2009年11月17日

「地獄の黙示録」の原作を遂に読み終える。

今日もジョグ。

およそ2時間以内で20キロ毎朝走るというのがわかりやすくていいという理由でいいかなと思うのだけれど、毎朝15キロ走る終盤には、さすがに足に疲れが溜まっていて、あと5キロというところで躊躇する。

15キロを走っていても、二日走ると三日目は、体が重く感じられるので、20キロを疲れを溜め込まないで連日走れるようになるには、まだまだ体ができていないような気がする。

今のボクの疲れを溜め込まずに走れる最適な距離がこの15キロあたりのだろう。しばらく走り続けて、物足りなくなり始めたら、距離を伸ばしてみよう。

新訳光文社文庫のコンラッドの「闇の奥」を読み終える。

岩波文庫の「闇の奥」は、3回ほど学生時代に挑戦したのだけれど、ほんの数ページで嫌になって、あるいは、眠くなって、読み通すことのできなかった気になる1冊ではあったのだ。

この本は、言うまでもなく、コッポラ監督の「地獄の黙示録」の原作で、カーツ大佐がクルツという風に、配役の名前もよく似ている。

原作は、新訳ということで、とてもわかりやすい日本語にはなっているのだけれど、それでも、茫洋として焦点のぼけた物語で、クルツが連絡を絶って象牙を勝手に集めている村落まで、各箇所で何ヶ月も足止めをくらって、なかなかたどり着けない、というストーリーそのまま、読者の方も、なにがなんだか煙に巻かれたようで、物語の核心に到達できない感じなのだ。

そんな原作を映画化した「地獄の黙示録」も、主役のマーチン・シーンは、心臓発作で倒れ、マーロン・ブランドはだだをこねて途中アメリカに帰ってしまったり、フィリピンロケ最中に台風が襲来して、こっぴどい損害を受けて、当初の予算を遙かに超えてコッポラ自身破産寸前まで追い込まれて、まさに、狂気の世界を地でいくように完成させた映画なのだった(この映画を制作した時のメイキングムービーが単独で公開されたはず。この映画を作ったということが、グリフィス監督の「イントレランス」のように、一つの偉業なのだ)。

原作を初めて読み終えて、なるほど、この原作に呪われたかのような映画進行だったんだなあと思う。

立花隆の「解読「地獄の黙示録」」いう本は、それなりに面白かったのだけれど、エリオットの「荒地」やフレイザーの「金枝篇」も下敷きにしているという事だったので、そんな風にひねくれた脚本(ジョン・ミリアスとコッポラの共同作業)でストーリーが難解になったのかなと思っていたのだけれど、原作自体が難解というかわかりづらいので、この「闇の奥」を映像化し脚色するには、とことん苦労したと思われ、絶体絶命の窮地から迸った言の葉が、ミリアス・コッポラを根本から支えている英米文学の「教養」で、結果、評論すると、そうしたものが下敷きにされたと評されるのではないかと思う。

なにせ、あの天才、オーソン・ウェルズが映画化しようとしていたというから、かなり野心的な題材ではあったのだ。

こうして、原作を読むと、また映画が見たくなる。

この映画は、本当に素晴らしい。

最初見たのは、高校の「映画鑑賞会」で、全校生徒が有楽町のみゆき座だったか、に連れられて見たのだけれど、あのワルキューレの行進で、ロバート・デュバル扮するキルゴア中佐の狂気とナパーム弾の威力に圧倒されたものの、全編に流れるロックに感動した他は、何が何だかわからず、感動の爆発はなかったのだけれど、何故か気になる映画で、年に1度は必ず見る映画の一つなのだ。

キューブリックの「時計仕掛けのオレンジ」や「2001年宇宙の旅」なんていうのも、年に1回見たくなる映画だけれど、こういう未完成な振りをして、深遠な疑問が次から次へと浮かんできて、それを解明する度に、違った角度から「意味」を見いだせるようなな映画で、生まれた子供が、一人歩きして成長していくように、監督や製作者の当初の意図を遙かに超えて、不滅な生命を得ているというのが素晴らしい。

特別完全版は、エピソードが追加されていて、かなり物語をわかりやすくさせている。フランス領であるから、フランス人の植民地経営者が出てきたり、ここの奥さんとウィラード大尉が寝てしまったり、右往左往しながら物語が進行していく様は、まさに、「闇の奥」の原作さながら、何処にも行き着けない迷宮を船で進んでいるような印象を与える。をなるほど、こうやって物語は繋がるのか!と目から鱗が落ちることもあるだろう。

当初の劇場版とこの特別完全版の2つをもっていれば十分に「一生」楽しめる映画である。そして、鑑賞する側にもある程度の努力が必要で、この「闇の奥」を読んでおくとより一層深く映画を味わえる事になると思う。

ああ、映画の話になってしまった。

posted by ロビオ at 09:14| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月16日

今週ジョグ1発目

毎日規則正しい生活リズムでやり繰りしているので、土曜日の同窓会のように、いつもは10時には寝ているのに、そんな時間を過ぎて酒をのんだり、慣れない多人数の人と話し合ったりするというイレギュラーな要素が入り込むと、途端に調子が悪くなってしまう。

そんなわけで、日曜日は、二日酔いのせいだけではなく、体がだるくてしょうがなかった。

やはり、規則正しい生活がボクには合っている。昔のボクを知っている人には笑われちゃうけれど、早寝早起き、したくないことはしない、無理をしない、義理は欠く、大多数の人がするようなことはせず天の邪鬼に暮らす、そうした凡庸で平常の日々をこよなく愛するのだ。

というわけで、今日は、新たな再生の日と位置づけて、早朝のジョグから一日を始める。

二日続けて休んだので、久しぶりに散歩に出かけることを許された犬みたいに、尻尾があれば左右に大きく振って、外に飛び出したんである。

意外に暖かい。昨日の暑さがそのまま保存されている感じだ。

気がつけば、もう少しで誕生日だよ。クソ面白くもねえや。「ボクは二十歳だった。それが人生で一番美しい時だなどと誰にも言わせない」という「アデン・アラビア」の冒頭の言葉を嘯きながら、やり繰りしていらい、自分の誕生日なんかどうでもいいや。昨日と今日が変わらないように、誕生日と他の日の違いがわからない。

最近では、誕生日すら忘れてしまいがちだ。今年は、免許の書き換えで嫌でも思い出させられたけれど。

それよりも、1日1日を充実させることだ。その日を、確かな記念日にするように、なんでもいいからその日に刻みつけたと言えるような充実した日にしたい。

そして、ビックリしたことに、来年年男だと言うことが判明。がっくりだよ。残された時間は、意外に少ない。

年を取ったって、丸くなる必要は全くない。シリトーの「長距離走者の孤独」の主人公のように、ゴール手前で足踏みしてやるんだ。気迫を見せるんだ。そのためには、体を鍛えないとな。体力勝負だ。ゴール手前までたどり着かなきゃ、意味ないもの。

そのためには、毎日入念に一本一本磨き上げるように歯を磨き、髪の毛の皮脂を石鹸で洗い落とし、昨日食べたカロリー過多の食事の贖罪にと絞首台に登るごとく体重計に乗り毎日の体重を書き記すんだ。体の手入れを怠りなく。

太ることは、やはり怠慢だ。セルフコントロールすること。制御すると言うことは、バッサリと切り捨てること。しかし、ボクにこれ以上腹の周りにたっぷりくっついた脂肪の他に切り捨てるものが残っているかどうか。

切り捨てる度に透明感を増していったのは、「ライ麦」のホールデン・コールフィールドだ。最後には、何もなくなって、病院送り。捨て去ることも、難しい。つまり、制御はかくの如く難しい。終盤、彼は人ではなくなったような気がする。

この世の中に、本当に価値があるのかという疑問は、実は、価値があるとも無いとも言えないというところが本当のところだということを、丸山健二の本を昨晩寝ころんで読んでドキッとした。だからこそ、面白いのだと。なるほど。

二日休んで足が軽い。足がアヒルが早歩きをしているように、小幅でするするとテンポ良く前に降り出される。骨盤を回し、足が勝手に前に出るようなイメージで走る。

心拍数は、130を超えない。このくらいだと、考えることに神経を集中できる。血の巡りが良くなって、頭に多量の血液が流れ込むから、考え事をするにはジョギングは最高のスポーツだという。

イメージが頭の中で流れ出して、勝手に夢を見ているような気分になることがある。これもジョギングの醍醐味だ。ギャグが面白くて、吹き出して、走りながら大笑いすることも年に何回かはある。が、後で思い出して、その何処が面白いのか、さっぱりわからないし、多少おかしくとも、妻に聞かせても、たいていが滑る話であることが多い。

脳内麻薬のなせる技なのか?だから、ジョグ中の考え方が、正しく考えているのかどうかは当てにならないのだけれど。

posted by ロビオ at 13:40| Comment(0) | トレーニング | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月14日

同窓会、木の葉パンなど

土曜日は、同窓会。詳しい事情はよくわからないのだが、僕の通った、父の通った、叔母さんたちの通った第二小学校の創立100周年に合わせて、同窓会をやろうということになって、学校の裏側の公共施設の体育館のようなところで、酒食事の類を持ち込んでの一次会。

懐かしい顔の面々、小学校5,6年で一緒だったクラス事にテーブルに別れたのだけれど、当時の友垣は、おじさんおばさんに顔かたちさすがに変形しているけれど一瞬にして、2,3秒顔を覗き込めば、たちまち当時の顔が像を結んで、30数年ぶりの時間を埋めていくのがなかなかスリリングで、再会を喜んだのだったけれど、他のクラスに関しては、半分くらいが思い出せない顔で、極端な人見知りするタイプでもあるから、なかなか広範囲に社交すること能わず、残念であったけれど、まあ、又の機会ということもあるかも知れないので、今日は、この程度で満足である。

当時のボクは、一日一日が自分のことに一所懸命で(今もあまり変わらないけれど)、周りに対する配慮至らず、テーブルマナーをしらずにフランス料理を食べているようなもので、皆様には多大な顰蹙を買っていたのに違いないという思いがあって、「何か昔迷惑や失礼の段があったら許してね」とまずは謝りながら会話を始めるのである。いやあ、おっかない時間だった。あのとき、こんな事を言われて傷ついた・・・なんて指弾されたらどうしようかと思っていたのだ。

ここの卒業生の半分くらいが、2つの中学校に別れたので、ここの同窓会には、中学校の友垣も集まっており、このあたりの年齢では自意識というものは、大人と変わらず確固として確立されているので、当時のことをありありと思い出す事にもなる。

小学生の頃は無邪気であったけれど、中学生の頃になると、ロックや文学に夢中になっていた頃で、あらゆる権威や押しつけには楯突く感性が表面に現れていたから、我が身を振り返って、反省することばかり。集中力は、10分と続かず、何事も投げやりなのがこの時期の特徴なのか。

「面倒くさくて、やってられないよ」と、なんかの拍子にそんな中学時代をよく知る友達の前でふと出た言葉が、当時の口癖だったようで、「そうそう、マルは、貧乏揺すりをしながらそんなこといつも言ってたわよ」と、何事においても投げやりな自分がふと飛び出してしまったようで、苦笑いをするしかなかった。

あんなに好きだった煙草を止めていたのにも驚かれたし、運動しているのにも驚かれたし、小学生の頃からほとんど変わっていない顔にも驚かれた。

そういえば、中学生の頃お気に入りだった黒のVANジャケットを、この日着ていったのだけれど、これが着られるほど痩せたんだね、最近のぼくは。数年前、これを着てみて何とも窮屈で、捨ててしまおうかと思っていた代物だったのだ。

このVANジャケットは、親戚のおじさんからもらったもので、多分1970年かそれより前のVANブーム、みゆき族と呼ばれた人が来ていたものだと思われ、トラッドな三つボタンの段返りで、現在でもどうにか着られるデザインなのだが、今も着ることができるということが嬉しい。

当時、この黒のブラスボタンのVANジャケットの下には、リーのウエスタンシャツを着て、真っ白のこれまたおじさんにいただいた白のアクリルの透けたようなやくざっぽいパンツを履いて、リーガルのデザーツブーツを履くという、何が何だかわからないようなファッション(こうした趣味も、これまた今と変わらない)で大好きな映画を見に当時の文芸座へ行く途中、池袋をうろちょろしていると、100発100中カツアゲの被害にあって、ボクは、逃げ足が速かったのだけれど、逃げ足と反射神経のとろい何人か一緒に行った友達が捕まって被害にあったりしたのを、思い出したのだった。

そんなことも、突然フラッシュバックのように思い出させられて、愕然とする。何か訳のわからないもやもやしたものがうねうねと押し寄せ引き払い自分を見失いトンネルの向こうへなかなか脱出できないようなぬかるみがいつまで続くのだろうと子供ながらに悩み苦しんだ事がリアルに思い出させられる。

随分大人になって振り返ると、学生時代はのどかだったなあと、ノスタルジックな思いが多少はあったけれど、こうして、リアルに思い出し始めると、ここでもまた子供ながらに辛い道を歩んできたのだなあと改めて思ったのだった。いくつ年を取っても、なかなか生きることは大変なのだ。

幹事の皆様、どうもお疲れ様でした。何もお手伝いできなくて申し訳ありませんでした。

そんな風に、午後2時から三次会の終了する11時までしこたま飲み、珍しく千鳥足で家に帰る。ううっ、気持ち悪い。

翌日、晴天なり。

早朝起きるも、頭がガンガンする。だめだこりゃ。でも、味噌汁というか、ブイヨンと味噌風味の野菜スープをおいしくいただく。こりゃ、はらわたに染みこむなあ。味噌汁は、やはり最高の朝のスープです。

二度寝。9時に起き出す。明らかに寝過ぎと軽い二日酔いで頭が痛い。

穏やかな晴天で、調子さえ良ければ、伊豆が岳まで走ろうと思っていたけれど、全く行く気力がない。太陽のまぶしさが目に辛い。

妻が、サンタの博物館に行くと言うことで、一緒の車に乗せてもらう。

青梅の温泉街の近くにあって、各国から集められたサンタクロースの人形が展示してあって、館の人にサンタクロースが各国に伝播した歴史を手短に説明してくれた。とても、勉強になり蘊蓄も増えたような気がして、帰りに、サンタクロースの木彫りのミニチュアがかわいかったので、つい買ってしまった。900円也。

その後、同じような展覧会が澤ノ井酒造のギャラリーでやっていると言うことで、青梅街道を走って行ってみたのだけれど、駐車場が一杯で入れずUターン。

帰り道に、評判の木の葉パンという天然酵母のパン屋さん兼レストランに寄ってみた。

パンとリンゴのクレープを買って家に持ち帰って食べてみたら、さすがに旨い。こんなパンが作れたら楽しかろうと、ルヴァンの店主が書いた絶版のパン作りの本を読み返すと、その製造過程が細かく機械を使用しているので、これを手でやるとなると本格的なパン作りは、大変そうだなあ。

が、本格的に、パン作りに凝ってみるかどうか、一度やり始めるとなかなか奥が深そうなので、躊躇しながら考えている。

posted by ロビオ at 09:41| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月13日

杯(さかずき)に口をつけた以上・・・

誰もいない早朝の暗闇を今日も走る。体調万全。

一週間玄米を食べ続けると、出るものはすべて出てしまい、体重が何もしないのに、1キロストンと落ちてしまった。このまま、あと3キロは痩せてみたい。

時折小雨がぱらつく天候で、日の出は拝めない。雲に覆われて放射冷却が無い分暖かな朝だ。

松下竜一氏の著作「ビンボーひまあり」だったか、の中に、、夫婦二人と犬数匹で日課の散歩に行き、「今日の夕陽は何点?」と二人で点数をつけあっている微笑ましい文章があったのだけれど、ボクの場合、夕陽に関しては、全くの門外漢ではあるけれど、最近は、朝日にかんしては、権威になりつつある。日の出の際の空の色に関しては、毎日毎日異なっていて、物事の本質は細部に宿るというけれど、毎日色、様子、風の強弱温感、全く同じというものが無く、観察すれば観察するほど、奥深さを感じていく。

そして、月である。これが又鑑賞に値するほどのもので、時に、大きな黄色い月がぽっかりと毘沙門天の山の端にぽかりと浮かんでいるときもあって、最近は、頭を廻らして月の在処を探すのが常となっている。

古典で、平安貴族が寝待ち月だの宵待ち月だの風流な月の名を名付けていたのだけれど、太陽暦になって、そうした自然との関わりを失ってきているのは悲しいこと。月齢の時計も確かあったような。

こうして、月や太陽がゆっくりと動いているのをみていると、地球という天体が猛スピードで軌道を突っ走っていることを忘れてしまいそうであるけれど、iPodからAC/DCを大音量で聞き終えて次の曲との合間の僅かの静寂の時に、その轟音をたてて疾走する地球の発する音を微かに耳にするような気がする。

Back in black I hate to say it

I've been too long i'm glad to be back

言いたかないが、バック・イン・ブラック

戻れてうれしいよ、長すぎたがな

名曲、バック・イン・ブラック。勿論AC/DC演奏。

今日は、月も朝日も今日は拝めなかったけれど、体調は万全で、心拍数もほぼ130あたりで軽めのジョグ。これが、体調が悪いと、ゆっくり走っているつもりでも心拍が150あたりをうろうろしていることがあって、そんな時は、足がパンパンになっていることが多い。無駄な力が入っているのだろう。

「あなたが道を行くとき、出会った人や体験が人生ではなくて、その道自体を人生というのよ。」というのは、ボブ・ディランの祖母が彼に語った言葉。

長く曲がりくねった坂道を登っているとき、いつもその言葉を思い出す。

「人生という大きな杯にいったん唇をつけた以上、最後までこれを飲み干さなければならない」とイワン・カラマーゾフがアリョーシャにといったのだけれど、これは、生まれてしまった以上、死ぬまで精一杯生きなければならないということなのだろう。その杯が美酒だろうと不味い酒だろうとだ。

「時の重圧に耐えるために人は常に酔っていなければならない」と書いたのは、ベルレーヌだっか、ボードレールだっか。

だとしたら、酔いどれ詩人が酔っていたものとは、人生そのものなのだろう。

ボクは、人生に酔い続けていることができているんだろうか?

そんな手がかりを探すために、母親の子宮をけっ飛ばして飛び出たその足と同じ足で、今日も、暗闇の住宅街やら寂しいゴミ焼却場の坂道を走っていく。

近代国家が成立したその根本には、人は生まれたときに、国家によって不可侵な自然権たる基本的権利をもっている、というフィクションがその基礎となっているのだけれど、その裏返しの義務というものは、おそらく、生まれた以上懸命に生き抜かなければならないということだ。

Out of the blue,into the black

It's better to burn out

Than to fade away

ニール・ヤングが、渾身の力を込めてオールドギブソンをディストートして、iPodの中で叫んでいる。

一難去ってまた一難、消え去るより燃え尽きたい

カート・コバーンは、この歌詞を書き残して自殺したのだとか。

なかなか生き抜くことは難しい。

そういえば、長谷川恒夫の著書は「生き抜くことは冒険だよ」だったっけ。そう、生き抜くことは大変なのだ。

走ることは、考えることだ。考えることは、生き抜くことだ。諸々の行為は、生き抜くことに究極的に繋がっていく。

posted by ロビオ at 10:35| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月11日

省エネの決定版

省エネというもので、一旗揚げようとお金にだらしのない首相のCo2の25%削減?だったっけ、そんな宣言を全世界に向かって発信したのだけれど、今更遅すぎるし、自分たちの後の世代には地球環境が破綻するということを不気味に示しているのが、出生率というもので、無意識的に子供を産むのは「ヤバイ」という気持ちがあるのだろう、そして、多分、間もなく地球はどうにもならなくなるのだろうけれど、究極的には無駄なことでも、少しでも望みがあるのならば、そうした方が良いので、その提案には、基本的に賛成である。

そして、NASAが、火星探索等をしているのが不気味である。

グリーンビジネスでやっていく方向を打ち出したオバマ大統領のアメリカも、そっちの方向に大きく舵を切って、大成功するか失敗するかわからないけれど、ともかくそうして船は進む。

企業は、そうした風向きに帆を立てて、新事業へ向かってお金を投資し、世の中をかき混ぜて、常套手段として、エコ商品を購入しないと大変なことになりますよという恐怖をテレビという洗脳道具で国民一人一人の頭の中に植え付けるのだろうというのは目に見えている。

しかし、製品を作る課程において排出されるCO2と、その製品で削減できたCO2の引き算で、後者が優勢を収めるのは、一体どのくらいの時間がかかるのだろうか?対費用効果はどうか?

テレビがアホらしくて捨ててしまった我が家には、そうした洗脳は至らないけれど、我が家も省エネということに関しては熱心である。省エネはエコノミカルに繋がるから、低収入な我が家には、とても切実な問題なのである。

まず、旬な野菜を食べる。太陽エネルギーで育った旬な野菜は、ビニールハウスに温度調整機を取り付けた季節外れの野菜よりも省エネだし、価格も安いし、何よりおいしい。

肉は控える。全世界の穀物の4分の1だったか、すっかりその数字は忘れてしまったが、こちらがビックリするほどの穀物が家畜を飼育するのに必要だ。蛋白質を作るのには、多大なエネルギー量が必要だし、アマゾンの原生林は、家畜のため次々と切り払われ、CO2の吸収地を恐ろしい速さで失わせている。それに、料理を作るようになって、スーパーで肉の値段の相場を知ると、やはり、肉の値段は高い。

そして、車は乗らない、買い換えない。遠くへは行かない、近場で遊ぶ。

そして、何よりもエコノミカルな事は、テレビは見ないこと!これに尽きる。もう言い尽くされているのだろうけれど、テレビは宣伝を見させるものであるから、物を買わせようと高度で先端な技術が巧みに使用されているので、ついつい財布の紐が緩くなったり、常識が非常識に思えたりしてしまうものなのだ。メデシア・リテラシーという教育もないままに、テレビを見るということは、非常に危険なのだ。

この間の日本シリーズは、始まるまでは、テレビで見たくてしょうがなかったけれど、ラジオで聞いたら、これが興奮するの何のって。ドキドキハラハラの野球中継を満喫したよ。

そういえば、「老人と海」でも、老人は、ラジオで野球中継を聞いて興奮していたっけ。ラジオというのも、貴重でまだまだ十分に存在意義のある媒体であるということを深く感じたわけで。

が、TBSラジオでジャイアンツが優勝した日のスポンサーは、2つの企業?だったのだけれど、その一つが「東池袋 大勝軒」だった。スポンサー不足もここまで来たのか?と、その前途を危ぶんだのだけれど。

というわけで、テレビを見なくなると、購買意欲もがっくり落ちてきて、ほとんど外でお金を使わなくなり、1000円札を崩して500円玉が発生する機会を失い、500円玉貯金もままならぬ情況になってくる。

こうした人が増えると、まったく景気が良くなりませんね。困ったものです。でも、しょうがない。買いたくない物を買ってもしょうがない。

だけれど、これは絶対に価値ある物だ!と納得するものには、少々高くともお金は投資する。それによって、得られる利益がずっとそのものの値段より大きいときは、買うのが義務という気分にもなってくる。

そんな、エコノミーで、値段もそこそこで、大きな目でみると多分数年で元が取れるもの。

それは、保温調理鍋。アマゾンで9500円程度。

煮物、シチューの類、数分煮込んだら、この保温機の中に放り込んでおけば、調理完了。例えば、シチューで1時間ことこと煮込む場合、どのくらいのガス代が必要かわからないけれど、これなら、10分程度のガス代で済むというわけ。1年も経つことなく、元が取れるような気がする。まさに、省エネ=エコノミー。

そして、煮くずれせず旨いんだから、これは買わなければ損!というわけで、最初は、Thermosのものを買って様子を見て、これは使える商品だと思ったので、もう一つ、上のタイガーのものを購入したというわけだ。従って、我が家には、2つの保温調理鍋が短期間のうちに揃ったのだった。

パスタも1分ガス台の上で煮て、あとは、この中に放り込んで、6分ほど置いたら、抜群のアルデンテができたので、応用範囲はかなり広い。

今まで、妻が、ルクルーゼの鍋にバスタオルをぐるぐる巻いて置いておくというような事をしていたけれど、こちらの方が遙かに保温性も手間暇もかからない。

早朝出かけるときに、この中にシチューを入れて、車の中に置いておいて、お昼頃どこかの場所で、できたて熱々のシチューを食べるということもできそうである。

なかなかの優れもの。

今日も、具を1分ほど煮立てて、この中に入れて10分くらいで、おいしい揚げとサツマイモと大根の味噌汁ができあがっていた。旨かったで。昨晩は、野菜カレー。これも旨かった。

と、こんな事を書くつもりもなかったのだけれど、この保温調理鍋という商品を勧めるのに、長々と書いてしまったなあ。

posted by ロビオ at 09:37| Comment(3) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月09日

祭りの梅酒と免許更新

昨日は、飯能祭りで、商店街と国道に挟まれている我が家では、家にいても左右から祭りの音はガンガン聞こえるし、これだけでも祭り気分は十分だし、人混みは苦手なので、毎回、静寂を求めてどこかに脱出していることが多いけれど、図書館に妻の予約図書が届いたということで、祭りでごった返す中を歩いてみた。

屋台犇めく中、店を一軒一軒覗くと、お好み焼き、たこ焼き、鶏唐揚げの類、こうした屋台の王道を行くような食べ物は、カロリー高そうだし、衛生面もちょっと心配かなという気がするし、文句があっても、翌日には、屋台はどこかへ行ってしまう。商店街の店はどこかへ逃げていくことはないし、やはり、こうした明日も営業するお店で買った方がやはり安心だ。

今日のお小遣いは300円と決めていたので、100円銀貨をジーンズのポケットの中でじゃらじゃらシャフリングしながら300円で買える値段に見合ったものはないかしらんと歩いていたら、いつもここで買い物することが多い丸屋酒店の前で「清酒天覧山でつけた梅酒」なるものが300円で売っているじゃないの。

僕は、梅酒には目が無くて、まあ、普通は、ホワイトリッカー(焼酎)でつけるのだけれど、清酒でつけた味はどんなものかと、楽しみに鼻息荒く注文。300円也。

氷の中に一升瓶を突っ込んだ淡いオレンジ色した梅酒を、紙コップにトクトクトクとついで貰って、舐めるようにして飲んだら、これが旨いの何のって。

久しぶりに、おいしい梅酒を堪能しました。

妻と梅酒をチビチビやりながらその当たりをブラブラしていたら、丸屋さんの奥様にお会いできたので、梅酒の作り方を教えて貰う。来年は、1年分の梅酒を久しぶりに造りましょうか。

そんなわけで、ほろ酔い気分で図書館に到着し、あちこちの書棚を見ながら歩いていたら、酔いも回ってきて、良い気分。本棚にもたれ掛かって、西日が刺して温かな図書館のベンチに座って一眠りしたい気分だった。ああ、こんころもちがよろしい。

丸山健二、松下竜一、小林信彦のまだ読んだことのない本を借りてみた。ここの図書館には、都心ではもう破棄したか、閉架に送った本が、まだ開架にあるので、時々「何これ?」というような本に遭遇することがある。神保町の古本屋へ行ったときの感覚に似ているかな。たまに行くと、とても楽しい。やはり、住むところは、図書館の近所が良いですな。

そして、今朝、運転免許更新に行ってきた。5年前の免許証の顔写真も酷かったけれど、今回のも酷い。自分で見たくはないものの中の筆頭は、やはり運転免許証の顔写真だろう。自分の声が録音されたものを聞くのもぞっとするけれど、この顔写真も似たような気分になる。

今回は、なにやら馬面だ。野菜ばっかり食べていると、顔まで馬っぽくなるのかなあ。それに、うっぷして寝込んだのか、目が腫れぼったい。饅頭に竹籤で一文字引っ張って目を書いたような感じ。魔除けとして、財布の奥深く隠し持っていよう。

交通安全協会の会員には一度もなったことがないので、今回もパス。しかし、会員になる人多いのは何故?運転免許証のカバーが欲しいのかしらん。

5年間の免許証代として、3,250円を納入して、講義15分およびDVDを15分ほど見て(福留アナウンサーがDVDに出演してた、なかなかフリーのアナウンサーも大変なようで)前記の通り、運転免許証の交付と相成ったのだった。

なんでも、免許証はICチップがはめ込まれていて、4桁の暗証番号を2つ登録しておいて、できたばかりの運転免許証を装置の上に置いて、その暗証番号を入れると、運転免許証を拡大したような画面が出て、運転免許証と同じ位置に自分の大きな自分の顔写真がにゅうっと現れていて、また見たくないものを見てしまい、げんなりしたのだけれど。

ICチップ搭載となると、運転免許証の偽造はかなり難しくなりそうな気がするけれど、こうした使用方法が公的に私的に確立すると、この4桁の暗証番号2つを忘れてしまうと、かなり面倒な手続を踏まなくてはいけなくなりそうだ。

インターネット生活をしていると、僕の場合のように、ごくごく標準的な使い方をしても、アクセスする度に要求される沢山の暗証番号というものがたくさんあって、画一的に使用していると、盗まれたときにコワイし、あちらこちら違う番号を使用しているけれど、これがまた、よく忘れる。

もう、これ以上管理すること困難な状態で、さらに、2つの暗証番号を要求されたので、もうすぐにでも忘れてしまいそうである。

いくら便利な世の中になっても、その便利さは、今まで思いもしなかった不便さを背中に背負って共にやって来る。

こんなに暗証番号が増え続けて、あと10年後、いや、5年後には、どのくらい面倒なことになっているのか、今の時点ではなんても言えないのだ。

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2009年11月08日

愛車3台

ono君送別MTBツーリングで、タイヤのほとんどが泥の中に埋まるような道に入り込んでしまったので、MTBを掃除せざるを得ず、久しぶりに自転車を洗う。

久しぶりに、泥が落ちているので、撮影してみた。

左がクロマグ・サクラ。右が、トレックマドン。

クロマグ・サクラのフォークはサーリーのリジッドフォーク。これが楽しいのなんのって。場合によっては、フロントサスの3倍は楽しめる。里山ならいつでもこれでOKだ。あと、3年もすれば、里山用のバイクはこれが主流になる?

トレック・マドンは、文句なし。ただ、デザインが・・・。次があるとすれば、アンカーの鉄フレームが欲しいぜ。やはり、細い鉄で作ったフレームが形態としては好きだ。

そして、Wレバーの、ゲイリー・フィッシャーのプレシディオ。こちらも、雑巾で汚れを落とした。

自転車とは、そもそも実用的な道具であるけれど、この3台は、自転車に乗るという楽しみを極限まで高めてくれる。そのためには、それ相応の技術と体力が必要なので、なかなか大変だ。

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2009年11月07日

俺にも取り柄があった!?

「誰にもでも取り柄というものがあるのよ。旦那さんの場合は、歯ね」と歯医者さんに妻が言われたそうだ。何だかなあ、と思うけれど、本日、妻と毎年恒例の年1回、歯の検診にいってきた時の話。

歯は大切である。東洋医学によると歯にも経絡があって、例えば犬歯を抜いてしまうと精力激減するというのをどこかで聞いたことがある。要注意である。

そうそう、僕の歯は先ほどの歯医者さんに言われたように、僕の唯一の取り柄かもしれない。歯並びは綺麗だし、親知らずも綺麗に4本生えていて、抜いた歯はまだ1本もない。歯が痛いということも経験したことがない。なんでも、80・20運動というのを歯医者さん達が進めているらしいけれど、これは、80歳でも歯を20本残そう!という運動らしい。

「80まで生きるのは大変かもしれないけれど、まちがいなくそのときには歯が20本残っているわね。自分の歯で食事が出来ることは素晴らしいことですよ」と女医さんに言われたのだった。

妻は「旦那さんは、使わない歯も全部残っているのよ」と言われたそうだけれど、その使わない歯である親知らずも、僕には、麻雀で両手で上に積むときの小指のように、あるいはブックエンドのように、他の大切な歯を左右から押しとどめているような作用があるのではないかとも思えるので大切に思っている。

磨きづらさの故か、左の上の親知らずに虫歯の兆候があるらしいので、今夜から、しっかりと入念に親知らずまでブラッシングすることにする。

父が歯が悪く、しかも、髪の毛も薄いのに、なんとか、僕は46歳まで、歯も髪の毛も持ちこたえている。髪の毛対策には、ここ十年くらい純石鹸で地肌を洗うようにしているのが功を奏しているのだろうか?この調子で、あと10年継続していきたい。

ここの歯医者さんの良いところは、色々と歯を鏡で見せながら、良いところ悪いところを丁寧に説明してくれるところだ。

というわけで、歯石をガリガリと取って(歯石沈着がかなり少ないのだそうだ)終了。

虫歯はなし。歯槽膿漏歯肉炎の類一切無し。

家に帰って、中途半端な時間だったけれど、プレシディオに空気を入れて、グリーンラインへ。

この自転車に乗るのも、段々慣れてきて、乗れば乗るほど良さがわかってくるバイクだ。こんな事も出来ますよ、と色々な提言をしてくれるようなそんなバイク。上りは、きついけれど。

堅焼き醤油煎餅のようなひび割れた路面も太いタイヤが振動を吸収してくれて、何事もないように、前へ前へ進むことに集中させてくれるところが素晴らしい。水切りの鉄板の段差もへのカッパ。車体を垂直に立てるだけで、ほとんど気を遣うことはなくなった。

上りは、さすがに鉄の自転車で重いけれど、ギア比の軽さでくるくると登れるし、急がば回れ的にのんびりと奥武蔵の峠道を走るには、最適の自転車じゃないかと思う。

今日は、ルコックの自転車のジャージを着てみた。トリコロールのなかなかおしゃれなジャージ。なんか、一生懸命です!というサイクルジャージから離れて、もっとオフビートなスポーツウェアは無いものか。ユニクロに期待するのだけれど。

しかし、このゲイリー・フィッシャーのプレシディオが最高に楽しいのは、実はダウンヒル。クイックでバタバタ車体が倒れるものだから、面白いのなんのって。荒れた路面も、多少の路面に出来た穴も、水切りの段差も、あまり気にせず走れるところが気に入っている。

やはり、僕には「鉄」が合っているみたいだ。重心が気持ちよくペダリングと合うところというのが、本当に細くて小さな点でしかないのだけれど、そこに体が適合したときには、無重力のような気持ちの良さがある。これがマドンだと、ほとんど鈍感で、どこでもそこそこ合っているけれど、ここぞというところがぼやけている感じがする。まあ、それだけ、乗りこなすのが難しいと言うことなのだろうけれど。

刈場坂峠から下って正丸峠、山伏峠下って小沢峠、クリセン坂登って、祭りに沸く飯能に戻った。

今日は、健康のためのサイクリング。それでも、2000キロカロリー消費。

posted by ロビオ at 16:34| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月06日

朝ジョギング

一ヶ月ほど前に買ったユニクロの上着ジャージを着込む。前あきジッパーのよくあるジャージなんだけれど、これで十分。

朝5時過ぎの外の気温は何度だろう?少し走り始めて、手袋をしてくりゃよかったと思い始める。

遂に、日の出の時刻は6時を過ぎて、このまま1月10日当たりに、7時に肉薄するのを頂点にして、これからどんどん日の出時刻が遅くなる。

というわけで、ほんの1ヶ月くらい前には、飯能大橋のうえから日の出を拝めたのだけれど、空はまだ眠たげに瞼を閉じて、ビルでギザギザの地平線に薄く引いた赤いアイシャドーが仄かに日の出の予感を醸し出しているくらい。

無風状態だけれど、行く手には冷蔵庫から取りだしてすぐの寒天冷菓のような冷たい空気の固まりが肌の露出部分、手、顔に絡みつくように吸い付くもので、寒いったら無い。

休養は十分。1日休養が多かったかな。

今日も、美杉台周回8の字コース。心拍数は、マフェトン域の軽め。

吐く息が白く目に見えた頃が日の出の時刻で、2回目のクリーンセンターの登りしている頃がそれだった。今まで気がつかなかったのだけれど、クリーンセンターの左側の山際に、富士山の頂上部分が貼り付いていた。

「くそおもしろくない 洗いざらした 浴衣のような」と、金子光晴が表現した富士山が、もし山裾まで見えたら、眼前に現れただろう。そんな風情の冬の富士山。

走りながら心配事を火にくべたように、体は徐々に温まり、それまでは眉毛に止まっていた汗が、そこを超えて流れ出す頃、、心は真っさらになって、何にもないことが、これほど満ち足りているものか、と、後になって気がつく、そんな状態に入っていく。今日の最後の大河原への下り道は、そんな気分だった。

禅をするなら、走るのが手っ取り早いと思うのだ。

背に受けていた太陽を、ぐるっと迂回したので、今度は、おでこに受けながら走ることになる。物差しで測れるくらい僅かに浮かび上がった太陽の日は、低い角度で目に直接飛び込んでくるので、手を目の上で翳さないと眩しくて前が見えないほどだ。

割岩橋を渡って、家に着く。

いつの間にか、日常になってしまった朝のジョギング。当たり前の事になってきてしまったけれど、こういう小さいことの積み重ねが、しらぬまに高みに自分を連れて行ってくれるのかも知れない。どこか、登山に似ている。

posted by ロビオ at 13:45| Comment(0) | トレーニング | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月05日

玄米でダイエット

昨晩は、玄米いなり寿司と里芋の煮物を少々。

必要だと思う量をいただいて、後は食欲を封印!

玄米が無くなって数ヶ月は、白米を食べていたのだけれど、先日20キロの玄米が知り合いの田んぼから届いたので、これからしばらくは玄米菜食になる予定である。

玄米は、よく噛んで食べないと消化できないし、胃腸の負担にもなるという。僕は、鉄の胃袋をもっているので、平気なのだけれど、妻は注意しないと胃痛を発することもある。

固めに炊いた玄米を、箸で少量摘んで口に入れ、一粒一粒を臼歯ですりつぶすようにして咀嚼する。薄皮プチッとあたる感触があり、白米が転がり出でて、栄養たっぷりの胚芽部分と胚乳の部分をこねくり回すように潰していく。

胚芽部分は、白米に精米するときに落ちてしまう部分だけれど、ここには、ビタミンがたっぷり入っているそうで、玄米ご飯1膳で白米3食分の栄養素を取り入れることが可能らしい。

固い外皮にくるまれている玄米から、そうした栄養素を体に効率的に取り入れるには、何度も咀嚼しないといけないから、自然と食べるスピードが遅くなり、馬鹿食いに至らず、少ない量で、そこそこの満腹感も出てくるようだ。

玄米は、水を加えてしばらく置くと発芽するので、そうした生のエネルギーをため込んでいると考えている人もいて、そうしたエネルギーも一緒に食べてしまおう。

玄米を中心に食べると、玄米に合うおかずがほぼ決まってきて、魚の刺身は、やはり白米じゃないと旨くないし、やはり根野菜や緑黄色野菜、それに、豆由来の豆腐ガンモドキ油揚げなんかがとてもおいしく感じられる。自然と、ベジタリアン志向に向かっていく。

昨晩は、保温用調理鍋とかいう象印だかサーモスだかの調理器具が届いた。鍋をコンロで普通に調理したら、そのままこの器具に入れて蓋をすると、温度が長時間下がらずに、しかもよく熱が通っておいしい料理ができあがるというもの。

ガス代も助かるし、とろ火で3時間ことことと煮るようなシチューも、火を使わないので、外出しても心配ないという寸法だ。

甘酒もヨーグルトも温度調整さえ気をつければ簡単にできると能書きには書いてあるから、これらも楽しみだ。

妻が甘酒を米糀から作ったら、その甘さにビックリした。何度か作ったけれど、大量に作っておけば、何かと便利だし・・・と色々楽しみが膨らむ。

マクロビオティックでは、砂糖は使わないので、この甘酒を鍋料理に使って甘みを出すメニュウがある。いつも、缶詰の甘酒を代用していたけれど、これからは、本当の甘酒で調理できるかも知れない。我が家から砂糖も追放してしまおうか。

そんな風に、玄米が食卓に並ぶようになったのも良い機会なので、少量をよく噛んで味わうという風にして、ダイエットに成功できればと思うのである。

ちなみに、この今朝の体重は、800グラム痩せて、久しぶりに63キロ台。夜、食べ過ぎないということは、かなりのダイエットになりますな。

今日も、食欲をなんとか抑えて、軽く食事を切り上げるつもり。

posted by ロビオ at 14:24| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする