草が生えてしまい、毎朝、田圃に出かけて、鎌で刈り取り、手で根っこを引きちぎって、土の中に埋めた。

昨年は、雑草取りをあまり熱心にやらなかったために、米の収穫量が減ってしまったと思って、今年は、雑草取りを熱心に行ったのだ。

稲を残して雑草を刈るということは、つまり、米の収穫量を上げたいがためにそうするのである。

自分の利益のために、生き物を殺しているのだな。

なんと罪深いことだろう。

里山の宅地造成に反対をしていたことがあったけれど、自然を犠牲にして会社の利益のために宅地をつくるなと反対していた当の自分が、自分の利益のために、雑草を刈っているのではないかとふと思いついたら、もういけない、この雑草刈が、生き物を大量に殺戮しているかのように思えて、吐き気がした。

このように、人間が生きていくということは、罪深いことなのだ、無農薬で米を作るということでさえ。

こうした感性が僕の中に生まれたのは、宅地造成の反対をしていた頃に、あれやこれや、自然の権利とか、環境倫理学とか勉強していた素地があったのかもしれない。

さらに、ヒンズー教の中にあるアヒンサー(非暴力)という戒律があるということを本格的に学んだからではないかと思う。

このアヒンサーという考えを深めたのがガンディーで、『獄中からの手紙』という岩波文庫の本で確認できる。

生き物を殺すことは良くないことで、そうすることで悪い印象が心のなかに生まれて、修行の妨げになると、ヨーガの経典である『ヨーガ・スートラ』でも、ヨーギーが行うべき戒律として書かれているほど重要な概念なのだ。

ところで、僕がベジタリアンになったのは、ヨガを再開したずっと前で、一時的に肉を食べる時期もあったが、体の体調も良くなく、心が乱れる(多分、倫理的にだが)ので、きっぱりと肉喰をやめてしまった。

馬鹿のように運動をしていた頃、僕はヴィーガンという肉類を全く食べない主義で過ごした。

月に、1200キロを自転車で乗り、300キロのトレイルランニングの運動量をこなした時、僕は、そのヴィーガンだった。

これで、筋肉はしっかりと付いたし、体の体調もよかったから(ただ、運動のし過ぎで貧血ぎみだったかな?)植物だけの栄養でまったく体の機能的な問題はないと思っている。

現在は、ヨーギーの生活では、乳製品はOKらしいので、たまにチーズを摂ることもあるし、たまに卵を食べることもある。

ところで、ベジタリアンになった理由であるが、こんな風に考えている。

生きていたい、自由でありたいという要求を動物はもっているがゆえに、こちらが捕らえようとすると動物は逃げる。

動物を自分の手で捕まえ殺し解体して食べるのならば自分の行為に対する責任を取っているような気がするが、スーパーに並んだかつての動物の肉を自分の手で殺すことをせずに、それがかつて生き物だったという事実を隠蔽したパックされた形で購入することは、倫理的に無反省な行為ではないだろうか。

ああ、ここにも自然との直接性を絶たれた現代人の姿があるのだね。

想像しよう。如何に動物が断末魔の叫びを上げて殺されているのか。

雑草でさえ、引き抜かれ鎌で刈られるときにその叫びが聞こえるような気がする。

捕まえようとすれば逃げる動物を捕まえて食べることは、動物に食べてもらうために甘い実をつけるフルーツや、食べようとして捕まえても逃げはしない植物などを食べるほうが、ずっとましだと考える。

それ無しでやっていけるなら、断末魔の叫びを上げて殺される動物を食べるより、植物を食べて、この体を維持していくことは、幾分ましなのではないかと考えているのである。

ここは、丹念に考えなければならないところだが、いまのところは、そう考える。

自分の生を維持する為に、他の生物を食べなければいけないという悲しみを感じるようになったら、ヴェジタリアンに人は向かうのではないかと思う。

いろいろな反論もあるだろうけれど、僕はそう感じ、そう実践している。

それに、とても野菜は美味しいのだよ。

そんなわけで、ベジタリアンが多いインドの料理を毎週末に作って、食事を楽しんでもいるのだ。

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2017年08月15日

生きていく目的っていうのは

この3連休は・・・

印度哲学の勉強会に参加したり、3日連続で、トレイルランニングを楽しんだり、高速道路を久しぶりに走って我孫子駅まで行って用を足したり、もちろん、仕事もして、勉強もして、インド料理作ったりして、まあ、慌ただしくもしっかりと地に足をつけた生活をしておったのです。

昨年までは、せいぜい、トレイルランニングやらジョギングを早朝行って、週末に長めのトレイルランを楽しみ、2日に1度、フランスパンを焼き、週末に料理を作ることを楽しんでいる程度だった。

今年からそれに加えて、本格的に週1回ヨーガ教室に通い、ほぼ毎日ヨーガ、呼吸法、瞑想をやって、かつ、週末には、インド哲学を勉強するために教室に通うようになって、稲作りという農作業も新たに加わって、さらに、映画やら美術館やら博物館に土日の仕事や印度哲学の勉強会の合間に見に行ったりして、土日に家にいる時間があまりなくなった。

土日の定期券の有効活用という観点から、週末は東京へ出かけて、身のなることをやろう!という発想から生じて、こうしてみると相当な時間を自分のために割いているなあと思うのであります。

これ以上、仕事も、勉強も、運動も無理かもしれない。。。と思うものの、サンスクリット語の勉強も始めた(習いに行こうかどうか迷っている)。

ところで、こうして日々の興味あることなどを行っているのだが、それらの共通項は何かと言えば、私自身が成長することに資するというただ一点に集約されるような気がする。

こうした目的に適っているかどうかを吟味して、それに沿うように計画を立て、実行している。

こうしたことに気を向けたのは、酔生夢死という言葉がある日、目に突き刺ささったからでしたただ酔ったようにこの世に生まれて、夢を見るように死んでしまうという、おそらく、殆どの人の生はこうして終わってしまう。苦痛を避け、感覚的な快楽を追求して、ついにこの世を去っていくだけの人生の線路を驀進していた自分に、虚しさと、なんともいえない軽さを感じ、このままでは、必ず取り返しの付かないことになると確信したのでした。

尊敬する松尾芭蕉は、永遠で無限なものに憧れ、一体化しようとする努力をしながらみ、道半ばで去っていきました。

すべての人は、ほんの少しの例外を除いて、道半ばでこの世を去っていく。

しかし、道を完成しようと努力することなしに、なんとなく生きていけば、必ず後悔が生まれるだろう。

印度哲学の勉強をしていると、人生の目的というのは、自己の完成だというのがいたるところで出てきます。

これは、人生の最終目標は悟りを開くことという意味でしょうが、そう大きく捉えなくても、人生を学び、今の自分より少しはましな自分に少しずつ成長していくこと、これが、人生の目的としてもっともふさわしいものなのではないかと考えました。

目的が定まれば、自分の周りにあるものは全て森羅万象がその目的を達するための手段になってまいります。仕事、農作業、人間関係、トレイルランニング、映画、芸術、その他すべたのものが、自分の目的を満たすための手段となってくる。そういう視点で考え、そこに向かって、自分の努力を集中させていけばいい。

かように、自分の生きる目的が定まれば、太陽の光をレンズが集中させ枯れ葉に火を発せしめるがごとく、強力に作用していくのではないかと考えます。

こうしたことを考えながら努力を繰り返しても、まったく思うようには行かないことに歯ぎしりする思い、がっかりすること、すべてを放棄してしまおうかと思うことが多々あるけれど、良いことは蝸牛のスピードでやってくるというガンディーの言葉を味わいながら、日々精進していきたいなと思うのでありました。

posted by ロビオ at 11:53| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする